1878年(明治11年)7月18日に、鳥取市で生まれる。1902年に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラルアーツカレッジとして有名なアマースト大学や名門のハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年に東京高等受験講習会を神田錦町に設立する。受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。人間を尊重し、深い愛情に根ざした学問の楽しさを伝えることは、教育理念となってゆく。その後は、1927年に神田駿河台で駿台高等予備学校を創設し、1930年に駿台高等予備校として各種学校の認可を取得後、1952年に学校法人駿河台学園が設立される。山崎寿春の築いた土台は日本の教育に大きな足跡を残し、息子の山崎春之により駿台予備学校として発展した。昭和39年に86歳で没した。
静岡県引佐郡細江町出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)教授の職に就く。
1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
1948年5月、田中壽一(のちの名城大学学長)に、創設前の名城大学へ幹部級の待遇で招聘される。河合はこの誘いを受けるとともに、大学創設準備にも積極的に関わり、交渉のため文部省にも足しげく通った。大学設立が成った後は、同学教授に就任する。授業には自作のガリ版のテキストを買わせたが、生徒によれば「アリが行列しているような細かい字」であったという。また、校歌の作詞も手がけている。1951年には第二教養部長の職に就いた。直後名城大で紛争が起きたことから職を辞し、設立間もない名古屋商科大学に移り死去まで教養部長を務めた。
医学部入試は時間との勝負が多いので、試験時間を意識して取り組みましょう。あとは演習をとにかくこなして自然と問題パターンを頭に入れていくこと。覚えようと思ってもなかなか覚えられるものではないですが、何回も間違えて、その度に確認すれば自然に問題を体が覚えているようになります。また、ケアレスミスは注意しましょう。ケアレスミスを無くすだけで何百人という人たちを抜かすことができます。また、試験最後の数分はわからない問題を考えるより、ミスがないか探すべきだと思います。
基礎や標準問題の繰り返しが、合格につながる。
『問題児 三木谷浩史の育ち方』(幻冬舎)の著者で小説家の山川健一さんが言う。
「小学校の通信簿はほとんど2か3で、中学の成績がビリから2番目。中1でたばこを覚えて私立中学を中退して公立中学校に編入した後、パチンコや麻雀、競馬に熱中するようになりました。人の道をそれる危うさがありましたが、一度も叱らなかった父親の愛情もあって徐々に“真人間”になりました」
風雲児の三木谷氏を突き動かすのは「情熱」だ。ジャーナリストの大西康之さんが言う。
「三木谷さんにとって『ライフ』と『ワーク』は表裏一体です。お父さんをがんで亡くしたので、儲けを度外視して個人的な思い入れでがんの新しい治療法に投資しているし、オーナーを務めるJ1のヴィッセル神戸に世界的なスーパースターであるイニエスタ選手を招聘して、世を驚かせたのもサッカー好きな彼らしい試みです」
楽天の本社ビルには部屋を仕切る壁がなく、端から端までワンフロアに収まる。
「その広い一角に三木谷さんのデスクが置かれていて、社員は社長を『ミッキー』と呼びます。三木谷さんは繊細に見えるけど意外と豪快で、笑うときは『ガハハハハ!』と思いっきり笑います(笑い)」(山川さん)
ライフとワークが一体の三木谷氏は、「遊ぶ時は徹底して遊ぶ」がモットーだ。
「アメリカのシリコンバレーにある豪邸は敷地内にプール、テニス場、ゴルフ場があります。ここで頻繁にバーベキューパーティーを行い、フェイスブック最高執行責任者のシェリル・サンドバーグやテスラ創業者のイーロン・マスクなど錚々たる面々が参加します。わざわざ東京から板前さんとネタを“空輸”する力の入れようです」(大西さん)
今まで個別指導塾でさまざまな個性を持つ1000人以上の生徒と接してきました。その中で、その子の"性格"をみれば、勉強方法やテストにどのような傾向が出るかが分かるようになりました。
今回は「真面目で言われたことをちゃんとやる生徒」と「安全志向が強い生徒」の2タイプについて、得意・不得意なことや、おすすめの対策を紹介します。
なぜこの問題でこの公式を使う? 考えないでひたすら暗記は注意
「真面目で言われたことをちゃんとやる生徒」は女の子に多く見られます。親の言うことをしっかり守り、言われたことを期限までにちゃんとやる。一見手のかからない模範的な生徒です。
学校での態度は真面目で、遅刻もしない、提出物や宿題も完璧。家では弟妹の面倒を見て、お手伝いもする。このタイプの親御さんは、「ちゃんとやっていて、手がかからないので大丈夫だと思った」とよく言います。それなのに、ある時点から伸び悩むことが多いです。
公立中学校に進学した人だと、最初のテストで80~90点をとれますが、2学期には60~70点に下がる人が多いです。そこからどれだけ勉強しても伸びず、中学2年の後半には40~50点になってしまい、塾に通い始める傾向があります。
私立中学受験をする子だと、小学5年生くらいから勉強量をかなりこなしているのに、緩やかに成績が下降。結果、第2、第3志望校に入学する傾向があります。こうした伸び悩みの背景には、「真面目」な性格ゆえに「理解ではなく暗記」していることが多い、ということがあります。
学校や塾の授業で習ったとき、なぜこの公式や構文を使用するのか最初は理解できないことがあると思います。このタイプの生徒は、真面目さゆえに「ちゃんとやらなければ」という気持ちが強く出て、「わからないけど、こういうものだ」「こう来ればこう」と無意識に暗記してしまうことが多いのです。
最初のうちは反射的に解けますが、受験が近づき、暗記した内容と"違った聞き方"をされたときに対応できなくなります。この生徒は、今まで「ちゃんとやってきた」ことで点数が上がったり、周りから褒められたりした経験があります。
そのため、「もっとちゃんとやろう」と量をこなして暗記します。しかし理解はできていないため、勉強量を増やしても成績が上がりづらくなるのです。
真面目にやれることは良いことです。しかし子どもがこのタイプの場合、「ちゃんと理解すること」「なぜこれをやるのか、何が原因で間違えたのか。どうなれば良いのか」など、考える機会を作ることで、得意を活かしながら、不得意を克服することができます。
安全志向が強い生徒は「不安を動機」に勉強を頑張り続けるポテンシャルがある
もうひとつ多いタイプが「安全志向の強い生徒」。何事も「安全かどうか」を確かめたがる傾向がある人たちです。ケアレスミスが起こらないよう丁寧に解いたり見直しをしたりするあまり、ほかの問題にかける時間が少なくなることもあります。受験のような一発勝負や、スポーツの大会やコンクールなどミスが許されない環境に強いとはいえないタイプです。
問題集も、とにかく最初のページから全部解いていきます。良い面としては「全部やろう」と頑張る動機になることですが、悪い面としては「どこをやれば一番点数が上がるのか。どんな風に勉強をすれば良いのか」とあまり考えないところがあげられます。
そのため、「全部やれなかった」状態で本番を迎えると、「やりきれていない問題が出るのでは?」と不安になってしまいます。そして、まさに"やりきれなかった問題"が1つでも出題されると、「やっぱり出題された」と不安感が一気に増大し、パニックに陥ることも。
この対処法は、「不安感を動機にして、勉強を頑張り続けること」です。普段から努力を積み重ね、「"もう後がない"と思わない」という気持ちで受験に臨めると強いです。不安感を持っている人だからこそ、「もう大丈夫」と思えるまで勉強を仕上げると、本番でも大いに実力を発揮することができます。
「真面目」も、「安全志向が高い」も、それがその人を表す一部です。根本的にその性格を変えることはかなり難しいでしょう。ただ、得意を活かして不得意をカバーすることはできます。その助けのひとつになれば幸いです。
気付いたのは、入試は満点を取る必要がないということ。得意分野で点が取れるより、苦手分野で点を取りこぼさなければ必ず合格点を超えるわけです。さくら教育研究所の先生のサポートを受けながら、自分はそのことを胸にして頑張ってきました。無理せず「いつも全力で生きなくても、十分頑張ってるんだ」と時には自分に少しだけ嘘をついたこともあったと思います。誰かの真似よりも、自分自身のスタイルでいこう。
合否を分けるわずかな差を1:1の授業で味方に。
医学部はどの大学も難関で、受験生の実力は高いレベルで均衡しており、合否を分けるのはほんの少しの差です。私はさくら教育研究所の1:1の授業で、そのほんの少しの差を味方にすることができました。数学では受験校の問題を先生が徹底研究してくださった予想問題に絞って勉強したところ、そっくり同じ問題がでるという奇跡が起こり、緊迫した試験会場でつい笑ってしまう程でした。
弱点を知り、個別授業で時間をかけて苦手を克服しました。