§5 何の力によって信心を得るか?
ここまで述べてきたように、
衆生が極楽浄土に往生し、最終的に成仏するためのシステムを
阿弥陀仏が作ってくださったわけであるが、
衆生がそのシステムに乗じなければ、
その阿弥陀仏のシステムは作動することができない。(注1)
そして、このシステムの乗ずるのに必要なのが、
「信心」(=信楽、プラサーダ)であることは、
既にご存じのことであろう。(注2)
それにも関わらず、某新宗教団体のドグマでは、
本願の解釈を、
阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている
としてしまっているために、
事実上、所謂「十劫安心」を肯定してしまうことになってしまう。
(注3)
これが、どん程誤ったドグマであるかは、
これまでのツッコミを読まれた方には明かであろう。(注4)
【今日のまとめ】
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。
※それでは、私達が何の力によって信心を得るか?
これに関しては、次回詳しく述べよう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下のエピソードが、このことを端的に表しているであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送った。
阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる
(訳)
阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?
阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか!
これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうである。
阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ
(訳)
阿弥陀仏には、衆生を別け隔てするような心はないが、
蓋をしてしまった水面に月を写すことができないように、
阿弥陀仏の本願を疑い阿弥陀仏の救いを拒む人を、
阿弥陀仏は救うことができないのである!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
注2 以下の親鸞聖人の言葉を参照。
●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻
これは、「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になれば、「本願力回向の信心」を獲得するので、極楽浄土に往生することが確定するということである。
逆に言えば、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなければ、「本願力回向の信心」を獲得することができず、極楽浄土に往生することも確定しないということである。
そして、
●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』
とあるように、阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのである。
注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。
かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)より
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
注4 ツッコミ!参照
ここまで述べてきたように、
衆生が極楽浄土に往生し、最終的に成仏するためのシステムを
阿弥陀仏が作ってくださったわけであるが、
衆生がそのシステムに乗じなければ、
その阿弥陀仏のシステムは作動することができない。(注1)
そして、このシステムの乗ずるのに必要なのが、
「信心」(=信楽、プラサーダ)であることは、
既にご存じのことであろう。(注2)
それにも関わらず、某新宗教団体のドグマでは、
本願の解釈を、
阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている
としてしまっているために、
事実上、所謂「十劫安心」を肯定してしまうことになってしまう。
(注3)
これが、どん程誤ったドグマであるかは、
これまでのツッコミを読まれた方には明かであろう。(注4)
【今日のまとめ】
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。
※それでは、私達が何の力によって信心を得るか?
これに関しては、次回詳しく述べよう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下のエピソードが、このことを端的に表しているであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送った。
阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる
(訳)
阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?
阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか!
これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうである。
阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ
(訳)
阿弥陀仏には、衆生を別け隔てするような心はないが、
蓋をしてしまった水面に月を写すことができないように、
阿弥陀仏の本願を疑い阿弥陀仏の救いを拒む人を、
阿弥陀仏は救うことができないのである!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
注2 以下の親鸞聖人の言葉を参照。
●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻
これは、「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になれば、「本願力回向の信心」を獲得するので、極楽浄土に往生することが確定するということである。
逆に言えば、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなければ、「本願力回向の信心」を獲得することができず、極楽浄土に往生することも確定しないということである。
そして、
●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』
とあるように、阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのである。
注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。
かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)より
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
注4 ツッコミ!参照