池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

脱皮の条件

2006-02-03 | 作曲/全般

音楽教室の仕事に就いてしばらくは作曲でなかなか自由な発想が出来ず、むしろピアノの方がやりたい放題弾いていた。
指だって専門家のようには動かないし、偉い先生に師事したわけでも無いので、自分を縛るものも守るべきものも無かったからか。
仕事柄、音楽教室のピアノ講師の演奏評価をしながら―あんな風にお上品に、器用にはとても弾けない、自分は別の弾き方で勝負しよう―という意識もあったろう…今でも。

その反面、作曲に関しては色々試験も受け、作品とお人柄で先生に惚れ込み、大学院まで出て…。
だが卒業して作曲科学生という肩書きが無くなってしまえば、ただの会社員。作曲する動機が萎えてしまわないよう、努力を要した。
上司とのミーティングにさえも、内容までは理解していただけないことは承知の上で、作曲中の五線紙やスケッチを持参した。
誰でもいいから自分の作曲振りを注視し、励まし、強いてくれる人が身近にいなければ、志がどんどん色褪せて行きそうだった。

作曲というものは自由にやれるのでは無く、様式(楽派)を選択し、それに沿ったやり方で自分の作風を育てていくものと信じていた。
出身校や先生、そこで学んだものが拠り所だった。作品も先生の下手な模倣だった。
模倣というものは、大抵悪い物からされていく。子供が大人の模倣をする際、まず夜更かし・タバコ・酒…短所の模倣は簡単だ。そして際立った特徴の模倣も、また。
自分の曲も、そんなレベルだったろう。何度かコンクールに失敗しながら、このままではいけない、という事は分かっていた。しかし実際に自分の発想を変えるのは難しかった。
「君ならではのものが出るようになれば…」と、2000年、入選して演奏されたオーケストラ作品を聴いて頂いて、先生からご指摘を受けた。

それからは落選作品のいくつかは破棄し、作曲を師事する前の、自由奔放に作っていたシンセサイザーの作品に、今の自分が失っていたものを思い出したりもし、「学校で学んだことから脱皮できるような条件下に自らを置こう!」と、海外のコンクールにも目を向け、その規定に強いられることで、自分を改革することにした。
即ち、1) 国際的な基準に自分を照らすこと。2) 先例の無い編成で書くこと。

作曲には「演奏時間」そして「楽器編成」という大前提がある。「3管編成」「2管編成」「室内オーケストラ」「邦楽合奏」…等、演奏者の数や楽器の持ち替えの可否まで厳密に指定される。
「オーケストラ・アンサンブル金沢(2管編成だがトロンボーン・チューバが無く、弦が少ない)」「ウィンド・オーケストラ(管・打楽器)」「ルクセンブルク・シンフォニエッタ(コントラバスが無く、フルート・オーボエ・ファゴットの代わりにクラリネット2・サックス3)」、スイスに応募した合唱曲(室内合唱+アコーディオン、ハープ、チューバ)などは特殊な編成だ。
「…んな無茶な!」と思うような編成を提示されると、俄然やる気になる。必然的に作風が変わらざるを得ないから。
もし前代未聞の楽器編成によって作曲したら、その曲はその編成による史上初の曲、ということになる!「右手のピアノ曲」というのも、自分が自分に強いた条件だ。
「創る」という事はまず、制限すること。つまり「強いる」こと。その不便さを克服しよう、というエネルギーが創造の源となる。

現代音楽らしい曲を作らねば、などという強迫観念は無い。
―21世紀の人間は21世紀にしか無いスタイルで作曲せよ。
―未だかつて聴いたことのない感じがする音楽を作曲せよ。
…どこからそんな考え方が生まれ得るのか。アカデミズムの中から?それとも反アカデミズム?
作曲の学習法の最も重要なものとして、「○○のスタイルで作曲せよ」というのがある。パレストリーナの…バッハの…モーツァルトの…ブラームスの…その際、「バッハの」とされているのにモーツァルトっぽいことを書くと、いかんのだ!その延長線上に、先の思想が成立する背景があるのかも知れない。

ここ数年、再び作曲が楽しい。学生時代も楽しかった。人並みに「生みの苦しみ」も勿論あるが、書けなかった時期からすれば、書くために生ずる苦労など喜び以外の何物でもない。
心の中では笑いながら作曲している毎日。



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