雅子妃の曾祖父、山屋他人海軍大将については多くの公的資料があり、そのうち「宮中行事」や皇族の「冠婚葬祭」など、皇室との関わりを示すものを、(過去に記事にしたものも含め)一部ピックアップして見ました。
◆東宮(のちの大正天皇)へのご進講◆ ---------------------------
(国立国会図書館デジタルコレクション)
終盤に、軍事についての進講者の一人として、名前が挙げられています。(大正天皇御大喪写真帖)
◆明治43年 東宮御用掛として皇太子葉山行啓に伴う出張の仰せ付け◆
山屋氏は明治41年に東宮御用掛となっており、下記の公文書は、坂本中将(男爵)とともに、東宮(のちの大正天皇)の葉山行啓についての出張の要請が書かれています。
(国立公文書館アーカイブ)
大正天皇については今も実像がわからず、暗愚であったとか、いやそうでもないとか諸説ありますが、山屋氏は東宮時代から非常に近く接しており、雅子妃の祖母やご親族は、実情をよく御存知だったかもしれません。
◆大正元年 明治天皇大喪にあたり、来日したスペイン皇族の接遇◆
最初の記事「スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁」でも書きましたが、
この写真の着席している前列左端です。
それから、天皇ではなく宮家の皇族についての慶事や弔事への参列の資料も多くあり、そのうちの一例として、
◆大正2年 有栖川宮威仁親王(海軍大将)薨去に際して◆---------------
山屋他人少将(当時)が海軍省人事局長として、舞子の有栖川宮家別邸に向かう写真が残っています。(舞子別邸で亡くなられたため )
(国立国会図書館デジタルコレクション)
この有栖川宮は明治8年に海軍兵学校に入学していますが、在学中、兵学校の学監を雅子妃の高祖父・古賀喜三郎(江頭安太郎中将の岳父)がつとめており、親王への厳しい指導のエピソードが「有栖川宮威仁親王行實」に記されている。
古賀は現在の海城学園の創立者であり、その前身学校の式典等に、来賓としてこの有栖川宮が臨席している。
◆大正5年 神武天皇式年祭に海軍省勅任官総代(当時中将)として参列◆-----
(国立公文書館)
神武陵がまだ今のように形成・整備される以前の頃でしょうか。
江戸末期生まれの彼らが「2500年」を信じていたはずもありませんが・・・どのように解釈しておられたのでしょうか。
雅子妃は御成婚の際と、さらに、上記からちょうど100年後の2015年には東宮ご一家3人で参拝しています。
それから例外として、これは宮中行事等ではなく、日常的な軍務ですが、
◆大正9年 横須賀鎮守府長官として東宮(後の昭和天皇)の帰還をお出迎え◆
皇太子が地方行啓から戻った際、横須賀入港に際し、横須賀鎮守府長官だった山屋大将が迎えに行き、
お召艦に「御陪乗」して一緒に上陸する旨が書かれています。
・・・・しかしまあ後年、昭和天皇は非常に問題でした。人間の評価というのは難しいものです。
さて、これ以降は、すでに完全に引退なさっていますが、
◆大正13年 皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚◆----------------------
「皇太子殿下ご結婚関係」と題された公文書より
◆昭和2年 大正天皇大喪の礼◆---------------------------------------
「霊轜霊輦側供奉将校の件」と題された公文書より
この写真のもう少し後ろにおられると思うのですが、ご本人がはっきり写ったものは見つけられませんでした。
葬列図によると、山屋他人は百武三郎と鈴木貫太郎の間。
「朝日年鑑」の「轜車発引の御儀」によると
「霊轜の真近く侍従衣冠単に帯剣素服を加へ、藁沓を穿てる(中略)各侍従供奉し その外側には、正装燦然たる内山、鈴木、山屋、鈴木各大将以下陸海軍将官二十八人左右に分れて侍衛し、」とあります。
この時は、正副4頭の聖牛が轜車を引いています。昭和天皇の時とは全く異なります。
◆昭和3年 昭和天皇即位の大礼◆----------------------------------------
「昭和の大礼(即位の礼)に参列した雅子妃曾祖父」で記事にしましたが、
(最前列左から6番目)
(こちらの写真では最前列左から5番目)
◆昭和初期 観桜会と観菊会 ◆-----------------------------------------------
春の観桜会
秋の観菊会(前略)
もうかなり高齢になりつつありましたが、ご夫妻で招待されておられたのでしょう。
こうした季節の催しへの招待は、昭和8年のみならず、このころ毎年のようにあります。
この観桜会と観菊会が、現在の春と秋の園遊会になっていったようです。
<賢所での行事>
この他、宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があったようで、山屋他人の5女で、雅子妃の祖母にあたる江頭寿々子さんは、非常に寒がりの父のエピソードとして、
「二月が殊に駄目で、十一日の紀元節には宮中賢所での行事のお招きには、いつも『所労に付』というお断りの欠席届を出していたものである。」
(「父のどてら」より)
とお書きになっている。
この他、宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があったようで、山屋他人の5女で、雅子妃の祖母にあたる江頭寿々子さんは、非常に寒がりの父のエピソードとして、
「二月が殊に駄目で、十一日の紀元節には宮中賢所での行事のお招きには、いつも『所労に付』というお断りの欠席届を出していたものである。」
(「父のどてら」より)
とお書きになっている。
最後に、これは皇室とは別の話で、かつ軍務によるものですが・・・・
◆ 数々の勲章と ◆------------------------------
以前にも少し書きましたが、大佐以降、世界各国から非常に多くの勲章を授与されています。
資料・年譜によって挙げられている国がまちまちで、どれだけあるのか確定できませんでしたが、スペイン、オランダなど複数回授与されている国もあります。
その他、オーストリア、ポルトガル、中国、英国(バース勲章)、フランス、米国、イタリア等々。
以下、最高位かそれに近いものだけ、画像を掲載しておきます。
フランス 「グラン・オフィシェ」
(拡大します 以下、同様)(画像はいずれも国立公文書館)
ルーマニア 一等勲章
米国
イタリア 一等勲章
---------------------------------------------------------------------
あえて一つ一つ記事にするまでもないので、ごく一端ですがいくつか選んで並べてみました。
それにしても、婚約決定時から現在に至るまで、
なぜこういう事が、全く報道されないのか?
特に、大正天皇の御用掛であったことや葬列への参加、昭和天皇の即位礼や結婚の儀への列席は、雅子嬢が皇太子妃に決まった際に、基本的な人物データとして最低限報じるべきことでしょう。
彼女については、外国の超有名大卒の外交官だとか、海外で育った期間が長いとか、非常に現代的・先進的なイメージばかりを強く打ち出していた感がありました。
しかし実際は、むしろ「地味に手堅く」、「縁があった人物の子孫」をたどってのオーソドックスな「お見合い相手」だったといえるでしょう。
それにしても、平成5年御成婚の雅子嬢でさえ、天皇と先祖との直接的関わりが結構あるのに、まだ戦前の慣習が残る昭和33年の正田美智子嬢にこうした要素がみられないのは、非常に謎です。
こういう事が全く周知されないというのは、美智子皇后への忖度もあるのでしょうか?
また皇室というのは、そこを取り巻く特定の人々や家系、関係組織の「利益」と「免責」のために存在するところでもあります。
「自分たちの利益と相反するならば、デマでも流して排除しようと警戒していた勢力が、最初から周辺にいくつもあったんじゃないの?後年いろいろわかってきたことからみても」とは友人の弁ですが・・・。