以前に宇多丸氏が、押井作品などでよく登場するテーマ性について「“何がリアルか”問題」として若干皮肉っぽく言及していたことがあったように記憶しているけど、そういう問題について思考する経験をまったく持たなかった人は、「俺の常識が世界の常識」というテーゼを微塵も疑うことはないのかもしれない。言い方を変えれば、カントが「物自体」として論じていたようなものを自分はしっかり認識しているし何故それをいちいち問題視するのかが理解できない、なぜなら自分が事実そのものを(物自体として)認識しているのは“自明”だからだ、といった感じだろうか。
ただ、自分とは異なる様相で世界を認識している他者について想像するのは、言葉で言うほど簡単なものではなく、また仮に想像できたとしても、その認識の結果を生活の中で実践するにはまた別種のハードルがある。そして自身の生活防衛のために、あえてそのような想像が出来なかったかのような体で“傍観者”たることを選ぶ、ということもさして珍しくはない。僕自身についてもそれは言える。
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