§21 ラストまとめ
【浄土真宗の基本的システムに関する話】
§1「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。
§2極楽浄土に生まれるためのシステム
1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。
§3阿弥陀仏の救いは平生から
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。
§4「信楽」と「正定聚」の関係
1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。
§5何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」
(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。
§6「名号」と「光明」
1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。
【浄土真宗の「聴聞」に関する話】
§7聴聞(何を「聞く」のか?)
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。
§8なかなか信心獲得できない人のために・・
1、なかなか「信心」を得られない人も、
時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
4、それができなくなるような教えを説く、
自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。
【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】
§9南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。
§10南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ
1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
として解釈されている。
2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。
補講
Q&A(3)
「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」
《善導大師》 《親鸞聖人》
『観経疏』 『教行信証』 『尊号真像銘文』
【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】 【衆生の立場】
南無 ──「帰命」 → 本願招喚の勅命 ── 勅命にしたがひて召しにかなふ
│
└ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
回施したまふの心 安楽浄土に生れんとねがう
阿弥陀仏─「即是其行」→ 選択本願 ── 安養浄土(へ往生すること)の
正定の業因
§11浄土真宗の「信心」(二種深信)
1、様々な「信心」の中でも特別な、
「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、二つの角度から明らかにしたものである。
3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。
§12「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。
§13「異安心」(2)「異安心」のサンプル
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。
【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】
§14「信心」と「念仏」
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。
§15所謂「信前の念仏」について
1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」
という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。
【「三願転入」の位置づけに関する話】
§16所謂「三願転入」について
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。
§17阿弥陀仏の本願の行
1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
それができなくなるような環境からは脱出すべきである。
§18阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
セーフティーとして立てられたのが十九願である。
2、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになる。
3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。
§19『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
というのが本音である。
3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。
補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」
というのは、間違い。
2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。
【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】
§20「浄土門以外の教え」の位置づけ
1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
2、それを否定するのは、
法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。
【浄土真宗の基本的システムに関する話】
§1「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。
§2極楽浄土に生まれるためのシステム
1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。
§3阿弥陀仏の救いは平生から
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。
§4「信楽」と「正定聚」の関係
1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。
§5何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」
(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。
§6「名号」と「光明」
1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。
【浄土真宗の「聴聞」に関する話】
§7聴聞(何を「聞く」のか?)
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。
§8なかなか信心獲得できない人のために・・
1、なかなか「信心」を得られない人も、
時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
4、それができなくなるような教えを説く、
自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。
【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】
§9南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。
§10南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ
1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
として解釈されている。
2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。
補講
Q&A(3)
「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」
《善導大師》 《親鸞聖人》
『観経疏』 『教行信証』 『尊号真像銘文』
【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】 【衆生の立場】
南無 ──「帰命」 → 本願招喚の勅命 ── 勅命にしたがひて召しにかなふ
│
└ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
回施したまふの心 安楽浄土に生れんとねがう
阿弥陀仏─「即是其行」→ 選択本願 ── 安養浄土(へ往生すること)の
正定の業因
§11浄土真宗の「信心」(二種深信)
1、様々な「信心」の中でも特別な、
「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、二つの角度から明らかにしたものである。
3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。
§12「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。
§13「異安心」(2)「異安心」のサンプル
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。
【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】
§14「信心」と「念仏」
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。
§15所謂「信前の念仏」について
1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」
という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。
【「三願転入」の位置づけに関する話】
§16所謂「三願転入」について
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。
§17阿弥陀仏の本願の行
1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
それができなくなるような環境からは脱出すべきである。
§18阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
セーフティーとして立てられたのが十九願である。
2、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになる。
3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。
§19『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
というのが本音である。
3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。
補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」
というのは、間違い。
2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。
【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】
§20「浄土門以外の教え」の位置づけ
1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
2、それを否定するのは、
法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。