大学受験・高校受験・中学受験を応援する(さくら教育研究所:SKREDU)

無料体験授業をスカイプで実施中! 
メールでお気軽にお問い合わせ下さい。( info@skredu.mods.jp )

代々木ゼミナールの創始者:高宮行男

2020-06-01 | 日記

北海道滝川市に生まれる。生家は御嶽山神社で、高宮家は出雲の神官の係累である。

1938年に國學院大學神道学部を卒業し、太平洋戦争中は札幌歩兵第二十五連隊で連隊旗手を務めた。1943年に、東京都内でキャバレー、質屋、パチンコ屋チェーンなどを経営していた増田商事の社長増田亀吉の娘と結婚する。

義父に見込まれて経営に携わり1953年に開設した予備校「不二学院」で会計を担当したが、義父と離反して学院の支配権を掌握する。1959年に学校法人高宮学園を設立し、1961年に代々木ゼミナールへ改称して理事長に就く。不二学院に隣接する1937年創立の老舗予備校「代々木学院」の生徒を吸収する意図で、予備校名は「代々木ゼミナール」とした[3]。

ダミー会社「三鳩社」を利用した税金対策[4]やダミー法人「学校法人東朋学園」を利用した強行開校[5]など、強引な手法で日本全国に事業を展開。戦略は予備校後発組ながら大胆で、地方進出時には絶対に地元の一等地に校舎を作るという方針を立て相場の倍の価格を出してでも土地を購入したり、浪人生に潤いを与えたいと考えて受付にミスコン出身者を並べたりと「武勇伝」には事欠かず、時に過激すぎるとの批判も受けた[1]。1998年に法人所得12億円の申告漏れが発覚して加算税を含めて3億5000万円の追徴金を課された際には「予備校が儲からなくなれば、さっさと転業して結婚式場でもホテルでもはじめる」[6]と語ったように強欲な経営者として知られるが、1982年(昭和57年)母校の國學院大學創設100周年で故郷の滝川市に國學院女子短期大學が開学する際は私財を投じ、費用の多くを負担した。また、1987年(昭和62年)7月から1993年(平成5年)にかけては國學院大學院友会の第10代会長を務めている[7]。

2009年(平成21年)6月30日に千代田区の病院で心不全により92歳で死去した[8][9]。

高宮学園元副理事長、元日本入試センター社長の竹村保昭は実弟である

 


駿台予備学校の創始者:山崎寿春

2020-06-01 | 日記


1878年(明治11年)7月18日に、鳥取市で生まれる。1902年に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラルアーツカレッジとして有名なアマースト大学や名門のハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年に東京高等受験講習会を神田錦町に設立する。受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。人間を尊重し、深い愛情に根ざした学問の楽しさを伝えることは、教育理念となってゆく。その後は、1927年に神田駿河台で駿台高等予備学校を創設し、1930年に駿台高等予備校として各種学校の認可を取得後、1952年に学校法人駿河台学園が設立される。山崎寿春の築いた土台は日本の教育に大きな足跡を残し、息子の山崎春之により駿台予備学校として発展した。昭和39年に86歳で没した。


河合塾の創始者:河合逸治

2020-06-01 | 日記


静岡県引佐郡細江町出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)教授の職に就く。

1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。

1948年5月、田中壽一(のちの名城大学学長)に、創設前の名城大学へ幹部級の待遇で招聘される。河合はこの誘いを受けるとともに、大学創設準備にも積極的に関わり、交渉のため文部省にも足しげく通った。大学設立が成った後は、同学教授に就任する。授業には自作のガリ版のテキストを買わせたが、生徒によれば「アリが行列しているような細かい字」であったという。また、校歌の作詞も手がけている。1951年には第二教養部長の職に就いた。直後名城大で紛争が起きたことから職を辞し、設立間もない名古屋商科大学に移り死去まで教養部長を務めた。