宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ② 

2018年02月27日 | このくにのかたち
「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①」より続き


◆果てしなく繰り返される血縁関係◆


岡部長章氏と同僚侍従だった入江相政氏や徳川義寛氏の関連著書が朝日から多く出版されているのも、この世代には自然なことなのだろう。
また、入江氏親戚の冷泉家叢書や香淳皇后の画集「錦芳集」も同社である。

入江氏の夫人は長章氏同様、三菱の岩崎家の出身であり、姪は三笠宮百合子妃。
そして徳川氏は岡部氏と同じく大名家であり、姪は常陸宮華子妃、妹は戦前の北白川宮妃(戦後は女官長)だった。つまり彼らは皆、たどると親戚である。
                   

また岡部長章元侍従の著書にも、

「後になって、大東亜戦争の末期に、『文(ふみ)さん(近衛文麿)が(なかなか陛下に会えないと)さかんにこぼしていた』と三井夫人から私は聞かされました。久しい以前から両人はゴルフ仲間でしたし、三井夫人は私の実の姉で、近衛さんは私どもの母の里、前田家(加賀藩)の親類でもあります。」とある。

このように婚姻によって大名家、公家、財閥、神社等宗教界、維新の元勲から各界エリートが結びつき、皇室を取り巻く「血縁同盟」(「昭和天皇の終戦史」)が形成されていたわけである。

戦前の日本に政党政治が育たなかったのは当然だろう。


                             

◆権力中枢としての宮中◆


https://omugio.exblog.jp/17563069/(側近グループ)

上記写真に岡部氏らと写る宮中グループの代表的人物・松平康昌侯爵(旧福井藩主家、夫人は徳川家達公爵長女、妹は三井本家夫人)について、後に東條首相の秘書官は、

「宮中、政府内、財界、政界および言論界の各方面にわたってなかなかつよい潜在勢力をもっており、広い情報網を握っていることを、痛いほど理解させられた」

「いわゆる雲の上の状況を知ることは、東條首相も私も不得手であったので、(中略)松平氏の世話にならざるを得ない実情であった」と話す。(「昭和天皇の終戦史」)

当の本人も予期していなかった東條を首相に選んだのは、同じく写真に納まる木戸幸一内大臣であった。
内大臣は職務規定すらなく、キングメーカーにもなりえたようだ。

また木戸と岡部長景(東條内閣の文相)は、共に華族による「十一会」会員で、内大臣秘書官長経験者だった。(日本の天皇政治ー宮中の役割の研究))

                   

戦前の日本の権力中枢が宮中にあったことを認識していた国民は少ないが、米国では戦後の占領を見据えて、早くから研究していた。

旧憲法下では、すべては(議会ではなく)「天皇の御璽」で決定したので、そこに直接進言できる宮廷側近には、あいまいだが絶大な特権が生じる余地があった。
彼らはまさに「代議制議会に対して何らの責任も負わず、天皇個人の守護者としての職務を通じて日本の政治を実際上支配している」存在であった。

       (「資料日本占領1「天皇制」、「日本の天皇政治」)


また彼らの縁戚である財閥は、多くの政治家や軍人のスポンサーであり、その利益と大陸進出との間には、明確な相関関係があったことがわかっている。(「帝国主義下の財閥商社」)

そもそも、岡部元侍従が自著で、「帝室林野庁」を「これは皇室の大きな財源です」と表現するように、戦前の皇室を「日本最大の財閥」とする見方も近年あるようだ。

皮肉なことに、戦前の国家体制を強く批判し、その基盤に重層的な婚姻関係があることを指摘したのが、岡部侍従の子息・牧夫氏であった。(「近代日本の戦争をどう見るか」「国家と社会」)
                    

今や、天皇の終戦に際しての最大の眼目が(国民の安寧ではなく)「国体(皇室)の護持」であったことは定説となっているが、こうした統治構造をみれば、それは自らの守護と免責を賭けた周囲の縁戚者たちの強い要請でもあっただろう。

新憲法となり、軍部(陸軍)の戦争責任ばかりを追求しても、こうした宮中政治の本質は戦後も残存し、最近まで(というより今も)多くの国民が想像もしない形で現れていたようだ。




◆象徴天皇の外交ルート◆


特に致命的だったのは、独立に際して天皇が、前述の松平侯爵、吉川男爵ら側近(及び米紙特派員)を介し、米国(ダレス長官)との非公式ルートを通じて、自ら従属的な安保体制(無条件的な米軍駐留)の形成に深く関わったことである。

これは、朝鮮戦争に伴う共産化(皇室の廃止)を何より恐れた天皇とその側近の、政府を飛び越しての政治関与であり、象徴天皇の重大な憲法違反であった。
    (「昭和天皇・マッカーサー会見」「占領史追跡」他多数)

内外の識者が言うように、つねに「国家」より前(先)に「皇室の存続」があったということだろう、それがある意味、アメリカに国を譲り渡すようなことであったとしても。

このことが、現在の日本のあらゆる方面に大きな禍根を残していることはいうまでもない。
そしてその関係者の子孫が、昭和、平成と宮中の側近(渡辺元侍従長など)として存在しているのである。
当然、政界にも、財界にも。


(時期的に見ても、この驚愕すべき全体像がわかりつつあったことと、この10数年来の皇室のゴタゴタとが全く無関係とはちょっと考えられないが・・・。こうしたことは未だに周知されず、その前に言論・出版の世界が崩壊してしまった。)


                    


◆かつての「藩屏」としての新聞社◆


朝日新聞は戦前・戦中とまさにこうした宮中グループの「言論部門」を担う「藩屏」だったといえる。(この他、講談社も皇室の遠縁である)

村山家は(上野家も)戦後も長らく朝日の大株主として存在し(最近、半減したが、2007年3月までは村山家が45%所有)今も長挙氏の長女が超高齢ながら社主であり、その後は甥に引き継がれるようだ。

また、天皇の学友で旧大名家の学習院同窓会会長や、元総理で熊本藩主家の細川護熙氏なども、同社のOB社員である。


数年前、「週刊朝日」が東宮家へのデタラメな中傷記事を連発する中、社主家とも近い「血縁同盟」の子孫たちのインタビューが連載されており、少々怪訝に感じたことがあった。

他愛のない先祖自慢にすぎなかったが、かつての皇室の親戚でもあり、本来なら高齢の方に対し、(先帝の「二重外交」も含めて、)占領下での、GHQと日本の上流・支配層との隠された関係について、証言を集めておくべきだっただろう。
占領軍と日本の名門との「合作」こそが、戦後日本の「体制」であり、「対米従属」の起点なのだから。

他にも、敗戦直前の莫大な皇室・財閥資産の海外逃避(木戸幸一の命令との海外報道がある)も、その一端が外国の公文書で確認されている。(2001年に日本でも報道)

いずれも体質的な「縁戚政治」の延長上のことで、「身内」、「子孫」にしかわからないことばかりである。(政治の世襲化はこうした要因もあるのだろう。)
同社こそ大きくとり上げるべきだと思うのだが。



最後に・・・・

◆どの面下げて◆


このように、同社の論調と社主の背景には大きな齟齬があり、会社(記者、社員)と社主家との対立は「お家騒動」として有名だ。
                   

(上記写真には、「米英機撃滅の歩武堂々、出陣学徒の分列行進と答禮の岡部文部大臣」との説明書きがある。出典:「写真週報」S18.11/3)

これを書くのにいろいろ調べていたとき、知人の遠縁が学徒兵だったと知ったのだが、その家族は生前、夏に朝日系で反戦の番組や記事が流れると、
「本当に、どの面下げてこんなことやってるんだろうね、毎年毎年」と怒っていたそうだ。

村山社長の実兄の裁可した学徒出陣だけでなく、他にも、同紙が強く批判する植民地からの強制徴用も、村山(岡部)家の縁戚(複数の財閥)が行ったのだが、記者は戦後、そのことを記事に明記しているのだろうか?



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さて、同社の皇室報道は、特にこの10年余り、読むに堪えないが、意外にもこの部門だけ、いまなお(悪い意味での)「藩屏」としての役割を果たしているということなのだろうか。
実際、前出の保阪氏と共に、同社の皇室記者も生前退位に関するヒアリングメンバーであった。

嘘で塗り固めないと、すでに存立しえなくなっているということだろうが、それにしても、あの秋篠宮家を担ぎ上げ続けなければならないとは、まるで敗戦直前のようである。

全マスコミの中でも、とりわけ同社にとって、東宮家(特に雅子妃)は不都合で警戒すべき存在なのだろうが、あまりにヒステリックで滑稽なほどだ。(そもそも、彼女には何の関係も責任もないことだ。)。

しかし、どんな理由があるにせよ、こんなどっちつかずの都合の良いことをしていると、結果として、左右問わず全方位的に読者を失っていくのは確実で、実際、急激にそうなっているようだ。