スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁(加筆して再掲)

2019年03月15日 | 雅子妃の系譜

明治天皇の大葬

今から100年以上も昔の大正元(1912)年9月、明治天皇の大喪の礼に参列するため、英国、ドイツ、スペインの王族をはじめとする外国要人が来日しました。
その際、スペイン王族のアルフォンソ公ボルボン殿下の滞在中の接遇を、雅子様の曽祖父で、後に海軍大将となる山屋他人少将(当時)が拝命しています。





(出典:「日本歴史写真帖 近古の巻」大正3 東光園  国立国会図書館デジタルコレクション)
(拡大します)



外務省の「日本外交文書 第45巻 第一冊」の『事項十九 明治天皇崩御一件』に、以下の記述があります。
(621p下段)



「明治天皇大喪儀へ西國皇帝陛下ノ御名代トシテ参列ノ爲メ御渡来相成候
ドン、アルフォンソ、デ、オルレアン、イ、ボルボン殿下ニハ本月十日午後四時二十分新橋停車場御着 天皇陛下御出迎直ニ御旅館芝離宮ニ入ラセラレ候

是レヨリ先陸軍中将村田惇、宮中顧問官田内三吉、海軍少将山屋他人、式部官伯爵亀井玆常、大使館三等書記官佐藤尚武 同殿下接伴員被仰付候。」
  




(出典:同上「日本歴史写真帖 近古の巻」”西班牙大喪使節西班牙皇族殿下及随員接伴官諸士” )


着席している前列左から、

・山屋他人 海軍少将
(明治41年東宮御用掛、大正8年に海軍大将、雅子妃の曾祖父)

・村田惇 陸軍中将

・ドン・アルフォンソ・ボルボン親王殿下
(当時のスペイン皇帝アルフォンソ13世のいとこ)


・田内三吉 宮中顧問官(陸軍少将、大正天皇侍従)



後列、山屋氏と村田氏の間の大礼服の方が、
・亀井玆常伯爵 宮内省式部官(津和野藩主家当主)


そして、一番右端の方が、
・佐藤尚武 外交官(後に、昭和20年の終戦時の駐ソ大使)




(尚、雅子さまのもう一人の曾祖父である江頭安太郎氏も、「大喪儀海軍事務委員長」をつとめています(アジア歴史資料センター)。翌年、40代の若さで中将で早世。)





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スペイン皇帝の称賛


さて、この大葬の4年ほど前にも、以下の話があります。

「大正名家録」(大正4年)の「山屋他人」の欄には、プロフィールとともに、政府の命で艦長として海外差遣の途中、寄港したスペインの小港ポロンでの出来事として、


「當時同国皇帝其狭小なる港口に於いて氏の能く艦船を自己の手足の如く自由に操縦するを観覧し其の超越せる手腕に感じ稀世の好艦長なりと称讃之れを久しうせられたりといふ」


と、山屋艦長にスペイン皇帝が賛辞を送ったエピソードが記されています。


           




海軍の海外差遣


海軍は日露戦争勝利後、日本の台頭を脅威とみなす欧米諸国に対する政府の外交上の要請で、友好親善のための艦隊差遣を行っています。

伊集院中将を指揮官に、筑波、千歳(山屋艦長)の艦隊が、明治40(1907)年2月から11月まで、米国を皮切りに英国、フランス、ドイツ、イタリアなど10か国を歴訪しました。

(上記のエピソードは、そのうちのスペインでの出来事ではないかと推察されます。)



最初の訪問国は、日露講和を仲介した米国で、バージニア州での「万国陸海軍祝典」に陸軍とともに招待されており、陸軍の日誌には、多くの歓迎行事、式典、そして一行がルーズベルト大統領に謁見したことが書かれています。

(当時、西海岸での日系移民排斥運動で両国関係が深刻化しており、親善交流による沈静化の努力がうかがえる。)



(「万国陸海軍祝典参列員旅行日誌」明治45年、「日米関係史」五百旗頭真)




その後、筑波、千歳の艦隊は、英国をはじめ欧州諸国を訪問して巡ります。
世界の大方の予想をくつがえしてロシアを破った日本への関心は非常に高く、


「同艦隊は、戦勝後帝国艦隊の初めて欧米に派遣せられたるものなれば、諸外国の注目を引ける事著しきものあり 米国に至般の歓待をうけ同盟国なる英国の上下より亦最大なる熱心と厚情を以て遇せられたるは勿論なるが上に、独逸国キールに於ける同国皇帝の御優待の如き異例のものありたり」。

(小栗孝三郎「帝国及列国海軍」明治42年)




この海外差遣は、海軍が担った外交上の正式訪問であり、山屋艦長もスペイン皇帝(アルフォンソ13世)、ドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)はじめ、20世紀初頭の欧米列強の皇帝、元首への拝謁の機会があったようです。

11月に帰国直後、山屋氏に「ポルトガル、スペイン、フランス、オーストリア等各国より勲章贈与さる」とあります。(「大将傳・海軍編」)

(後年、更に欧米各国から非常に高位の勲章を贈られている。)





冒頭の明治天皇の大葬の礼は、それから4年余り後ですが、複数の外国王族の参列は初のことであり、日本の国際的地位の上昇とともに、この海軍の親善航海も、良い影響があったのかもしれません。

昇進した山屋少将は、スペインで賛辞を贈られた皇帝の従兄弟を接遇をすることになりました。
(大葬後、更にスペイン皇帝から叙勲されている。)




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また後年、山屋大将の大正末生まれの孫娘は、スペイン大使夫人として同国に滞在しています。

夫君は旧家の出身で、戦前に外務省からスペインに留学、同地で敗戦を迎えています。
スペイン語の達人として知られ、外交官・大使としてのみならず、昭和30年代に、海外の著名詩人(後年、ノーベル賞受賞)とともに、日本の古典文学の翻訳(芭蕉を初めて本格的に西欧語圏に紹介)を行うなど、学術分野でも活躍しました。 (「外交フォーラム」他)



そして昭和の終わり、ひ孫で、外交官試験に合格した雅子嬢と、浩宮(徳仁親王・皇太子)との縁を結ぶきっかけと報じられたのが、スペインのエレナ王女来日のレセプションでした。


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(2017年の4月初旬、スペイン国王夫妻来日の際に書いた、当ブログ最初の記事を加筆・編集して再掲しました。)



幕末・明治から雅子妃に続くエリートの系譜(高祖父・丹羽与三郎家を中心に)

2018年11月10日 | 雅子妃の系譜
◆幕末から明治・大正に続くエリート家系◆



(更に広がりがあるが書ききれなかった。)          



山屋他人の妻・貞子さんの実家丹羽家は、尾張士族で、戦国時代に織田家に仕えた武将丹羽氏の流れである。
藤堂高虎の槍奉行を務め、後に尾張藩士となり幕末を迎えた。

貞子さんの父・丹羽与三郎房忠は、弘化4年(1847年)、同じ尾張藩士平尾家から、丹羽家・ハツの婿養子に入っている。

戊辰の役では官軍の陣場奉行をつとめ、維新後は新政府の教部省(のちに内務省)の神祇官に聘され、井伊谷宮(遠州引佐)権宮司、鎌倉宮(神奈川)宮司、気多神社(能登)宮司、寒川神社(神奈川)宮司を経て、明治35年から大正5年の逝去まで、鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を長く務めた。

                     
丹羽与三郎・ハツ夫妻は、雅子妃曾祖母の貞子夫人を含めて6男一女に恵まれ、「七福神」と呼ばれている。
その子供たちは、当時、女子教育も含め最高レベルの学校の一つであった近藤真琴の主宰する攻玉社で学んでいる。

(この近藤と山屋他人の伯父・野辺地尚義は同じ大村益次郎門下で鳩居堂の同窓。山屋も当然、攻玉社出身。)

それぞれの配偶者の親族も含め、明治から大正時代の非常に先進的な超エリート階層を形成している。



(国立公文書館アーカイブ、官国幣社便覧、「海将山屋他人の足跡」他)





長男  
安政元年(1859)生 海軍少将 
厳島艦長、水路部測量科長、艦政本部部長を歴任。
夫人の父は佐賀藩士鳥巣敬義。

                            長男は東京高商(現・一橋大)卒 三菱重工業






次男 
鋤彦  明治元年生 工部大学校(今の東大工学部)卒 工学博士 
近代港湾幕開けからの先駆者であり、港湾技術界の大権威者である。(「港湾」丹羽鋤彦博士を憶う)  

夫人は、出石藩儒官の家柄で知られた官僚、政治家で「天気予報創始者」の桜井勉の令嬢。
                             

明治22年内務省入省、最上川、木曽川の整備・近代化を手掛け、その後、築港を管轄する大蔵省に転じ、横浜港埠頭工事の施工責任者として欧米に視察。「ニューマチックケーソン工法」を初採用、日本人だけの工事を初めて成功させた。
その後も赤レンガ倉庫や鉄桟橋、鉄道整備と横浜港の形成に尽力、神戸港その他の築港にも指導的役割を果たした。

退官後は、日本水力常務、帝都復興院参与、国会議事堂建設において常任顧問、会計監査院顧問、母校の攻玉社工学校校長を歴任。この他、隅田川河口整備および東京築港の道も開いている。
昭和30年逝去。(「日本のコンクリート技術を支えた100人」、「土木人物事典」他多数)

(拡大します)
(議事堂設計コンペの審査員・近代日本の建築・土木界を代表する名前が並ぶ 「議員建築意匠設計懸賞募集規定」)



なお、攻玉社の幼稚舎寮では、会津藩主家の松平容大氏(秩父宮勢津子妃の伯父、後に養女となる)と同室で寝食を共にし、屋敷にも遊びに行っている。(「攻玉社90年史」)



※ 夫人の父・桜井勉は、内務省地理局長(気象測候網の整備)、神社局長、徳島、山梨の知事を歴任。郷土史「校補但馬考」編纂。

いうまでもなく夫人の兄は医学者の桜井恒次郎(九州帝国大学教授)、弟は訳詩家(菩提樹、野ばら、ローレライなど)の近藤朔風、叔父は明治女学校を設立した木村熊二と著名人が並ぶ。
 


 
                      長女は、旧内務省局長(理工系)の夫人
                      子息は、いずれも帝大卒で、鉄道省等の幹部





三男 

明治4年生 東京帝大法科卒 
横浜正金銀行入行、サンフランシスコ支店、長崎支店等の支店長歴任後、当時、煙草王として財を成し(京都東山の「長楽館」で知られる)、銀行を設立した「村井吉兵衛氏に懇望され」、大正7年、村井銀行に転じ常務取締役。

義弟(妻の妹の夫)の春藤氏は三菱銀行常務取締役を経て、戦後、花王油脂会長、花王石鹸相談役を歴任。


        
長女は東急電鉄重役夫人
次女は縁戚の資産家(地方の銀行・鉄道の創業家)の孫である国文学者(東京女子大教授)に嫁す。




四男 

明治7年生 京都帝国大学工科卒 
九州鉄道入社、鉄道省、帝国鉄道院を経て、筑波高速鉄道技師長、京成電鉄取締役、在任中急逝。
(鉄道先人録)
  
夫人について、「葦原眉山の長女」と書かれているが、もしかしたら、江戸末期から明治期に活躍した日本画家の葦原眉山のことだろうか。

(眉山は、徳島・興源寺の住職で、鉄翁に師事。名古屋で官職に就き「同好会」を創立、第2回共進会出品作が、宮内省御用品となった。)(愛知書家画家事典)      
              

                子供の配偶者の一人は山川健次郎(帝大総長・男爵)の孫




長女 
 
 貞子  明治10年生 攻玉社女子科卒 海軍大将山屋他人夫人
      

               雅子妃の祖母・寿々子さんを含め2男5女に恵まれる(後述)





五男 

明治14年生 東京帝国大学医学部卒 同大医局、勤務医を経て開業医。医学博士。
          
夫人は、医学博士で宮内省侍医をつとめた大谷周庵(旧幕臣)の令嬢

妻方の義兄に大谷彬亮(北里研究所、慶大医教授、済生会病院長)や 梅野実(工学博士 九州鉄道から三菱製鉄常務、満鉄理事。戦後はブリジストン顧問。合成ゴム研究や鉱山開発に功績。)など当時の医学・工学分野で活躍した人が多数いる。

(「日本近現代医学人名事典」 「鉄道先人録」)



岳父の大谷周庵は、明治16年に大学東校(東大医学部)卒業後、五高教授、ドイツ留学、長崎病院長などを経て、同級生の北里柴三郎の推薦もあり大正元年から4年まで宮内省侍医を拝命。
昭憲皇太后付、貞明皇后拝診主任をつとめた。
(「長崎医学100年史」)




このほかもうお一人、六男で会社重役のかたがおられる。



(上記のほか、「紳士録」「人事興信録」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)






◆明治維新後の旧士族の大成功例◆------------------------------------------

ご兄弟のお一人について、当時の人名事典には、

「君の兄弟は五人にして各々其学ぶ所を異にするもいずれも逸足俊才を以て大正の新世に活躍しつつあり 果して然らば其の慶福や豈に丹羽家一門の為のみならんや」

とある。一人っ子の山屋大将にとって、各界で活躍する妻の兄弟たちは頼りになる存在だっただろう。

閨閥の広がりを見ると、明治から大正期の医学、工学部門を背負った超エリートが多い。
(草創期の)東大、攻玉社、海軍、そして九州鉄道や九大を拠点とした旧士族たちの婚姻関係がうかがえ、それはこのあと、それぞれの子孫にも繋がっている。

上記系図は、山屋大将を調べれば、たちどころに判明する顔ぶれであり、学問上、高名な方も多い。
皇室との関わりもあり、周囲は歴史上の人物が目白押しで、本来、必ず報じられるべきものだ。






※ なお、一方の山屋家も非常に由緒があり、南部家に敗れて以降の家臣だが、本家(百十石)と四つの分家(百石、五十石、以下微禄と続く)の5系ある。(南部藩参考諸家系図)

山屋他人は小さな分家の出だが、婿養子の父方・大萱生氏は江戸家老など要職を務め、母方大叔父で実業家・菊池金吾の屋敷は明治帝の行在所、伯父は蘭学者の野辺地尚義、その孫はピアニストの野辺地勝久(東京芸大教授)。
また尚義の養子に、帝大教授で鉄道草創期に活躍した野辺地久記博士(下記画像参照)がおり、丹羽家の兄弟と学友である。 



(拡大します・国立国会図書館「大日本博士録」)






前々からずっと疑問でしたが、
皇室の専門家の多くは歴史・政治学者と称し、中には医学や鉄道分野に詳しいとされる人もいるのに、四半世紀に渡ってこうしたことに何の言及も無いというのは、一体どういうことだろうか?



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次世代の山屋夫妻の子女についても少し触れておくと、




長女  
明治31年生 女子学習院卒

夫は海軍少将・岩下保太郎
昭和10年第2次ロンドン軍縮会議の首席随員(全権は永野修身大将)、
昭和12年、連合艦隊参謀長に在任中、急逝


        
(子息、子女)
海軍中佐(戦死なさっている・海軍中将の令息)の夫人
旧商工省(通産省)官僚夫人
大学名誉教授(東大工学部卒)




長男  
明治33年生 海軍兵学校卒 同校の監事、皇族(伏見宮博恭王)付武官を務めている。終戦時は大佐。 
夫人の実家は甲信越の地主、銀行家で、明治初期に電力(水力発電)会社創業。




子息のお一人(海軍経理学校卒、入社後コーネル大留学)は若くして帝国ホテル取締役に就任するも、40代半ばで早逝。
ライト館から現在の帝国ホテル本館の改築の際のプロジェクトリーダー(企画室長)を務めた。
         
        
           



次女
明治35年生  女子学習院卒
   
夫は日本郵船勤務(東京帝大工科卒)で、
昭和初期に一家で長くロンドン駐在、その後長崎支店、神戸支店監督であったが30代で早逝。




長女(神戸女学院卒)は外交官に嫁ぎ、特命全権大使夫人。
夫は、北陸と京都の名家の出身で、外交官のみならず、外国のノーベル賞受賞者との共訳をはじめ学術分野でも活躍、退官後は大学教授、銀行顧問。
夫の実兄も大きな業績を残した高名な学者で日本学士院会員。
他にも茶人、文化人として知られた親族もいる。

(この夫君の兄とまだ学生だった浩宮(皇太子)とは偶然に縁があったと、ご婚約当時、知人の大学関係者から聞いたことがあったが・・・・)
   





次男
明治38年生 東京商大(現・一橋大学)卒業後、満鉄勤務。
戦後は、末妹の嫁ぎ先が創設した海城学園の役員を務めた。

夫人は、工学博士で三井系企業重役(福岡士族)の令嬢。
夫人の叔父(父の実弟)は、大正から昭和初期の大蔵官僚で、理財局長、銀行総裁職など要職を歴任。 





三女 
明治43年生 企業(東証1部)創業者の子息(東京帝大工科卒・愛媛士族)に嫁いだが、病気により早逝。
           
            遺した子息たちが後年、社長、重役を務めている。




四女
明治45年生  
夫は東京帝国大学卒で、鐘淵紡績(のちの鐘紡)勤務であったが早逝。





五女
寿々子(雅子妃の祖母) 大正5年生、双葉高女卒。

父・山屋他人と同期の江頭安太郎中将の三男・豊氏に嫁ぐ。
豊氏の母方祖父は、現在の海城学園の創立者・古賀喜三郎である。
   
豊氏は、東京帝大法科卒業後、日本興業銀行入行。
人事部長、中小企業金融公庫理事、取締役資金部長、常務取締役大阪支店長を経て、経営再建中のチッソに派遣され、社長、会長。




一人娘の優美子さんは雅子妃の母。
昭和13年生。慶大仏文科卒。エールフランス勤務を経て、外交官で、後に外務次官、国際司法裁判所所長の小和田恒氏に嫁ぐ。
       
                 
  





※ 雅子妃の祖母・寿々子さんは、父は子供たちの縁談について、人物本位という固い信念を変えることがなかった、と話している。当時、更なる華々しい縁談があったはずだが、そうした志向とは無縁だったようだ。
 


(「海軍兵学校・機関学校・経理学校」、「人事興信録」、「満州紳士録」、関連・所属団体や公的機関のHP、社史、ご本人についての記事、著作物の著者紹介など)



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以上の流れが雅子妃の重要な「バックボーン」であり、有力なお妃候補となった由縁だろう(他の系統もご立派だが)。

婚約当時に報道された親族系図が、大事な部分がごそっと抜け落とされていることは一目瞭然で、調べるまでもなく、
「こんな構図にはならないでしょうが」、「皇太子は家庭を持つ資格がないな、こんなとこに嫁に行ってはいかんよ」と、なかなか先見性のある(?)ことを言っていた友人もいた。


まさに「人格否定」の最たるものだろう。
(問題は、なぜ全マスコミ挙げてこんな書き方をする必要があったのか、ということだ。
その後も週刊誌や皇室本どころか、専門書や事典の類にも、そのまま平気で間違いや曲解させるような記述をしているものがある。)



結婚して25年あまり、雅子妃はいまだプロフィールの紹介さえ満足になされないままである。




※ 雅子妃に関してはネット上の嫌がらせやデマが激しく、(非常に古い世代で、すでに評価の定まった方を除き)なるべく姓名は伏せ、肩書の表記にも細心の注意を払ったつもりです。


※ 帝国ホテルの方については、複数のデータからまず間違いないと判断して掲載しました。



「やかまし屋」の古賀喜三郎学監(雅子妃の高祖父) 「威仁親王行實」より

2018年10月13日 | 雅子妃の系譜



「威仁親王行實」巻下 1926年刊より   国立国会図書館)


(有栖川宮威仁親王)殿下が海軍兵学寮の宿舎に入らせられたのは、明治八年四月で、御歳十四の時の事であつた。
當時の校長は中牟田倉之助、学監は古賀喜三郎、この古賀が有名な八釜し屋(やかましや)であった。
ある時外出された殿下の御帰舎が門限過ぎであつたといふので、古賀は少しも容赦せず、『たとひ殿下たりとも校則は枉(ま)げる譯には参りませぬ』といつて、直に何日間かの禁足を申し渡した。すると殿下には、ご立腹と思ひの外『生徒が校則に遵ふのは當然である』と仰され、謹んで禁足を厳守せられた。

その頃の兵学寮生徒は、衣至骭式の豪傑揃ひで、動もすれば常軌の外に逸出せむとしたから、教官も余程手古摺って居た。

ある時生徒が小金井に遠足したが、俄かの大雨に濡れ鼠となり、勇を鼓して兎も角も、府中まで辿り着き、そこで着物だけは乾かしたものゝ、何分道路泥濘で、歩むことが出来ず、豪傑連もこれには痛く閉口して『今から一泊させて呉れろ』といつて、弱音を吹いたが、学校の都合上當日中に是非還らねばならなかつたので、古賀学監は思案の末、その旨を殿下に申し出ると、殿下は直に頷かせられ『さういふ事なら予が第一に出發しよう』と仰せられた。

そこで古賀は一同に向かひ、『殿下でさへ御歩きに成るのに、こゝに泊りたいと申すは何事だ』と励聲叱咤したので、一同返す言葉もなく、とうとう歩き通しで帰校した。

この時殿下の御足がまだ小さかつた為に、有り合せの草鞋がうまく穿けず、甚だ困つたといふ話もあつた。

かくの如く校則を励行する場合には、第一に殿下に御勧めして、これを模範とするやうな有様で、その後校則は次第に厳守されるやうになった。




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この「やかまし屋」の古賀喜三郎学監が、雅子妃の高祖父である。
佐賀藩士で、現・海城学園の創立者である。





◆佐賀海軍◆


古賀喜三郎は、弘化二(1845)年、北川副村古賀に生まれた。
父は平尾吉左衛門、幼名秀辰。後に、同村の中野古賀(卯兵衛)家の養子となっている。


江戸時代、佐賀藩は福岡藩とともに、外国との唯一の窓口だった長崎の警護を担っており、幕末、欧米列強が押し寄せた際、藩主鍋島直正は海防の必要性を痛感、藩士の人材養成に乗り出していた。

藩内の有望な年少者を選抜し、彼らに洋学と近代砲術の修得を奨励、その中の一人が古賀喜三郎であった。



オランダ語で西洋砲術を学んだ古賀は、幕末の文久2(1862)年、長崎港外、伊王島砲台指令に任ぜられ、その後、元治元(1864)年には、19歳で、長崎に碇泊中の英国軍艦に派遣される14名に選ばれたことが以下の資料からわかる。

          

(「長崎表碇泊の英軍艦へ乗込、砲術其外質問の為早速立にて彼地」へ派遣されている。
出典:「佐賀藩海軍史」 大正6年 国立国会図書館)


上記「威仁親王行実」に校長として出てくる「中牟田倉之助」の名前も見える。
8歳年上の中牟田との先輩後輩の関係はその後もずっと続くことになる。

なお、長崎から帰藩後、古賀は藩の教官となっている。





また戊辰戦争では、

「維新に際し、九条道孝に従い砲隊司令として奥羽征討に参加す。
平定の後、大総督宮殿下より感状を賜い、」
(先覚者小伝)

とある。この大総督は有栖川宮熾仁親王で、前述の威仁親王の実兄である。

当時22歳の古賀は佐賀藩砲隊司令兼武庫方助役として奮戦、奥羽戦争の兵を率いて帰藩の途中、大総督宮から京都・御花畠に特に召されての感状の拝受だった。



鍋島公の政策により、最先端の装備と人材を有するまでになった「佐賀海軍」が、維新後、帝国海軍に繋がっていった。
古賀のひと世代上から幾つか年長までの藩士たちは、その創設メンバーとして中牟田子爵のように元勲となったが、その後、藩閥争いで薩摩に敗れてゆくことになる。







◆学校創立◆

廃藩置県後は海軍入り。兵学校の教官や学監、監事(明治14年)等の教育畑の職務も多く、自身でも、現役時代から自宅の屋敷内に「一貫舎」という学校を作っている。

明治23年に引退(海軍少佐)、(※引退を明治14年と誤った資料が散見される)
翌24年、海軍予備学校を設立(麹町区元園町)、
「以来、宅地家財及び恩給等全部をなげうってひたすら学校の為に尽し」、教育と学校経営に邁進した。

ひ孫で評論家の江藤淳氏によれば、古賀は、当時所有していた芝・田村町の500坪の土地と屋敷を抵当に入れ、娘・米子(雅子妃の曾祖母)も家政の手伝いのため東京女学館を中退している。

(古賀喜三郎校長)


設立にあたっては、海軍兵学校での教え子であった山本権兵衛(当時大佐)が認可、同郷の先輩である中牟田(枢密院顧問、海軍中将、子爵)も後援している。

その後、学校の拡張にあたり、司法省の建物を譲り受け、霞が関の海軍省裏手の土地を入手出来たのは、前者は上記の有栖川宮威仁親王、後者は娘婿の江頭安太郎(のち中将)によるものとも伝えられる。

(明治29年の第1回の卒業式にはこの威仁親王と山階宮菊麿王が、翌年には小松宮が臨席している)

こうしてできた学校が、現在の海城学園である。


古賀は、同じ佐賀藩・嘉村家出身のすま夫人との間に、米子嬢のほか数人の子供をもうけるも、多くが早世したため、同郷の江頭中将に嫁いでいた米子嬢(この方は長命)の次男を跡継ぎの養子とし、大正3年に逝去。
享年七十。





(「(佐賀県歴史人名事典(先覚者小伝)」、「百年史」、「佐賀藩海軍史」)



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尚、明治の人事録等を見ると、古賀の後妻となった女性の父は、朝廷に仕える家柄で、岩倉公と通じた幕末の尊攘運動家のようだが、これは誰が間に入っての縁談だったのだろうか?
雅子妃と血の繋がりはないものの、なかなか興味深い縁組である。



古賀氏の系統は、子孫も海軍や佐賀県にゆかりのある方が多いようだが、
ひ孫の配偶者である江口朴郎氏(歴史学者、東大名誉教授)も、やはり同県の出身で、父が海軍(人事興信録)というのは、イメージと違っていてちょっと意外でした。
戦後の左派知識人の重鎮でありました。



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        (有栖川宮威仁親王)

さて、古賀が学監として指導した威仁親王の孫(美枝子女王の次女)が徳川喜久子姫で、のちの高松宮宣仁親王妃喜久子であった。

「威仁親王行實」には、親王が孫娘を溺愛する様子が描かれており、最期のころには、舞子別邸に逗留させ、一緒に過ごしている。

この評伝は、大好きだった祖父の死をまだ理解できない幼い喜久子姫を見て、周囲の人々が涙するところで終わっている。





(・・・あまり本題とは関係ないが、)


このとき偶然にも、亡くなられた舞子別邸に人事局長として勲章を届けにやってきたのが、山屋他人少将(当時)であった。



(「七月八日 山屋海軍人事局長(少将)元帥号並に菊花頸飾章進達の為め舞子御別邸に到らるゝところ」 『歴史写真』8月號 大正2年 国立国会図書館)


さらに後年、喜久子妃の外国語教師(御用掛)を務めたのが、山屋の母方いとこで英国留学経験のある野辺地安子女史であった。





安子の父で、山屋他人の伯父の野辺地尚義は、幕末に南部藩を脱藩、大村益次郎門下の蘭学者となり、江戸の毛利藩邸で教授(生徒に伊藤や木戸がいた)、京都で日本初の女学校(後の府立第一高女)校長を経て、和の迎賓館と呼ばれた高級社交場・紅葉館館主を長く務めた。)

              (「明治過去帳」 「東京芝・紅葉館 紅葉館を巡る人々」他)


米内光政新首相へのそっけない(?)祝辞と海軍葬

2018年08月31日 | 雅子妃の系譜

山屋他人大将の葬儀で、葬儀委員長を務めたのが、おなじ岩手出身で海軍の後輩の米内光政前首相でした。


◆「米内首相を語る山屋大将」◆

さて、その葬儀のわずか8か月前の昭和15年1月16日、米内氏が内閣総理大臣となりました。(在任期間1940年1月16日~1940年7月22日) 

この時、同郷の大先輩で、当時すでに体調を崩し、熱海で病気療養中だった山屋氏へのインタビュー記事があります。
(保養中の熱海の邸宅は、親戚の実業家の所有する別邸)



「寒もやがてあけるといふ、うすら寒い風の吹きしきる日の夕べ、記者は、熱海に病を養ふ山屋閣下を訪ねて、米内新首相の話をねだった。」

「玄関に見えられた夫人に案内されて、見晴らしのいい階上の、将軍の寝室に導かれた。
夫人は火鉢の灰をかきのけて赤い炭火を掘り起こしながら、
『今少し先、やっと床を離れて、下でお茶を飲んで居るのです。』と仰言る。
間もなく、階下から丹前姿の将軍が『やあ、よく来た。何しろ階段を上るにもこの通りでな。』と四つ這いの真似をされながら座布団を敷かれた。
おもひなしか大分おやつれのようにみえる。『どうも暮れに不幸やら何やらごたごたがあって少し無理をしたもんで・・・・然しおかげでもう大分いい。』
夫人が間もなく階下に去られて、畳の香も新しい六畳間に将軍と二人きりになる。

『米内君について語れと言われても、實の処、気の毒だが何もないよ。
ただ同じ海軍の飯を喰った同郷の者だといふだけのことで、而(しか)も米内君とは十七期も違ふのだから、現役中全く面識すらなかったといっていい。
洵(まこと)に御縁が薄かった。私が米内君の名を知ったのは、たしか米内君が佐世保鎮守府司令官になられたころではなかったかと思ふ。

先日もある新聞記者がやってきて昔話をしろといふのだが、この通り何も話の種がない。その話の種のないことを語ったら、次の日の新聞を見ると、デカデカに「愛すべき男」といふ標題で書かれてある。いやはや洵に困った。
いくら何でも米内君に済まないことに思って、いづれ会ったらお詫びをしたいと思っていた。この機会に、是非一つ君の雑誌で訂正して置いてくれ給へ。

大命を拝した米内大将について彼是(かれこれ)いふことは、とりも直さず畏れ多くも大命を是非することになる。これは大いに慎しまなければならないことだ。
米内君が大命を拝されてこの難局に起たれたとは並々ならぬことである。
ただ、私が米内首相について言えることが一つある。それは「至誠」といふ二字である。すべて米内大将の一挙手一投足が、この二字から出ていることだけは伝へていただきたいものだ。

米内君と私が顔を合わせるやうになったのは、新岩手人の会や、岩手海軍会や海相になられてから、しばしば吾々隠居の大将を集められて時局についての懇談会があって、その席上などであるが、いつも頼もしく思ふのは私のこんな貧弱な體格に較べて、米内君にしろ及川君にしろ、あの身體の立派なことだ。ご苦労でも、この際である、吾々の何倍も働いていただかなければならない。』

山屋大将はここまでポツリポツリと厳かな口調で語られて、やがて深々と眼をつぶられた。白くなった長い眉毛、その下にぢっと暫らく閉ぢたままにして居られる眼。(閣下は米内さんの為に祈っておられるのだな) 記者はさう独断できめて、吐く息も自づと音無しに、小刻みとなるのを意識しないわけにはいかなかったのである。」


                       (出典:「新岩手人」)

・・・・と、記事は終わっている。
どうやら最後は、眠ってしまわれたようです。

けんもほろろ・・・とまでは言いませんが、そっけなく少々突き放した感じで意外でした。
というのもこの方は、どれを見ても「温厚篤実」、「慎重居士」と評される穏やかな方で、諸先輩や友人についての思い出話をいくつか読んだのですが、あまりに話しぶりが違っていて驚きました。

大正時代に現役を退いており、あまり付き合いがなかったという事もあるでしょうが、親族に海軍関係者もいるわけで、何も知らないという事もないでしょう。
実質褒めているのは「体格」だけです。
わずか8か月後、自身の葬儀委員長を米内氏が務めたと知ったら、驚かれたかもしれません。



◆ 海軍葬 ◆

さて、この後、山屋大将は昭和十五年九月一〇日に亡くなられています。
当時の年譜には、「薨去」と書かれているものも散見されます。

新聞には、「山屋大将邸に勅使を御差遣」として、「一二日午前一一時、勅使内藤侍従を差遣し、幣帛を下賜あらせられた」とあります。
また同時に、「海軍葬次第決まる」として、一三日に青山斎場で行われ、葬儀委員長に、二か月前まで首相だった米内光政大将、幹事にやはり同郷の八角三郎中将以下二八名と出ている。(朝日・昭和15年9月13日)


                   
(むかって右から3番目の白い制服が米内前首相、その右隣の有馬大将は故人と同期、一番右は鈴木貫太郎と思われる:「新岩手人」)

当日の様子について、
「故・山屋他人海軍大将の海軍葬は秋晴れの十三日青山斎場で正午から盛大に挙行された。」
有馬、鈴木、山梨各大将その他顕官諸将星、南部利英伯爵ご一家、毛利子爵、島津男爵、田中館愛橘博士等列席。永平寺の大導師の読経に入り、東伏見宮、山階宮、久邇宮の各御代拝があり、及川海相以下の弔辞のあと、全員起立の中に、横須賀海兵団儀仗隊による「弔銃」3発が碧空にこだました。
その後、午後一時から一般の告別式にうつった。(朝日新聞9月14日、新岩手人)


※この葬儀の導師を勤めた越前の永平寺と山屋大将は御縁があり、 雅子妃は、外交官試験を終えた後、曾祖父の「書」が残されているこの名刹を友人と訪ねている。


◆「山屋閣下を思ふ」◆

さて、葬儀委員長を務めた米内氏は、同じく「新岩手人」にて、先輩について以下のように語っています。

(引用開始)

私は元来人を訪問することが好きでないで、郷土の大先輩たる山屋閣下もあまりお訪ねしたことがなかった。
何でも私の大尉時代に、八角、原、小山田の諸君に連れられて、当時たしか麻布の狸穴近くだったかと記憶する山屋閣下をお訪ねして御馳走になったことがあるが、これが私の山屋閣下にお目にかかった最初だったやうにも憶えてゐる。

御承知の如く山屋閣下は温厚な人格者で、慈父のような尊厳のある方だったが、決して単にそれだけでなく、かなりの閃きをもったユーモリストでもあられた。
人を導くのに決して理屈をもってすることなく、笑ひ話の諧謔の中に、おのがじしそのゆくべき道をしめされるといふ風であった。


  「近代日本人の肖像」

私が海軍大臣に就任したとき、世田谷のお宅に御挨拶に参上したが、言葉少なに、この際洵(まこと)にご苦労だと仰言ったのみで、別に政治上のご意見は仰言らなかった。
山屋閣下はあれだけの人材であられたのだから、定めし政治上とかその他の誘ひもあったに相違ないが、(中略) 終始一貫一切政治上のことに関係されずに七十五の清い生涯を帝国軍人としてのみ終えられたことは、さすがにお偉かったと欽慕の情に堪へないと同時に、洵にお羨ましくさへ思はれる。

私が大命を拝したとき、岩手海軍会でそのお祝ひの会を開いて下さったが、その当時山屋閣下は病床に居られて、ご出席になれないのを大変残念がられ、小森閣下に託して「御挨拶」の原稿を読ませられたが、あとで、山屋閣下と碁敵として大変親しかった大見丙子郎少将(秋津洲艦長時代の部下)の話に依ると、この御挨拶の原稿を書かれるのに三時間も大変苦しまれ、推敲を重ねられて漸く出来上がったものだと聞いて、私は涙の出るほど感激した。
(中略)
ちょうど亡くなられる一週間ばかり前にお見舞いに参上したが、大変弱って居られて洵にお気の毒であった。それから又少し間を置いて、お見舞のお手紙を奥様宛に差上げたが、ちょうどそれが亡くなられた日に届いたといふやうにあとで奥様から知らしていただいて感慨無量であった。
海軍葬には委員長たるの光栄に浴し、遥かに英霊の昇天をお見送り申し上げたが、時局下、かうした偉材を亡ったといふことは、ひとり郷党や海軍としてのみならず国民の一人として洵に残念でならない。


(引用終了)   

山屋先輩は、若い米内氏を自宅で御馳走したこともすっかり忘れてしまっていたようですね。






・・・・・ここから5年後、

日本は米国に敗れ、占領下におかれることになった。

マッカーサーの部下・フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び、天皇免責案として、開戦時の天皇は無力であったとする立証を日本側に要請(このために「昭和天皇独白録」が作られた)、そして東京裁判において「東條に全責任を負わせるようにすることだ」と提案し、それに対し米内も「同感だ」と応じている。
(「昭和天皇の終戦史」他)


陸軍と海軍は犬猿の仲でしたが、東條家も、山屋家・米内家と同じく南部盛岡藩士でした。






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この昔の県人会誌に、山屋大将の話としてちょっと驚いたのが、

「横川省三と私」

「私は下小路の家から盛岡小学校へ通った。私の隣家が例の華厳の瀧へ投身して名を遺した藤村操、その向かひが横川(省三)の家だった

「横川と私の関係はいはば小学校の友達でした」とあり、

雪解け道で、横川少年が山屋少年の下駄の鼻緒をすげてくれた思い出を話しておられます。

後年、横川は、朝日の記者などを経て、国の命で対ロシアの諜報活動に従事するも捕えられ、悲劇的死を遂げましたが、その34年後、横川氏を偲び麻布に「横川公園」ができることになった際、山屋氏も協力し地鎮祭にも出席している。

「かうしてゐる中にも鼻緒をすげてゐる少年、横川の幼い顔がはつきり浮び出る、『愛』の横川です。」
(昭和13年談)



三代の天皇に仕えて

2018年03月17日 | 雅子妃の系譜

雅子妃の曾祖父、山屋他人海軍大将については多くの公的資料があり、そのうち「宮中行事」や皇族の「冠婚葬祭」など、皇室との関わりを示すものを、(過去に記事にしたものも含め)一部ピックアップして見ました。


◆東宮(のちの大正天皇)へのご進講◆ ---------------------------

                 

           (国立国会図書館デジタルコレクション)

  終盤に、軍事についての進講者の一人として、名前が挙げられています。(大正天皇御大喪写真帖)




◆明治43年 東宮御用掛として皇太子葉山行啓に伴う出張の仰せ付け◆

山屋氏は明治41年に東宮御用掛となっており、下記の公文書は、坂本中将(男爵)とともに、東宮(のちの大正天皇)の葉山行啓についての出張の要請が書かれています。

         
                          (国立公文書館アーカイブ)


大正天皇については今も実像がわからず、暗愚であったとか、いやそうでもないとか諸説ありますが、山屋氏は東宮時代から非常に近く接しており、雅子妃の祖母やご親族は、実情をよく御存知だったかもしれません。




◆大正元年 明治天皇大喪にあたり、来日したスペイン皇族の接遇◆

最初の記事「スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁」でも書きましたが、
この写真の着席している前列左端です。

                    




それから、天皇ではなく宮家の皇族についての慶事や弔事への参列の資料も多くあり、そのうちの一例として、


◆大正2年 有栖川宮威仁親王(海軍大将)薨去に際して◆---------------
                  



山屋他人少将(当時)が海軍省人事局長として、舞子の有栖川宮家別邸に向かう写真が残っています。(舞子別邸で亡くなられたため )
                        
                       (国立国会図書館デジタルコレクション)


この有栖川宮は明治8年に海軍兵学校に入学していますが、在学中、兵学校の学監を雅子妃の高祖父・古賀喜三郎(江頭安太郎中将の岳父)がつとめており、親王への厳しい指導のエピソードが「有栖川宮威仁親王行實」に記されている。
古賀は現在の海城学園の創立者であり、その前身学校の式典等に、来賓としてこの有栖川宮が臨席している。


                    




◆大正5年 神武天皇式年祭に海軍省勅任官総代(当時中将)として参列◆-----
              
 
              
                       (国立公文書館)

神武陵がまだ今のように形成・整備される以前の頃でしょうか。
江戸末期生まれの彼らが「2500年」を信じていたはずもありませんが・・・どのように解釈しておられたのでしょうか。
雅子妃は御成婚の際と、さらに、上記からちょうど100年後の2015年には東宮ご一家3人で参拝しています。






それから例外として、これは宮中行事等ではなく、日常的な軍務ですが、

◆大正9年 横須賀鎮守府長官として東宮(後の昭和天皇)の帰還をお出迎え◆
            

                     


皇太子が地方行啓から戻った際、横須賀入港に際し、横須賀鎮守府長官だった山屋大将が迎えに行き、
お召艦に「御陪乗」して一緒に上陸する旨が書かれています。
・・・・しかしまあ後年、昭和天皇は非常に問題でした。人間の評価というのは難しいものです。
                     





さて、これ以降は、すでに完全に引退なさっていますが、


◆大正13年  皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚◆----------------------
 

「皇太子殿下ご結婚関係」と題された公文書より
 
            




◆昭和2年  大正天皇大喪の礼◆---------------------------------------

霊轜霊輦側供奉将校の件」と題された公文書より

                 

                 

                 


この写真のもう少し後ろにおられると思うのですが、ご本人がはっきり写ったものは見つけられませんでした。
葬列図によると、山屋他人は百武三郎と鈴木貫太郎の間。


「朝日年鑑」の「轜車発引の御儀」によると
「霊轜の真近く侍従衣冠単に帯剣素服を加へ、藁沓を穿てる(中略)各侍従供奉し その外側には、正装燦然たる内山、鈴木、山屋、鈴木各大将以下陸海軍将官二十八人左右に分れて侍衛し、」とあります。

この時は、正副4頭の聖牛が轜車を引いています。昭和天皇の時とは全く異なります。




◆昭和3年 昭和天皇即位の大礼◆----------------------------------------

「昭和の大礼(即位の礼)に参列した雅子妃曾祖父」で記事にしましたが、
                  
(最前列左から6番目)
                  
(こちらの写真では最前列左から5番目)

 


◆昭和初期  観桜会と観菊会 ◆-----------------------------------------------
 
     春の観桜会

                 

                                    

                 



        秋の観菊会(前略)
                  
             

もうかなり高齢になりつつありましたが、ご夫妻で招待されておられたのでしょう。
こうした季節の催しへの招待は、昭和8年のみならず、このころ毎年のようにあります。
この観桜会と観菊会が、現在の春と秋の園遊会になっていったようです





<賢所での行事>

この他、宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があったようで、山屋他人の5女で、雅子妃の祖母にあたる江頭寿々子さんは、非常に寒がりの父のエピソードとして、

「二月が殊に駄目で、十一日の紀元節には宮中賢所での行事のお招きには、いつも『所労に付』というお断りの欠席届を出していたものである。」
               (「父のどてら」より)


とお書きになっている。






最後に、これは皇室とは別の話で、かつ軍務によるものですが・・・・


◆ 数々の勲章と ◆------------------------------


以前にも少し書きましたが、大佐以降、世界各国から非常に多くの勲章を授与されています。
資料・年譜によって挙げられている国がまちまちで、どれだけあるのか確定できませんでしたが、スペイン、オランダなど複数回授与されている国もあります。
その他、オーストリア、ポルトガル、中国、英国(バース勲章)、フランス、米国、イタリア等々。

以下、最高位かそれに近いものだけ、画像を掲載しておきます。

フランス 「グラン・オフィシェ」

(拡大します 以下、同様)(画像はいずれも国立公文書館)

ルーマニア 一等勲章


米国


イタリア 一等勲章 




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あえて一つ一つ記事にするまでもないので、ごく一端ですがいくつか選んで並べてみました。

それにしても、婚約決定時から現在に至るまで、
なぜこういう事が、全く報道されないのか?


特に、大正天皇の御用掛であったことや葬列への参加、昭和天皇の即位礼や結婚の儀への列席は、雅子嬢が皇太子妃に決まった際に、基本的な人物データとして最低限報じるべきことでしょう。

彼女については、外国の超有名大卒の外交官だとか、海外で育った期間が長いとか、非常に現代的・先進的なイメージばかりを強く打ち出していた感がありました。
しかし実際は、むしろ「地味に手堅く」、「縁があった人物の子孫」をたどってのオーソドックスな「お見合い相手」だったといえるでしょう。


それにしても、平成5年御成婚の雅子嬢でさえ、天皇と先祖との直接的関わりが結構あるのに、まだ戦前の慣習が残る昭和33年の正田美智子嬢にこうした要素がみられないのは、非常に謎です。

こういう事が全く周知されないというのは、美智子皇后への忖度もあるのでしょうか?

また皇室というのは、そこを取り巻く特定の人々や家系、関係組織の「利益」と「免責」のために存在するところでもあります。

「自分たちの利益と相反するならば、デマでも流して排除しようと警戒していた勢力が、最初から周辺にいくつもあったんじゃないの?後年いろいろわかってきたことからみても」とは友人の弁ですが・・・。


明治33年、江頭安太郎中佐の「天皇機関説」?

2017年11月14日 | 雅子妃の系譜

雅子妃の曾祖父、江頭安太郎中佐の提出した国法学の論文に対する宇都宮教授(海軍大学校)の講評が、明治33(1900)年の公文書に残されています。
                       
          (国立公文書館 デジタルアーカイブ、以下同じ)

またその前年、海軍大学校長を通じて東京帝大政治学科への聴講を願い出ている文書もあります。論文執筆の為でしょうか。
                                                                    

宇都宮教授は論文への審査報告の冒頭、
「条理明晰議論老成優に著者の超凡にして豊富なる理解力判断力を有するを称するのみならず 併せて著者の斯学における素養の程度をも窺知するに足る者あり 海軍将校中此の種の著者を出すを見 国法学者は驚異と嘆賞とをもってこれを向かふるなるべし」
と書いています。

(前にも書きましたが、この方についての人物評は、お若いころからどれを見ても、滅多にお目にかかれないような言葉で称賛されています。一体、どれほど優秀だったのでしょうか。)


この審査報告には、

「法理上 君主は国家に非ずして 国家の機関に過ずとする学説の正理なるを論証せんとするにありて」

「国家と君主は同一体なりや、との問題に付き 是を是認すると否認する者との二泒(派?)あり 著者は後泒に属する者にして」


と書かれています。
私は全くの門外漢でよくわかりませんが、いわゆる「天皇機関説」の考え方を採用しておられたようです。
議会を君主と同等に非常に重く捉えていたこともわかります。

また読み進めると、国家に対する国民(当時は臣民)の権利を広く認めようとする姿勢がとても強く感じられます。

                     

あくまでも講評からうかがえることではありますが、非常に先進的というか現代的で、むしろ現在の憲法の考え方に近いぐらいの印象があります。
こういう意見を、将来海軍を背負って立つと自他ともに認める人物が述べているというのは、なかなか興味深いものです。
さすがに戦争放棄まではありませんが。

また、君主(天皇)、帝国議会、裁判所、国民(臣民)をどのように配置するか、そして其々の力関係、権力構造をどう構築するかを非常に自由に論じていることがうかがえます。

特に「領土は統治権の客体に非ず」と書いておられるということが非常に印象に残りました。 
後年、国体を称賛する全体主義と植民地拡大とが連関し、国の破たんをもたらしたことを考えると、なかなか示唆的でもあります。

また、君主と大臣との責任の範囲にも言及しておられるようです。
審査する宇都宮教授は、領土についても大臣の責任(の範囲)についても非常に楽観的ですが、現実に諸外国と対峙するエリート幕僚であったであった江頭氏の視点は、後々のことを考えると、かなり先見性があったと感じます。
                    
                  

そして「君主は国家に非ず」といった内容の論文が「有益の書と認める」ということで海軍大学校に保管の運びとなっています。
当時はこうした内容はタブーでも何でもなかったという事でしょう。

そもそもこの世代の人たちは、江戸時代末期に生まれており、ちょっと前までこんな世の中じゃなかったことを身を以って知っているわけで、皇室に対して、教条的にも観念的にもなりえないのは当然でしょう。


一通りの論評が終わった後、宇都宮教授は、
「余の論評せし所は重に本書の大主義に関するものにして其他の諸点に至ては多くは批評を試むの余地なし 唯余の一々之に向て賛辞を呈せざるは是れ著者を敬する所以なり」と記しています。

それにしても多忙な中、東大に聴講、論文まで書き、高い評価を受けていますが、その数年前には、病気で転地療養までしており、あまりお丈夫ではなかったと思われるのですが・・・・。
                                
   
雅子妃の祖母の江頭寿々子さんは、句集におさめられたエッセイで、自分の父と海軍で同期であった夫の父親について

「江頭の父は兵学校始まって以来の秀才といわれ、クラスの皆も一目おいて呼び捨てにせず『江頭さん』と呼び、学科の分からない所があって聞きにいっても、必ず『こうこうだと思います』と一歩下っておしえて下さるとか、性格は謹厳実直、その上極めて優しく体格は良くて模範的な海軍士官であった」

「成績はいつもトップ、平均98点以下を取った事がないほどであったので、少尉に任官後もいつも中枢部に居り、日露戦争のときは、大本営参謀を務めて居られた。主人が五歳の時海軍省軍務局長の激務に追われ、過労から肺炎が悪化」

大正2年、40代の若さで逝去。

「其後もクラスの皆さんは海軍の損失、ひいては日本の損失と江頭中将の遺徳を忍び、どんな会でも、先ず江頭未亡人から先へという不文律は、ずっと守り続けられたと父母から聞いている。」

このクラス(第12期)は、「花のクラス」と言われるほど優秀ぞろいで(江頭氏のほか、山屋他人、有馬良橘を輩出、この二人は大将になっている)、特に薩長出身者が一人もいないことで、結束がより強かったと言われています。

(なお、寿々子さんの父、山屋他人大将は、明治44年に海軍大学校長も務めています。)

それにしても、海兵卒業式では、総代(主席)として恩賜の軍刀を下賜され御前講演を行った人物が、「君主も国家の一機関」とする論文を書いて激賞され、その後も要職を歴任、明治天皇崩御の際には、「大葬儀海軍事務委員長」を務めた、という事実は、なかなかに考えさせられるものがあります。
ここ数年言われている「明治の精神」などというのとは、かなり異なる、というよりむしろ全く逆にさえ感じられます。

さて、この国法学の論文、雅子妃をはじめとしたご遺族の方は読まれたのでしょうか?

公文書にあるように海軍大学校に保管されたのであれば、その後は防衛庁(省)にあるという事になりますが・・・・。

孫にあたる江藤淳氏もこうした祖父の論文については何もお書きになってはいないようなので(私が見つけられなかっただけかもしれないが)、ご存じなかったのかもしれません。

もし現存するのであれば、公開していただきたいですね。


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(追記)

江藤淳氏の「戦後と私」に、祖父・江頭安太郎氏の論文についての記述がありました。

当記事で採り上げた国法学の論文は明治33年ですが、この「戦後と私」では明治35(1902)年と書かれており、内容からみても別の論文についてかもしれませんが、一部抜粋して掲載しておきます。


(引用開始)

明治三五年、海軍大学校から派遣された委託学生として東京帝国大学法科大学に学んだときの論文の写しが父の手許に保存されている。当時祖父は中佐で、論文は和罫紙に毛筆細字で書かれ、海軍大学校長に提出されているが、その内容は西洋社会思想史、特に社会主義に関するものである。

因みに祖父は森鷗外より三歳年少である。鷗外が社会主義について書き出すのは明治四十三年の幸徳秋水の大逆事件以後だから、これは鷗外の研究の広さと深さには遠く及ばないとしても、少なくとも時期的には先んじているものとしなければならない。祖父がなぜこの問題に関心を持ったか、指導教授が誰でどういう径路で文献を入手したかについては私はまだ調べていない。

しかし祖父はそこでユートピア社会主義、アナルコ・サンディカリスム、および共産主義の沿革を概説しつつその各々を批判し、国家の指導による漸進的な社会主義を将来帝国政府が採用すべき内治策として推している。

(引用終了)
         (江藤淳「戦後と私」 初出は「群像」1966年10月号)



この場合の「国家の指導による漸進的な社会主義」というのは、現在の日本の社会保障・福祉制度(公的な医療保険等)や労働組合などに相当するものと考えてよいでしょうか。

国法学の論文への講評からうかがえるのと同様に、極めて先進的な論文であったことは間違いないでしょう。
若い頃から「将来の海軍大臣間違いなし」と言われた方でしたが、すでにその視野は、日本の国づくりに広がっていたようです。



昭和の大礼(即位の礼)に参列した山屋他人大将(雅子妃曾祖父)

2017年09月21日 | 雅子妃の系譜


    (最前列左から6番目が山屋他人です)

(拡大します)

昭和3年に、昭和天皇の大礼(即位の礼)が京都御所で行われ、雅子妃の曽祖父で、当時62歳の山屋他人大将(すでに予備役となって引退しておられる)も列席しています。



この「大禮に参列の海軍将星」と題された記念写真では最前列に、山屋氏も含む明治・大正以来の歴代大将が並び、ずらりと揮毫(サイン)しているのがわかります。(上の写真で青で囲んでいるのが「山屋他人」)






更に、最前列にクローズアップすると、

 (この画像では、最前列の左から5番目になっています)

(出典:「大礼特別観艦式・大礼中の帝国海軍 :昭和3年」海軍省 昭和4年 国立国会図書館デジタルライブラリー )


さてこの時、およそ90年後に、ひ孫娘が皇后になることを想像なさったでしょうか?



この大礼については、当然のことながら多くの写真集があり、

                

(全体写真)

(出典:「大礼諸儀及大礼観兵式写真帖」 国立国会図書館デジタルライブラリー)

山屋氏を含め、歴代大将方は、「海軍大将」、「親任官」、「勲一等」、「旭日大綬章」始め、それぞれに最高位にあたる参列資格をいくつも有しているので、即位礼当日の「賢所大前の儀」、「紫宸殿の儀」をはじめ、「七儀」すべてに列席しておられたはずです(もちろん、夫人も同様です)。

上記の写真では、ご夫人方も古式ゆかしい小袿袴の正装姿で一緒に参列していることがわかります。
実際、前掲の海軍の写真集では、数人の海軍大将の奥様方のこうした装束の写真があります。



また、公文書館のアーカイブで公表されている資料の一部として、

「大礼記念並に同証状交付に関する件(23)」という公文書に
               

とあり、おそらく雅子妃の曾祖母の貞子夫人も、一連の儀式にはともに出席なさったのではないでしょうか。
典雅なおすべらかしの写真がご遺族の手元に残っておられたら、ぜひ、見せていただきたいですね
(ただ残念なことに、山屋邸は後に、戦災に遭って焼失しておられるとのことですが・・・)。



皇太子と雅子妃の婚約が正式に決定した際、私の友人が、

「雅子さんのひいおじいちゃまは大昔、仕事ではもちろん、宮中での行事なんかに日常的に参内してらしたと思うんだけど、何でそういうこと、報道しないんだろう?
宮中の公式行事の写真なんて、政府にも山ほどあると思うけど。まあ美智子さんの手前、遠慮せざるを得ないんだろうけどね」

とよく言ってました。

この写真は、ずいぶん前に見つけたものですが、目星を付けて探すと、こういう写真は簡単に出てきます。
生前退位や新天皇への代替わりの皇室関連のニュースが頻繁に流れている中、次の皇后のご先祖が、昭和の大礼に参列していたことなど、うってつけの話題だと思うのですが・・・・。


雅子妃は、平成の新時代の皇太子の縁談の候補としてつとに有名で、華やかな経歴だけではなく、歴史的背景や皇室との縁を持った、至極順当なお妃候補だったわけですが、婚約当初から、そうしたことをなるべく感じさせないよう、非常に意地悪く焦点をずらした系譜・親族の紹介がなされており、奇妙なマスコミの悪意が目につきました。
”先祖に軍人が存在することへの配慮”もあったのでしょうが、軍人ではない方も当然おられるわけで、どうやら雅子妃は初めから、美智子皇后への忖度も含め、マスコミの利益構造とは必ずしも合致しない存在と位置づけられていたようです。


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山屋他人は、数々の主要ポスト歴任を経て、海軍大将に昇進したのが大正8(1919)年ですから、主に大正天皇時代の重臣だったと言えるでしょう。
大正帝が皇太子時代には、御用掛や軍務のご進講も務め、また山屋夫妻のご親戚には、大正初頭に宮内省侍医を務めた医学博士もおられました。
そして、この即位礼の昭和天皇とも、皇太子時代、ごく短期間ではありましたが、ともに軍令部勤務で職場を同じくした時期があり、よく御存知であったと思います。

大正12(1923)年に予備役となった後は、当時、これほどの地位を極めた方としては非常に珍しく、完全に第一線を退き、旧盛岡藩士として、岩手県出身者の学生会や海軍会の会長を務めたり、同郷の名士同士で親しかった鹿島精一(鹿島建設社長)、田中館愛橘(物理学者、帝大教授)、後輩の栃内曽次郎大将らとともに、旧盛岡藩主・南部家の顧問を務め、同家の後援を行うなど、いわゆる名誉職を引き受けるにとどめています。

(当時はまだ、上京後も、かつて属した旧藩を基盤とした交友関係が生涯にわたって大きな意味を持っていたことがうかがえます。
盛岡藩はいわば「賊軍」扱いだった時代もあり、なおさら結束が強かったのかもしれません。)

山屋氏の人物評には、「温厚な君子人」、「おおよそ軍人らしからぬ」、「学究肌」とのフレーズがよく出てきますが、退職後の人生の選択にそうした性格が表れており、もしかしたらお若いころには、事情が許せば軍人以外の道への希望もあったのかもしれないな、とも感じました。

ただ、(公文書等の記録によると)「親任官」として、晩年までずっとこうした即位礼を始めとする宮中行事など冠婚葬祭、各種催しには出席なさっています。
山屋他人は、日米開戦も、その後の敗戦と海軍の消滅をも知ることなく、昭和15年9月に75歳でお亡くなりになりました。




さて一方、この時、京都御所で即位の儀式に臨んだ、若き昭和天皇。
敗戦後、占領期における昭和帝の行動が、今に続く日米間の安全保障体制の形成に深く関与していたのではないか、と考えられる公文書やそれに基づく論考が、近年、新たに提示されるようになっています。
またそれに伴って明らかになりつつある、あらゆる分野における戦後日本の「作られ方」についても同様に、平成のごく初期に学生生活を終えた世代としては、驚愕と同時に大変困惑させられるものでありました。



この記念写真には、山屋氏の後輩で、この大礼から17年後に首相となって第二次大戦を終結に導くことになる鈴木貫太郎大将の姿もみられます。


また同じく後輩で、友人でもあった百武三郎大将の姿も見られます。
百武氏は、山屋の末娘・寿々子嬢(雅子妃の母方祖母)の結婚の際の仲人でもありました。
お相手は山屋と同期の故・江頭安太郎中将の子息・豊氏(日本興業銀行勤務)で、この江頭(父)氏と百武氏もまた、同じ佐賀藩士の同郷という縁がありました。
百武氏は、昭和11年11月から19年8月まで、昭和天皇の侍従長を務めています。


鈴木、百武両氏をはじめ、記念写真に写った方々のうち、敗戦時、存命だった方は、山屋氏が見ずに済んだ悲惨な光景を目の当たりにすることになりました。


                  

この最前列に居並ぶ歴代大将方の多くは、主に、明治、大正期に天皇に近く仕えた幕僚のトップであり、ご夫人方も含め、同期を中心に強い人間関係が形成されていました。

彼らは、この時、皆で即位を見守った昭和天皇の、その後の敗戦から独立に際してのあり方、そして何より、苦楽を共にした同輩・仲間の子孫である雅子妃の現状(と平成の皇室)を、遠い世界から、一体どのような感慨を持って見ているのだろうか?

昭和3年の「大禮に参列の海軍将星」と題された記念写真、いろいろ考えさせられる一枚ではあります。



(「官報」「人事興信録」「大将傳・海軍編」「昭和大礼京都府記録」「新岩手人」「大正天皇御大葬写真帖」「郷関を出でし岩手の人々」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)


「近代名士之面影」と公文書にみる、海軍中将 江頭安太郎

2017年05月14日 | 雅子妃の系譜


大正初期に発行された「近代名士之面影 第壱集」(矢部信太郎編 竹帛社 大正3年)という本があります(画像の出典 国立国会図書館デジタルライブラリー)。

文字通り、明治期に活躍し亡くなった各界名士の人生とその肖像写真を掲載したもので、伊藤博文や小村寿太郎、乃木希典をはじめ様々な分野で世に貢献した人物の生涯が描かれています。

当時は一般にまだ紙質が悪く、このような上質本は貴重で、特に歴史的人物の写真が多数掲載されていることから、この本自体がそのまま「日本名家肖像事典6」となっています。

この本に、雅子妃の曾祖父の江頭安太郎氏も掲載されています。



(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/147)
(「舊佐賀藩士」、「舊藩主鍋島侯」の「舊」は「旧」の旧字体です。)




文中には、旧佐賀藩士に生まれ、旧鍋島藩主に選ばれて(鍋島侯爵の貢進生)上京、攻玉社から海軍兵学校に進み主席卒業、入省後の昇進、数々の要職歴任と、その48年の生涯が記されています
最後に、「病気危篤の旨、天聴に達するや、特に勲二等瑞宝章を授けらる
とありますが、この「天」というのは大正天皇のことですね。


この最期の叙勲の際の海軍省、内閣、宮内省の各公文書を公文書館のデジタルアーカイブで見つけることができました。
首相は桂太郎、海軍大臣は斎藤實
(以下の公文書画像の出典は、国立公文書館アジア歴史資料センター)




特に印象的なのは、江頭氏危篤に際しての斎藤海軍大臣から桂首相への文書で、



江頭氏について、
頭脳明晰 志慮周密にして海軍兵学校及海軍大学校ノ卒業成績は洽(あまね)く斎輩(同級生、同輩)に超絶し 夙(つと)に俊秀をもって聞ゆ」とあり、行政上の文書で、これほどの表現はちょっと珍しいな、と思いました。「斎輩に超絶し」ですからね。

また、「海軍制度整理の要衝に當り」「その激職を全うして貢献する所多く功績顕著なるを認」ともかかれており、制度改革の要職に就いていたこともわかります。


実は、まだこの方が若い大尉時代の公文書(明治29年)に、肺のご病気で転地療養のための休養を上司の山本権兵衛に願い出たものがあり、あまりお丈夫ではなかったはずですが、そうした持病がありながらも、その後も全く昇進や出世に響かず要職を歴任し続けているのには驚かされます。

(江頭氏が、更に研究・学問においてもその頭脳明晰ぶりを発揮している別の公文書を見つけたので、またそれは別途書きたいと思います。)

(※参照:明治33年、江頭安太郎中佐の「天皇機関説」?


江頭氏は若いころから、海軍大将はもちろん海軍大臣も確実と言われた逸材でした。
上記の書籍や資料からも、そうした貴重な人材を40代の若さで失ったことを惜しむ様子がうかがえます。

江頭氏については、多くの官報や公文書は言うに及ばず、その立場上当然のことですが、当時の新聞や名士を集めた人名録等にも記事や写真を見つけることができます。

現代人名事典 明治45年刊 古林亀治郎編 中央通信社 国立国会図書館)


(軍人であることへの配慮があったとはいえ、上記の「近代名士之面影」などは、当時を代表する有名な本ですし、明治大正期の書籍や公的資料もあるのですから、ご成婚の際、本来もっと引用・紹介されてしかるべきものです。)



それから、この方の兄の範貞氏も、近代司法草創期の判事(裁判官)として奉職なさっています。明治期の官報や官員録(司法省)の記載から、主に東北各県を中心に地方裁判所の裁判官を務めておられたことがわかります。

範貞氏も、物故者名鑑の「大正過去帖」(東京美術発行)によれば、
「大正5年3月17日午前11時、東京広尾の自邸に逝去。」とあり、兄も50代ではありますが、弟同様、早逝と言っていいかもしれません。



この方々は、土着の故郷を遠く離れて都会で進学や就職、そして命じられた赴任地で家庭生活を営み生涯を終える、という現代的なライフサイクルを、一般平均よりも2世代から3世代早く迎えています。
秩禄処分後、旧藩の後援などを受けて上京できた優秀な士族の子弟の典型例なのでしょうが、広い世界への雄飛とはいえ、苦労も多かったはずです。
江頭安太郎氏が上京して、攻玉社で寮生活を始めるのは10代半ばですからね。

いろいろ古い資料を見てみましたが、職務内容や任地が記載されている公文書を読み、官報の「叙任及辞令」の欄に小さな文字で記された役職と氏名を発見・確認するたびに、その方の人生の風雪が偲ばれ、とても厳粛な気持ちになりました。



 

スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁

2017年04月07日 | 雅子妃の系譜

今から100年以上も前、明治天皇の大喪の礼に参列するため、英国、ドイツ、スペインの王族をはじめとする外国要人が来日し、その際、スペイン王族のアルフォンソ公ボルボン殿下の滞在中の接遇を、雅子様の曽祖父で後に海軍大将となる山屋他人少将(当時)が拝命なさっています。


(出典:「日本歴史写真帖 近古の巻」大正3 東光園 秋好善太郎 国立国会図書館デジタルライブラリー)


外務省の「日本外交文書 第45巻 第一冊」に、『事項十九 明治天皇崩御一件』という文書があります。
そこに大正元年(1912年)9月、明治天皇の大喪の礼で来日した、スペイン皇族のドン・アルフォンソ・デ・オルレアン・イ・ボルボン親王殿下への接遇について以下の記載があります(621ページ下段)。


「明治天皇大喪儀へ西國皇帝陛下ノ御名代トシテ参列ノ爲メ御渡来相成候
ドン、アルフォンソ、デ、オルレアン、イ、ボルボン殿下ニハ本月十日午後四時二十分新橋停車場御着 天皇陛下御出迎直ニ御旅館芝離宮ニ入ラセラレ候

是レヨリ先陸軍中将村田惇、宮中顧問官田内三吉、海軍少将山屋他人、式部官伯爵亀井玆常、大使館三等書記官佐藤尚武 同殿下接伴員被仰付候。」  



他に、海軍省の公文書にも西班牙皇族接遇の記録があり、ずっと写真を探していたのですが、ようやく見つけました。
ブログや集合写真等で、山屋氏の若いころの写真をいくつか見たことがあったので、氏についてはすぐにわかりましたが、念のため他の方も全員調べてみました。
みなさん簡単に経歴と顔写真が確認でき、「日本外交文書」の記述と一致しました。



(出典:同上「日本歴史写真帖 近古の巻」”西班牙大喪使節西班牙皇族殿下及随員接伴官諸士” )


着席している前列左から、

山屋他人海軍少将(大将昇進は大正8年、明治41年東宮御用掛[S16年『大将傳』より]、雅子妃の曾祖父)

村田惇 陸軍中将

ドン・アルフォンソ・ボルボン親王殿下(当時のスペイン皇帝アルフォンソ13世のいとこ)

田内三吉 宮中顧問官(陸軍少将、大正天皇侍従)

後列、山屋氏と村田氏の間の大礼服の方が、

亀井玆常伯爵 宮内省式部官(津和野藩主家当主、元国会議員の亀井久興氏の祖父)

そして、一番右端の方が、

佐藤尚武 三等書記官(外交官、階級からみて通訳を務めたと思われる。後に、昭和20年の終戦時の駐ソ大使)



(尚、雅子さまのもう一人の曾祖父である江頭安太郎氏も、海軍省の公文書から「大喪儀海軍事務委員長」をつとめておられたことがわかりますが、残念ながら翌大正2年に若くして中将で亡くなられています。) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08020021200?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=%E6%B1%9F%E9%A0%AD%E5%AE%89%E5%A4%AA%E9%83%8E&

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また、「大正名家録」(大正4年 二六社発行)にある「山屋他人」の欄には、プロフィールとともに、政府の命で艦長として海外差遣の途中、寄港したスペインの小港ポロンでの出来事として、

「當時同国皇帝其狭小なる港口に於いて氏の能く艦船を自己の手足の如く自由に操縦するを観覧し其の超越せる手腕に感じ稀世の好艦長なりと称賛之れを久しうせられたりといふ」

と、氏の卓越した操縦術にスペイン皇帝が賛辞を送ったエピソードが記されています。



色々調べてみると、海軍は日露戦争勝利後、日露講和に尽力してくれたアメリカ(バージニア州での「万国陸海軍祝典」への招待があった)を初め、欧州諸国への友好親善のための公式訪問を行っており、筑波、千歳の2艦を連ねて(艦隊のトップは伊集院中将、山屋大佐は千歳艦長)、明治40年2月から11月まで、米国を皮切りに、英国、ドイツなど10カ国を歴訪しています。 上記のエピソードは、その各国歴訪のうちのスペインでの出来事ではないかと推察されます。



この長期に渡る海外歴訪は、海軍が担った外交上の正式訪問でしたから、若かりし山屋氏も、上述のスペイン皇帝をはじめ、20世紀初頭の欧米列強10カ国の皇帝や大統領に、拝謁の機会があったのではないでしょうか。
帰朝直後に、これらの国々から多くの勲章が授与されていることからも(国立公文書館のアーカイブや「大将傳・海軍編」より)、それがうかがえるような気がするのですが・・・・。

スペイン以外でも、様々な興味深い逸話があるのかもしれませんね。


また、山屋氏の子孫のお一人は、後年、スペイン大使夫人として同国に滞在されており(大正末頃のお生まれの方で、雅子さまのお母様とは別のかたです)、御夫君は外交のみならず、文学や芸術方面でも業績を残された方でした。
こちらでもいろいろなご縁があるようですね。

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双方の100年以上も昔の先祖に、思いがけなく共通の歴史や記憶があるというのは、皇室の友好親善にはとても有益でしょうし、国民もこうした知られざるエピソードを聞かせてもらいたいな、と思うのですが、相手国の方も、皇后である美智子さんに気を遣って、なかなか話題にもしづらいでしょうね。
いずれにしても、美智子さんには面白くないどころか、もはやこういう写真があることさえ、耐え難いでしょう。
あらゆる手段を使って、雅子妃に華やかな外国親善の場を絶対に与えないのも、一時期、宮中晩さん会にも実は招待していなかったのではないか、と言われるのも、よくわかるというものです。

この明治天皇の大喪の礼の接遇写真、マスコミが知らないはずないと思うのですが、誰の顔色をうかがって出さないのでしょうか?
ちょうど今、スペイン国王夫妻が国賓として来日していますが、せめてここに書いたことぐらいの話、きちんと報道しなさいよ、と言いたいですね。