◆明治天皇の大葬◆
今から100年以上も昔の大正元(1912)年9月、明治天皇の大喪の礼に参列するため、英国、ドイツ、スペインの王族をはじめとする外国要人が来日しました。
その際、スペイン王族のアルフォンソ公ボルボン殿下の滞在中の接遇を、雅子様の曽祖父で、後に海軍大将となる山屋他人少将(当時)が拝命しています。
(出典:「日本歴史写真帖 近古の巻」大正3 東光園 国立国会図書館デジタルコレクション)
(拡大します)
外務省の「日本外交文書 第45巻 第一冊」の『事項十九 明治天皇崩御一件』に、以下の記述があります。
(621p下段)
「明治天皇大喪儀へ西國皇帝陛下ノ御名代トシテ参列ノ爲メ御渡来相成候
ドン、アルフォンソ、デ、オルレアン、イ、ボルボン殿下ニハ本月十日午後四時二十分新橋停車場御着 天皇陛下御出迎直ニ御旅館芝離宮ニ入ラセラレ候
是レヨリ先陸軍中将村田惇、宮中顧問官田内三吉、海軍少将山屋他人、式部官伯爵亀井玆常、大使館三等書記官佐藤尚武 同殿下接伴員被仰付候。」
(出典:同上「日本歴史写真帖 近古の巻」”西班牙大喪使節西班牙皇族殿下及随員接伴官諸士” )
着席している前列左から、
・山屋他人 海軍少将
(明治41年東宮御用掛、大正8年に海軍大将、雅子妃の曾祖父)
・村田惇 陸軍中将
・ドン・アルフォンソ・ボルボン親王殿下
(当時のスペイン皇帝アルフォンソ13世のいとこ)
・田内三吉 宮中顧問官(陸軍少将、大正天皇侍従)
後列、山屋氏と村田氏の間の大礼服の方が、
・亀井玆常伯爵 宮内省式部官(津和野藩主家当主)
そして、一番右端の方が、
・佐藤尚武 外交官(後に、昭和20年の終戦時の駐ソ大使)
(尚、雅子さまのもう一人の曾祖父である江頭安太郎氏も、「大喪儀海軍事務委員長」をつとめています(アジア歴史資料センター)。翌年、40代の若さで中将で早世。)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
◆スペイン皇帝の称賛◆
さて、この大葬の4年ほど前にも、以下の話があります。
「大正名家録」(大正4年)の「山屋他人」の欄には、プロフィールとともに、政府の命で艦長として海外差遣の途中、寄港したスペインの小港ポロンでの出来事として、
「當時同国皇帝其狭小なる港口に於いて氏の能く艦船を自己の手足の如く自由に操縦するを観覧し其の超越せる手腕に感じ稀世の好艦長なりと称讃之れを久しうせられたりといふ」
と、山屋艦長にスペイン皇帝が賛辞を送ったエピソードが記されています。
◆海軍の海外差遣◆
海軍は日露戦争勝利後、日本の台頭を脅威とみなす欧米諸国に対する政府の外交上の要請で、友好親善のための艦隊差遣を行っています。
伊集院中将を指揮官に、筑波、千歳(山屋艦長)の艦隊が、明治40(1907)年2月から11月まで、米国を皮切りに英国、フランス、ドイツ、イタリアなど10か国を歴訪しました。
(上記のエピソードは、そのうちのスペインでの出来事ではないかと推察されます。)
最初の訪問国は、日露講和を仲介した米国で、バージニア州での「万国陸海軍祝典」に陸軍とともに招待されており、陸軍の日誌には、多くの歓迎行事、式典、そして一行がルーズベルト大統領に謁見したことが書かれています。
(当時、西海岸での日系移民排斥運動で両国関係が深刻化しており、親善交流による沈静化の努力がうかがえる。)
(「万国陸海軍祝典参列員旅行日誌」明治45年、「日米関係史」五百旗頭真)
その後、筑波、千歳の艦隊は、英国をはじめ欧州諸国を訪問して巡ります。
世界の大方の予想をくつがえしてロシアを破った日本への関心は非常に高く、
「同艦隊は、戦勝後帝国艦隊の初めて欧米に派遣せられたるものなれば、諸外国の注目を引ける事著しきものあり 米国に至般の歓待をうけ同盟国なる英国の上下より亦最大なる熱心と厚情を以て遇せられたるは勿論なるが上に、独逸国キールに於ける同国皇帝の御優待の如き異例のものありたり」。
(小栗孝三郎「帝国及列国海軍」明治42年)
この海外差遣は、海軍が担った外交上の正式訪問であり、山屋艦長もスペイン皇帝(アルフォンソ13世)、ドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)はじめ、20世紀初頭の欧米列強の皇帝、元首への拝謁の機会があったようです。
11月に帰国直後、山屋氏に「ポルトガル、スペイン、フランス、オーストリア等各国より勲章贈与さる」とあります。(「大将傳・海軍編」)
(後年、更に欧米各国から非常に高位の勲章を贈られている。)
冒頭の明治天皇の大葬の礼は、それから4年余り後ですが、複数の外国王族の参列は初のことであり、日本の国際的地位の上昇とともに、この海軍の親善航海も、良い影響があったのかもしれません。
昇進した山屋少将は、スペインで賛辞を贈られた皇帝の従兄弟を接遇をすることになりました。
(大葬後、更にスペイン皇帝から叙勲されている。)
-----------------------------------------------------------------------------------
また後年、山屋大将の大正末生まれの孫娘は、スペイン大使夫人として同国に滞在しています。
夫君は旧家の出身で、戦前に外務省からスペインに留学、同地で敗戦を迎えています。
スペイン語の達人として知られ、外交官・大使としてのみならず、昭和30年代に、海外の著名詩人(後年、ノーベル賞受賞)とともに、日本の古典文学の翻訳(芭蕉を初めて本格的に西欧語圏に紹介)を行うなど、学術分野でも活躍しました。 (「外交フォーラム」他)
そして昭和の終わり、ひ孫で、外交官試験に合格した雅子嬢と、浩宮(徳仁親王・皇太子)との縁を結ぶきっかけと報じられたのが、スペインのエレナ王女来日のレセプションでした。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
(2017年の4月初旬、スペイン国王夫妻来日の際に書いた、当ブログ最初の記事を加筆・編集して再掲しました。)
さて、この大葬の4年ほど前にも、以下の話があります。
「大正名家録」(大正4年)の「山屋他人」の欄には、プロフィールとともに、政府の命で艦長として海外差遣の途中、寄港したスペインの小港ポロンでの出来事として、
「當時同国皇帝其狭小なる港口に於いて氏の能く艦船を自己の手足の如く自由に操縦するを観覧し其の超越せる手腕に感じ稀世の好艦長なりと称讃之れを久しうせられたりといふ」
と、山屋艦長にスペイン皇帝が賛辞を送ったエピソードが記されています。
◆海軍の海外差遣◆
海軍は日露戦争勝利後、日本の台頭を脅威とみなす欧米諸国に対する政府の外交上の要請で、友好親善のための艦隊差遣を行っています。
伊集院中将を指揮官に、筑波、千歳(山屋艦長)の艦隊が、明治40(1907)年2月から11月まで、米国を皮切りに英国、フランス、ドイツ、イタリアなど10か国を歴訪しました。
(上記のエピソードは、そのうちのスペインでの出来事ではないかと推察されます。)
最初の訪問国は、日露講和を仲介した米国で、バージニア州での「万国陸海軍祝典」に陸軍とともに招待されており、陸軍の日誌には、多くの歓迎行事、式典、そして一行がルーズベルト大統領に謁見したことが書かれています。
(当時、西海岸での日系移民排斥運動で両国関係が深刻化しており、親善交流による沈静化の努力がうかがえる。)
(「万国陸海軍祝典参列員旅行日誌」明治45年、「日米関係史」五百旗頭真)
その後、筑波、千歳の艦隊は、英国をはじめ欧州諸国を訪問して巡ります。
世界の大方の予想をくつがえしてロシアを破った日本への関心は非常に高く、
「同艦隊は、戦勝後帝国艦隊の初めて欧米に派遣せられたるものなれば、諸外国の注目を引ける事著しきものあり 米国に至般の歓待をうけ同盟国なる英国の上下より亦最大なる熱心と厚情を以て遇せられたるは勿論なるが上に、独逸国キールに於ける同国皇帝の御優待の如き異例のものありたり」。
(小栗孝三郎「帝国及列国海軍」明治42年)
この海外差遣は、海軍が担った外交上の正式訪問であり、山屋艦長もスペイン皇帝(アルフォンソ13世)、ドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)はじめ、20世紀初頭の欧米列強の皇帝、元首への拝謁の機会があったようです。
11月に帰国直後、山屋氏に「ポルトガル、スペイン、フランス、オーストリア等各国より勲章贈与さる」とあります。(「大将傳・海軍編」)
(後年、更に欧米各国から非常に高位の勲章を贈られている。)
冒頭の明治天皇の大葬の礼は、それから4年余り後ですが、複数の外国王族の参列は初のことであり、日本の国際的地位の上昇とともに、この海軍の親善航海も、良い影響があったのかもしれません。
昇進した山屋少将は、スペインで賛辞を贈られた皇帝の従兄弟を接遇をすることになりました。
(大葬後、更にスペイン皇帝から叙勲されている。)
-----------------------------------------------------------------------------------
また後年、山屋大将の大正末生まれの孫娘は、スペイン大使夫人として同国に滞在しています。
夫君は旧家の出身で、戦前に外務省からスペインに留学、同地で敗戦を迎えています。
スペイン語の達人として知られ、外交官・大使としてのみならず、昭和30年代に、海外の著名詩人(後年、ノーベル賞受賞)とともに、日本の古典文学の翻訳(芭蕉を初めて本格的に西欧語圏に紹介)を行うなど、学術分野でも活躍しました。 (「外交フォーラム」他)
そして昭和の終わり、ひ孫で、外交官試験に合格した雅子嬢と、浩宮(徳仁親王・皇太子)との縁を結ぶきっかけと報じられたのが、スペインのエレナ王女来日のレセプションでした。
-------------------------------------------------------------------------------------------------
(2017年の4月初旬、スペイン国王夫妻来日の際に書いた、当ブログ最初の記事を加筆・編集して再掲しました。)