三代の天皇に仕えて

2018年03月17日 | 雅子妃の系譜

雅子妃の曾祖父、山屋他人海軍大将については多くの公的資料があり、そのうち「宮中行事」や皇族の「冠婚葬祭」など、皇室との関わりを示すものを、(過去に記事にしたものも含め)一部ピックアップして見ました。


◆東宮(のちの大正天皇)へのご進講◆ ---------------------------

                 

           (国立国会図書館デジタルコレクション)

  終盤に、軍事についての進講者の一人として、名前が挙げられています。(大正天皇御大喪写真帖)




◆明治43年 東宮御用掛として皇太子葉山行啓に伴う出張の仰せ付け◆

山屋氏は明治41年に東宮御用掛となっており、下記の公文書は、坂本中将(男爵)とともに、東宮(のちの大正天皇)の葉山行啓についての出張の要請が書かれています。

         
                          (国立公文書館アーカイブ)


大正天皇については今も実像がわからず、暗愚であったとか、いやそうでもないとか諸説ありますが、山屋氏は東宮時代から非常に近く接しており、雅子妃の祖母やご親族は、実情をよく御存知だったかもしれません。




◆大正元年 明治天皇大喪にあたり、来日したスペイン皇族の接遇◆

最初の記事「スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁」でも書きましたが、
この写真の着席している前列左端です。

                    




それから、天皇ではなく宮家の皇族についての慶事や弔事への参列の資料も多くあり、そのうちの一例として、


◆大正2年 有栖川宮威仁親王(海軍大将)薨去に際して◆---------------
                  



山屋他人少将(当時)が海軍省人事局長として、舞子の有栖川宮家別邸に向かう写真が残っています。(舞子別邸で亡くなられたため )
                        
                       (国立国会図書館デジタルコレクション)


この有栖川宮は明治8年に海軍兵学校に入学していますが、在学中、兵学校の学監を雅子妃の高祖父・古賀喜三郎(江頭安太郎中将の岳父)がつとめており、親王への厳しい指導のエピソードが「有栖川宮威仁親王行實」に記されている。
古賀は現在の海城学園の創立者であり、その前身学校の式典等に、来賓としてこの有栖川宮が臨席している。


                    




◆大正5年 神武天皇式年祭に海軍省勅任官総代(当時中将)として参列◆-----
              
 
              
                       (国立公文書館)

神武陵がまだ今のように形成・整備される以前の頃でしょうか。
江戸末期生まれの彼らが「2500年」を信じていたはずもありませんが・・・どのように解釈しておられたのでしょうか。
雅子妃は御成婚の際と、さらに、上記からちょうど100年後の2015年には東宮ご一家3人で参拝しています。






それから例外として、これは宮中行事等ではなく、日常的な軍務ですが、

◆大正9年 横須賀鎮守府長官として東宮(後の昭和天皇)の帰還をお出迎え◆
            

                     


皇太子が地方行啓から戻った際、横須賀入港に際し、横須賀鎮守府長官だった山屋大将が迎えに行き、
お召艦に「御陪乗」して一緒に上陸する旨が書かれています。
・・・・しかしまあ後年、昭和天皇は非常に問題でした。人間の評価というのは難しいものです。
                     





さて、これ以降は、すでに完全に引退なさっていますが、


◆大正13年  皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚◆----------------------
 

「皇太子殿下ご結婚関係」と題された公文書より
 
            




◆昭和2年  大正天皇大喪の礼◆---------------------------------------

霊轜霊輦側供奉将校の件」と題された公文書より

                 

                 

                 


この写真のもう少し後ろにおられると思うのですが、ご本人がはっきり写ったものは見つけられませんでした。
葬列図によると、山屋他人は百武三郎と鈴木貫太郎の間。


「朝日年鑑」の「轜車発引の御儀」によると
「霊轜の真近く侍従衣冠単に帯剣素服を加へ、藁沓を穿てる(中略)各侍従供奉し その外側には、正装燦然たる内山、鈴木、山屋、鈴木各大将以下陸海軍将官二十八人左右に分れて侍衛し、」とあります。

この時は、正副4頭の聖牛が轜車を引いています。昭和天皇の時とは全く異なります。




◆昭和3年 昭和天皇即位の大礼◆----------------------------------------

「昭和の大礼(即位の礼)に参列した雅子妃曾祖父」で記事にしましたが、
                  
(最前列左から6番目)
                  
(こちらの写真では最前列左から5番目)

 


◆昭和初期  観桜会と観菊会 ◆-----------------------------------------------
 
     春の観桜会

                 

                                    

                 



        秋の観菊会(前略)
                  
             

もうかなり高齢になりつつありましたが、ご夫妻で招待されておられたのでしょう。
こうした季節の催しへの招待は、昭和8年のみならず、このころ毎年のようにあります。
この観桜会と観菊会が、現在の春と秋の園遊会になっていったようです





<賢所での行事>

この他、宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があったようで、山屋他人の5女で、雅子妃の祖母にあたる江頭寿々子さんは、非常に寒がりの父のエピソードとして、

「二月が殊に駄目で、十一日の紀元節には宮中賢所での行事のお招きには、いつも『所労に付』というお断りの欠席届を出していたものである。」
               (「父のどてら」より)


とお書きになっている。






最後に、これは皇室とは別の話で、かつ軍務によるものですが・・・・


◆ 数々の勲章と ◆------------------------------


以前にも少し書きましたが、大佐以降、世界各国から非常に多くの勲章を授与されています。
資料・年譜によって挙げられている国がまちまちで、どれだけあるのか確定できませんでしたが、スペイン、オランダなど複数回授与されている国もあります。
その他、オーストリア、ポルトガル、中国、英国(バース勲章)、フランス、米国、イタリア等々。

以下、最高位かそれに近いものだけ、画像を掲載しておきます。

フランス 「グラン・オフィシェ」

(拡大します 以下、同様)(画像はいずれも国立公文書館)

ルーマニア 一等勲章


米国


イタリア 一等勲章 




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あえて一つ一つ記事にするまでもないので、ごく一端ですがいくつか選んで並べてみました。

それにしても、婚約決定時から現在に至るまで、
なぜこういう事が、全く報道されないのか?


特に、大正天皇の御用掛であったことや葬列への参加、昭和天皇の即位礼や結婚の儀への列席は、雅子嬢が皇太子妃に決まった際に、基本的な人物データとして最低限報じるべきことでしょう。

彼女については、外国の超有名大卒の外交官だとか、海外で育った期間が長いとか、非常に現代的・先進的なイメージばかりを強く打ち出していた感がありました。
しかし実際は、むしろ「地味に手堅く」、「縁があった人物の子孫」をたどってのオーソドックスな「お見合い相手」だったといえるでしょう。


それにしても、平成5年御成婚の雅子嬢でさえ、天皇と先祖との直接的関わりが結構あるのに、まだ戦前の慣習が残る昭和33年の正田美智子嬢にこうした要素がみられないのは、非常に謎です。

こういう事が全く周知されないというのは、美智子皇后への忖度もあるのでしょうか?

また皇室というのは、そこを取り巻く特定の人々や家系、関係組織の「利益」と「免責」のために存在するところでもあります。

「自分たちの利益と相反するならば、デマでも流して排除しようと警戒していた勢力が、最初から周辺にいくつもあったんじゃないの?後年いろいろわかってきたことからみても」とは友人の弁ですが・・・。


美智子妃のディオール衣装が4着もあった昭和の御成婚、東宮御所も豪華新築

2018年03月08日 | 美智子さんについて

昭和34年の皇太子ご成婚では、美智子さんに4着のクリスチャン・ディオールの衣装が作られたことが、結婚直後の新聞に出ている。                      
                 



これは皇室記事ではなく、「家庭」欄の記事である。

御成婚のお支度に関わるデパートに焦点を当て、各社間の受注競争やさや当て、宮内庁への配慮と忖度、そして当日のドレス写真をめぐるマスコミとの攻防の様子が書かれている。
その中に、美智子さんの御成婚衣装の情報が詳しく出ている。

毎日新聞・昭和34年4月13日 「ローブ・デコルテ物語」より(縮刷版の245p)

(引用開始)

お支度の中でもいちばん花やかに取りざたされたのは、朝見の儀から仮御所まで美智子妃殿下がお召しになるローブ・デコルテを誰が作るか。
そしてどんなデザインかということだった。
田中千代、松田はる江、ミス・ヘイの名がクローズアップされたが、なんといっても本命はパリのディオール・デザインによる四点とうわさされた。
六年前からディオールの店と契約して商売にならない投資だけを続けてきたDデパートも、これでようやく日の目を見たと張り切ったものだ。
パリと東京を結んで着々すすめられたローブ・デコルテ四点も、三月下旬には完成、その記録写真もとって無事宮内庁に納めた。

(引用終了)



紙面には4着の衣装の写真が掲載され (以下、「」内上記記事より引用)

「Dデパートの株が上がったとうわさされるディオール・デザインの服四点である。
皇后さま、皇太子さま、秩父、高松両宮妃とおそろいで、美智子さんを加え、二十数枚のデザインのなかから選んだものといわれる。」



写真の一枚目は、朝見の儀やパレードで着用したウエスト正面に大きなリボンのついた、誰もが見たことのあるローブデコルテ

「朝見の儀から馬車行進までずっと着ておられたローブデコルテで、白地に金とおしの絹織物。遠目にはベージュに見えるが雲間に竜とホウオウの模様がとんでいる。
京都の竜村で織り上がるまで一か月。十五メートルを使っている。
値段は秘密だが、Dデパートのディオール・コレクションの場合よりズバ抜けて高いという事もないらしい。」



そして2枚目は、上記のローブデコルテと共布で作られたコート(マント・エシャルプ(フランス語))。
馬車パレードでドレスの上に羽織っている。


3番目の写真は、

「五回の披露会のうちにお召しになるはずの夜会服。生地はローズピンクのシルク・オットマンで、胸に共布のばらが飾られている。皇太子さまのお好みがたくさんとりいれられているというのはこの服。」

画像:ミスユニバース世界一の伊藤絹子氏と並べられてお気の毒だが、適当な画像が他に見当たらなかった。
”婚約の頃”と書かれているが、これは披露宴のディオールドレスである。
このドレスは見たことがあったが、これがディオール製とは気が付かなかった。殆ど知られていないのではないか。)


そして最後の4番目の写真のドレスは、

「同じく披露宴の服だが、これはいかにもディオール調で、白チュールに白シュスのアップリケをしてある。
人造ダイヤ二千個以上をちりばめたきらびやかなもの。」


(個人的には、このドレスが一番素敵だと思った。優美で可愛らしい。
旧い新聞で写りが悪いこともあるかもしれないが、これはおそらく初めて見たと思う。
ネットで画像を探したが同一と思われるものは見つけられなかった。
上記縮刷版245pに出ているので図書館で見てください。)

「この四点は二カ所の縫製工場とDデパート技術者の総力で、独特なディオール技術をとりいれている。」



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4着もあったとは知りませんでした。

ディオールだと報道されるのは、有名な白い正装ドレスだけなので、その1着だけだと思いこんでしまうようです。

当時、このブランド名を知る日本人がどのくらいいただろうか?

人造ダイヤを2000個というのも、今なら相当批判されそうな派手派手しさだ。
半年前には、ナイロンのドレスで記者会見したのに、文字通りの大出世である。

それにしても、この当時でこの衣装なのに、その後、経済大国となった次世代の雅子妃のデザイナーが森英恵、芦田淳、伊藤すま子というのは、ちょっと考えさせられる。


この10年余り、皇室では絶対に国産のものしか使わないとか、私の世代からすると、仰天するような嘘が平然と報道されるのには驚く。
ディオールの結婚衣装に始まって、美智子さんもシャネルのバッグを持っていたし、美智子妃、華子妃がこうした海外のブランド品を身に着けたことで、同世代の主婦層も購入するきっかけとなったのだ。

もうひと世代上の妃殿下にも舶来好みのかたもいたし、なにより、昭和天皇の帽子は「ボルサリーノ」だった。


美智子さんの若いころからの衣装道楽は、この最初の衣装づくりでの「勘違い」から始まったのかもしれない。



なお、この当時の記事を見ると、衣装と同時に新東宮御所の建築の話題が大きく出ている。
ともに、昭和の御成婚の豪勢ぶりを示すもので、有名な話だがついでにまとめて書いておきたい。





◆御所や宮殿よりも先に新築された東宮御所◆----------------------


昭和の御成婚パレードで、若い男性が投石して馬車に乗り上がろうとする場面が一瞬映る。
青年はその動機について、「ご成婚は贅沢すぎるとの意見を、直接、皇太子夫妻に訴えたかった」と供述している。まだ当時、日本は貧しかったのだ。
そして青年の話すように、その豪勢さはディオールのドレスだけではないのだ。

前年の昭和33年11月27日の婚約決定の時点で、東宮御所の新築が報じられており、設計は東工大の谷口吉郎氏。
婚約直後から、週刊誌や婦人雑誌(婦人生活、主婦と生活など)に設計図や模型が掲載。予算額も明示され、総工費、当時で2億3千万円。

皇太子の強い希望もあって、設計図にはすでに子供部屋も設けられ、結婚前から「初の親子同居」が認められていたこともわかる。
東宮御所の完成は結婚から一年後の昭和35年4月。

(言うまでもないが、平成の皇太子夫妻はこの同じ建物にずっと住んでいる。結婚や愛子内親王誕生で多少の改修は行ったが。)

ところが当時、まだ天皇皇后の住居である「御所」も戦災で焼失したままで、ずっと「御文庫」(戦時中の防空建物)住まいだった。
御文庫は、非常に湿気が強く、「爆弾よけのため壁や天井が厚く作られており、居間に日がさすのは年に数えるほど」(朝日 昭和35年6月28日)で、吊るした背広が数日でシミだらけ(入江侍従談・婚約時の週刊読売)等々、衛生上も健康上も良くないと書かれている。

親である天皇の家がこういう状態なのに東宮の家を先に作るというのは、普通ちょっと考えられない。まだ「長幼の序」の感覚が強く残っていた時代である。
昭和の吹上御所の設計は宮内庁で総工費が約1億6千万円。
完成は、東宮御所から1年半遅れの昭和36年11月。(朝日同上)

またこの頃、戦災で儀式や要人接遇を行う宮殿すらなかった。
今では信じられない話だが、宮内庁舎の上階を使うなどしてしのいでいた。
             
まだその当時は日本の国際的地位も低く、要人来日も少なくそれで済んでいたとも言えるかもしれない。
宮殿が出来上がったのは、御成婚から9年半後の昭和43年11月。

そして更に・・・・

バブル絶頂期に即位した明仁・美智子夫妻は、今度は莫大な予算を組んで平成の新御所を新築した(表向き58億円だが、実際はそれをはるかに上回る(70億とも)のは周知のことで、当時、新聞でさえ少々揶揄した表現だ)。

昭和の御所の約3倍の規模で、膨大な部屋数と80畳の晩餐・映画会、コンサート可能な多目的ホール、その上、なぜか要人の宿泊施設まで備え、「平成のチャウシェスク宮殿」とまで言われた。美智子皇后の意向が強いとも書かれている。(週刊文春 1993年4月15日他多数)
とにかくこのご夫婦は、常に「豪華新築」なのだ。

今、生前退位に伴うわずか1年ほどの“仮住まい”(旧高松宮邸)の改装に何億円もかけているのも、こうした感覚の延長だろう。
なお、昭和天皇・皇后は、昭和35年の御所建築の期間、
「宮内庁舎の別むねになっている内廷庁舎にお住まいになる」と書かれている
(朝日・S33年6月28日)。マスコミはどうして黙っているのだろうか?


4着のディオール衣装に新しい東宮御所、なぜ「初の民間出身」の美智子さんをこんなに「破格の待遇でお迎え」しないといけないのか?

ちょっと前まで、明仁皇太子が彼女のポートレートを写真展に出品しても、誰もお妃になるとは想像もせず、素通りしていたというのに。

実際、お祝い記事と共に
「十二ヒトエなんか、コナ屋の娘が着たって似合うものですか」
「すっかり仕組まれた猿芝居」「あんな成り上がり者が皇后になるなんて」等々、旧勢力の口を借りて、結構、辛辣な言葉が書かれている。(週刊新潮 昭和33年12月15日)

美智子さんというのは、一体どういう「お客様」なんですかね?