やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

2009-10-09 15:13:21 | 教義
§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~
という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。

       ↓↓↓

116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、
危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)より)



【今日のまとめ】

1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。

2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。

3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。

4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。


※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

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注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
 譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
 明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
 水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
 かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
 目に即して見つべし。千差万別なり。
 何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
 隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
 随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
 これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
 汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
 然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
 すなわち汝が求むる所に非ず。
 汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
 また我求める所に非ず。
 この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
 行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
 凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
 もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
 少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。



注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」
(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、
『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。

一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。


 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。
そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)


※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

●聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
 『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、私達を導くために示してくださった、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
これらに依存して他の説を蔑視し、
自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

かれは過った妄見を以てみたされ、
驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

自分の道を堅くたもって論じているが、
ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の哲学的断定を捨てたならば、
人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
―かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
とわたしは説く。
この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)