池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

漆黒のレンズ

2005-12-24 | 芸術・美術・文学・宗教

隣町に高校の同窓生がお住まいで、2年ほど前から時々美術館に誘われ、「ヴィクトル・ユゴー展」や「ナポレオン展」にも行きました。
印象に残ったのは画面の大半が真っ黒で、ごくわずかな一部分だけ明るく対象が判別できるロマン派の絵。
もし対象だけを描くのならそのスペースだけで足りるのに、大画面。見る者を飲み込むような漆黒の闇。
その中に一箇所だけ光が差し、難破した船から海辺に打ち上げられた母子が横たえている、とか、暗い中にぼーっと薄明かりが差し、顔の一部だけが分かるポートレイトとか。画家の名前も作品名も年号も忘れてしまうのですが…。

これは絵の中に額縁を描いているんだな、と思います。わざわざ大画面を使ってその殆どを真っ黒く塗りつぶし、小さな主題に視線を寄せる。
主題そのものだけを小ぶりのサイズ一杯に描くより何倍も光るわけです。まるでレンズです。
考えてみたら、あらゆる優れた芸術作品は、みんなそうなのでは?本当に言いたい事の周りを額縁で覆い、主題をより一層際立たせる。

バッハのフーガ(インヴェンション)もそうです。
前半はどれもパターンは同じ。主題が出て、声部が増え、近親調で同じことをやる。言わば前半は「お膳立て」―額縁。後半でその曲ならではのあっと驚く作曲技法が展開される。
例えばイ短調のインヴェンションも後半が見せ場。あれは、主題の1と2が前半では平等、むしろ1が優勢だったのに、後半では2ばかりやり、たまらず1が口をはさむと、2が逆切れする!という曲。
シューマンの「クライスレリアーナ第3曲」も、せわしい「1の主題」の後、音階が対位法的に絡む「2の主題」があり、最後に1のリズムと2の音型が合体し、華やかに終わる。せわしいリズムは額縁で、「2の主題」こそ可憐な「対象」では?

名作・傑作は、たとえお膳立てと言えどもその隅々に至るまで魅力をたたえているから、ついどこもかしこも大事に弾いてしまうけれど、「そんな物お膳立てに過ぎない、本質はこれさ!」と、それまで築いたものをひっくり返すくらいの大胆な解釈が出来た時、初めてその曲を理解できたと言えるのでは?



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