きみたちの未来

「私一人ぐらい…」という考えはやめよう。それを世界中の人がすれば、一発で地球はだめになる。坪田愛華ちゃんの語録から

「惜福」ということ

2006-04-24 21:45:53 | 爺さんの辻説法

 将棋の名人戦問題について、先日「吹けば飛ぶような・・・」をエントリーした。渦中の米長邦雄将棋連盟会長は、人に請われると惜福と揮毫することはよく知られている。この《惜福》の出典は、恐らく文豪・幸田露伴の『努力論』からきているようであるが、まさか永世棋聖・米長邦雄が《惜福》の真意・真髄を読み違えてはいないだろうと思うのだが・・・。

 その『努力論』で、幸田露伴は《惜福》(福を惜しむ)について、次のように論じている。
 「幸運は七度人を訪れる」という諺がある。つまり、どんな人にも幸せのチャンスは何度かやってくるという。それをこれ幸いとばかり、幸運の調子に乗って目いっぱい取り込んでしまうのが福を惜しまぬことであり、控えめに自ら抑制することが《惜福》の心なのである。福を取り尽くさず、使い果たさないことこそが《惜福》の真髄だ。

 他人が自分を信用してくれて、無担保・無利子で十万円(今なら何億円にもなる)貸してやろうというとき、その十万円を喜んで借りることはちっとも不都合ではない。しかし、ここでも《惜福》の工夫においてやや欠けたりすることがある。同じ借りるにしても、十万円全部でなく一部を借りるとか、正当な利子を払うとか、妥当な担保を提供して借りることが《惜福》なのである。つまり自由に十万円使えるという「福」を使い尽くさずに置くという心がけが《惜福》の工夫というのである。

 倹約や吝嗇(リンショク)を《惜福》と解してはならない。受け取ることができる福を、すべて取り尽くさず使い果たさず、これを天といおうか将来といおうか、目には見えない茫々(ボウボウ)たる運命にあずけておくとか、積み立てておくことを「福を惜しむ」というのである。
  幸田露伴『努力論』を読む 渡部昇一・編述「人生、報われる生き方」(三笠書房 刊)
 

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