やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§6 「名号」と「光明」

2009-10-09 15:16:54 | 教義
§6 「名号」と「光明」


前回の続き。


 私達が何の力によって信心を得るか?

「名号」が因、「光明」が縁となって、私達は阿弥陀仏の本願に対する「信心」が獲られる。
 これも私逹を救うために、阿弥陀仏が作ってくださったシステムであることは、言うまでもない。(注1)

 阿弥陀仏によって与えられる「信心」は、阿弥陀仏が作った名号(至徳の尊号)を「体」としている。(注2)

 そして、「南無阿弥陀仏」という「名号」は、「悪を転じて徳を成す正智」そのもので、(注3)
 広大な海に喩えられるぐらい、ありとあらゆる善根功徳が詰め込まれてるから、それを受け取って「信ずる」人になれば、阿弥陀仏のシステムに乗じて、絶対に生死を繰り返す輪廻の世界にはとどまらないのである。(注4)


だから、

★「信心(=信楽、プラサーダ)を得た!」

ということは即ち、

★「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」

ということになるのである。(注5)


 しかし、阿弥陀仏が「名号」を完成させてくれたからと言って、この「私」が、その「名号」を受け取らなければ、「信心」とはならないし、
 したがって阿弥陀仏の作ってくれたシステムも作動しないということは、本願の解釈を間違って「十劫安心」のような信心に陥っている(?)、(注6)「あの」高●氏でも言っておられることである。(注7)


 繰り返すが、私達が、信心の体である「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は、「光明」でもって働きかけてくれてるが、
 私達が「名号」を受け取って、「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。(注8)

 ほっといても「信心」が得られるならば、何のために「聴聞」するかわからなくなってしまう。(注9)



【今日のまとめ】

1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。

2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。

3、「名号」を受け取らなかければ「信心」とはならない。

4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。

5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


※次回は、「聴聞」についてである。


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注1 詳しくは、以下の解説参照。


「信楽の身」になるための働きより

清森問答 質疑応答138 コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』【四・光明名号因縁の事】(p.685)に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。


しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。



清森問答 質疑応答139 コメント覧より


B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。


●光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号摂化十方但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。
「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。
しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


注2 以下の記述に基づく。

●如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無礙・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心を以て、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻施したまえり。
すなわちこれ利他の真心をあらわすが故に、疑蓋まじわること無し。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体と為せるなり。
『教行信証』信巻


注3 以下の資料に基づく。

●円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なり。『教行信証』総序


注4 以下の資料に基づく。

●『浄土論』にいはく、「観仏本願力遇無空過者能令速満足功徳大宝海」とのたまへり。
この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。
「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よしといふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつといふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。
『一念多念証文』


注5 以下の資料に基づく。

●それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。
しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。
このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
『御文章』5帖13通


注6 前回の§5参照。


注7 以下参照。


真宗の骨格

 阿弥陀佛によって完成された南無阿弥陀佛の名号には一切衆生の苦悩を抜き、無上の安楽を与える働きがあることは、すでに述べて来た通りであるが、これは、丁度肉体の病苦を癒し健康の慶びを与えてくれる良薬のようなものであるから、法然上人も、この阿弥陀佛の名号を妙薬に喩えわが親鸞聖人もまた、「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅す」と弥陀の尊号を良薬に喩えていわれるのはまことに適切な譬喩といわねばならぬ。
 このように味ってみれば薬の調合はすでに了ったわけである。今や正しく病人がこの薬を呑む場合に臨んでいる。浄土真宗、親鸞聖人の御教では、六字が阿弥陀佛の手元にある時は、名号といい、その名号が吾々の心中に与えられ佛心と凡心が一体となったところを信心といい、六字が口に声となって称えられた時は、有難うございましたという佛恩報謝の念佛というのが定判である。
 蓮如上人は、これを
「この佛心(名号)を凡夫の方に授けましますとき信心とは名づくるなり」
「されば南無阿弥陀佛と称ふる心は如何ぞなれば、阿弥陀如来の御助ありつることの有難さ尊さよと思ひて、それを慶び申すこころなり」
と教えていられるのでも明らかである。薬はいくら完成されていても、また如何にそも薬に特効があろうとも吾々が呑まなければ、何んにもならないように、十劫の昔から名号は成就していても吾々が受け取らなければ、何んにもならない。
誠に呑む人がなければ折角調合せられた薬も、その甲斐がない。単に甲斐がないというよりも薬そのものの存在意義がないからである。吾々がこの名号、大功徳を受けとらねば弥陀の五劫の思惟も永劫の苦行も水泡に帰し名号は画餅に等しくなってしまう。
 故に、如来が我々凡夫にこの大功徳宝を与えてやりたいとの真心を名号の南無の二字にこめてあるからこれを発願廻向という。
『証文』には
「廻向は本願の名号をもって十方衆生にあたへたまう御のりなり」
と説き、蓮如上人は御文章三帖八通に
「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに与へんが為に廻向成就したまいて」、
とあるように阿弥陀佛の本願は成就完成した名号を一切衆生に与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのである。吾々がこの弥陀の本願を聞信し名号を受領し佛凡一体となった時を信心決定というので、この時に名号大功徳が我ものとなり佛智全領するから破闇満願、抜苦与楽に救われるのである。
 故にいくら名号が成就されていても吾々が受け取って吾らの信心とならねば救われない。真宗は信心正因であって名号正因といわないのは、その為である。『正信偈』に「本願名号正定業」とは仰有ってあるが如来の手元にある名号では吾々は救われないから正因とはいわれないのだ。
 吾々が名号を受けとれば破闇満願、抜苦与楽の力有のあることを正定之業といわれたのだが受け取らずに向うに眺めているだけでは、出来上がった話をきいているだけでは、出来上った話をきいているだけでは、救われないから正因とはいわれないのである。
 御馳走が出来ていても食べねば、腹はふくれません。
 御飯の室に入っていても食べねば餓死します。
 御馳走は名号であり食べて満腹したのが信心である。
 隣にどんな美人が居ても結婚するまでは関係がない。
 結婚するまでは隣の娘といい、一緒になれば妻と変るように、娘は名号であり、妻となったのが信心である。
 故に信心獲得したか、どうかが真宗の眼目であり肝要なのだ。
これを蓮如上人は、御文章のいたるところに強調なされているが、二帖二通には
「開山聖人の御一流には、それ信心ということをもって先とせられたり。この信心を獲得せずば極楽には、往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」
とか二帖、三通には
「然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり、これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」
とか、五帖十一通には
「当流には信心の方をもって先とせられたる。その故をよく知らずば徒事なり」
等、とあるは、このことである。
『法事讃』上に有名な「謗法闡提廻心皆往」とあるのは、廻心されたものは謗法も闡提もみな救われるが廻心されねば必堕無間なのだ。廻心されたかどうか、名号を受けとったかどうかが皆往となるか必堕となるかの分岐点となるのだ。
 にもかかわらず、真宗の布教師の中には「囮事の一声自己を識得す」という禅宗の言葉で真宗の信心を語る者があるが、これは絶対間違いである。
 囮事の一声とは、たとえば、お婆さんが財布を自分が持ちながら忘れて財布を探している時「あんたの手にもっているじゃないか」と注意されて「ハー」と気のついた時発する声であるが真宗の信心も丁度このように吾々にはもとより助かっているのだがそれを知らないだけで迷うているのだから、それを知ったのが信心だというのである。
 こんな説教が実に多いが十劫安心の親玉である。
 これは「本来もっていたものに自覚する」という考え方が基礎になっているから、真宗の絶対他力廻向の弥陀の本願に反する邪義である。
 親鸞聖人は「教行信証」信巻に
「真実信心は、我ら凡夫には本来法爾として所有していないから如来が円成して我ら煩悩悪業邪智の心中に廻施して下さるものだ」
と述べ、いたるところに「真実信心をうる」とか、「獲得すれば」とか、「和讃」には、
「真実報土の正因を二尊のみことにたまわりて」
とか、あくまでも如来よりたまわる信心であることを明示され、覚如上人も
「三経の中に観経の至誠心、深心等の三心をば凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め大経所説の至心、信楽欲生等の三心をば他力よりさずけらるるところの佛智とわけられたり」
と邪義のつけいる余地のない明説がなされているのだから充分注意せねばならない。(『会報』vol.2pp.64-68)


注8 これに関しては、§5で詳しく述べた通りである。


注9 これに関しては、次回詳しく述べる予定である。