こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ぼくの大好きなソフィおばさん。-【23】-

2017年08月11日 | ぼくの大好きなソフィおばさん。
【ブルーサルヴィア】(花言葉=「永遠にあなたのもの」、「尊重」、「情熱」、「貞節」)


 ええと、たぶんお話的にはここが一応一番の山場なのかな、と思ったりします(^^;)

 なので、本文のことについて触れるのも何かな……というのがあるので、ここの前文はどうしようかな、的なww

 何分、今回は本文のほうが長いので、前文のほうは短めに済ませたほうがいいのかな~という気がしたり。。。

 そんなわけで、わたしが好きなエミリー・ディキンスンの詩を二篇ほど引用しようかなと思います♪(ちなみに、引用した詩のほうは↓の本文のほうとは特に関係ありません^^;)


 わたしは思う この世ははかなく
 苦悩がさけがたく
 痛手に満ちていると
 だがそんなことが何だろう

 わたしは思う わたしたちはやがて死に
 どんなに若々しい生命も
 やはり死にはかてないと
 だがそんなことが何だろう

 わたしは思う 天国では
 とにかくすべてが公平にされ
 何らかの新しい配分にあずかると
 だがそんなことが何だろう


(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編、思潮社より)


 いえ、わたしこれ、よく思います(^^;)

 結局のところ、<天国>という場所へ行けたなら、人はみな平等になるのだから、この世での苦難や困難などなんだろう……というよりむしろ、「最後にそうなるというのなら、今苦しんでいるこのわたしの苦しみはなんなのだ?」とか思っちゃうんですよねえ(不信仰者!笑)


 もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない
 もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ
 一人の苦痛をさますことができるなら
 気を失った駒鳥を
 巣にもどすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない


(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編、思潮社より)


 そう。でも、確かに生きることは誰にとっても無駄ではない。

 エミリーの詩は、こうした人生の<深い>ところを汲み取っているからこそ、今も全世界的にとても人気があるのだと思います♪

 それではまた~!!



     ぼくの大好きなソフィおばさん。-【23】-

 海辺の別荘に辿り着いた翌日、ソフィは早速ずっと放っておいてあった庭の整備にかかった。薔薇の支柱をしっかりさせ、トレリスを元の通りに戻し(破損したものは補修したり交換した)、何年か前に庭の隅に建てたパーゴラを綺麗にしたり、そこのテーブルにゼラニウムの花を飾ったり……アンディは男らしくガレージから重い黒土を肩に乗せて運んでくると、それを庭に足して肥料を混ぜた。

 この園芸作業をステラもまた実に楽しんだのだったが、最後にホースから水を撒くという段になると、ステラはアンディのことを家の陰のほうに連れていき、こんなことを囁いたのだった。

「ねえ、アンディのおばさんって、あなたの裸、見たことあるの?」

「えっと、どうかな。病気で熱が出た時とか、体を拭いてもらったことはあるけど……」

「違うわよ。そういうことじゃなくて、大人になった男のあなたの割れた腹筋を見たことあるのって話」

「……………」

 アンディは黙りこんだ。彼は同じ部の生徒の前などでは、下にバスタオルを巻きつけ、上半身は裸でいたりしたが、ノースルイスの屋敷では、風呂上がりにそのような格好でソフィの前をうろついたりしたことはない。それはこの海辺の別荘でも毎年同様だった。

「見たことないのね?じゃあ、これはチャンスだわ。アンディ、あなたせっかくいい体してるんだもの、ここはひとつ見せつけてやらなくちゃ」

「見せつけるって、そんな、ステラ……」

 ステラは有無を言わせず、蛇口をひねると、ホースの水をアンディの体にぶっかけはじめた。栓を抜かれたシャンパンのようにホースから水が噴出し、アンディのTシャツといいカーゴパンツといい、着ているものをすべてあっという間に濡らしていく。

「キャーッ、ホッホーッ!!」などという奇声をステラは発しつつ、容赦のない水圧でどんどんアンディのことをソフィのほうへ押しやっていった。アンディはアンディで、「こいつ、やったな!!」と半ば本気になり、ステラから緑色のホースを奪うと、彼女の白のブラウスとサブリナパンツに容赦なくかけてやった。

 そうこうするうち、ふたりともすっかりびしょ濡れになったが、そんな恋人同士を微笑ましく眺めていたソフィの元までステラは強制的にアンディのことを引き立てていく。まるで囚人を連れていく刑務官か何かのように。

「ねえ、ソフィさん。見て見て!!アンディの体すっごいんですよ。いいですか、ほらっ!!」

 ステラはソフィの前で、アンディのTシャツを胸筋のあたりまで一気に捲り上げた。

「このあたりとか、どう思います?腹筋なんかもう形よく割れちゃってて……この格好で踊ったら、パンツにいくらでもドル札を入れてくれる女性が現れそうだと思いません!?」

「ステラ、もういいよ」

 自分のしていることがあんまり作為的すぎる気がして、アンディは恥かしくなってきた。ソフィのほうでもどうコメントしたらいいのか、戸惑っている様子である。

「ソフィさん、良かったら触ってみて。ほらっ。アンディったら、夜のほうも最高なんですよ。たぶんわたしと別れても、五秒後には次の彼女になりたいって子が、大学ですぐ長蛇の列をなすに違いないわ」

 アンディもソフィも黙りこんだ。アンディは恥かしさから黙りこんだのだし、ソフィのほうでは実際戸惑っていた。ふたりはきのう一緒の寝室に入っていったのだから、当然そうした関係なのだろうとは思う。けれど、こういう時母親というのはなんと言うべきなのだろう?「避妊はちゃんとしてる?」なんて聞くのはあまりに馬鹿げている。

「いいよ、もう。ほら、ステラっ!ホースを僕に寄こせ。一通り庭にぶっかけて歩くからさ」

 アンディは突然寡黙な庭師のようになると、庭の隅のほうからはじめて、一面に水をゆっくり撒きはじめた。今日は気温が二十七度あり、たっぷり撒いても撒きすぎることはないというくらいのいい天候だった。

 そしてステラのほうはといえば、最後にソフィにこう囁くのを忘れない。「彼、もう本当に最高なの。体だけじゃなく、あっちのほうも」などと、恥かし気もなく言い残して、花の苗を並べているソフィの前から去っていった。

 ソフィのほうはといえば、彼女のほうにはカマトトぶらなければならない理由は何もないはずなのに――やはりステラの言った言葉がいまひとつピンと来ないままだった。というよりも、自分の義理の息子の濡れ場のことなど、ソフィは今の今まで考えてみたことさえなかった気がする。

(でも、アンディももうそういう年齢で……お年頃だものね)

 ソフィはシャベルで土を掬い、ブルーサルヴィアの苗を植えていった。ソフィはサンバイザー越しに、若い恋人同士がホースを操る姿を眺め、何故だかそれがあんまり眩しくて、眩暈を覚えそうなくらいだった。ふたりとも、とても若々しい精気に満ちているが、自分はもうあんな感じではないとわかっている。ステラの言った言葉もいかにも馬鹿げており、保守的な中年女性であればきっと、眉をひそめたことだろう。けれど、きのうはイラついたそうしたステラの言動も、今ではソフィにどこか心地好い羨ましさを与えた。

(若いっていいわよね。実際、ただ若いっていうだけでも、大した特権といっていいわ)

 何故か脳裏の片隅に<世代交代>といったような言葉が思い浮かび、あのふたりはこれから昇りゆく太陽として輝くけれども、自分はだんだんその逆になっていくのだ……といった、一抹の寂しさがソフィの心を覆った。同時に、それだからとて、それがどうしたというのだとソフィは思いはするものの、この時突然アンディが自分とはまったく別の人間なのだと認識されたことが――そうはっきりわかったことが、ソフィには寂しかったのかもしれない。

 アンディとステラは、互いにホースを奪いあったり、あるいは一緒にホースを握って一方向に水を撒いたりしながら、そろそろ苗を植え終わろうかというソフィのそば近くまでやって来た。するとふたりはなんの前触れもなしにソフィにまで水をぶっかけだし、「これでソフィさんもわたしたちの仲間!」などと言って、ステラは笑っていた。

 庭に水をまんべんなく撒いたところでお昼になったので、三人は着替えると、テラスに出てソフィの作ったトマトとバジルの冷製パスタを食べた。午後からはソフィはそのまま庭いじりをし、アンディはステラを案内して、<妖精の泉>や<蛍ヶ池>のあたりを案内して歩くことにした。アンディはおそらく、自分のガールフレンドがもし、「こんな何もない田舎くさいところ、面白くもなんともないわ」という感じだったら、おそらくそうした子とはつきあえないだろうと思っていたが、ステラはそんなこともなく、「自分が育った田舎町のことを思いだすわ」などと言って笑っていた。

「そういえば、僕、君のことを何も知らないんだなってきのう思ったよ。よく考えたらステラ・マクファーソンっていうのも偽名なんだと思うし……」

「いいのよ、アンディ。べつに無理しなくて」 

 林道の左右に緑が揺れ、地面の上を樹影が躍る中を、アンディとステラは並びあって歩いていった。けれどアンディは小さな頃に清水の溢れる窪みを<妖精の泉>と名づけたといったようなことは、何もステラに話さなかった。彼は今そういう気分ではなかったし、どちらかというと今も、水に濡れて下着のあとが見えたソフィの体のことや、彼女が自分の腹筋を見てどう思ったか、またステラの言った「彼ったら夜も最高」という言葉を果たしてどう受け止めたのか……そんなことが気になって仕方なかったのである。

「わたしとあなたとの関係は、娼婦とそのお客っていう、ただそれだけですものね。あるいはそれとも、セックス・フレンド?ここにわたしが来たのも、自分の勝手な考えをあなたに押しつけたからだし、長くてももう三日くらいここにいて、そしたら帰ることにするわ」

 ステラにはこの時、ある考えがあった。もちろんそれは、アンディには絶対に秘密にしておかなければならない。ゆえにステラはソフィとふたりきりになれそうな機会をこれから窺うことになるだろう。そしてそれが済んだら……きっと、アンディとはもう二度と会うこともなく、自分の恋は完全に終わるのだと哀しく思った。

「ステラ……なんだか本当にごめん。僕は君のことを、セックス・フレンドとかなんとか、そんなふうに思ったことは一度もなかったけど……」

「だから、いいって言ってるでしょ。わたし、これでも今の状況を結構楽しんでるんだから」そうステラは嘘をついた。「それより、さっきのソフィさんのあの反応、結構脈かあったと思わない?あなたの腹筋に触る時、ソフィさん、なんだか恥かしそうな処女みたいだったわ」

「そうかな。僕には「こんなものに触ってどうする」みたいに見えたけど」

「そんなことないわよ~!この調子でちょっとずつアンディのことを異性として意識させていけばいいわ。そしたら、わたしがいなくなったあとにでも、きっと絶対うまくいくから」

 ――このこともまた、嘘だった。ステラにはここ二日のアンディを見るソフィの様子を観察しただけでも、彼女が義理の息子を異性としては認識しそうにないと本当は感じていた。だからこそ、自分が最後に一言いってやる必要があると、そう考えていたのである。

 ふたりは森の中を逍遙して帰ってくると、アンディは自分が生き埋めにした清水の溢れる場所のことが気になり、そちらの様子を見に行くことにした。とはいえ、雑木林と雑草の中を分け入っていかねばならぬため、ステラには少しの間<妖精の泉>で待っていてもらうということにしたのだが。

 例の湧き水の場所は、石で喉詰まりを起こして死んでなどいなかった。ただし、アンディが石を投げ込む前ほど、湧き水の穴は大きくはなく、そのかわり最後の石を落としたあとより小さくもなかった。つまり、アンディが落とした石自体が、おそらくは湧き水が出てくる時の力で少しずつずれていったのだろう。けれど、あんまり大きな石を投げこんだもので、その石に関してだけは、湧き水が出てくる時の力では持ち上がらず、そのままそこにあったに違いなかった。

 アンディは清水が溢れる場所が死んでいないことを確認して心底ほっとした。そしてその場所に跪き、心から祈るようにしてあやまると、道々摘んできた花をそこに捧げるということにした。おそらく偶然であろうとはアンディもわかっているのだが、暫くしてアンディが再びここへやって来ると、湧き水の溢れる場所は、以前とまったく同じように回復していたのだった。

 その日、アンディはそのことがあんまり嬉しくて意味もなく上機嫌だったが、その理由をソフィに訊ねられてもうまく答えられなかったものである。

     *   *   *   *   *   

 それから二日後、アンディがエイデンやラッセルという昔馴染みの友達に会いにいくという時、ステラは当然彼についていかなかった。こんなど田舎町の人々と知り合っても仕方ないなどと思っていたわけではなく、こんな時でもないとソフィとふたりきりで話が出来そうになかったからである。

 ステラはソフィを手伝って夕食の下ごしらえを終えると、花鋏を手に庭の樹木を剪定しはじめた彼女のあとをついて回った。この頃になると流石にソフィも、彼女が何か自分に話したいらしいと気づいていた。

 そして、(もし赤ちゃんが出来たとかいうことだったら……)と心配になるあまり、自分からステラに「何かわたしに話があるんでしょ?」と切り出したのである。

 四季咲き薔薇の剪定もそこそこに、ソフィはエプロンに花鋏をしまうと、ステラと一緒にテラスまで引き返してきた。彼女に例のメニュー表を見せて「何か飲みたいものある?」と聞くと、ステラは「お酒の力が必要かも」などと沈んだ顔で言った。

 ソフィはますます(きっと赤ちゃんのことじゃないかしら)と心配になった。(そうよ。アンディはユトレイシア大に合格したばかりだし、彼女もまだ大学生で……堕ろすしかないってわかってるけど、心細いとかなんとか、もしそんな話だったとしたら……)

<お酒が必要>という言葉から、ソフィは他には何も考えられなくなったが、よく冷えた高級なシャンパンとフルートグラスを二客、それと苺の鉢をトレイに乗せて、テラスに戻ってきた。 

(あなたが生んだ子をわたしが育てるっていう手もあるけど)という案が脳裏を掠めるが、すぐセスの顔が思い浮かび、そんな無責任なことを軽々しく言ってはいけないと、ソフィはその考えを打ち消していた。

「それで、わたしにお話って?」

「ソフィさんってオシャレですよね。可愛い息子のガールフレンドがお酒が飲みたいって言ったら、ヴーヴクリコなんか持ってきちゃったりして……しかも苺つきで」

 泣く準備のためかどうか、ステラの膝の上には先ほどまでなかったハンカチまで用意されている。ここで初めてソフィはハッとした。会ったばかりの頃、彼女の情緒が不安定だったのはきっと、妊娠しているそのせいだったのだろうと直感したのである。

「もしかして、ステラ。もしあなたの話したいことが、妊娠のことだったりしたら……」

「妊娠?」と、ステラはここで奇妙な顔を一瞬したあと、爆笑していた。「違いますよ、ソフィさん。わたし、妊娠なんかしてません。ただ、どの順序でお話するのが一番敵切であなたにわかってもらえるのか……そのことばかりが気にかかっていて、今まで気が気じゃなかったんです」

(これはよほどのことに違いないわ)とソフィは思ったが、さりとて、妊娠以上の重大事となると、ソフィにはとんと思い浮かぶことがなかった。

「わたし、嘘つきなんです。唯一本当なのは、大学の法学部に通ってるってことと、検察官を目指してるってことと、お父さんが強盗殺人に遭ったことくらいで……あとのことは本当に嘘が多いんです、ごめんなさい、ソフィさんっ!!」

 そう告白し、ステラは白い木のテーブルの上に頭を下げた。それはアンディが小学六年生の時に作ったものだということだったが、ほとんど既製品にしか見えないくらいよく出来ていた。

「どういうことなの?」

「詳しくは話せないんですけど、わたしとアンディが恋人だっていうこと自体が嘘です。でもその……ちょっとしたことから、体の関係だけはあって。それでわたし、すっかりアンディにのぼせ上がっちゃって、彼が崇拝してるとかいうおばさんとやらはどんな人なんだろうと思って、彼にこう提案したんです。恋人とベタベタしているところを見れば、あなたのおばさんも嫉妬するんじゃないかしら、みたいに。彼、最初は乗り気じゃなかったんですけど、あとで「君の言うとおりかもしれない」みたいに電話をかけてきて。それで、わたし……」

 ソフィはまだ話がどういうことなのか、まるで飲み込めなかった。彼女が思うに、アンディはその場の勢いだけで恋人でもない女性と寝るタイプの子ではない。けれど、アンソニー・ワイルという子は、そのあたりの素行が悪いといったようには、ソフィも噂で聞いたことがあった。ようするに誰か、そうした女性を紹介してもらったのがステラだったのだろうかと思うが、ソフィはそれでも彼女が娼婦なのだろうとまでは想像できなかった。

「わたしがあなたに謝罪しなくちゃいけないのは、大体ここまでです。それで、ここから先は苦情になります」

「苦情ですって?」

 嘘をついていた上に、なんて図々しい――とは思わなかったものの、話のゆく先がまるで見えず、ソフィはイライラしてシャンパンを飲んだ。

「あの、ソフィさんは本当にお気づきにならないんですか?」

「気づかないって、何に?」

「アンディがあなたのことを……単に義理のお母さんとしてだけじゃなく、異性として、ひとりの女性として愛してるっていうことにです」

 ソフィは言葉を失った。(この子はこの上、一体何を言いたいのだろう)と、微かに怒りさえ覚えていたかもしれない。

「アンディはそのことで悩んで……ずっとひとりで悩んで、苦しんできたんです。だからその、わたしと寝たのもようするに、そういうことです。あなたと出来ないかわりにわたしとしたってことなんです。わたしは最初からそのことを知ってましたし、だからどうっていうこともありません。ただ、あんまり彼の悩みが深そうに見えたから、アンディがわたしと一緒にいるところを見ることで、ソフィさんが嫉妬すればいいって思ったのに、なんだかそれも失敗に終わってしまったみたいで……」

「……………」

 ソフィは暫くの間黙っていた。アンディが自分を義理の母としてではなく、女として見ているということが衝撃的だったからではない。ステラは泣いていた。そしてこんなことを自分に告白しなければいけない彼女に、ソフィは深く同情していたのである。

「あのね、ステラ。アンディの気持ちっていうのは、一過性のものってことはないのかしら。ほら、あの子は母親を小さい時に亡くしてるから……」

「違います!」と、ステラは激しくかぶりを振って否定した。「ソフィさん、それだけは絶対に勘違いしないでください。そのことで彼がどのくらい苦しんだか、あなたはご存知ないからそんなことが言えるんです。彼、言ってました。ユトレイシア大学へ行くのも、あなたのためだって。もし実のお父さんを裏切ることになっても、自分の力だけであなたを養うためには、まず学歴がいるだろうって……もちろん、あなたにはアンディのお父さんの他に愛人の男性がいるんですよね。でも、あなたがもしアンディの気持ちを受け容れてくださらないなら、それはとてもひどいことだと、わたしはそう思います」

 ステラはそのまま、暫くの間声を押し殺し、体を震わせて泣いていた。マスカラのとけた黒い涙を最後にハンカチで拭くと、不意に立ち上がる。

「本当に、ソフィさんにとっては一方的なことばかりで……申し訳ありませんでした。でも、ここまで言ってももしかしたらあなたには、わからないかもしれません。当たり前みたいにあんなにもアンディに愛されてるあなたには……この三日ほどの間、わたしがどんなにソフィさんに成り代わりたかったかなんていうことは……」

 そう言い残して、ステラは二階へ上がっていくと、荷物をまとめて下りてきた。化粧のほうは直されておらず、顔のほうも涙で汚れたままだったが、彼女はこのまま帰るという。

「タクシーって、呼んだらここまで来てくれるでしょうか?」

 ソフィは溜息をついて言った。

「来てはくれるでしょうけど……もし本当にこのまま帰るっていうんなら、駅まで送っていくわ。アンディは、わたしがあの子の気持ちにまるで気づかなかったみたいに、あなたの気持ちにも気づいてないんでしょうね、きっと」

「あの、わたしが彼の本当の気持ちをしゃべったっていうことは、アンディには絶対に言わないでください。彼、この夏あなたに、色々な思い出のあるこの別荘で告白するつもりみたいですから……ただわたし、すごく心配だったんです。あなたがもし、わたしに対してさっき言おうしたみたいに、<一過性のもの>だとか、そんなふうに片付けられたりしたらどうしようって……」

(こんなに女の子を泣かせて)と、ソフィはアンディに対して腹が立ってきた。(その上、自分のことを好きな子にここまで言わせるだなんて、あの子の鈍さかげんにもまったく困ったものだわ)

 帰りの車の中で、ステラはさらに先ほどの話に付け足すようにしてポツリポツリとこんなことを言った。

「わたし、これからは本当に勉強に専念しようと思います。アンディには、わたしが急用で帰ったとでも言っておいてください。それと、ソフィさん。こんなこと、出来ればわたしも言いたくないんですけど……アンディがフェザーライルの寄宿学校にいた頃、成績が下がったりした時は、大体あなたのことが関与してたみたいなんです。ソフィさんのことを喜ばせたくて勉強を頑張ってる部分もあるのに、あなたがそのことをまるでわかってないなら、頑張る甲斐もないとか、そんなふうに思う時は、勉強に身が入らなかったみたいで……あと、もしかしたらテニスもやめてなかったかもしれません。大体同じような理由から頑張っても意味がないみたいに思った時期と、ちょうど怪我が重なっちゃったんですって。だから、ソフィさん……」

「あなたの言いたいことはもう、大体わかったわよ」

 ソフィは早くひとりになって頭の中を整理したかったが、まずはこの献身的で一途な美しい娘のことを駅まで送っていかねばならなかった。話を聞いているうちに、雰囲気として、アンディがステラと寝たのは一度、二度ではないということが、ソフィにもはっきりわかってきた。その上ここまで純粋に自分のことを思っている彼女のことを利用するとは――ソフィは久しぶりにアンディに説教してやりたくなったが、自分にそんなことを言える権利はもはやないともわかっていた。

 ソフィが木造の古びた駅舎の前で車を止めると、ステラは最後にもう一度、切実な眼差しをしてこう聞いた。

「こんなことを第三者のわたしが聞くのは失礼だって思うんですけど……ソフィさんは愛人の男性と別れる気はないんですか?彼ではなく、アンディのことを選ぶっていうことは、どうしても無理なんでしょうか?」

「今ここで、三秒くらい考えて答えられるようなことじゃないのよ、それは。だから、ステラ。あなたには本当に、うちの義理の息子が失礼なことをしたなって思うけど……」

「アンディは失礼なことなんか一度もしてません」と、ステラは妙にきっぱりと言った。「いつも礼儀正しかったし、紳士で、とても優しかったんですよ。一度なんて、誕生日に薔薇の花束と詩を一緒に送ってくれたこともあって。それにわたし、アンディからお金をもらって彼と寝てたんです。だから利害関係が一致してたというか、そのことでアンディのことを責めたりしないであげてください」

「お金ですって?」

 むしろそちらのほうが由々しい事態だというように、ソフィは厳しい顔をした。

「さっきからあなたの話を聞いてると、少しおかしくはない?第一、あの子がテニスをやめたのは、ええと……十五とか六とか、そのくらいの時ですもの。それともあの子は過去に遡って色々なことをあなたに話したってことなのかしら?」

「ソフィさん。細かいことはもう、過ぎたことです。でも、確かにわたしとアンディは知り合って三年くらいになります。彼が何故そんなことをしたかわかりますか?ソフィさんのことがとても好きなのに、あなたは彼のことをただの子供、血の繋がらない義理の息子としか絶対に見てくれないから――それで彼は、自分の気持ちをどうにか処理するために、わたしをあなたの代わりにしてたんです」

 ここまで来てようやく、ソフィにも色々なことが飲み込めてきた。何故ステラが出会った時におかしな様子をしていたのかもわかったし、結局のところ彼女が首都ユトレイシアからこんなに離れた田舎町へ来る決心をしたのも、すべてはアンディのためであり、ステラは自分の犠牲的な気持ちも汲んで、彼の気持ちに応えてあげてほしいと、そう言っているということなのだ。

「わかったわ、ステラ。あなたがわたしに言ったようなことはこれからよく考えるけど……とりあえず今は、プラットフォームまで見送らせてちょうだい」

 ソフィはなんの思い出作りもせずに、これから長く列車に揺られてステラが首都まで戻っていくのかと思うと、彼女のことがやはり気の毒で堪らなかった。そこで、駅舎の前をうろついていたマグロッティと写真を撮ると、せめてものヴァ二フェル町の思い出の品として、彼女に持ち帰ってもらおうと思った。

「こんなポラロイド写真を一枚五ドルで売りつけるなんて、ほんといい商売よね」

 そう言ってソフィはマグロッティを間に挟んでステラと一緒にとった写真を、彼女に渡した。

「ありがとうございます、ソフィさん。わたし、この写真一生大切にします」

「いいのよ、一生だなんて、そんな。本当はアンディがこの場にいればね、一生ものってことでもいいんでしょうけど……なんにしてもステラ、本当に残念だわ。正直、出会った時には、この子頭のほうは大丈夫なのかしらと思ったんだけど、今じゃ本当にあなたこそがあの子に相応しい子なのに、どうしてアンディはそのことに気づかないのかしらってそう思うくらいよ」

「わたしは……アンディが本当に好きな人と結ばれて、幸せになってくれたらそれでいいんです。帰り道の列車で、随分長く帰ってない実家のほうにも寄ってみようと思ってますし、たったの三日でしたけど、楽しかった。それじゃ、ソフィさん、アンディによろしく言っておいてくださいね」

 プラットフォームで別れた時、やはりステラの顔はまだどこか痛々しさを残したままだった。きっと彼女を見かけた人は、失恋したか近親者でも亡くしたのだろうと思うことだろう。ソフィはせめてもの気持ちとして、駅の売店で列車の中で食べるのにいいものをステラのために買ったが、きっと彼女は暫く何も喉を通らないだろうとわかってもいた。

「それじゃ、さよなら、ソフィさん」

「ステラ、あなたも勉強をがんばって……夢を掴んでね」

 こうしてソフィとステラは別れたのが、ソフィは帰りの車の中で何故だかひどく良心が責められる思いがした。ステラと約束した手前、とりあえずアンディのことは叱るまい。けれど、義理とはいえ、自分の息子が――名門の一流校に通う傍ら、女性にお金を支払った上、その女性を自分の代わりとして寝ていただなんて!

 ステラと話している時はそうとはっきり気づかなかったが、簡単にわかりやすく言ったとすれば、アンディは性的に自分が欲しいということなのだろうかと思うと、ソフィは突然眩暈を覚えた。第一の反応は当然(そんなまさか)というものだったが、けれどもし本当にそうなら……ソフィはどうしたらいいのかまるでわからなかった。

 海辺の別荘に戻ると明かりが点いており、アンディが誰かに送ってもらって先に帰宅していることがわかった。ソフィは彼よりも遥かに年上であり、こんなこと程度で狼狽したり、またステラから聞いたことが思わず態度に出してしまうことはない。

「あら、帰ってたの、アンディ」

 ソフィはいつもどおりそう聞き、車の鍵を猫の形をした壁掛けフックにかけた。

「エイデンに車で送ってもらったんだよ。彼、今ポートレイシアのアディルトン・エンジニアリングってところで働いててさ、車も新車を買って、初めて彼女も出来たらしいんだ。写真を見せてもらったけど、凄く可愛い彼女だったよ。エイデンにはもったいないっていう感じのさ」

「エイデンくんにも春がやって来て、それは良かったわね。ところでアンディ、おばさん今、ステラのことを駅まで送ってきたの。なんか急いで帰らなきゃいけない用が出来たとかで……あんたによろしく伝えてほしいって言ってわ」

「ふうん、そう」

 アンディはそう素っ気なく答え、居間の椅子に座ったまま、テニスの試合を見続けていた。ソフィはステラの言っていたことで胸が痛むと同時、アンディがあまりにステラに対し無関心なことに腹が立った。

「自分のガールフレンドが突然帰ったってわりに、あんた随分平静なのね」

「だって、急用が出来たんだろ?あとで電話かメールでもしておくよ。それより、今日の夕ごはんは何?」

(まったくもう、この子ときたら……もしかして、お父さんの悪い遺伝子が今ごろ目覚めてきたなんていうんじゃないでしょうね)

 ソフィはそう思ってイライラしたが、「ハンバーグとかえだ豆のスープなんかよ。ステラが手伝ってくれて助かったわ」と、内心で溜息を着きながら答えるに留めておいた。

 ふたりで夕食を食べる間、アンディとソフィの間にこれといった変化は何もない。アンディは今日エイデンと会って話したことや、ブラッドは遠洋漁業に出ていて留守にしているといったことを話し、ソフィはやたらとステラのことばかりを話題にしたがった。

「あんたとステラは、一体いつどこで知り合ったの?」

「アンソニーのやってるバンドのライヴでだって言わなかったっけ?だからもう三年ばかりもつきあってるのかな。もちろん離れてるから、ユトレイシアに僕が行った時しか会うことはなかったけどね」

 昔から、ソフィの作る手作りハンバーグはアンディの好物のひとつだった。チーズがほどよくとけた上に、特製のケチャップソースがのったそれを頬張りつつ、アンディは一緒にサラダも相当の量を食べ、マッシュポテトのほうも大量に平らげた。

「それで、結婚を考えるくらいの真面目なおつきあいなの?」

「そういうことはまだ考えてないよ。その場のノリでなんとなく軽い気持ちでつきあいはじめたってだけだから。だからおばさんに紹介したことにも、そんなに深い意味なんてないんだ」

「ふうん、そう。てっきりわたしはそういうことなのかと思ってたんだけど、違うのね」

(まったく、この子は何を考えてるのかしら)

 アンディの反応があまりに淡白なので、ソフィは食事の後片付けをする間もやはり腹が立ち続けた。もしアンディがステラに対し、「彼女とはお金を媒介にした関係だからこんなものでいいんだ」と思っているのだとしたら、自分は彼に対する教育法を誤ったのかもしれないという気さえする。

「おばさん、手伝うよ」

 ソフィが食器を洗っていると、アンディが隣に立って布巾で食器を拭きはじめる。これもいつものことではあったが、ソフィは今日に限って、なんとなく奇妙な感じがした。ステラから本当のことをすべて聞いたからというよりも――アンディはこれと同じことを九歳の時からしていた。『おばさん、僕も何か手伝うよ!』……あの小さな子はどこにいってしまったのだろうと思うと、ソフィは何故だか懐かしいような哀しい気持ちになったのである。

「おばさん、どうかした?」

「ううん、なんでもないわ。それより、お風呂に入ったらおばさん、すぐに寝るわね。なんだか今日はすごく疲れたの」

「うん。僕も今日は早く休むよ」

 そんな会話をし、ソフィがシャワーを浴びて出てきた時、アンディは娯楽室のひとつで映画を見ているところだった。いつもなら、「何よ、これ。面白いの?」とでも言って、ソフィは炭酸水を片手に義理の息子の隣に座るところである。けれど今日は彼がなんの映画を見ていようと興味がなかった。というより、(ステラの気持ちも知らないで、まったく暢気なものだわ、この子は)と、ソフィは苛立ちながら二階へ上がり、ドライヤーで髪の毛を乾かしたのである。

 ベッドの枕に頭をつけてからも、ソフィは今日ステラが自分に言ったことを考え続けていた。彼女の最終的な答えとしては、アンディが具体的なことを口にしない限りは、自分からは何も言わない……ということに決めていた。何故といって、義理の息子との関係をわざわざ壊すようなことを言う必要はないと思ったし、愛の言葉など囁かれたとしても、ソフィには応えようがないからだった。

 けれどその日の夜――いつもよりも早い時刻(十時)に眠ったせいだろうか、ソフィは夜中の零時過ぎに一度目が覚めていた。そしてハッとするのと同時、部屋の中に人の気配を感じてドキリとしたのである。

「びっくりするじゃないの、アンディ!あんた、ここで何して……」

 貝の形をしたベッドの背もたれに寄りかかると、ソフィははだけたバスローブを両手でかきあわせた。彼女は夏は大抵、下着一枚に上は何も着ず、バスローブ姿で寝ることが多いのである。

「知らなかった?僕小さい頃からよく、こうやっておばさんの寝顔を見に来てたんだよ。初めてこの海辺の別荘にやって来た時――自分があんまり幸せで、おばさんが朝起きていなくなってたらどうしようと思って、よくここに来て暫くおばさんの顔を見ていたんだ」

「そうだったの。でもあんた、もう結構ないい歳なんだから……」

「そうだよ、ソフィ。僕は大人になったし、もう一人前の男になったといっていいと思う。もっともおばさんはそのことにまるで気づいてないみたいだけど」

 アンディもまたベッドの背もたれにもたれると、隣のソフィをじっと意味ありげに見つめた。彼のほうはパーカーにジーンズという、昼間とまったく同じ格好をしたままだった。

「そんなことないわ。だってあんたは、昔に比べてずっと背も高くなったし、今年の九月からは大学にも通うんですもの。立派な大人よ。おばさんね、さっき言おうか言うまいか迷ったんだけど、女の子のことは大切にしなくちゃ駄目なのよ、アンディ。軽い気持ちで体の関係を持って、あとで妊娠したっていうことになったとしたら……」

「おばさん、どうせステラから何もかもすべて聞いたんだろ?」

 また子供扱いされては堪らないと思い、アンディは衝動的にそう告げていた。冷静だった彼の頬に朱が差したが、それはステラがソフィに話したであろう会話の内容のためではない。そこまで知っていてなお、子供扱いされたことに怒りを覚えたのである。

「……アンディ。彼女、泣いてたわよ。あんたはお金を払ってるから割り切った関係だと思ったかもしれないけど、女の子っていうのはね……」

「僕は父さんとは違う!」

 薄闇の中でアンディの瞳が濡れたように輝いたかと思うと、次の瞬間、ナイトスタンドに伸ばしかけたソフィの手を、彼は乱暴に封じた。

「おばさんが何を考えたか、当ててみようか?あの父親の血がやっぱりこの子にも混ざってるのかしらとか、そんなことを思ったんだろう?」

「思わないわ、アンディ。痛いから、離してちょうだい」

 けれど、アンディはやはり離さなかった。もう一方の手でバスローブの帯を引っ張り、彼女のことを自分のほうへと引き寄せる。

「アンディ、ちょっ……やめなさい、アンディ!!」

 義理の息子の持つ力があまりに暴力的であるのと同時、力では到底適わないことをはっきり悟り、ソフィは押さえつけられていないほうの手で、どうにかアンディの体を押し返そうとした。けれど、その手首すら彼は軽々と押さえつけて寄こす。

「僕はずっと……これでも手加減してきたんだよ、ソフィ。父親とだけじゃなく、その息子ともなんて、あなたがとても困るだろうと思ったから……だから」

(自分の気持ちをどうにか押し殺してきたんだ)

 アンディが口に出しては言わなかった言葉を、ソフィははっきり耳元で聞いた気がした。それで唇が首筋に押しつけられても、抵抗しなかったし、出来なかった。もしどうしても嫌だったら、あるいは理性的に考える余裕があったなら、「こんなことがあんたの望みなの?」と、冷たく彼を突き放すことも出来たかもしれない。

 けれど、この時ソフィはバートの口から言われた「あれはわたしの息子じゃない」という言葉が頭の中を旋回していた。それと同時に、その渦の中にはアンディの母、フローレンスの残した遺書の言葉が巻き込まれてもいた。<不憫な子>……<将来この子はきっと苦しむだろう>……<だからわたしは良心の呵責に耐えきれず、死を選ぶことにしたのです>……。

 ソフィは義理の息子のことがとても可愛かった。だから涙が出るのはたぶん、朝になったら彼がもう、自分の<可愛い坊や>ではなくなるのだということが哀しかった、そのせいに違いなかった。

 アンディはソフィの首筋となく胸となくキスを繰り返している途中で、ふっと彼女の体から抵抗による緊張感が緩むのを感じた。そしてソフィの唇に内心では恐れを感じつつ自分のそれを重ね合わせると――応えてくれると期待していなかっただけに、反応があったことに驚いた。

「愛してるわ、アンディ。あんたがわたしにこれまでしてくれたことを思えば……あんたはわたしに何をしたっていいのよ」

「ソフィ……」

 あとのことはもう、アンディにとってまるで夢の中での出来ごとのようだった。彼は夢中で愛する女性の魅惑的な肉体を貪り、自分が長年夢見てきたことを成就させた。その最中、アンディは「愛してる」という言葉を何度も繰り返したが、決して自分の一方通行というのではなく、彼女のほうでも同じ言葉を返してくれることが嬉しかった。

 こうしてソフィとアンディは、二度と引き返せない一線を越えた。翌朝、義母の寝室で裸で目覚めたアンディは、隣に彼女の姿がないことに気づき、狼狽したものだった。慌てて服を着ると、階段から転げ落ちそうになりながら下のキッチンのほうへ向かう。

「ソフィ!ソフィ!!」

 廊下を走り、階段を駆け下りる途中でもアンディは我知らずそう叫んでいた。アンディとしてはどうしてもゆうべあったことを、一夜限りの夢だったとは思いたくなかったのである。

 けれど、キッチンに愛する女性の姿を実際に見出す前に、そこからフレンチトーストの焼けるいい匂いが漂ってきて――アンディはほっとした。そしていつもと同じエプロン姿の義母を、義理の母ではなく、自分の恋人として後ろから抱きしめたのである。

「ソフィ、こういうものはさ、恋人同士がベッドの中で食べるのにいいみたいだよ」

 そう言ってアンディは、フレンチトーストや牛乳やサラダなどをトレイにのせて二階の寝室へ運んだ。彼としてはどうしても今日は一日そこから出ていきたくない気分だったからである。

「そうね、アンディ。なんでもあなたの言うとおりにするわ」

 何故そんな言葉が口を突いて出たのか、ソフィも自分で不思議だった。きのうの夜を境に、ふたりの間では奇妙な逆転劇が起きていたせいかもしれない。昔はソフィのほうがアンディに対し精神的強者であったのが、突然対等どころか若干逆にさえなったのである。

 ソフィはアンディの顔をまともに見られないというのに、彼のほうではまったくそうではなかった。むしろ、アンディのほうでは「これこそが正常な姿」といった認識があるせいだろうか、彼女のほうを何度見ても見飽きないといった眼差しで熱心に見つめ続けるのである。

 そしてこの日を境に、実際ソフィはアンディの言うなりになった。彼が「一緒にお風呂に入りたい」といえばそうしてあげたし、一日の過ごし方にしても義理の息子の――否、恋人の言うことを優先させた。彼はまるで、自分が目を離した隙にソフィがいなくなるのではないかと恐れてでもいるように、彼女にべったりとくっついて離れなかったものである。そしてソフィのほうでもまた、そんな恋人の姿を微笑みながら見つめ返していた。

 そう……ふたりの間の関係の、この驚くべき変化に、ソフィは最初とても戸惑った。けれど、三日もしてみると足許の感覚さえおぼつかないような幸福の感覚にも慣れ、アンディがなんの抵抗もなくその幸せを味わっているように、彼女もまた同じ流れに身を任せるということにしたのである。

 アンディとソフィとは、お互いを知り合ってからもう十年近くにもなるし、そう考えた場合もはや互いの間で盛り上がるべき話題などさして残っていそうにないものだが――義理の母とその息子という枠組みが取り払われ、<恋人同士>となったふたりにはいくらでも話すことがあった。

 アンディは今日に至るまで、ソフィのことを自分が獲得するまでの苦しい道のりのことを話したがったし、ソフィのほうではセスのことなど話題にしたくもなかった。彼は今ごろキューバで可愛い若い娘でも適当に引っ掛けて楽しんでいることだろう。そして仮にその浮気がバレたところで居直るような不実な男だ。「そんなこと言うんならおまえ、早く離婚しろよ」……アンディと海辺の別荘で過ごしたその夏、ソフィはセスのことはほとんど考えなかったといっていい。彼同様、そのくらい目も眩むような幸福にソフィもまた酔っていたからである。

 100%完璧な幸福――そのようなものが果たしてこの世界にあり、実際に自分が体験できることがあろうとは、ソフィは思ってもみなかった。確かに昔、若かった頃にこれと似たものを一時的に経験したことは彼女にもある。セスと知り合ったばかりの頃もそうだった気がするし、アダムとつきあっていた頃にも同じ気持ちを味わったように思う。けれど、アンディとの間にある愛情は、ソフィにとってまさしく掛け値なしのものだった。この二十歳近くも歳の離れた恋人は、ソフィにとってまさに黄金以上の値打ちがあったといっていい。毎日彼女に対して心からの愛を囁き、何か小さな日常のことにおいてまで自分を気遣ってくれ、そして夜には若い精力のすべてを注ぎこむように甘く痺れるほどに愛してくれるのである。

 けれど、こんな生活は長く続けられないとは、ソフィにはよくわかってもいた。アンディもまた八月も半ば過ぎになると、それまであえて口にしてこなかったことを恋人と話し合わないわけにいかなくなり、「僕はソフィのためなら何を捨ててもいい」と前置きしてからこう言った。

「大学のほうにはもちろん、進学しようと思う。本当はこのままソフィとどこかへ逃げてもいいけど……そんなことをソフィは望まないと思うから。けど、ユトレイシアの本邸からは離れて、大学の近くにでも部屋を借りようと思うんだ。そしたらこれからも……そこで会えるだろ?」

 父親に大学の授業料をすべて出してもらい、また父親の所有する屋敷に住んだ上、彼の妻のことまで所有する――流石にそこまでのことはアンディにも出来ない。かといって、一人前の社会人になるまでは、ソフィのことを養っていけないというのも事実だった。

「僕さ、勉強の他にアルバイトも色々して……」

 アンディがベッドの中でもぞもぞと身動きしながら熱心に語ろうとするのを、恋人の唇に指をあててソフィは封じた。

「いいのよ、アンディ。そんなことで自分のことを不甲斐ないだなんて感じないでちょうだい。そんなことを言ったらわたしだってあんたと一緒に働くってことも出来るんだから。けどね、わたしはあんたにそんなことはして欲しくないの。お父さんのお金で大学に行って、そこで好きなだけ勉強して、自分のなりたいものになって欲しいわ。あの人はね、実際父親としてはお金を出す以外のことでは何もして来なかったでしょう?だったら最後までその責任は持ってもらって当然と思いなさい。それでいいのよ。あんたが良心の呵責に苦しむ必要はないわ」

「ソフィ……」

 どうして昔から彼女には、自分が心の底で思っていることをこうもうまく説明できる力があるのか、アンディは不思議だった。実際のところ、アンディは実の父親に対しては良心の呵責などまるで感じていない。次にユトレイシアの本邸かどこかで会ったとしても、思わず父から目を背けるといったことさえないであろう。もしバートが義理の母のことを経済的なこと以外でも心底大事にしており、家庭のことも十分顧みるような男であったとしたら――おそらくアンディも自分の背徳行為に対し、羞恥心を覚えたに違いないのであるが。

「ソフィは、セスって人とどうするの?」

 アンディはこの日ようやく、勇気をだしてこの世でもっとも自分が脅威に感じている男の名前を口にした。アンディはソフィと肉体関係を持つようになるまで、彼と比べて自分はどうなのかということが気の狂いそうなほど気になっていた。けれどソフィのほうではそうした比較によって男を天秤にかけることはないのだと、アンディは今はよくわかっている。以来、あいつのほうがソフィにもっと良くしてやれるのだろうかといった猜疑心からアンディは解放され、自由になった。

「そうね。もしあんたとこうならなかったら、お父さんと離婚して、セスと一緒になるってことを考えたでしょうけど……わからないわね。彼とは長いつきあいだから」

「それは僕よりも――あいつのほうがいいってこと?」

 いかにも子供っぽい嫉妬と怒りの滲み出た言い方になってしまい、アンディは内心で舌打ちした。セスとソフィ、そして自分の三人になった時、自分が一番の劣位に置かれたような、居心地の悪い思いをした時のことを、何かのトラウマのように思いだす。

「そういうことじゃないのよ、アンディ」

 ソフィは自分の胸の谷間に顔を埋める恋人の髪を、さも愛しげに指で梳いて寄こす。

「あんたもわかってるかもしれないけど、誠実さという点ではね、アンディと比較したらお父さんもセスもまるで問題にならないわ。けど、あんたはまだこんなに若いんですもの。おばさんはね、こんなことであんたの自由を縛ったりしたくないのよ」

「僕は、父さんと違って浮気はしないって、何度も言ったじゃないか!」

 アンディはソフィの細い腰を抱くと、恋人と目と目のあう位置まで起き上がって言った。

「僕はソフィ以外の女の人なんか本当にどうだっていいんだ。ソフィさえそばにいてくれたら、大学なんかもどうでもいい。そのことであとから後悔するってこともないだろう。けど、ソフィがあの男の元にもう一度戻ることだけは絶対に嫌だ。そもそもソフィはあんな男のどこがいいの?作家として世間で名が知れてるから?それともセックス?もしソフィが僕よりあいつのことのほうがいいっていうんなら――」

「違うのよ、アンディ。そういうことじゃないの」

 ソフィはアンディの額や頬にキスすることで、恋人のことを優しく黙らせた。

「あんたはきっと誤解してるのよ、アンディ。わたしの中であんたよりもセスのほうが恋人として上だとか、そんなことは決してないの。事実、セスよりも人間としてはあんたのほうが遥かに立派で善良な、いい人間よ。それに男としてもあんたのほうが遥かに誠実なんですもの。ただ、わたしとセスはあんまり長く一緒にいすぎたのよ。だからセスはわたしのことを自分の一部のように感じてるし、わたしも彼に対してそうなのよ。でももし、セスとの間にある絆と、あんたとの間の絆と、どっちかを選べって言うんなら――わたしはあんたを選ぶわ、アンディ。あんたとこうなってみるまではね、おばさんにはどっちも選べなかったけど、今ではそれが出来ることに、自分でも驚いてるくらいよ」

「それは本当に――本当にそうなの、ソフィ?」

 まるで自分の今聞いた言葉を疑うように、アンディはこれまでも何度そうしたか知れない恋人の体にキスしはじめた。

「そうよ。だって、あんたはわたしにとって、もったいないくらいのいい男ですもの。若くて優しくて、わたしのためになんでもしてくれて……誓っていってもいいけど、アンディほどわたしのことを幸せにしてくれたような男は、わたしの人生になかったわ」

 それはアンディの子供時代のことも含めて、ということであったが、アンディにとってそれはどちらでも構わないことであった。ただ彼は、自分の想いという想いの丈がすべて愛する女性に届いたことを喜び、恋人のことを繰り返し愛撫しながら何度もうわ言のようにこう囁いた。

「僕の人生には、女の人はあなたがひとりいてくれさえしたら、それだけでいいんだ、ソフィ。他には何もいらないし、知る必要さえない。愛してる、ソフィ。愛してる……」

 ――そしてこのようなやりとりがあったにも関わらず、ソフィは結局のところ、その夏の終わりにアンディの元を去っていった。ベッドのナイトテーブルの上には、<アンディの幸せをいつまでも祈っています>と書かれた手紙が残されていたが、他には想い出と愛情以外、ソフィはアンディに何も残さず、ただ黙って彼の元からいなくなったのである。

 アンディは自分の心から愛する恋人が去ったと知った時、ショックを受けたし、泣きもした。ただ、夏のはじまりからこうした結末を心のどこかで予感していたということも事実ではあった。ソフィがそう感じていたように、彼もまた<こんなに素晴らしい幸福は長続きしないのではないか?>との疑念を、ずっと感じ続けていたからである。

 ソフィが去っていって暫くは、アンディは放心状態で過ごした。とはいえ、大学へ入学するために必要な準備といったようなことは機械人形か何かのように無関心に行えたし、食事のほうも死なない程度には何がしかを口の中に含み、喉の奥へ流しこむことが出来た。アンディは実際、ユトレイシアの本邸から大学へ通うということはせず、大学の近くにアパートを借りてそこから通った。それから一年くらいアルバイトもし、世間の味も少しは知る頃になると、アンディの失恋の痛手も少しは癒えはじめた。何故といって、父親と結婚する前はそれなりに働きもし、苦労の味もよく知っているソフィには色々なことがわかっていたのだろうと、彼は初めてそこで気づいたからである。

 そして彼女は決断した。「自分がこうすることが、あとになってみれば可愛い義理の息子であり恋人の、最良の選択だったということになる」と、そう信じての決断だったのだろう。アンディはその時まで思いもしなかった。もちろん、ソフィが自分より遥かに年上の大人の女性であるということは認識しているつもりではあった。けれど、彼女が<自分にとっての幸福を諦める>決断が出来たことの裏には――人生の陰の味のようなものを彼女がよく知っていればこそ出来たことなのだろうといったようには、アンディはその時まで思い及びもしなかったのである。

 アンディが大学の二年に進級した時、父バートランドとソフィの離婚が正式に成立し、彼女がセスの元へ戻ったらしいと知った時、アンディはやはり最初の打撃と同じくらいかそれ以上のショックを受けたが、そのことにもどうにか耐えた。不思議なことだったが、アンディはその離婚を機に父親が突然老け込んだような気がして、この時本邸へ戻る決心をした。無論、仕事で忙しいバートと、アンディが屋敷内で顔を合わせることはそう多くはない。奇妙なことに思われたが、この男ふたりはソフィというひとりの女性を失ったという喪失の連帯で結ばれて以来――本当の親子になったようなところがあった。アンディは息子として父親のことを何かと気にかけ、バートのほうでも生まれて初めてといっていい、父親らしい態度で息子と接するようになったのである。

 屋敷のテラスでカウチにもたれながら、ブランデーを片手に「あれは本当にいい女だった」という時、アンディにはそのことの意味が心から理解された。それで、父と酒を酌み交わしながらこう言う。「見た目が少し派手だから、人から誤解されてるけど……実際、古風な人だったよね、おばさんは」と。すると、この場合の<古風>というのがどういう意味かということを、バートのほうでもよく理解しているといったような具合だった。

 アンディは不思議と、自分よりもセスという男のほうが男として勝っているからソフィが自分の元を去っていったのだとは思わなかった。というより、彼と一緒にいると不幸な側面も多いらしいということに気づいていたし、にも関わらず彼女がいなくなったのは、やはり若い自分の自由を制限したくなかったのだろうと……アンディにはそうとしか思えなかった。そこで父親とソフィとの離婚が成立したのを契機に、アンディはそうしたソフィの気持ちを無駄にしないためにも、ようやく一年遅れで大学生活をそれこそ<若者らしく>満喫しはじめた。

 再びテニス部に所属してすぐに頭角を現し、他に文系のサークルにも所属して交友関係を広めたりもした。けれど彼が決してガールフレンドを作ろうとしないので、一時アンディのまわりでは<ゲイ説>が流れたりもしたが、アンディのほうではあまり気にしなかった。ただし、ゲイの男性に同じ性向を持っていると誤解され、一度辟易するようなことはあったにしても……。

 大学生活の四年で経営学について修めるのと同時、アンディは教師の免状も得た。その後二年大学院のほうへ進学してからは、自分が本当にやりたいこと――哲学や神学の研究に没頭して論文を書いて過ごし、卒業後アンディは、フェザーライル校の教員のひとりとして迎え入れられることになった。

 父のバートランドはアンディの下した決断に反対しなかったし、彼がどのような道を選ぼうとも最終的に自分の財産的なものはすべておまえのものだと確約してさえ寄こした。人間は失うものもあれば、得るものもある……アンディは父バートの晩年、彼が病気に倒れてのちは彼の看病含め、金のことは関係なく最後まで献身的に良く父親のことを支えた。何故といって父の財力によって自分は大人として立派に成長できたのだし、もし彼がしつこくソフィ・デイヴィスという女性に言い寄り、プロポーズしていなかったとしたら――アンディはたった今この瞬間、父に何かの感謝の念を覚えるでもなく、まるで違う人間になっていたろうと思ったからである。

 また、アンディにとってフェザーライル校の教師としての仕事は、まさく天職であった。彼はそこで生徒たちに歴史や哲学の授業をする傍ら、秋の週末などにはいつも、リース湖の別荘でひとり孤独に過ごした。そこにいると、自分の義母に対し、まだ性的な欲望など覚えず、彼女の胸に抱かれたことなどが思いだされ――懐かしく優しい、切ない気持ちに満たされたものである。

 フェザーライル校では、朝と晩の二回、礼拝堂で礼拝が行われるのだが、アンディはいつでもその礼拝堂で、自分の義母であり恋人でもあった女性の幸福を祈った。そしていつも幼子イエスを抱く聖母マリアの描かれたステンドグラスを見上げてはこう思った。自分が会えないながらもいつでも彼女のことを気にかけ、折に触れて祈っているように……おそらくソフィのほうでも自分に対し、変わらずいつも同じ気持ちでいるに違いないということを……。



 >>続く。





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