◆占領鹿鳴館時代◆
敗戦後、皇室の存続、憲法改正、財閥のゆくえ等々、日本のあらゆる面での決定権は占領軍(GHQ)が握ることになった。
そうした状況下で、彼らと親交を深め、情報を探り、歓心を買うべく盛んに接待パーティーが開かれている。
「占領鹿鳴館時代」とも言われ、日本の皇族、華族、政界、財界、官界など各界を代表する人々が参加していた。
皇室が、その存続を賭けてGHQを接遇したことは、「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵氏のエピソードでも有名だ。
高松宮妃の著書「菊と葵のものがたり」でも、夫妻で自宅の光輪閣でパーティーを開き、カーペンター、ホイットニー、ウィロビー、ケーディス、ハッセイなど多くのGHQ高官、そしてキーナンはじめ東京裁判の検事たちを招待したことが書かれている。
高松宮、松平康昌侯爵(宮内省内記部長、宗秩寮総裁)、加瀬俊一氏(外交官、長男の加瀬英明氏は、日本会議副会長)、沢田廉三氏(外交官、アメリカ対日協議会メンバー、夫人は三菱の岩崎家出身)などが、平和主義者としての天皇をアピールし、天皇制の維持と訴追回避を必死に働きかけていた。
(キーナン検事はこのパーティーで、天皇を訴追しない旨を話している。)
また、のちに米国国務長官となり、昭和帝や吉田首相を通じて戦後日本を作ったダレス氏も出席している。
特に、貴族制を持たない米国人にとって、皇族や華族のご婦人方は人気で、
秩父宮妃、高松宮妃、竹田宮光子、照宮(東久邇)成子などが、ダンスだなんだと引っ張りだこだったそうだ。
(「週刊新潮」1985.8.15号 ”GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年”39p)
元米国人記者の著書によれば、昭和天皇の母の貞明皇后も、王(皇)女や公爵夫人たちを集め、GHQ将校を接待する社交パーティに積極的だったようだ。
こうして頻繁に行われたパーティで、上流夫人とGHQ幹部との間に恋愛関係が生じることも珍しくなかった。
旧華族夫人の話として、
「殆どの方が用心深く、特に外部には嗅ぎつけられぬようにしていましたし、お互いにかばい合ってましたからね。大体昔から上流階級なんてものは恋愛はゲームですから、(中略)見て見ぬふりをして知らぬ顔をしているのがマナーというものですからね」(同上39p)
と、そのほとんどは表沙汰にはならなかったが、一つだけ有名になった貴族夫人のグループがあった。
◆楢橋パーティー◆
そのグループが常連だったのが「楢橋パーティー」である。
幣原喜重郎内閣の内閣書記官長(今の官房長官)だった楢橋渡氏と文子夫人が中心となって、麻布永坂町の書記官長公邸(ブリジストン社長の石橋正二郎氏の屋敷を借り受けていた)で、主にGS(民生局)のケーディス大佐一派を囲むディナーパーティーを開催した。
そこで、楢橋書記官長と福島首相秘書官などが中心になって、
外国人とのパーティにも気後れしないような海外生活の経験、教養、語学力のある上流の御婦人方を人選し、沢田美喜女史(三菱財閥令嬢、外交官沢田廉三夫人で、のちにエリザベスサンダースホーム主宰)はじめ、楢橋夫妻と親しかった海外駐在歴のある銀行・官庁エリートの奥様方などを招待することになった。
それに加えて楢橋夫人が声をかけたのが、後にケーディス大佐との大恋愛で知られる鳥尾鶴代氏をはじめとする華族の令夫人たち「女子学習院グループ」であった。
この女子学習院グループこそが、GHQ高官との奔放な恋愛関係を結んだ中心メンバーだったとされる。
「楢橋パーティー」は石橋邸で4回、楢橋の大磯の別荘「滄浪閣」で2回行われている。
会合の出席者や人数は、その都度多少異なったようだが「子爵夫人・鳥尾鶴代」(立風書房)66Pによれば、おおよその日本側参加者として、
楢橋渡・文子夫妻、福島慎太郎首相秘書官、白洲次郎外相秘書官、松本烝治国務相(憲法改正担当)、元神奈川県知事内山夫人、元横浜正金銀行NY支店長太田夫人、東大教授荒木光太郎夫人(GHQ勤務・ゾルゲ事件の関係者との説がある)、実業家若尾家令嬢、松平子爵夫人、鍋島公爵夫人、そして、「女子学習院グループ」の、男爵M夫人のM子(財閥令嬢)、N子爵令嬢のK子(大名家出身・会社社長夫人)、子爵N夫人のS子(公爵令嬢、以下「S子さん」)、そして有名な子爵・鳥尾敬光夫人の鶴代、の名前が挙げられている。
(なお、「子爵夫人・鳥尾鶴代」には名前が明記されている。)
※澤田廉三・美喜夫妻の岩崎邸(本郷ハウス)、澤田邸(サワダハウス)は、GHQの秘密情報機関(キャノン機関など)の活動拠点であり、夫妻は占領軍(G2)と非常に近く、その家賃収入は「エリザベス・サンダースホーム」の貴重な運営資金の一部だった。また、下山事件との関連も推測されている。
◆「女子学習院グループ」◆
楢橋パーティの中心メンバーがこの「女子学習院グループ」で、彼女たちは同校の学友だった。
いずれも既婚の30代半ば。ほとんどが母親で、当時の感覚ではそろそろ中年といってもいい頃だった。
その一人、鳥尾鶴代氏の子息は、平成の明仁天皇の幼稚園以来の学習院のご学友である。
彼女たちについて、「楢橋パーティー」の一員で後の東京銀行常務夫人は、
「とにかく鳥尾さんとかS子さんたちは遊び暮らした連中ですよ。女子学習院のお嬢様たちはいい所の出のわがまま娘ですからね。我々とは違う世界の人たちなんです」(前掲『週刊新潮」41p)
(この週刊新潮の記事も、全て実名で書かれている。)
と話している。
(ただし、鳥尾夫人の実家は、良家だが華族ではない)
このグループでは、夫と死別の鶴代氏を除いて、後に全員が離婚している。
前述のように、地位も名誉も財産も失った夫を捨て、奔放な不倫関係に走ったのは、決して彼女たちだけではないのだが、鶴代氏とケーディスの関係が当時から報道され有名だったので、このグループばかりが目立ったのは気の毒だったかもしれない。
また、後に鶴代氏が自らの恋愛について記した著書を残したことも影響しているだろう。
◆美智子さんとの不思議な縁◆
このうち、鳥尾鶴代氏とS子さんの二人は学生時代からの親友で、ともに美智子さんと不思議な縁がある。
ケーディスは、鶴代氏との結婚をマッカーサー元帥に願い出るが許可されず(「占領「鹿鳴館」の女たち」松本清張全集34)、この不倫も原因となって失脚、帰国を余儀なくされた。
その半年後に夫とも死別した鶴代氏は、このあと、昭和電工創業家(森コンツェルン)出身の国会議員・森清氏と長く愛人関係になっており、自著に赤裸々につづっている。
ケーディスはかつて、昭電疑獄事件も調査しており(このときは創業家社長ではなかったが)、まさに奇縁と言える。
森氏の姉の一人は、のちの首相夫人・三木睦子、もう一人の姉は安西正夫(昭和電工社長)夫人である。
この安西正夫氏の長男(つまり森氏の甥)に嫁いだのが美智子さんの妹である。
言うまでもないが、大正期まで千葉の漁師仲間だった森家と安西家で創業したのが昭和電工(新潟水俣病の原因企業である)であり、安西氏は公害病発覚以前からその後も社長であった。
この安西家から政官財に大きく広がる閨閥は、美智子妃の絶大なバックグラウンドとなると同時に、同家も、正田家を通じて皇室とつながったことで(美智子妃の実兄もこの閨閥内の女性と結婚)、この一族は「昭和の新貴族」とも呼ばれた。安倍首相もこの閨閥に含まれる。(「閨閥」立風書房)
そして、その鶴代氏の親友で、同じく占領軍高官との関係で知られたS子さん(公爵令嬢)は、美智子入内のわずか数年後(上記の兄や妹の結婚とほぼ、同じ時期)、なんと正田本家に後妻に入っている。
◆実家本家の後妻◆
S子さん。公爵家の次女で、昭和6年、大名子爵家に嫁いでいる。
同じ「楢橋パーティー」のメンバーからは、
「S子さんは、大変な美人であり、大変な遊び女でしたよ」(前掲「週刊新潮」41p)
と言われてしまっている。
その後、昭和24年に夫と離婚、「親族もその理由については口を閉ざす」(同上)とある。
ところがご本人はこの当時、結構マスコミに出ており、雑誌の座談会等で名前を出して顔写真も掲載されている。
昭和26年の雑誌「富士」(世界社)の、旧華族・準皇族3人による、
『転変の人生を語る旧貴族の座談会 新生活は幸か不幸か』
という記事の写真を見ても、白黒の古い誌面にもかかわらず、非常に美人であることがよくわかる。
記事中、本人自ら「あんたのは、パンパン哲学だと良く言われるんですが、」と述べており、当時、周知のことだったようだ。
「旧貴族座談会」のS子さんの人物紹介によれば、離婚後は、酒場「レイ」を経営するがうまくいかず、その後、驚いたことに探偵社に勤務、女探偵として結婚調査などを生業としている(S25年 光文社「面白倶楽部」“私立女探偵打明け座談会”)。
(この座談会の別の女性は、やはり大名家の伯爵令嬢で公家の子爵夫人だったが、終戦前に自ら婚家を出て、戦後、新橋で酒場を独力で経営している。)
またS子さんは、「父の家の裏にバラックを建てて住んでいます」と話している。
もともと公家は経済的に脆弱なうえに、離婚後4人の子供を引き取ったこともあって苦労していたようだ。
他に、週刊新潮には「生命保険のセールスもしたことがあるそうだが」(p41)とある。
「姉が三井財閥に嫁いでおりますし、よく友達に、そんな苦労することはないじゃないか、世話になればいいと言われますが、嫌なんですね。自分の力でやるのが楽しいんですよ。負け惜しみではないけれど」(「旧貴族座談会」)、
と話していたものの、その後、驚くべきことに、
「美智子妃殿下の大叔父にあたる正田氏と再婚」。「正田氏は(昭和)48年に亡くなり、S子さんは遺産を相続し、現在は伊豆の伊東市にある有料老人ホームで晩年を送っている」(前掲「週刊新潮」p41)
この再婚は、S子さんが50才ごろになってからのもので、美智子さんが皇太子妃になってごく数年後のこと(昭和30年代半ばから後半)である。
(いくら美人で超の付く名門出身の女性とはいえ、いろいろ取り沙汰されていたはずで、この大叔父も、複雑な心境ではなかったかと思うのだが・・・・、美智子妃の立場を慮ってのことだろうか?)
S子さんの出戻った実家は古来、歴代皇后を輩出しており、ごく近い親戚が皇族であり、その他、徳川、細川など大名家、公家、財閥が十重二十重に広がっている。
したがって、当時の秩父、高松の両宮妃以下、現在の常陸宮華子妃などともたどれば皆、先祖累代の親戚である。
また実家筋は、当然のことながら伝統的宗教界と近く、代々、有名神社の宮司も務めているようだ。
(ちなみにS子さんのおばのうち二人も戦前の皇族妃で、うち一人は、敗戦による臣籍降下後、夫君の同性愛を暴露して離婚を申し立て、後に10歳年下の仕事上の部下と同居している。(「現代家系論」本田靖春))
昭和初期に、群馬県下でさえ納税額100位にも入っていない正田家である。
両者が若い頃であれば、結婚などあるはずもない組み合わせであった。
美智子さんの実家からすると、「いわくつき」の彼女を引き受けることで、伝統的血縁の円環への仲間入りをした、と見ることもできるだろう。
こうした美智子妃の親族たちの結婚に、「女子学習院グループ」の二人の親友関係は、どのように影響していたのであろうか?
※この他、「女子学習院グループ」の一人で、大名子爵家出身の方(G2のウィロビー准将に接近したと週刊新潮に書かれている。上流夫人たちの間で人気将校は取り合いだったようだ)は離婚後、聖心女学院のシスターとなった娘の縁で、昭和28年まで聖心の舎監を務めている。(前掲「週刊新潮」41~42p)
皇后の友人で同窓の曽野綾子も、この女性と知り合いのようで、月刊誌にちらっと書いている。
もしかしたら美智子さんも、彼女たち母娘と学校で面識があったのだろうか?
皇后の友人で同窓の曽野綾子も、この女性と知り合いのようで、月刊誌にちらっと書いている。
もしかしたら美智子さんも、彼女たち母娘と学校で面識があったのだろうか?
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今や(表立っては書かれないものの)結構、知られた話であるが・・・
やはり、なんというかこの上ない、ゾッとするような「禁忌」といった感は否めない。
ある意味、戦後の日本の「本質」をストレートに映し出していると言えなくもない。
むしろ大事なのは、その「本質」を作った初めの方に出てくる戦前以来の(皇族も含めた)要人たちであり、上記の話の流れこそが、この国の戦後の「保守」ということだったのだろう。
引用した週刊新潮の記事は1985年のもので、5ページに渡り占領下での不倫スキャンダルを詳報しているが、今ならちょっとありえない記事でしょう。
当時はまだ、その意味するところが、よくわかっていなかったのだろう。
一方、占領政策への疑念と、米国と日本のいびつな主従関係を指摘し続けた人物が、雅子妃の著名な御親戚であったが・・・・今にして思えば、本当にお気の毒であった。
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「週刊新潮」1985年8月15日号「GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年」
「子爵夫人 鳥尾鶴代 GHQを動かした女」 木村勝美 立風書房
「松本清張全集 34」より「占領『鹿鳴館』の女たち」
「富士」 1951年3月号「旧貴族座談会」 世界社
「面白倶楽部」1950年2月号「私立女探偵打明け座談会」光文社
「菊と葵のものがたり」高松宮喜久子妃 中公文庫
「占領下日本」 ちくま文庫
「GHQと戦った女 澤田美喜」 青木富貴子 新潮文庫
「秘密のファイル CIAの対日工作」 春名幹男 共同通信社
「現代家系論」 本田靖春 文藝春秋
「閨閥」「門閥」 佐藤朝泰 立風書房
※ 占領下に形作られたとされる日本の戦後体制や対米人脈、当時の皇室の動向を知る上でも、GHQ幹部とも皇室とも非常に近い彼女たちの存在はとても重要で、本来ならば、すべて実名で論じるべきものでしょう。
あくまでも彼女たちグループは、取り巻きの華族夫人たちの「ごく一端」にすぎないのだ。