やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

2009-10-09 15:13:49 | 教義
§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義


※原稿を読んでくれたダチ(元親●会講師)との質疑応答形式になってます。


【ダチ】

 19願とか修善は方便なのだから、対機なのであって、すべての人に勧められたとは思わないのですが、少なくとも必要な人に対しては、修善の勧めがあったわけで、それは否定されるべきものなのでしょうか?(苦笑さんが否定しているという意味ではなくて、一般論的にどうなんでしょう)

 つまり、19願の教えが必要な機に対して、そこで知らされるべきものを、まだ得ていない人に対しても、「一刻も早くそこから出るべき」と言えるのかどうかが疑問です。

 「一刻も早く出ろ」と言っても出られない機だから、方便としての修善が勧められているのであって、そういう機に対しては、修善を勧めることが結果的に「一刻も早くそこから出よ」と言うことになると思うのですが、どう思われますか?



【苦笑】

いい質問ですね。

「修善をしなきゃアカン!」という人に対して・・

★阿弥陀仏が修善を勧めた。

ということじゃなくて、

★その人がシステムから外れないように、
 セーフティーネットとして、十九願を立てた。

ということがポイントになると思います。


「修善をしなきゃアカン!」というのは、カス野郎な自分の力が、
極楽浄土に往生するのに何か役立つかのように思う「自力」の心であり、
こんなものがいくらあって頑張っても、
極楽浄土に往生することには役にも立ちません。

それでも、そういう人もいずれそういう思いからリタイヤして、
十八願の世界に入るようにセーフティーをかけているのが、
十九願の意義ということになります。(注1)

これは阿弥陀仏の仕事であって、浄土門の教えを説く人の仕事ではありません。


したがって、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになりますので、
法然上人や親鸞聖人の流れを汲む浄土門の教えとしてはアウトです。(注2)

ましてや、どっかの親●会のように、
「極楽浄土への往生」目的でもなく、
「信心決定」目的で「諸善」を勧めちゃうのは、
「諸行往生」にすらならない、完全にセーフティーのかからない、
「ヘンテコドグマ」ということになりますね(苦笑)。(注3)

ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
極楽浄土に往生する目的ではなく、この世で成仏する目的で諸善を勧め、
そこからリタイヤして、「極楽浄土に往生しよう」と思ってもらう。
というのは「あり」です。(注4)


あと、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」生きる努力をするものですから、
できる限り頑張ってしたらいいと思いますし、(注5)

阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことですが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰ってませんね。(注6)



【今日のまとめ】
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
  阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
  セーフティーとして立てられたのが十九願である。

2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
  極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
  阿弥陀仏の本願を無視することになる。

3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。

4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。

5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。

6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。


※次回は、「『教行信証』化身土巻の内容はプロセスだからやらなきゃダメ!」
という考え方について考察するで!!


――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語、「十七箇条御法語」には、


「第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむと也」(昭法全p.470)

とある。


注2 『無量寿経』において釈尊は、極楽浄土へ往生するための行として、念仏と諸行の両方をお説きになっておられる(三輩段)。

この念仏と諸行の関係について法然上人は『選択集』四章において、

・廃立・・衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため。
・助正・・諸行を念仏の助けにするため。
・傍正・・念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため。

この三つの解釈が可能であると述べ、

ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳)
ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
自分自身の判断で、取捨しなさい。

と述べた上で、

今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と述べておられるので、これが法然上人の本音であると言える。


注3 某所に、とてもよい問題が掲載されていた。

~~以下引用~~

535:神も仏も名無しさん:2009/06/30(火)12:21:35 ID:aFbNIyl5

今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。

例として、
親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは分からないと教えられ、
親●会の会員は、この世では救われないから、親●会の求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

参考までに、
精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

~~以上引用~~

また、以下のコメントも秀逸だった。

~~以下引用~~

569:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:06:46ID:y/2OT4/
i
>>535

(中略)

親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

570:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:16:09 ID:y/2OT4/i

(中略)

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。

~~以上引用~~


注4 以下の法然上人の言葉を参照。

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、決して釈尊の本心によるものではなかった。
だから念仏は、阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


注5 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
 「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


注6 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」

(訳)
念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、
やってはいけない悪いことを平気でやって、
やらなくてはならないことをまったくやらないで、
念仏も頑張って申さないというのは、
仏教のあるべき掟に反することなのである。

たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、
よい子であっても悪い子であっても、
あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、
我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、
我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。

ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、
よい人であっても、悪い人であっても、
へだてなく極楽浄土へと救いとるが、
衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、
悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。

だから、よい土地によい種をまくように、
しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、
さらに念仏申すべきである。

それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。