池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

新たな地平《幻想の水平線》

2010-04-03 | 作曲/大編成

弦楽合奏曲が完成し、提出間際のストレスと睡眠不足から来る疲労を一日のんびり過ごして解消する。
満開の桜を撮影しに昼と夕方、自転車で回り、気合を入れて数十枚撮った。しかし3日前、作品提出日に譜面をコピーした帰り、駅前の道路に自転車を停め、2~3枚撮ったものの方が良いように思える。その時は曇り空を残念に思ったが、改めて見ると背景が白い方が淡いピンク色が映えるようだ。

新作の弦楽合奏曲は、ある種の現代音楽が抱えている、ロマン主義以降の「極限的な気合い」から脱したいと思って作曲した。
PC.に向かいながらでは絶対に作れない箇所もあり、そこはピアノを弾きながら作った。
第5期」としている今年からの作風はひょっとすると、作曲を最も楽しんでいた第1期の気分で書く、という事になるかも知れない。
ただし「未完成だが可能性を孕んでいる作品」などを書いている段階では最早無い。今の自分に出来る最上の事を、実体のある音楽にすることに全力を注ぐのみ。
現代音楽のエクリチュールの完成度で競っても、今や誰も勝者になれない。現代音楽らしい現代音楽は、「らしい」ところが既に二番煎じの証明。
アカデミズムの顔色を伺いながら作曲しても、第1期のような喜びは得られない。

現代音楽は一般的に苦悩、嘆き、孤独、死、怒り、戦い、恐怖、疑い、緊張、混沌、虚無、無意味…などの表現が得意だ。
そこには大きな忘れものがある。それらの反意語を挙げれば良いが、一言でいえば、天国、愛。
そして後者のような表現は美術史を見ても明らかなように、紀元前のスタイルに比べてすら殆ど進化、変遷を遂げない。
現代芸術として評価されるにはそれらを排除せねばならないが、それらを表現したければ現代のスタイルを封印することになるのだ。

現代音楽の狭い枠の中で自分に制約を設けて作曲するのは、もうお終いにしよう。
青年期、調性音楽の殻を破り、無調の現代音楽の新たな領域に入ったが、その後は一生そのまま、というのは何か矛盾を感じる。
調性音楽への反動があれば、反動の反動が起きない方が不自然だ。複雑で難解な音楽語法も良いが、平易な音楽語法で書く方に、より野心を刺激される。大作曲家は皆その達人ではないか。

《幻想の水平線》~オーケストラのための (2010/22)/プログラムノート
曲名はフォーレ最後の歌曲集のタイトルの借用だが、この作品との音楽的関連は無い。音響面でこの曲の基調となる開放弦を表すと共に、自己の作風における「新たな地平」の意も込めた。
生命は倍率を拡大すれば毛細血管の中を赤血球が急速に流れている。反対に大きな時間軸ではゆったり成長し、老化する。そのような現象をこの作品の構造とした。
試聴



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