さて、先日プリキュア10週年作品となる劇場版ハピネスチャージプリキュアを見てきたわけでまぁ簡単な感想をここに載せていこうと思う
いつものごとく
ネタバレ全開なので、本作を見てない方は見ないほうがいいかも
この物語は、
「プリキュアはいかなる絶望も救済することができるのか、その限界への挑戦」
と私は数回劇場に足を運んで感じたところである。
たしかに劇場版のプリキュアは、特にミラクルライトが登場してから、多くの人々の願いをもってあらゆる逆境を跳ね返し、幾度と無く立ち向かってきた。
この明らかな、ご都合主義的な構造をしているのは、女児向けアニメだから明瞭なストーリーを求められること、
アニメ映画として見ても上映時間が短いなど複数の要因が考えられるが、劇場版プリキュアはこのスタイルを10年間貫き通してきた。
しかし、今作はプリキュアでもできないことがある、その限界を垣間見ることができた作品であった。
そういう意味でハピネスチャージプリキュアのヒロインである愛乃めぐみというキャラクターはうってつけの存在である。
めぐみは歴代のプリキュア主人公と同じく「人の役にたちたい」「誰かを助けたい」という思いを強く持った少女だが、
それが
激しく空回りしているのが特徴なキャラクターとして本編で強調されている。
第33話「わたしもなりたい!めぐみのイノセントさがし!」がめぐみらしさを的確を表現したエピソードだろう。
この話では、いおなのイノセントフォーム化に感化され、なりふり構わず人助けを行おうとするめぐみが冒頭に描かれている。
結果として余計なお節介をかける結果となり、げんなりするめぐみの姿が特徴的である。
このようにめぐみはプリキュアの中でも人一倍お世話焼きな人物であり、不器用な人間でもあると言えるだろう。
前作のドキドキプリキュアの主人公相田マナが天性のカリスマ性を備えていたことを考えると対照的で面白い点である。
さて、話を劇場版に戻そう。
今作の劇場版キャラクターとして「つむぎ」という少女が登場する。
この少女は踊ることが大好きでバレリーナを目指していたが、突然足が不自由になり、絶望の淵に立たされいた。
そこに本作の敵であるブラックファングがつむぎのための王国「ドール王国」を作り、プリキュアと敵対させるよう仕向けるのだ。
足が不自由で、踊ることができない彼女はめぐみの信条でもある「みんな幸せハピネス」という気持ちを理解できない。
世の中には、自分のように救済されない人間もいるんだと
物語中盤、つむぎはめぐみに本性を現し、
「プリキュアにだってできないことがあるんだよ」と告げる
それでも頑張ろうとするめぐみに対して
「私は頑張っても無理だった…」
リハビリに必死に挑んだ彼女だったがそれでも足が動くことはない。
その後 めぐみの
「私はあなたを助けたい…」というセリフがあるが、それがつむぎの逆鱗に触れたのか
「何も出来ないくせに助けるなんて簡単に言わないで」と一蹴されてしまい、めぐみは自分の過ちに気づいてしまいます。
これが相田マナのような主人公であればこのような展開にはならないでしょう。
おそらく一人で何事も無く解決してしまうでしょう。しかし、めぐみはそのように優れた人間ではありません。
つむぎも同様で、自身のめぐみに対する言動に後悔の思いを持っています。
劇場版のキャラクターはプリキュアの説得・行動に影響されて、改心することが多いのですが、このキャラクターは違っていました。
彼女の一番大切な人形であるジークにこのようなセリフがあります。
「自分の望みのために誰かを犠牲にすることはまちがっているとつむぎは最初からわかっている」
つまり、つむぎは自分の幸せとプリキュアを天秤にかけ、苦悩の末にこのような行動を起こしたと言えるだろう。
元から優しい心を持った少女として描かれているのだ。
さて、このような状況に置かれたプリキュアたちはどう立ち向かっていったのでしょうか。
答えは簡単です。ひめにも指摘されたようにクヨクヨしている姿はめぐみらしくありません。
不器用なら不器用らしくがむしゃらに体当りして全力でぶつかってこいと。
今めぐみにできる精一杯のことをして、助けるために全力で突っ走る事こそが愛乃めぐみという人間なんだと。
このようにすぐ答えを見つけようとせずに、問題提起しようとするところがプリキュアらしいところなのかもしれない。
つむぎの足を不自由にさせたのがブラックファングだと発覚すると
つむぎ「今まで騙していたなんてひどい」
ブラックファング「お前がプリキュアにしたことと同じだろう?」
という会話があるのだが、これが実に的を射ていて面白い。
めぐみを騙して人形たちを駒にしていたつむぎ⇔つむぎを騙して不幸のエナジーを貯めていたブラックファング
この構図がよく出来ている
こうして、再び絶望してしまうつむぎとめぐみの心がシンクロするように表現したと今千秋監督はインタビューで述べています
2人は繭に閉じ込められそれぞれの本当の気持ちをぶつけ合います
「こういう時つむぎちゃんを元気づけられるかっこいいこと言えたらいいのに…プリキュアなのにね…」
「助けるなんて無責任なこと言ってごめんなさい」
※セリフはうろ覚えなのでご容赦を
ここで大事なことは繰り返しになるが、プリキュアに感化されて、気持ちが変わった訳ではなく、つむぎという少女は初めから自分がどうあるべきかを理解していたところにあります。
現状をよく理解しているからこそ現実の自分から逃げ出したくなりドール王国で過ごしていたのでしょう。
めぐみの言動も実にめぐみらしいと言えます。
つむぎに抱きついて、不器用な自分を情けないと思いつつ、真剣に向き合おうとする姿は心を傷めます。
ひめやゆうこ、いおなに言われた通りがむしゃらに今できることをやろうとする。これがハピネスチャージプリキュアなのでしょう。
いつもの最終決戦ですが挿入歌かっこよかったですね。ここは省略します。
こうして、ブラックファングからの脅威を排除し、つむぎがバレエの発表会を迎えるシーンで作品は終わるのだが、やはりここが本作で私が惜しいと感じるところだ。
「やっぱり足は治ってしまうのかと」
そりゃ女児向け作品ましてやプリキュアなんだから後味悪い形で締めるのは何か違う気がするが、勿体ないなぁと感じた部分であった。
つむぎは繭の中でのめぐみとの会話の中で、本当の不幸は「足が動かないこと」ではないと理解し、
プリキュアを応援し新たな幸せに向かおうとしていただけに少し残念に感じるところではある。
プリキュアの力をもってしても、足を治すことはできない。
ただ気持ちの持ちよう、考え方の違いで人を幸せにできる プリキュアとて万能の力を持つわけでないことを強調した作品
これぐらいの事をやって欲しかったと映画を見た最初は思っていた。
今作の脚本を務める成田良美も当初の脚本では足が治らない予定で話を進めていたとインタビューで語った。
たしかにプリキュアの力で足が治ってしまうというのもご都合主義な作品であるプリキュアにおいても都合が良すぎるかもしれない。
足が治らないまま幸せを感じる締め方もできたのだろうが、スタッフ達はこちらの選択肢をとったようだ。
そのためにブラックファングをあのような設定にして全ての悪を、こっちに向けさせたのだろう。
明確な敵を作ることによってつむぎの罪を軽減させ、よりストーリーを明瞭にする これも1つの正解なのかもしれない。
今回の映画は子どもが理解するには難易度が比較的高い作品だったと思います。
だからこそ子どもを持つ親には、ぜひ子どもとこの作品を共感しあう時間をとって欲しい。
子どもは当然「◯◯が可愛かった、かっこよかったー。」みたいな感想を言うでしょうが、そこで終わってほしくないと個人的には思う。
つむぎはとても感情の起伏が激しいキャラクターとして描かれています。
その時折の気持ちを考える機会があってもいいのかなと(あくまで個人的には)感じた作品だった。
私もぜひ、もう一度映画館へ足を運んでこの作品を楽しみたいものだ。