やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§16 所謂「三願転入」について

2009-10-09 15:14:15 | 教義
§16 所謂「三願転入」について


前回、「信前の念仏」を親鸞聖人も勧めておられることを証明したが、

親鸞聖人は「三願転入」をお説きになっておられるから、
「信前の念仏」は二十願のプロセスの人に説かれたもので、
十九願のプロセスにある人には「諸行」が勧められている。

と反論される方も、おられるだろう。(注1)

そのような方のために、所謂「三願転入」について触れておこう。


そのような主張をされる方は、親鸞聖人が『教行信証』化土巻で、
「以下の道程を歩まれている」とお話されていることを、根拠にしておられる。(注2)

1)【万行諸善の仮門】を出て、【双樹林下の往生】から離れた。
2)【善本徳本の真門】に入って、【難思往生】を願う心を起こした。
3)【選択本願の大海】に転入して、【難思議往生】を遂げようと欲する。

そして、1)2)3)が、
本願で言うと、それぞれ十九願・二十願・十八願に対
応して、
浄土三部経で言うと、それぞれ
『観経』『阿弥陀経』『大無量寿経』に対応するから、

[三願][三経][三門]
[三往生]
1)万行諸善=十九願=観経=要門→双樹林下の往生
2)善本徳本=二十願=小経=真門→難思往生
3)選択本願の大海=十八願=大経=弘願門→難思議往生

こういう構造になって、

「とりあえず1)からスタートしなければならない!」

ということで、

「お金を持ってきなさい!ただ働きしなさい!
 お友達を連れてきなさい!サークルを作って学生を誘いなさい!
 アニメを売りなさい!」

という「善(?)」に励んでいるわけである。(注3)

 さて、このような「活動」が、「万行諸善」と言えるかとりあえず置いておいて、
(私は、言えないと思うが。。)


 これが、親鸞聖人の「体験告白」であって、
親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。
ということは、まず踏まえておかなければならない。
(注4)(注5)


【今日のまとめ】
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。


 とりあえず、今日はここまで確認しておいて、話が長くなるので、続きは次回に述べる。

★「仏が衆生に何を求めているか?」が、次回のポイントである。


注1 例えば以下のような解説をしている「文化」に属する皆様が、このような反論をするのではないかと思われる。

以下引用

高森顕徹著『こんなことが知りたい』vol.4pp.106-110

二〇 三願転入とはどんなことか

問 三願転入と、よくききますが、三願転入とは、どんなことでしょうか。

答 大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。
その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
十八願は、卒直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
ところが、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私達を、絶対の幸福にまで導くことは大変で、種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、その為に誓われたものです。
十九願には、「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、どうしたら平和な安楽な世界に生まれることが出来るのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、その力で我国(浄土)に生まれたいと願う者は、臨終に諸仏菩薩にとりまかれて迎えにゆこう」
と、約束なされています。
因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。
知っただけでは観念の遊戯に終わり、実行しなければ善果は得られない、と真面目に全力尽してやってみると、悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて泣かざるを得ません。
二十願はそんな人に誓われた弥陀のお約束です。
「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、念仏を称え、その功徳の力で、我国(浄土)に生まれたいと願う者は、必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。
そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、つとめればつとめる程、散乱粗動の心ばかりが見えて来て、こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、と不安な心が出て来ます。
また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、功徳にならぬように思えるので、悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、見えて来るのは悪ばかり。
励めば励むだけ、乱れる心はやまず、悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、こんな者でも死んだらお助け、と安心し喜ぼうとしますが、助かっていないから喜ばれる筈がありません。
法の尊さに感激した時は、助かるようにも思いますが、悪性が現れると、こんあことでは助からんのではなかろうかと、堕ちるような気がする。
念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、参ってみたり堕ちてみたり、つねに不安動乱がやまないのです。
十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。
後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私達の本性です。
親鸞聖人は、逆謗の屍といわれました。
この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、命を投げ出すとお約束なされているのが弥陀の十八の誓願です。
こうまできかされても、聞き切らぬ渋太い私であったのかと照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。
一切の助かる望みが切れた時と、大慈悲心が徹到した時とは同時で、まことなるかな、弥陀の本願、己れ忘れて踊り上がり、ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き出るお念仏を仏恩報尽の念仏というのです。
無辺の智恵と、無限の慈悲を体得しますから、底の知れない懺悔、高さの知れない
歓喜、広さの知れない苦悩の晴れた味に、遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。
この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を
通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
その体験を三願転入というのです。

以上引用


注2『教行信証』化土巻より

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を?うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。


(苦笑ちゃん訳)
 このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩のような論主の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師のような祖師方の教えを受けることによって、久しくさまざまな行や諸善を修行する方便の要門【万行諸善の仮門】を出て、永く【双樹林下の往生】から離れた。

 そして、自力の念仏の功徳を積む方便の真門【善本徳本の真門】に入って、ひとすじに【難思往生】を願う心を起こした。

 しかしいまや、その方便の真門からも出て、【選択本願の大海】に転入した。速やかに難思往生を願う心を離れて、【難思議往生】を遂げようと欲するのである。

 阿弥陀仏が、必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をお立てになったのは、まことに意義深いことである。

 ここに久しく、阿弥陀仏の本願の海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い御恩に報い感謝するために、真宗の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称えるのである。いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。


注3 某巨大掲示板に、注1で紹介した「文化」の主張を端的にまとめた記述が掲載されていたが、非常に的を得ているのではないかと思う。

以下引用

400:神も仏も名無しさん:2009/03/11(水)20:58:36
ID:d3pLMFdy
親鸞会で言う「善」の基準ってなんだろうか?
彼らの主張によれば「極楽に行くための縁、手がかりになるもの」ということらしいが

・「阿弥陀仏は全人類を極楽に往生させるために18願をたてられた」
      ↓
・「18願まで導くための方便として19、20願を建立した」
      ↓
・「19願のこころを釈尊は一切経において廃悪修善として教えられた」
      ↓
・「廃悪修善を六度万行として要約された」
      ↓
・「六度万行の第一が布施である」
      ↓
・「布施とは、財施・法施である」
      ↓
・「財施とは真実の仏法、善知識のためにお金や労働力を提供することである。法施とは真実の仏法を人々に伝えることである」
      ↓
・「真実の仏法は親鸞会でしか教えていない。よって親鸞会にお金や労働力を提供し、親鸞会に多くの人を勧誘しなければならない」

 結局、お金を持ってきなさい、ただ働きしなさい、お友達を連れてきなさい、サークルを作って学生を誘いなさい、アニメを売りなさい、それが「善」ですよ、ということ。

以上引用


注4 投稿文・三願転入「しなければ」助からないという、言い方の影響を考える参照

以下引用

■三願転入の御文は、親鸞聖人の「体験告白」

親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏に救われた体験告白をされたのが、三願転入の御文です。
三願転入の御文は、親鸞聖人の教行信証全6巻の化土巻に書かれているものです。

「ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)」

最初に「愚禿釈の鸞」とありますから、間違いなく「親鸞は」という、親鸞聖人ご自身の体験告白文です。親鸞聖人ご自身は、自身の救われた具体的な体験告白というものはほとんどされていません。ご自身の名前を出して「このようにして弥陀に救われた」と告白されている部分は、これ以外には

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)」

の他にはありません。

■「体験告白」は重視されなかった親鸞聖人

このことから分かることは、親鸞聖人ご自身が、救われた人の具体的な体験を書くことを重要視されていなかったと言うことです。「このようにして救われた」と書くと、それは「救われる方法」ということになり、「このようにすれば救われる」と聞く人が多いからです。

親鸞聖人の書かれた浄土真宗の根本聖典である教行信証は、阿弥陀仏の教、阿弥陀仏の行、阿弥陀仏の信、阿弥陀仏の証について書かれたものです。「私たちの」教・行・信・証を書かれたものではありません。
親鸞聖人がもっとも力を入れて書かれたのは、教行信証の信巻です、その信巻とは、阿弥陀仏の本願に誓われた信心について書かれている者です。ですから、浄土真宗は「信心為本」の教えと言われ、阿弥陀仏から賜る信心一つで救われる教えです。

親鸞聖人の教えを、そのまま伝えられた蓮如上人は、親鸞聖人の教えについて、「聖人一流の章」では、一言で

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流)」

と言われています。

阿弥陀仏から賜る他力の信心一つで救われるのが浄土真宗ですから、「私がこうしたから助かる」という言い方はできません。個人的な体験談を語るということは、聞いた人が、「私がこうしたら助かる」という方法(自力の行で助かる)があるように思ってしまうからです。

ご自身の体験談を書かれた「三願転入の御文」が、教行信証の化土巻末に書かれているのはそのためです。
ことさら重要視されていなかったことは明確です。覚如上人や、蓮如上人が、ご自身が「このようにして救われた」という体験談を書かれなかったのも、自身の体験談を語ることの危険性を考えられた上でのことです。

「三願転入の御文」は体験談である以上、このような道を通って救われたとは書かれていますが、救われた後振り返って「すべて阿弥陀仏の願力の働きによって救われたのであって、自分の教、行、信、証は一つもなかった」ということを書かれたものです。

■三願転入「しなければ」救われない?

そのように書かれている三願転入の御文であっても、真実信心を獲得していない人にことさら強調して説けばどうなるでしょうか。まして三願転入「しなければ」救われないと言えば聞いた人はどう思うでしょうか?

『「三願転入の御文」にあるように私が行動しないと救われない』としか思えなくなるでしょう。
ここで大事なのは、三願とは、「阿弥陀仏の」18願、19願、20願の三願ですから、「阿弥陀仏の三願」の願力によって救われたと親鸞聖人が告白されているのであって、「親鸞が」こうして、こうして、こうなったから救われたと言われているのではないということです。

三願転入「しなければ」と聞けば、「私が」三願転入の御文の通りに行動しなければと大半の人が思うのではないでしょうか。
親鸞聖人が三願転入の御文で、告白されたのは、「阿弥陀仏の願力によって三願転入させられたから、現在弥陀に救われる事ができたのだ」と、救われた後振り返って知らされたことを、阿弥陀仏の願力からいわれたものです。ということは、阿弥陀仏に救われるまでは、阿弥陀仏の18願の願心も、19願の願力も、20願の果遂の誓いもハッキリ分かるものではないということです。

三願転入の御文の最後に言われているのはそのことです。

「選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻・三願転入の御文)」

阿弥陀仏の18願の救いに一念で救われ、20願の往生の心を離れて、18願で誓われた報土往生を死ねば遂げる身になることができました。18願の世界に必ず出させてみせるという果遂の誓い(20願)は本当であった、といわれています。
18願の救いに救われて、20願は本当であったと振り返って言われいるのであって、救われる前に、自分は19願の願力に引っ張られているとか、20願の願力に引っ張られていると明確に分かるものではありません。

まして、「自分で」19願の行をして、20願の念仏を称えたから出られたとは言われていないのが、親鸞聖人の三願転入の体験告白なのです。

すべて阿弥陀仏の働きによって救われるのでありますから、「私が」三願転入(でいわれようなことを実行)しなければ助からないと思うのは間違いです。
??以上引用??


注5 近年は、親●会も個人の「体験告白」を「教え」として語ってはいけない教義にシフトしている。

清森問答質疑応答162より

機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。