◆幕末から明治・大正に続くエリート家系◆
(更に広がりがあるが書ききれなかった。)
山屋他人の妻・貞子さんの実家丹羽家は、尾張士族で、戦国時代に織田家に仕えた武将丹羽氏の流れである。
藤堂高虎の槍奉行を務め、後に尾張藩士となり幕末を迎えた。
貞子さんの父・丹羽与三郎房忠は、弘化4年(1847年)、同じ尾張藩士平尾家から、丹羽家・ハツの婿養子に入っている。
戊辰の役では官軍の陣場奉行をつとめ、維新後は新政府の教部省(のちに内務省)の神祇官に聘され、井伊谷宮(遠州引佐)権宮司、鎌倉宮(神奈川)宮司、気多神社(能登)宮司、寒川神社(神奈川)宮司を経て、明治35年から大正5年の逝去まで、鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を長く務めた。
丹羽与三郎・ハツ夫妻は、雅子妃曾祖母の貞子夫人を含めて6男一女に恵まれ、「七福神」と呼ばれている。
その子供たちは、当時、女子教育も含め最高レベルの学校の一つであった近藤真琴の主宰する攻玉社で学んでいる。
(この近藤と山屋他人の伯父・野辺地尚義は同じ大村益次郎門下で鳩居堂の同窓。山屋も当然、攻玉社出身。)
それぞれの配偶者の親族も含め、明治から大正時代の非常に先進的な超エリート階層を形成している。
(国立公文書館アーカイブ、官国幣社便覧、「海将山屋他人の足跡」他)
長男
安政元年(1859)生 海軍少将
厳島艦長、水路部測量科長、艦政本部部長を歴任。
夫人の父は佐賀藩士鳥巣敬義。
長男は東京高商(現・一橋大)卒 三菱重工業
次男
鋤彦 明治元年生 工部大学校(今の東大工学部)卒 工学博士
近代港湾幕開けからの先駆者であり、港湾技術界の大権威者である。(「港湾」丹羽鋤彦博士を憶う)
夫人は、出石藩儒官の家柄で知られた官僚、政治家で「天気予報創始者」の桜井勉の令嬢。
明治22年内務省入省、最上川、木曽川の整備・近代化を手掛け、その後、築港を管轄する大蔵省に転じ、横浜港埠頭工事の施工責任者として欧米に視察。「ニューマチックケーソン工法」を初採用、日本人だけの工事を初めて成功させた。
その後も赤レンガ倉庫や鉄桟橋、鉄道整備と横浜港の形成に尽力、神戸港その他の築港にも指導的役割を果たした。
退官後は、日本水力常務、帝都復興院参与、国会議事堂建設において常任顧問、会計監査院顧問、母校の攻玉社工学校校長を歴任。この他、隅田川河口整備および東京築港の道も開いている。
昭和30年逝去。(「日本のコンクリート技術を支えた100人」、「土木人物事典」他多数)
(拡大します)
(議事堂設計コンペの審査員・近代日本の建築・土木界を代表する名前が並ぶ 「議員建築意匠設計懸賞募集規定」)
なお、攻玉社の幼稚舎寮では、会津藩主家の松平容大氏(秩父宮勢津子妃の伯父、後に養女となる)と同室で寝食を共にし、屋敷にも遊びに行っている。(「攻玉社90年史」)
長女は、旧内務省局長(理工系)の夫人
子息は、いずれも帝大卒で、鉄道省等の幹部
三男
明治4年生 東京帝大法科卒
横浜正金銀行入行、サンフランシスコ支店、長崎支店等の支店長歴任後、当時、煙草王として財を成し(京都東山の「長楽館」で知られる)、銀行を設立した「村井吉兵衛氏に懇望され」、大正7年、村井銀行に転じ常務取締役。
義弟(妻の妹の夫)の春藤氏は三菱銀行常務取締役を経て、戦後、花王油脂会長、花王石鹸相談役を歴任。
四男
明治7年生 京都帝国大学工科卒
九州鉄道入社、鉄道省、帝国鉄道院を経て、筑波高速鉄道技師長、京成電鉄取締役、在任中急逝。
(鉄道先人録)
夫人について、「葦原眉山の長女」と書かれているが、もしかしたら、江戸末期から明治期に活躍した日本画家の葦原眉山のことだろうか。
(眉山は、徳島・興源寺の住職で、鉄翁に師事。名古屋で官職に就き「同好会」を創立、第2回共進会出品作が、宮内省御用品となった。)(愛知書家画家事典)
子供の配偶者の一人は山川健次郎(帝大総長・男爵)の孫
長女
貞子 明治10年生 攻玉社女子科卒 海軍大将山屋他人夫人
雅子妃の祖母・寿々子さんを含め2男5女に恵まれる(後述)
五男
明治14年生 東京帝国大学医学部卒 同大医局、勤務医を経て開業医。医学博士。
夫人は、医学博士で宮内省侍医をつとめた大谷周庵(旧幕臣)の令嬢。
妻方の義兄に大谷彬亮(北里研究所、慶大医教授、済生会病院長)や 梅野実(工学博士 九州鉄道から三菱製鉄常務、満鉄理事。戦後はブリジストン顧問。合成ゴム研究や鉱山開発に功績。)など当時の医学・工学分野で活躍した人が多数いる。
(「日本近現代医学人名事典」 「鉄道先人録」)
このほかもうお一人、六男で会社重役のかたがおられる。
(上記のほか、「紳士録」「人事興信録」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)
◆明治維新後の旧士族の大成功例◆------------------------------------------
ご兄弟のお一人について、当時の人名事典には、
「君の兄弟は五人にして各々其学ぶ所を異にするもいずれも逸足俊才を以て大正の新世に活躍しつつあり 果して然らば其の慶福や豈に丹羽家一門の為のみならんや」
とある。一人っ子の山屋大将にとって、各界で活躍する妻の兄弟たちは頼りになる存在だっただろう。
閨閥の広がりを見ると、明治から大正期の医学、工学部門を背負った超エリートが多い。
(草創期の)東大、攻玉社、海軍、そして九州鉄道や九大を拠点とした旧士族たちの婚姻関係がうかがえ、それはこのあと、それぞれの子孫にも繋がっている。
上記系図は、山屋大将を調べれば、たちどころに判明する顔ぶれであり、学問上、高名な方も多い。
皇室との関わりもあり、周囲は歴史上の人物が目白押しで、本来、必ず報じられるべきものだ。
※ なお、一方の山屋家も非常に由緒があり、南部家に敗れて以降の家臣だが、本家(百十石)と四つの分家(百石、五十石、以下微禄と続く)の5系ある。(南部藩参考諸家系図)
山屋他人は小さな分家の出だが、婿養子の父方・大萱生氏は江戸家老など要職を務め、母方大叔父で実業家・菊池金吾の屋敷は明治帝の行在所、伯父は蘭学者の野辺地尚義、その孫はピアニストの野辺地勝久(東京芸大教授)。
また尚義の養子に、帝大教授で鉄道草創期に活躍した野辺地久記博士(下記画像参照)がおり、丹羽家の兄弟と学友である。
(拡大します・国立国会図書館「大日本博士録」)
前々からずっと疑問でしたが、
皇室の専門家の多くは歴史・政治学者と称し、中には医学や鉄道分野に詳しいとされる人もいるのに、四半世紀に渡ってこうしたことに何の言及も無いというのは、一体どういうことだろうか?
---------------------------------------------------------------------
次世代の山屋夫妻の子女についても少し触れておくと、
長女
明治31年生 女子学習院卒
夫は海軍少将・岩下保太郎
昭和10年第2次ロンドン軍縮会議の首席随員(全権は永野修身大将)、
昭和12年、連合艦隊参謀長に在任中、急逝
長男
明治33年生 海軍兵学校卒 同校の監事、皇族(伏見宮博恭王)付武官を務めている。終戦時は大佐。
夫人の実家は甲信越の地主、銀行家で、明治初期に電力(水力発電)会社創業。
次女
明治35年生 女子学習院卒
夫は日本郵船勤務(東京帝大工科卒)で、
昭和初期に一家で長くロンドン駐在、その後長崎支店、神戸支店監督であったが30代で早逝。
次男
明治38年生 東京商大(現・一橋大学)卒業後、満鉄勤務。
戦後は、末妹の嫁ぎ先が創設した海城学園の役員を務めた。
夫人は、工学博士で三井系企業重役(福岡士族)の令嬢。
夫人の叔父(父の実弟)は、大正から昭和初期の大蔵官僚で、理財局長、銀行総裁職など要職を歴任。
三女
明治43年生 企業(東証1部)創業者の子息(東京帝大工科卒・愛媛士族)に嫁いだが、病気により早逝。
遺した子息たちが後年、社長、重役を務めている。
四女
明治45年生
夫は東京帝国大学卒で、鐘淵紡績(のちの鐘紡)勤務であったが早逝。
五女
寿々子(雅子妃の祖母) 大正5年生、双葉高女卒。
父・山屋他人と同期の江頭安太郎中将の三男・豊氏に嫁ぐ。
豊氏の母方祖父は、現在の海城学園の創立者・古賀喜三郎である。
豊氏は、東京帝大法科卒業後、日本興業銀行入行。
人事部長、中小企業金融公庫理事、取締役資金部長、常務取締役大阪支店長を経て、経営再建中のチッソに派遣され、社長、会長。
※ 雅子妃の祖母・寿々子さんは、父は子供たちの縁談について、人物本位という固い信念を変えることがなかった、と話している。当時、更なる華々しい縁談があったはずだが、そうした志向とは無縁だったようだ。
(「海軍兵学校・機関学校・経理学校」、「人事興信録」、「満州紳士録」、関連・所属団体や公的機関のHP、社史、ご本人についての記事、著作物の著者紹介など)
--------------------------------------------------------------------
以上の流れが雅子妃の重要な「バックボーン」であり、有力なお妃候補となった由縁だろう(他の系統もご立派だが)。
婚約当時に報道された親族系図が、大事な部分がごそっと抜け落とされていることは一目瞭然で、調べるまでもなく、
「こんな構図にはならないでしょうが」、「皇太子は家庭を持つ資格がないな、こんなとこに嫁に行ってはいかんよ」と、なかなか先見性のある(?)ことを言っていた友人もいた。
まさに「人格否定」の最たるものだろう。
(問題は、なぜ全マスコミ挙げてこんな書き方をする必要があったのか、ということだ。
その後も週刊誌や皇室本どころか、専門書や事典の類にも、そのまま平気で間違いや曲解させるような記述をしているものがある。)
結婚して25年あまり、雅子妃はいまだプロフィールの紹介さえ満足になされないままである。
※ 雅子妃に関してはネット上の嫌がらせやデマが激しく、(非常に古い世代で、すでに評価の定まった方を除き)なるべく姓名は伏せ、肩書の表記にも細心の注意を払ったつもりです。
※ 帝国ホテルの方については、複数のデータからまず間違いないと判断して掲載しました。
(更に広がりがあるが書ききれなかった。)
山屋他人の妻・貞子さんの実家丹羽家は、尾張士族で、戦国時代に織田家に仕えた武将丹羽氏の流れである。
藤堂高虎の槍奉行を務め、後に尾張藩士となり幕末を迎えた。
貞子さんの父・丹羽与三郎房忠は、弘化4年(1847年)、同じ尾張藩士平尾家から、丹羽家・ハツの婿養子に入っている。
戊辰の役では官軍の陣場奉行をつとめ、維新後は新政府の教部省(のちに内務省)の神祇官に聘され、井伊谷宮(遠州引佐)権宮司、鎌倉宮(神奈川)宮司、気多神社(能登)宮司、寒川神社(神奈川)宮司を経て、明治35年から大正5年の逝去まで、鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を長く務めた。
丹羽与三郎・ハツ夫妻は、雅子妃曾祖母の貞子夫人を含めて6男一女に恵まれ、「七福神」と呼ばれている。
その子供たちは、当時、女子教育も含め最高レベルの学校の一つであった近藤真琴の主宰する攻玉社で学んでいる。
(この近藤と山屋他人の伯父・野辺地尚義は同じ大村益次郎門下で鳩居堂の同窓。山屋も当然、攻玉社出身。)
それぞれの配偶者の親族も含め、明治から大正時代の非常に先進的な超エリート階層を形成している。
(国立公文書館アーカイブ、官国幣社便覧、「海将山屋他人の足跡」他)
長男
安政元年(1859)生 海軍少将
厳島艦長、水路部測量科長、艦政本部部長を歴任。
夫人の父は佐賀藩士鳥巣敬義。
長男は東京高商(現・一橋大)卒 三菱重工業
次男
鋤彦 明治元年生 工部大学校(今の東大工学部)卒 工学博士
近代港湾幕開けからの先駆者であり、港湾技術界の大権威者である。(「港湾」丹羽鋤彦博士を憶う)
夫人は、出石藩儒官の家柄で知られた官僚、政治家で「天気予報創始者」の桜井勉の令嬢。
明治22年内務省入省、最上川、木曽川の整備・近代化を手掛け、その後、築港を管轄する大蔵省に転じ、横浜港埠頭工事の施工責任者として欧米に視察。「ニューマチックケーソン工法」を初採用、日本人だけの工事を初めて成功させた。
その後も赤レンガ倉庫や鉄桟橋、鉄道整備と横浜港の形成に尽力、神戸港その他の築港にも指導的役割を果たした。
退官後は、日本水力常務、帝都復興院参与、国会議事堂建設において常任顧問、会計監査院顧問、母校の攻玉社工学校校長を歴任。この他、隅田川河口整備および東京築港の道も開いている。
昭和30年逝去。(「日本のコンクリート技術を支えた100人」、「土木人物事典」他多数)
(拡大します)
(議事堂設計コンペの審査員・近代日本の建築・土木界を代表する名前が並ぶ 「議員建築意匠設計懸賞募集規定」)
なお、攻玉社の幼稚舎寮では、会津藩主家の松平容大氏(秩父宮勢津子妃の伯父、後に養女となる)と同室で寝食を共にし、屋敷にも遊びに行っている。(「攻玉社90年史」)
※ 夫人の父・桜井勉は、内務省地理局長(気象測候網の整備)、神社局長、徳島、山梨の知事を歴任。郷土史「校補但馬考」編纂。
いうまでもなく夫人の兄は医学者の桜井恒次郎(九州帝国大学教授)、弟は訳詩家(菩提樹、野ばら、ローレライなど)の近藤朔風、叔父は明治女学校を設立した木村熊二と著名人が並ぶ。
いうまでもなく夫人の兄は医学者の桜井恒次郎(九州帝国大学教授)、弟は訳詩家(菩提樹、野ばら、ローレライなど)の近藤朔風、叔父は明治女学校を設立した木村熊二と著名人が並ぶ。
長女は、旧内務省局長(理工系)の夫人
子息は、いずれも帝大卒で、鉄道省等の幹部
三男
明治4年生 東京帝大法科卒
横浜正金銀行入行、サンフランシスコ支店、長崎支店等の支店長歴任後、当時、煙草王として財を成し(京都東山の「長楽館」で知られる)、銀行を設立した「村井吉兵衛氏に懇望され」、大正7年、村井銀行に転じ常務取締役。
義弟(妻の妹の夫)の春藤氏は三菱銀行常務取締役を経て、戦後、花王油脂会長、花王石鹸相談役を歴任。
長女は東急電鉄重役夫人
次女は縁戚の資産家(地方の銀行・鉄道の創業家)の孫である国文学者(東京女子大教授)に嫁す。
次女は縁戚の資産家(地方の銀行・鉄道の創業家)の孫である国文学者(東京女子大教授)に嫁す。
四男
明治7年生 京都帝国大学工科卒
九州鉄道入社、鉄道省、帝国鉄道院を経て、筑波高速鉄道技師長、京成電鉄取締役、在任中急逝。
(鉄道先人録)
夫人について、「葦原眉山の長女」と書かれているが、もしかしたら、江戸末期から明治期に活躍した日本画家の葦原眉山のことだろうか。
(眉山は、徳島・興源寺の住職で、鉄翁に師事。名古屋で官職に就き「同好会」を創立、第2回共進会出品作が、宮内省御用品となった。)(愛知書家画家事典)
子供の配偶者の一人は山川健次郎(帝大総長・男爵)の孫
長女
貞子 明治10年生 攻玉社女子科卒 海軍大将山屋他人夫人
雅子妃の祖母・寿々子さんを含め2男5女に恵まれる(後述)
五男
明治14年生 東京帝国大学医学部卒 同大医局、勤務医を経て開業医。医学博士。
夫人は、医学博士で宮内省侍医をつとめた大谷周庵(旧幕臣)の令嬢。
妻方の義兄に大谷彬亮(北里研究所、慶大医教授、済生会病院長)や 梅野実(工学博士 九州鉄道から三菱製鉄常務、満鉄理事。戦後はブリジストン顧問。合成ゴム研究や鉱山開発に功績。)など当時の医学・工学分野で活躍した人が多数いる。
(「日本近現代医学人名事典」 「鉄道先人録」)
※岳父の大谷周庵は、明治16年に大学東校(東大医学部)卒業後、五高教授、ドイツ留学、長崎病院長などを経て、同級生の北里柴三郎の推薦もあり大正元年から4年まで宮内省侍医を拝命。
昭憲皇太后付、貞明皇后拝診主任をつとめた。
(「長崎医学100年史」)
昭憲皇太后付、貞明皇后拝診主任をつとめた。
(「長崎医学100年史」)
このほかもうお一人、六男で会社重役のかたがおられる。
(上記のほか、「紳士録」「人事興信録」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)
◆明治維新後の旧士族の大成功例◆------------------------------------------
ご兄弟のお一人について、当時の人名事典には、
「君の兄弟は五人にして各々其学ぶ所を異にするもいずれも逸足俊才を以て大正の新世に活躍しつつあり 果して然らば其の慶福や豈に丹羽家一門の為のみならんや」
とある。一人っ子の山屋大将にとって、各界で活躍する妻の兄弟たちは頼りになる存在だっただろう。
閨閥の広がりを見ると、明治から大正期の医学、工学部門を背負った超エリートが多い。
(草創期の)東大、攻玉社、海軍、そして九州鉄道や九大を拠点とした旧士族たちの婚姻関係がうかがえ、それはこのあと、それぞれの子孫にも繋がっている。
上記系図は、山屋大将を調べれば、たちどころに判明する顔ぶれであり、学問上、高名な方も多い。
皇室との関わりもあり、周囲は歴史上の人物が目白押しで、本来、必ず報じられるべきものだ。
※ なお、一方の山屋家も非常に由緒があり、南部家に敗れて以降の家臣だが、本家(百十石)と四つの分家(百石、五十石、以下微禄と続く)の5系ある。(南部藩参考諸家系図)
山屋他人は小さな分家の出だが、婿養子の父方・大萱生氏は江戸家老など要職を務め、母方大叔父で実業家・菊池金吾の屋敷は明治帝の行在所、伯父は蘭学者の野辺地尚義、その孫はピアニストの野辺地勝久(東京芸大教授)。
また尚義の養子に、帝大教授で鉄道草創期に活躍した野辺地久記博士(下記画像参照)がおり、丹羽家の兄弟と学友である。
(拡大します・国立国会図書館「大日本博士録」)
前々からずっと疑問でしたが、
皇室の専門家の多くは歴史・政治学者と称し、中には医学や鉄道分野に詳しいとされる人もいるのに、四半世紀に渡ってこうしたことに何の言及も無いというのは、一体どういうことだろうか?
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次世代の山屋夫妻の子女についても少し触れておくと、
長女
明治31年生 女子学習院卒
夫は海軍少将・岩下保太郎
昭和10年第2次ロンドン軍縮会議の首席随員(全権は永野修身大将)、
昭和12年、連合艦隊参謀長に在任中、急逝
(子息、子女)
海軍中佐(戦死なさっている・海軍中将の令息)の夫人
旧商工省(通産省)官僚夫人
大学名誉教授(東大工学部卒)
海軍中佐(戦死なさっている・海軍中将の令息)の夫人
旧商工省(通産省)官僚夫人
大学名誉教授(東大工学部卒)
長男
明治33年生 海軍兵学校卒 同校の監事、皇族(伏見宮博恭王)付武官を務めている。終戦時は大佐。
夫人の実家は甲信越の地主、銀行家で、明治初期に電力(水力発電)会社創業。
子息のお一人(海軍経理学校卒、入社後コーネル大留学)は若くして帝国ホテル取締役に就任するも、40代半ばで早逝。
ライト館から現在の帝国ホテル本館の改築の際のプロジェクトリーダー(企画室長)を務めた。
ライト館から現在の帝国ホテル本館の改築の際のプロジェクトリーダー(企画室長)を務めた。
次女
明治35年生 女子学習院卒
夫は日本郵船勤務(東京帝大工科卒)で、
昭和初期に一家で長くロンドン駐在、その後長崎支店、神戸支店監督であったが30代で早逝。
長女(神戸女学院卒)は外交官に嫁ぎ、特命全権大使夫人。
夫は、北陸と京都の名家の出身で、外交官のみならず、外国のノーベル賞受賞者との共訳をはじめ学術分野でも活躍、退官後は大学教授、銀行顧問。
夫の実兄も大きな業績を残した高名な学者で日本学士院会員。
他にも茶人、文化人として知られた親族もいる。
(この夫君の兄とまだ学生だった浩宮(皇太子)とは偶然に縁があったと、ご婚約当時、知人の大学関係者から聞いたことがあったが・・・・)
夫は、北陸と京都の名家の出身で、外交官のみならず、外国のノーベル賞受賞者との共訳をはじめ学術分野でも活躍、退官後は大学教授、銀行顧問。
夫の実兄も大きな業績を残した高名な学者で日本学士院会員。
他にも茶人、文化人として知られた親族もいる。
(この夫君の兄とまだ学生だった浩宮(皇太子)とは偶然に縁があったと、ご婚約当時、知人の大学関係者から聞いたことがあったが・・・・)
次男
明治38年生 東京商大(現・一橋大学)卒業後、満鉄勤務。
戦後は、末妹の嫁ぎ先が創設した海城学園の役員を務めた。
夫人は、工学博士で三井系企業重役(福岡士族)の令嬢。
夫人の叔父(父の実弟)は、大正から昭和初期の大蔵官僚で、理財局長、銀行総裁職など要職を歴任。
三女
明治43年生 企業(東証1部)創業者の子息(東京帝大工科卒・愛媛士族)に嫁いだが、病気により早逝。
遺した子息たちが後年、社長、重役を務めている。
四女
明治45年生
夫は東京帝国大学卒で、鐘淵紡績(のちの鐘紡)勤務であったが早逝。
五女
寿々子(雅子妃の祖母) 大正5年生、双葉高女卒。
父・山屋他人と同期の江頭安太郎中将の三男・豊氏に嫁ぐ。
豊氏の母方祖父は、現在の海城学園の創立者・古賀喜三郎である。
豊氏は、東京帝大法科卒業後、日本興業銀行入行。
人事部長、中小企業金融公庫理事、取締役資金部長、常務取締役大阪支店長を経て、経営再建中のチッソに派遣され、社長、会長。
一人娘の優美子さんは雅子妃の母。
昭和13年生。慶大仏文科卒。エールフランス勤務を経て、外交官で、後に外務次官、国際司法裁判所所長の小和田恒氏に嫁ぐ。
昭和13年生。慶大仏文科卒。エールフランス勤務を経て、外交官で、後に外務次官、国際司法裁判所所長の小和田恒氏に嫁ぐ。
※ 雅子妃の祖母・寿々子さんは、父は子供たちの縁談について、人物本位という固い信念を変えることがなかった、と話している。当時、更なる華々しい縁談があったはずだが、そうした志向とは無縁だったようだ。
(「海軍兵学校・機関学校・経理学校」、「人事興信録」、「満州紳士録」、関連・所属団体や公的機関のHP、社史、ご本人についての記事、著作物の著者紹介など)
--------------------------------------------------------------------
以上の流れが雅子妃の重要な「バックボーン」であり、有力なお妃候補となった由縁だろう(他の系統もご立派だが)。
婚約当時に報道された親族系図が、大事な部分がごそっと抜け落とされていることは一目瞭然で、調べるまでもなく、
「こんな構図にはならないでしょうが」、「皇太子は家庭を持つ資格がないな、こんなとこに嫁に行ってはいかんよ」と、なかなか先見性のある(?)ことを言っていた友人もいた。
まさに「人格否定」の最たるものだろう。
(問題は、なぜ全マスコミ挙げてこんな書き方をする必要があったのか、ということだ。
その後も週刊誌や皇室本どころか、専門書や事典の類にも、そのまま平気で間違いや曲解させるような記述をしているものがある。)
結婚して25年あまり、雅子妃はいまだプロフィールの紹介さえ満足になされないままである。
※ 雅子妃に関してはネット上の嫌がらせやデマが激しく、(非常に古い世代で、すでに評価の定まった方を除き)なるべく姓名は伏せ、肩書の表記にも細心の注意を払ったつもりです。
※ 帝国ホテルの方については、複数のデータからまず間違いないと判断して掲載しました。