やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§4 「信楽」と「正定聚」の関係

2009-10-09 15:17:26 | 教義
§4 「信楽」と「正定聚」の関係


阿弥陀仏の本願に対して「信楽」を得た瞬間に、「正定聚」になることを、「不体失往生」と言うわけであるが、

★「信楽」・・阿弥陀仏の本願に対する信心
★「正定聚」・・完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地

ということは、仏教の常識として知っておく必要がある。(注1)


この二つは、因果関係にあって密接に関係しているが、(注2)
この二つをイコールにしてしまうと、
これまでツッコミを入れてきた某浄土真宗系新興宗教のドグマのように、
いろいろな問題が発生してしまうことになる。(注3)


なお、「信楽」は「プラサーダ」であって、
「バクティ」や「思考停止」でないことも、
キッチリ理解しておかなければならない。(注4)

極楽浄土に往生することを願うのであれば、
「バクティ」や「思考停止」ではなくて、
「プラサーダ」を目指さなければならない。



【今日のまとめ】

1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 サンスクリット文『無量寿経』願成就文には、

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
          ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられているが、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

これは、『無量寿如来会』の願成就文も共通である。


●『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

★信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

★即得往生住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと



注2 親鸞聖人の言葉に基づいた、以下の解説がわかりやすい。


~~~以下引用~~~
656:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:13:05
ID:eu09B6u2
>>653の続き

 しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
 つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
 それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」という同義語反復になってしまいます。
 ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。


658:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:28:21
ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願前念命終
 即得往生後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。
~~~以上引用~~~

 また、「信受本願」「即得往生住不退転」「若不生者不取正覚」を図にすると、以下のようになる。

 1)      2)                3)
 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    ↑         ↑              ↑
 「信受本願」   「即得往生、住不退転」     「若不生者不取正覚」
   =前念(因)        =後念(果)


なお、

●しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

とあるように、1)と2)は「即のとき」というように、時間を介在しないから同時であるが、明確に因果関係にあるので、これをイコールにすることはできない。



注3 更に詳しくは以下を参照。

参照 「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
参照 ちび●墓穴!(再掲)
参照 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)
参照 「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!
(再掲)


注4 「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いは以下の通り。


【プラサーダ】

 仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からプラサーダと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。
 従ってちょうどプラサーダに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。
(中村元『東洋人の思惟方法』第一部p.189)


【バクティ】
 後代のヒンドゥー教信仰において、シュラッダーに代わって最重要の概念となるものはバクティである。√bhajという語根に由来するこの語の原義は、分割あるいは参与である。それがいわば最高神への参入という意味に転じ、結局、最高神に対する真摯熱烈な絶対帰依としての信仰・崇拝を指す語として、シヴァ教、ヴィシュヌ教諸派の間で近代に至るまで弘く用いられるようになっていったのである。
 バクティはつねに人格神に対する熱烈な情愛を伴うものであり、その点でインドの他の信仰形態と趣を異にしている。人間が最終的解脱に至る最重要の及至は唯一の道がバクティであると考えられることが多く、その意味でバクティこそヒンドゥー教信仰のかなめであるということができる。
(『岩波哲学・思想辞典』pp.815-816「信仰」)


【参考思考停止】

●意味
 考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。
「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

●使われる場面
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。
(「参考思考停止とは」はてなダイアリーより)


注5

●世親菩薩『倶舎論』
SraddhAcetasaHprasAdaH.(AKBh55,6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

●梵文『無量寿経』願成就文

ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、プラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

とあるように、仏教における「信」は「プラサーダ」であり、極楽浄土に往生することを願う人が起こすべき心も「プラサーダ」である。
「プラサーダ」(浄らかな信)は、「しずめる」「浄化する」
「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sad
から作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであり、「バクティ」とも「思考停止」とも、全く異なるものである。
 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」じゃなくて「プラサーダ」を目指さなければならない。