こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

嫉妬の本質。

2021年07月24日 | 日記

 

 あ、わたしには嫉妬の本質についてなんて、よくわかりませんww(^^;)

 

 ただ、昔ある作家さんの本で読んだことがありました。その方は誰かの本を読んで「面白い」と思うと、まずその著者プロフィールを見るそうです。それで、写真が掲載されていて、あまりお顔のほうがよろしくないと、「うん、容姿的には私のほうが勝ってる」と思ったり、あるいは経歴のところを見て、あまり有名でない大学出の方だったりすると――「な~んだ。△□大卒か~」などと思って安心するということでした(笑)。

 

 それで、これに類する話をコンプレックスに関する心理学の本で読んだことあったような気が……と思ったというか。つまり、テニスでもサッカーでもなんでもいいんですけど、自分が得意とする分野で抜きんでたライバルと出会った場合、その人と純粋に才能vs才能で敵わないとなったら、「だが、オレはあいつより容姿がいい」とか、「でも、ボクは成績では勝ってる!」とか、「少なくともあいつよりは女にモテる」などなど、何かしら相手に一個くらい勝てるものを心の中に見出し、それでコンプレックスの埋め合わせをする――人間というのは何かどうもそうしたものらしい、ということだったんですよね。

 

 ところで、またしてもしつこく、竹宮先生の萩尾先生に対する嫉妬の話です(^^;)。

 

 >>「美人で明るくて親切で才女」……そんな人が何故、漫画の才能のことであんなにも苦しんだのでしょうか。わたし個人の萩尾先生評は、「綺麗な方で天才で、性格的にも素晴らしい方」というものなのですが、正直、竹宮先生が「男だったら結婚したい」とまで言った気持ちというのは、すごくわかるような気がします

 

 実をいうとわたしが萩尾先生のことを『紛うことなき天才』と感じたのは、純粋に漫画作品を読んで、ではなかったりします。「思い出を切り抜くとき」という本のあとがきで、萩尾先生が次のように書いておられたからだったりします

 

 

 >>あとがき 私と他者

 

 私は対人関係の距離をうまくとることが出来ません。幼いときからそうで、まず人見知りというものをしませんでした。人見知りとは自分と他人を区別する能力で、親しい人になつき、見知らぬ人を用心するわけですが、その能力がなかなかうまく発達しなかったわけです。

 

 無用心に他者になついては、〃変な子〃と拒否されて傷つく。それで私はだんだん、どうも〃他者〃は〃私〃ではないらしいと気づき、〃他者〃とは何か考え始めるわけです。

 

 他者には他者の都合がある。気持ちがある。こだわりが、価値観がある。そして、相手を理解すればするほど、私は〃他者〃という人間から遠ざかっていきました。

 

 遠ざかると孤独になるので、やはり近づく。近づくとまた無防備になって傷つく。それで用心深くなる。ここが距離がとれないところで、無防備と用心深さの両極端をいったりきたりするのです。ブランコのように。

 

(『思い出を切りぬくとき』萩尾望都先生著/河出文庫より)

 

 

『一度きりの大泉の話」を読んでから、もう一度この文章を読むと胸が痛みますが、ここを読み、さらに解説のところでよしもとばなな先生が「あんなすごい人がこんなに気さくに自分に話してくれた」といったことを書かれているのを読んで(正確には、色々な人がそうおっしゃってるので、自分だけはそれは書くまいと思ったのに、やはり書くことになった……といった意味です・笑)、「ああ、この世界にはそんなレベルの桁違いな天才というのが本当にいるものなんだなあ……」と驚いたものでした(単に漫画という分野で素晴らしい才能があるというだけでなく、人間的にも誰からも愛される人なんだろうなあと思い、本物の天才というのはこうした人のことをいうのだろうと思ったのです)。

 

 とりあえずわたし、この時点で萩尾望都作品を読んでいたのは「残酷な神が支配する」の、現在の文庫版にして5巻くらいまでの内容だったと思います。「え?でもフツー、相手のことをそんなスゴイ天才と思ったんなら、他の作品も読もうとか思うものなんじゃないの?」と思われるかもしれません。

 

 でも、なんと言いますか……「自分とは特に関係のない天才」という方が、この世の中には結構存在してるものでして(自分比☆)。たとえば、「天才の名を欲しいままにしている作家」さんというのが、世界にはおられるものだと思います。でもわたし、大抵そうした方の△□賞を受賞した作品や、あとは代表作を2~3読めば十分満足するという、大体のところその程度の浅い人間なのです(^^;)。

 

 また、まったくなんの先入観なく、十代の頃に竹宮先生の漫画と萩尾先生の漫画を読んでいたとしたら――たぶん、好きだったのはどうも竹宮先生ぽいな……というのは、「一度きりの大泉の話」を読んでる最中にも感じていたことでした。なんていうか、萩尾先生のお話は少しとっつきにくくて難しかったり、絵的にも一目惚れするという感じではなかったんですよね、わたしの場合。。。

 

 一方、竹宮先生はもう単行本の表紙を見ただけで、一気に惹き込まれるようなカリスマ性を強く感じるわけです。ですから、萩尾先生が「竹宮先生がわたしに嫉妬?そんなことありえない」というのは、すごくわかる気がするんですよね。その上、「私は何をやっても人に負けたことはないの」と、自信たっぷりに言ったりするのを聞いていたら、なおのことそうだったろうなあ、というか。

 

 ところが、>>「美人で明るくて親切で才女」――その上、人格的にも素晴らしく、気配りの出来るいい人……と来たら、わたしなぞは「えっ?漫画の中の登場人物じゃあるまいし、そんな人二十歳くらいでほんとにおるの?」と思わず疑ってしまったくらいです(笑)。

 

 竹宮惠子SF短篇集の第1巻、「告白」の解説は、「デビルマン」や「マジンガーZ」、「キューティハニー」その他で知られる永井豪先生なのですが、永井豪先生は石ノ森章太郎先生の元でチーフアシスタントをしていた時……竹宮先生がアシスタントになりたいというのを断ったということでした。

 

 

 >>竹宮惠子とガラスの少年たち。

 

 華奢で美しく、純粋で壊れやすい、ガラスで出来たような少年たちを、竹宮惠子はデビュー以来描き続けている。

 

 小学館漫画賞を受賞した『地球へ……』や『風と木の詩』も例外ではなく、主人公たちは〃ガラスの少年〃だった。ガラスゆえに壊れやすく、傷つくことを恐れ、常に苦悩する。世の一般人にとっては当り前の状況が、ガラスの少年たちにとっては耐え難い劣悪な環境となる。友人も、時には恋人さえも、ガラスの少年たちにとっては自己を崩壊させる存在に成り得るのだ。

 

【中略】

 

 予想に反し、竹宮さんは華奢で、可憐なカンジのする美少女だった。おとなしく、もの静かな口調からは、大量のマンガを描きまくるタフなパワーは感じられず、私は「本当に同一人物だろうか?」と、不思議な感慨を抱いた。

 

 話を聞いてみると、翌年高校を卒業したら石森プロに入りたいと言う。そこで、アシスタント・チーフであった私から、仕事の状況を聞きたいようだった。

 

 私は止めた。竹宮さんは石森プロに入らないほうが良いと言った。そのとき何か、直感が働いたからだ。竹宮さんがスタッフに入ったら、竹宮さんの中の「何かが壊れてしまいそう」な気がしたからだった。その「壊れてしまいそうな何か」が「何?」であるかは、そのとき分からなかったのだが、私は当時から、そうした勘が当たるほうだったので止めたのだった。

 

「もうこれだけ描けるんだから、アシスタント経験は必要ないと思う。直接、原稿を出版社に持ち込めば、デビュー出来ると思う」とアドバイスした。

 

 私のアドバイスのせいかどうかは分からないが、竹宮さんは石森プロに入ることなく、上京間もなく、少女誌からデビューした。

 

(竹宮惠子SF短篇集1「告白」/中公文庫コミック版より)

 

 

 ガラスのように繊細な心……そのですね、もしこの時竹宮先生が石ノ森章太郎先生の元でアシスタント修行していたとしたら――萩尾先生と大泉サロンで暮らしはじめられることはなかったわけですし、そう考えると何か不思議な感じがしました。

 

 そして、このガラス細工のような繊細さ……ということについては、このSF短篇集を読んでいて、少しわかるところがあるような気もします。「一度きりの大泉の話」だけを読むと、わたしが最初にそう思ったように、竹宮先生は盗作疑惑を萩尾先生にかけたヒドイ人と感じる方は多いかもしれません。しかも、増山さんと一緒に2:1で圧をかけるなんて、なんてひどい人なのっ!キィーッ!!といったところでさえありますよね(^^;)。

 

 でも、竹宮先生的にはたぶん……盗作された自分のほうこそが深く傷ついた被害者だと、そんなふうに思っておられたのではないだろうか――どうも、竹宮先生の作品を実際に読んでみると、そう感じられる節をあちこちに感じたりもするわけです。

 

 また、竹宮先生はどうも少年や男性にしか自己投影できないところがあるらしく、自分がある程度共感して動かせるキャラクターというのが、圧倒的に少年or男性なのではないかと思います。また、普通の男女の恋愛シーンも苦手で、そのことを増山さんに指摘されてもいます。ええと、これはほんと、「風と木の詩」でいったら、ジルベールのことをジルベルト(ジルベル子?)という女の子にすればいいというだけの話なので、読者的にはすごく不思議なのです。「同じ感じで片方の男の子を女の子っぽくすればいいだけの話やんか☆」というか。ただ、竹宮先生的にはそれだと描いててさっぱり全然面白くないということらしく――ここまでのことがわかってくると、竹宮先生のことはむしろ大好きになってきます(笑)。

 

 つまり、竹宮先生はものすごい荊の道をあえて選び、そしてようやくのことで「風と木の詩」という作品に行き着いていて……そのことを思うと、その作品を批判したこと自体後悔してくるくらいですが、それはさておき、竹宮先生のガラスの心臓の話。。。

 

 竹宮先生は大学でもマンガ学部の教鞭を取っておられたくらい、社会的にも立派な方ですし、竹宮先生と関わった方は「人格的にも素晴らしい方」とか「本当にいい人」とか、評判のいい声しか聞こえてこない方のようです。でも、気が長くて人を思いやれるということは、そもそも自分にも壊されたくないガラスの心臓があればこそ、他者を思いやれる、そうした態度を取れるということでもあると思います。

 

 一方、萩尾先生もまた、このあたりはほとんど説明不要と思うのですけれど、天才であるのと同時に、ガラスのように繊細な強い感受性をお持ちの方であると思うのです。

 

<盗作>……というネガディブな言葉を聞くと、わたし的に思い浮かぶのは(というか、昔何かでそうした作品を読んだ気がする)、今でいう非リア充系女子が、リア充系女子に作品を盗作されそうになるという話。つまり、主人公の女の子は赤毛のアン的な「夢みる想像力の翼を持つ女の子」で、それ以外の実際的なことでははっきり言ってどんくさい。でも、作品を描かせるとピカ一なので、それとなく近づいてきたリア充系女子は、その子から小説を盗作しようとして図々しく部屋へあがりこんでくるわけです。主人公の女の子は気弱なので、万一盗作されたにしても、そのことを相手に言って戦えるような感じの子ではなく、泣き寝入りするしかないような感じというか。

 

 でも、王道的に少女漫画らしいラブシーンを普通に描けてしまう萩尾先生とは違って、竹宮先生には「少年しかなかった」という言い方には語弊がありますけれども(汗)、そこが竹宮先生のガラスの心臓部だったのだと思います(あくまで当時は、というか、特に当時はそうだった、という言い方をしたほうがいいのかな、と思うんですけど^^;)。

 

 これはあくまで、わたしの勝手な読者としての想像ですので、間違ってる可能性大ですが、竹宮先生は萩尾先生の『11月のギムナジウム』を読んだ時、おそらくサッと顔が青ざめるくらいショックを受けたのではないかと思うんですよね。でも、人間のよく出来た竹宮先生は、その翌日からもう萩尾先生とは口も聞かない――というのではなく、竹宮先生なりに大人の対応をしようとは思った。本音は「『11月のギムナジウム』ぐらい完璧に描かれたら何も言えませんが」でも……「少年の名はジルベール」に書かれた萩尾先生に対する嫉妬というのが、この『11月のギムナジウム』以前からあったかどうかはわからないものの、『11月のギムナジウム』を契機としてその後、雪だるま式に嫉妬が膨らんでいった――というのは、ありえそうな気がします(このあたり、増山さんが大泉の2年の間、後半1年は「ケーコたんと一緒であなたを放っていた」と言って泣いたという言葉と合わせると、時期的にも一致すると思いました)。

 

 もし、自分の大切なガラスの心臓を傷つけられるか、あるいは傷つけられそうだと感じたら、人は色々な防衛手段を講じるものだと思います。自分のガラスの心臓を傷つけてきそうな人を無視する、あるいは自分のガラスの心臓を傷つけられないよう、怒って守ろうとするか……あるいは、相手の同じガラスの心臓を、自分のそれが傷つけられたり壊される前に破壊しようとするか。

 

 このあたり、竹宮先生としては最後の最後まで萩尾先生のそれを傷つけないようにと、かなりのところ葛藤されたのではないか、といったようにも思います。でも、自分だって傷ついたのだ、そのことをどうにか相手にもわからせたい――そう思うのも、人間の心理としてものすごくよく理解出来る気がします。

 

 あ、こんなことばかり書いてると、なんだかわたし、アンチ萩尾先生みたいな感じですが(笑)、まあ、崇拝しすぎてるといつしかそれがあまりに当たり前となり、もはやそのことを表明する必要すらない……くらいのところまで、どうやらなって来るようです(^^;)

 

 再び、<嫉妬>ということに話を戻すとしますと、人には誰しも「ここでだけは負けたくない!」というフィールドというものがあって、サッカー選手の方ならサッカーで誰にも負けたくないでしょうし、テニス選手の方ならテニスにおいて誰にも負けたくない。竹宮先生の場合、それは当然マンガだった。もちろん、スポーツであれば、何対何で何点差で勝ったとか負けたとかがかなりのとこはっきりしてるわけですけど……マンガといった芸術の世界では、そのあたりは曖昧な気もしますよね。でも、竹宮先生はガラスの心臓を持ちつつ、非常に負けん気の強い方でもあり――実際、本当にそれまでの人生で誰かに「負けた」といったように感じたことがなかったのではないでしょうか。

 

 その~、わたしが萩尾先生の作品をいくつか読んでみて思ったのは、「ああ、こりゃモンブランかK2だ」といったことでした。つまり、「富士山くらいなら、十分準備をすればなんとか登頂できるだろう」といった努力の方向性で敵う方でないということなんですよね。そして、相手が「K2かモンブラン級」の天才であったにも関わらず、富士山並みの才能であろうから、どうにか頑張ればきっと登れる……と思っていたら、何やらあたりが吹雪いてきたみたいな、天才というのはたぶん、そうした多少厄介なところも持ち合わせているものなのでしょう(^^;)

 

 でも、竹宮先生も色々な方が「天才」と評しているわけですし、大切なのは、今自分が登頂しようとしている物語、創作作品の山を一生懸命登るっていうことなんでしょうね。他人がどんな山に挑んでようと関係ないし、ライバルがエベレストを登頂してようと、そんなことを考えだしたら、自分の小さな山すらうまく登れなくなってしまう……嫉妬というのは、つまりはそんな感情のことなのかもしれません。

 

 あ、例によって長くなってしまいましたが、結論として言いますと、竹宮先生はガラスの心臓を持っているのと同時、それを守りきって堅く立つことの出来る強い女性だったし、萩尾先生もガラスの心臓を傷つけられたけれど、>>「なぜなら原因は双方にあって、双方とも傷ついたからです。理解はしても、解決はできません。そういうことではないかと思います」と分析できる、非常に賢い女性だった……ということなのではないでしょうか(^^;)

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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