やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命

2009-10-09 15:15:59 | 教義
§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命


ここで、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、如何なる意味があるか
を解説しておこう。(注1)

「南無阿弥陀仏」の六字の意味を、はじめて明かにしたのは善導大師で、
以下のように解釈しておられる。(注2)(注3)


★「南無」  →「帰命」
       →「発願回向」
★「阿弥陀仏」→「即是其行」



これを、親鸞聖人は『教行信証』で次のように解釈しておられる。
(注4)

★「帰命」  →「本願招喚の勅命」
★「発願回向」→「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」
★「即是其行」→「選択本願」

ここでポイントになるのは、

この『教行信証』の解釈が、「南無阿弥陀仏」の中身である、
「帰命」も「発願回向」も「即是」も、
その主語が全部【阿弥陀仏が】になっているということである。


★「本願招喚の勅命」とは、【阿弥陀仏が】私に、
「ワシを信じるのだ!」と命令しているということである。

私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するためのシステムは、
【阿弥陀仏が】既に完成させてくださっていて、
あとは私がそれを信じてシステムに乗ずるだけの段階になっている。

だから、【阿弥陀仏が】、
「私を信じて、このシステムに飛び込んで来なさい!!」
と「招き」「喚んで」「命令」しておられるのである。


★「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」とは、
私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するための「働き」である、
「行」というものが、全部【阿弥陀仏が】与えてくださったものである。
ということである。

【阿弥陀仏が】作ってくれた「働き」が、
私の所に届くことによって、私は極楽浄土に往生することができる。
しかし、それが届かなかったら、往生することはでけない。

だから、【阿弥陀仏が】、
なんとかしてその「働き」を私に与えようとしているというのが、
この「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」なのである。


★「選択本願」というのは、
私を極楽浄土に往生させて成仏させるために、
【阿弥陀仏が】与えてくださった「働き」が、
他の誰でもなく、【阿弥陀仏が】自ら選びとってくださったもので(「選択」)、
【阿弥陀仏が】過去に誓った誓願を実現されて完成された(「本願」)ものである。
ということである。



このように、「南無阿弥陀仏」というものは、
私のような衆生の勝手な計らいでなされたものじゃなくて、

★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】で、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】で、

★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】なのである。

このように「南無阿弥陀仏」は、全て【阿弥陀仏が】作ったものなので、

「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」に、
私のようなものを極楽浄土に往生させて、最終的に成仏までさせるような、
人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっているのである。(注5)



だから、【阿弥陀仏が】作った、この「南無阿弥陀仏」の「名号」を、【衆生が】「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)するということが、

即ち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる、
「信心」を【衆生が】獲得するということになるのである。(注6)



このことは、『尊号真像銘文』における解釈を読むと更によくわかる。
解説が長くなるので次回に述べよう。


【今日のまとめ】
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」という【勅命】、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
★「私が選択して完成させたシステムだから間違いない!!」という【選択本願】、
として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、私が「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
  【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

※来週も大切やから、見逃しちゃダメよ!!

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注1 このことは、「六字釈義」として所謂「安心論題」でも取り扱われている。

浄土真宗教学の「伝統」として蓄積されたものであり、非常によくまとまっているので、以下に参考までに挙げておく。

~~以下引用~~
六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。
ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう)の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生」(玄義分)文「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。
「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。
~~以上引用~~


注2 『観経疏』玄義分

●いまこの観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行ありて具足す。
いかんが具足する。南無といふは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

注3 この部分の解釈に関しては、以下の記述に問題はない。

~~以下『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~

この尊高無比の名号、尊号、嘉号を善導大師は
『南無というは帰命、亦是、発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり』と教えて、南無とはタノム機の方であり、阿弥陀佛とは助くる法の方である。
タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国佛教の全盛時代であった。
当時、有名な天台、嘉祥淨影等の諸大師が競うて『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。
所謂、淨影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。
これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。
何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。
然るに、この下々品の人間は無善造悪で、業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
南無は帰命、帰命とは身命をなげ出して佛にお願いすることだから南無阿弥陀佛ということは阿弥陀佛さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。
唯願無行だ。
だから十念の称名念佛は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。
今はただ遠生の結縁になるだけである。
にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。
別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大朱論』の中に、佛の説法に四悪趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法に仕方である。
諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと云えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。
それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近づかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。
だから南無阿弥陀佛だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮かぶ縁になるということである。
しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなく、それ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解をケ゛キ破する為に「今、我が延ぶるところ、佛の願意に叶いませば夢中に霊相を示し玉え」と日々、阿弥陀経を誦すること三遍、念佛三万遍相続され十方諸佛に証明を乞われたという。
かくて夜毎に化佛来りて一々佛に指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して
「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀佛の目的でないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、佛の慈悲は苦なるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。
しかもその南無阿弥陀佛の名号は諸師の言われるような唯願無行では絶対にない。何故なら、南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは即ち是その行なり、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえて有るから必ず往生が出来るのだ。
願行具足といっても凡夫が願を起し、凡夫が行を修して行くのなら、凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に佛の世界に、行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
大信海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。
~~以上『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~


注4 『教行信証』行巻

●ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

(訳)
こういうわけで「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願による勅命なのである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って久遠の昔に、衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる心を言うのである。
「即是其行」とは、阿弥陀仏が発願し回向されたその行が、選択本願による行であることを表している。


注5 詳しくは§6で述べた通りである。

また『無量寿経』巻下東方偈には、以下の記述がある。

●その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。


注6 これに関しては§7で詳しく述べた。