占領下、GHQ幹部と「不適切な関係」だった旧華族夫人たちと美智子妃との深い繋がり

2019年01月07日 | このくにのかたち
      

◆占領鹿鳴館時代◆
               

敗戦後、皇室の存続、憲法改正、財閥のゆくえ等々、日本のあらゆる面での決定権は占領軍(GHQ)が握ることになった。
そうした状況下で、彼らと親交を深め、情報を探り、歓心を買うべく盛んに接待パーティーが開かれている。
「占領鹿鳴館時代」とも言われ、日本の皇族、華族、政界、財界、官界など各界を代表する人々が参加していた。
皇室が、その存続を賭けてGHQを接遇したことは、「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵氏のエピソードでも有名だ。


高松宮妃の著書「菊と葵のものがたり」でも、夫妻で自宅の光輪閣でパーティーを開き、カーペンター、ホイットニー、ウィロビー、ケーディス、ハッセイなど多くのGHQ高官、そしてキーナンはじめ東京裁判の検事たちを招待したことが書かれている。

高松宮、松平康昌侯爵(宮内省内記部長、宗秩寮総裁)、加瀬俊一氏(外交官、長男の加瀬英明氏は、日本会議副会長)、沢田廉三氏(外交官、アメリカ対日協議会メンバー、夫人は三菱の岩崎家出身)などが、平和主義者としての天皇をアピールし、天皇制の維持と訴追回避を必死に働きかけていた。
(キーナン検事はこのパーティーで、天皇を訴追しない旨を話している。)

また、のちに米国国務長官となり、昭和帝や吉田首相を通じて戦後日本を作ったダレス氏も出席している。


特に、貴族制を持たない米国人にとって、皇族や華族のご婦人方は人気で、
秩父宮妃、高松宮妃、竹田宮光子、照宮(東久邇)成子などが、ダンスだなんだと引っ張りだこだったそうだ。
(「週刊新潮」1985.8.15号 ”GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年”39p)

元米国人記者の著書によれば、昭和天皇の母の貞明皇后も、王(皇)女や公爵夫人たちを集め、GHQ将校を接待する社交パーティに積極的だったようだ。


こうして頻繁に行われたパーティで、上流夫人とGHQ幹部との間に恋愛関係が生じることも珍しくなかった。

旧華族夫人の話として、

「殆どの方が用心深く、特に外部には嗅ぎつけられぬようにしていましたし、お互いにかばい合ってましたからね。大体昔から上流階級なんてものは恋愛はゲームですから、(中略)見て見ぬふりをして知らぬ顔をしているのがマナーというものですからね」(同上39p)

と、そのほとんどは表沙汰にはならなかったが、一つだけ有名になった貴族夫人のグループがあった。





◆楢橋パーティー◆
                 

そのグループが常連だったのが「楢橋パーティー」である。

幣原喜重郎内閣の内閣書記官長(今の官房長官)だった楢橋渡氏と文子夫人が中心となって、麻布永坂町の書記官長公邸(ブリジストン社長の石橋正二郎氏の屋敷を借り受けていた)で、主にGS(民生局)のケーディス大佐一派を囲むディナーパーティーを開催した。


そこで、楢橋書記官長と福島首相秘書官などが中心になって、
外国人とのパーティにも気後れしないような海外生活の経験、教養、語学力のある上流の御婦人方を人選し、沢田美喜女史(三菱財閥令嬢、外交官沢田廉三夫人で、のちにエリザベスサンダースホーム主宰)はじめ、楢橋夫妻と親しかった海外駐在歴のある銀行・官庁エリートの奥様方などを招待することになった。


それに加えて楢橋夫人が声をかけたのが、後にケーディス大佐との大恋愛で知られる鳥尾鶴代氏をはじめとする華族の令夫人たち「女子学習院グループ」であった。
この女子学習院グループこそが、GHQ高官との奔放な恋愛関係を結んだ中心メンバーだったとされる。


「楢橋パーティー」は石橋邸で4回、楢橋の大磯の別荘「滄浪閣」で2回行われている。
会合の出席者や人数は、その都度多少異なったようだが「子爵夫人・鳥尾鶴代」(立風書房)66Pによれば、おおよその日本側参加者として、


楢橋渡・文子夫妻、福島慎太郎首相秘書官、白洲次郎外相秘書官、松本烝治国務相(憲法改正担当)、元神奈川県知事内山夫人、元横浜正金銀行NY支店長太田夫人、東大教授荒木光太郎夫人(GHQ勤務・ゾルゲ事件の関係者との説がある)、実業家若尾家令嬢、松平子爵夫人、鍋島公爵夫人、そして、「女子学習院グループ」の、男爵M夫人のM子(財閥令嬢)、N子爵令嬢のK子(大名家出身・会社社長夫人)、子爵N夫人のS子(公爵令嬢、以下「S子さん」)、そして有名な子爵・鳥尾敬光夫人の鶴代、の名前が挙げられている。

(なお、「子爵夫人・鳥尾鶴代」には名前が明記されている。)



※澤田廉三・美喜夫妻の岩崎邸(本郷ハウス)、澤田邸(サワダハウス)は、GHQの秘密情報機関(キャノン機関など)の活動拠点であり、夫妻は占領軍(G2)と非常に近く、その家賃収入は「エリザベス・サンダースホーム」の貴重な運営資金の一部だった。また、下山事件との関連も推測されている。





◆「女子学習院グループ」◆

                  

楢橋パーティの中心メンバーがこの「女子学習院グループ」で、彼女たちは同校の学友だった。
いずれも既婚の30代半ば。ほとんどが母親で、当時の感覚ではそろそろ中年といってもいい頃だった。
その一人、鳥尾鶴代氏の子息は、平成の明仁天皇の幼稚園以来の学習院のご学友である。

彼女たちについて、「楢橋パーティー」の一員で後の東京銀行常務夫人は、

とにかく鳥尾さんとかS子さんたちは遊び暮らした連中ですよ。女子学習院のお嬢様たちはいい所の出のわがまま娘ですからね。我々とは違う世界の人たちなんです」(前掲『週刊新潮」41p)
  
 (この週刊新潮の記事も、全て実名で書かれている。)

と話している。
(ただし、鳥尾夫人の実家は、良家だが華族ではない)
このグループでは、夫と死別の鶴代氏を除いて、後に全員が離婚している。


前述のように、地位も名誉も財産も失った夫を捨て、奔放な不倫関係に走ったのは、決して彼女たちだけではないのだが、鶴代氏とケーディスの関係が当時から報道され有名だったので、このグループばかりが目立ったのは気の毒だったかもしれない。

また、後に鶴代氏が自らの恋愛について記した著書を残したことも影響しているだろう。

         



◆美智子さんとの不思議な縁◆


このうち、鳥尾鶴代氏とS子さんの二人は学生時代からの親友で、ともに美智子さんと不思議な縁がある。

ケーディスは、鶴代氏との結婚をマッカーサー元帥に願い出るが許可されず(「占領「鹿鳴館」の女たち」松本清張全集34)、この不倫も原因となって失脚、帰国を余儀なくされた。

その半年後に夫とも死別した鶴代氏は、このあと、昭和電工創業家(森コンツェルン)出身の国会議員・森清氏と長く愛人関係になっており、自著に赤裸々につづっている。

ケーディスはかつて、昭電疑獄事件も調査しており(このときは創業家社長ではなかったが)、まさに奇縁と言える。


森氏の姉の一人は、のちの首相夫人・三木睦子、もう一人の姉は安西正夫(昭和電工社長)夫人である。
この安西正夫氏の長男(つまり森氏の甥)に嫁いだのが美智子さんの妹である。

言うまでもないが、大正期まで千葉の漁師仲間だった森家と安西家で創業したのが昭和電工(新潟水俣病の原因企業である)であり、安西氏は公害病発覚以前からその後も社長であった。


この安西家から政官財に大きく広がる閨閥は、美智子妃の絶大なバックグラウンドとなると同時に、同家も、正田家を通じて皇室とつながったことで(美智子妃の実兄もこの閨閥内の女性と結婚)、この一族は「昭和の新貴族」とも呼ばれた。安倍首相もこの閨閥に含まれる。(「閨閥」立風書房)


そして、その鶴代氏の親友で、同じく占領軍高官との関係で知られたS子さん(公爵令嬢)は、美智子入内のわずか数年後(上記の兄や妹の結婚とほぼ、同じ時期)、なんと正田本家に後妻に入っている





◆実家本家の後妻◆


S子さん。公爵家の次女で、昭和6年、大名子爵家に嫁いでいる。
同じ「楢橋パーティー」のメンバーからは、

「S子さんは、大変な美人であり、大変な遊び女でしたよ」(前掲「週刊新潮」41p)

と言われてしまっている。

その後、昭和24年に夫と離婚、「親族もその理由については口を閉ざす」(同上)とある。

ところがご本人はこの当時、結構マスコミに出ており、雑誌の座談会等で名前を出して顔写真も掲載されている。

昭和26年の雑誌「富士」(世界社)の、旧華族・準皇族3人による、
『転変の人生を語る旧貴族の座談会  新生活は幸か不幸か』
という記事の写真を見ても、白黒の古い誌面にもかかわらず、非常に美人であることがよくわかる。

記事中、本人自ら「あんたのは、パンパン哲学だと良く言われるんですが、」と述べており、当時、周知のことだったようだ。


「旧貴族座談会」のS子さんの人物紹介によれば、離婚後は、酒場「レイ」を経営するがうまくいかず、その後、驚いたことに探偵社に勤務、女探偵として結婚調査などを生業としている(S25年 光文社「面白倶楽部」“私立女探偵打明け座談会”)。


(この座談会の別の女性は、やはり大名家の伯爵令嬢で公家の子爵夫人だったが、終戦前に自ら婚家を出て、戦後、新橋で酒場を独力で経営している。)


またS子さんは、「父の家の裏にバラックを建てて住んでいます」と話している。
もともと公家は経済的に脆弱なうえに、離婚後4人の子供を引き取ったこともあって苦労していたようだ。
他に、週刊新潮には「生命保険のセールスもしたことがあるそうだが」(p41)とある。

「姉が三井財閥に嫁いでおりますし、よく友達に、そんな苦労することはないじゃないか、世話になればいいと言われますが、嫌なんですね。自分の力でやるのが楽しいんですよ。負け惜しみではないけれど」(「旧貴族座談会」)、

と話していたものの、その後、驚くべきことに、

「美智子妃殿下の大叔父にあたる正田氏と再婚」。「正田氏は(昭和)48年に亡くなり、S子さんは遺産を相続し、現在は伊豆の伊東市にある有料老人ホームで晩年を送っている」(前掲「週刊新潮」p41)


この再婚は、S子さんが50才ごろになってからのもので、美智子さんが皇太子妃になってごく数年後のこと(昭和30年代半ばから後半)である。

(いくら美人で超の付く名門出身の女性とはいえ、いろいろ取り沙汰されていたはずで、この大叔父も、複雑な心境ではなかったかと思うのだが・・・・、美智子妃の立場を慮ってのことだろうか?)

                 

S子さんの出戻った実家は古来、歴代皇后を輩出しており、ごく近い親戚が皇族であり、その他、徳川、細川など大名家、公家、財閥が十重二十重に広がっている。
したがって、当時の秩父、高松の両宮妃以下、現在の常陸宮華子妃などともたどれば皆、先祖累代の親戚である。

また実家筋は、当然のことながら伝統的宗教界と近く、代々、有名神社の宮司も務めているようだ。

(ちなみにS子さんのおばのうち二人も戦前の皇族妃で、うち一人は、敗戦による臣籍降下後、夫君の同性愛を暴露して離婚を申し立て、後に10歳年下の仕事上の部下と同居している。(「現代家系論」本田靖春))


昭和初期に、群馬県下でさえ納税額100位にも入っていない正田家である。
両者が若い頃であれば、結婚などあるはずもない組み合わせであった。

美智子さんの実家からすると、「いわくつき」の彼女を引き受けることで、伝統的血縁の円環への仲間入りをした、と見ることもできるだろう。


こうした美智子妃の親族たちの結婚に、「女子学習院グループ」の二人の親友関係は、どのように影響していたのであろうか?




※この他、「女子学習院グループ」の一人で、大名子爵家出身の方(G2のウィロビー准将に接近したと週刊新潮に書かれている。上流夫人たちの間で人気将校は取り合いだったようだ)は離婚後、聖心女学院のシスターとなった娘の縁で、昭和28年まで聖心の舎監を務めている。(前掲「週刊新潮」41~42p)

皇后の友人で同窓の曽野綾子も、この女性と知り合いのようで、月刊誌にちらっと書いている。

もしかしたら美智子さんも、彼女たち母娘と学校で面識があったのだろうか




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今や(表立っては書かれないものの)結構、知られた話であるが・・・

やはり、なんというかこの上ない、ゾッとするような「禁忌」といった感は否めない。

ある意味、戦後の日本の「本質」をストレートに映し出していると言えなくもない。

むしろ大事なのは、その「本質」を作った初めの方に出てくる戦前以来の(皇族も含めた)要人たちであり、上記の話の流れこそが、この国の戦後の「保守」ということだったのだろう。

引用した週刊新潮の記事は1985年のもので、5ページに渡り占領下での不倫スキャンダルを詳報しているが、今ならちょっとありえない記事でしょう。
当時はまだ、その意味するところが、よくわかっていなかったのだろう。


一方、占領政策への疑念と、米国と日本のいびつな主従関係を指摘し続けた人物が、雅子妃の著名な御親戚であったが・・・・今にして思えば、本当にお気の毒であった。



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「週刊新潮」1985年8月15日号「GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年」
「子爵夫人 鳥尾鶴代  GHQを動かした女」 木村勝美 立風書房
「松本清張全集 34」より「占領『鹿鳴館』の女たち」

「富士」 1951年3月号「旧貴族座談会」 世界社
「面白倶楽部」1950年2月号「私立女探偵打明け座談会」光文社
「菊と葵のものがたり」高松宮喜久子妃  中公文庫

「占領下日本」   ちくま文庫
「GHQと戦った女 澤田美喜」 青木富貴子 新潮文庫
「秘密のファイル CIAの対日工作」 春名幹男 共同通信社

「現代家系論」  本田靖春 文藝春秋
「閨閥」「門閥」 佐藤朝泰 立風書房


※ 占領下に形作られたとされる日本の戦後体制や対米人脈、当時の皇室の動向を知る上でも、GHQ幹部とも皇室とも非常に近い彼女たちの存在はとても重要で、本来ならば、すべて実名で論じるべきものでしょう。
あくまでも彼女たちグループは、取り巻きの華族夫人たちの「ごく一端」にすぎないのだ。



昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈②ー更に憲法改正にも?

2018年08月21日 | このくにのかたち

「昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈①」から続き


◆三者は縁戚関係◆

さて「人事興信録」によれば、この小泉、田中、竹山の三者の関係は、以下のように示すことができます。
後年の、生前退位表明に伴う有識者会議のヒアリングメンバーもいます 。       
(なお、彼らの関係を示すのに最低限の人物しか表示していません)



田中耕太郎夫人が小泉信三の姪(松本烝治の娘)であることはわりと有名ですが、竹山氏も縁戚とは知りませんでした。
(田中夫人の父、松本烝治は高名な商法学者で、敗戦直後、占領下の幣原内閣で新憲法制定担当大臣。昭和21年公職追放。

この3人が縁談に関わる立場となったのも、戦前の昭和天皇の側近で信任厚かった一木喜徳郎大臣の親戚というところも大きいのでしょう。
一応男爵ではあるが昭和以降と遅く、公家や大名と言った封建的家系ではなく、新たな世代の宮中グループと言えるかもしれません。
      
さて、東宮参与の小泉氏から見て美智子さんは、姪夫婦と長年のクリスチャン仲間の家の娘で、甥の妻の親戚が主宰する「お見合いの会」の会員であったわけです
「東宮妃」という公人を探すというのに、また随分とせまいプライベートな範囲で「見繕った」ものです。 
                                  
                 
          (「近代日本人の肖像」 一木喜徳郎)

しかも彼らの親族は、親の代から天皇と直接的な人間関係もあり、戦前と占領期の重要な大臣もいて、当時の普通の感覚に照らせば、この人たちの縁続きのお嬢さんを探すほうが余程、順当だと思われるのに(実際、書き入れてはいないが上記系図内に複数のお嬢さんがおり、うち一人は聖心で美智子さんと中等科以来の同級生で、取材も受けている。のちの著名財界人夫人もいる。)、なぜか自分たちより歴然と『格落ち』の家の娘を東宮妃に推しています。

 



※美智子さんの不思議※


そもそも美智子さんというのは、予め知り合いででもなければ、昭和33年当時、客観的に「東宮妃」を探したとして(民間から探すとしても)、彼女に行き着く要素が見当たりません。

側近たちでさえ天皇との関わりがこれだけあるのに、そうした要素が無い人物が入内するなど、縁故主義の皇室で、この時代、ちょっと考えられない人選だろう。

また館林の実家本家も、明治から昭和一ケタまで群馬県の多額納税者でさえなく100位内にすら入っていないのだ。
実家の会社も、堅実ではあるが国家を背負うほどのものではない。
紳士録等を見れば、正田美智子さん程度の娘さんはいくらでもいる。

また、当人の経歴もあまりに凡庸で(成績表はどう見ても首席ではない)、長い慣習を打ち破って平民から選ぶほどの「特別さ」をどこにも見出すことができません。

実際、婚約発表後、よほど批判があったのか、竹山氏も「売り込んだという事や、仕組まれたなんていうことは絶対にない」とわざわざ釈明している。(週刊新潮 昭和33年 12/15)

にもかかわらず、小泉氏が彼女を縁談の対象に推したということは、当時、誰もが当たり前に想定するのとは違う、彼ら(つまりは昭和天皇)がこの当時、必要とする「何か別の条件」に合致したからなのでしょう。

その合致する人を探すために、昭和26年(皇太子18歳)に「竹山パーティ」が始まったのでしょうか?

(岸信介に田中耕太郎(に昭和帝)とくれば・・・・と皆言いますが、確かに独立からまだ数年、当時は日米安保をめぐる「政治の季節」であり、某氏が言うように、彼女は日本の悲しい戦後体制そのものなのかもしれません。)


今後、小泉信三氏への評価は随分と違ったものになるのではないでしょうか。


さて、当初この3人の関係を示すだけで終わる予定でしたが、こうした美智子妃をめぐる人々の血脈はその後も続くようで・・・・・




◆生前退位の有識者会議と憲法改正◆--------------------------

         

さらに、竹山謙三郎氏の姪は平川祐弘氏(東大名誉教授)の夫人です。
平川氏は、今上天皇の突然の「生前退位」表明に伴う有識者会議のヒアリングメンバーでした。


また、桜井よし子氏(彼女もヒアリングメンバー)が理事長の保守系団体「国家基本問題研究所」の理事でもあり(同所のHPより)、この研究所の掲げる憲法改正推進の広告にも名を連ねています。

今上夫妻の婚約、ご成婚は岸首相のもとで行われ、そして突然の生前退位表明は、その孫の安倍首相のもとでなされました。

美智子さん入内後のきょうだいたちの大企業との閨閥結婚は有名で、特に妹の結婚で昭和電工(言うまでもなく新潟水俣病の原因企業)の創業一族(安西家)の閨閥(東京ガスなども同族)に入ったことで、そこを通じて安倍首相の祖父の岸(佐藤)首相ほか歴代首相や住友財閥などとも繋がりました(まだまだ果てしなく広がる)。


この段階ですでに、血縁の重なりがいくつか見られるのですが、その血脈は御成婚から生前退位を経て、なぜか安倍首相が強く推進する憲法改正を審議する人物にも見られるような・・・・・。

以下は、現在進行形なので何とも言えませんが・・・・


          

さらに、その美智子皇后の義弟(妹の夫)のいとこが現在、衆議院の憲法審査会会長の森英介議員(やはり昭和電工創業家出身)であり、自民党の憲法改正推進本部長も歴任しています。

また、竹山謙三郎氏の親戚筋にあたる船田元議員も、同じく憲法改正推進本部長の経験者です(ただし、船田氏は改憲には慎重あるいは反対のようです)。

こうした血縁関係は、全て単なる偶然なのだろうか?

一見、公的な手続き・人選にみえますが、(それぞれに考え方の違いはあるものの)非常に狭い縁戚関係に属する「身内」の人達がたびたび目に入るような気がするのですが・・・・。

日本の社会とはそういうもの、と言われればそうなのかもしれませんし、
おそらく気が付かない縁戚関係はもっとたくさんあるのでしょう。

(こうした世代を超えたいくつもの血縁を見ると、天皇皇后や首相など、そこに属する人物のお互いへの発言も、単純に額面通り受け取ってよいのか、ちょっと考えさせられます。)

さらに、こうした人脈の流れを「日本会議」などが強力に押し上げることで政治(改憲)勢力ができ、それは同時に、長らく東宮家を執拗に排斥しようとする勢力と重なります。
 
        


以前から感じていましたが、今上夫妻がしつこくアピールする姿勢(憲法や沖縄問題などについて)と、実際の皇后の親族や、結婚当時からの関係者や伴走者たち(田中耕太郎や曽野綾子など)の顔ぶれとはどうもかなりの齟齬があります。

(この数年来、砂川事件判決おいて、田中最高裁長官と米国との「内通」が判明したことは、沖縄に心寄せるはずの平成の天皇皇后(特に皇后)にとって非常にまずいことだったと思います。この判決こそが「米軍基地の特権性」を支えているのだから。)

突然の生前退位の表明(そもそもこのこと自体、憲法に抵触すると思われるが)が、天皇による「改憲阻止」との見方もあったようだが、今となってはむしろ、選挙大勝直後で政権が長く続くと踏んでの表明だったような気もします。
更にこのイレギュラーな退位は、首相の任期延長に影響はなかったのだろうか?

そして憲法改正(現実には相当難しいと思われるが)の真の目的は、本当に大きく報道されていることだけなのだろうか?

肩書きと血縁が混然一体となって公私の別が無くなり、国の法治が崩壊していくというのは、顔ぶれが少しずつ移動しているとはいえ、戦前の皇室周辺と非常によく似ています。

「法治の外にあって予め免責された空間」というものがどんどん肥大化して、御濠の外側にまで浸食して来ているような・・・・。

まあ、いくらなんでも私の思いすごしだろうとは思いますが・・・・。



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少々蛇足ですが、この画像を見て・・・・・



新憲法制定の担当が松本烝治大臣(松本試案はGHQに拒絶されたが)。
そしてその娘婿の田中耕太郎が吉田内閣の文部大臣として憲法公布。
さらにその吉田首相によって田中氏は最高裁長官に就任。

松本・田中ファミリーと吉田首相は、新憲法に関わるとともに、明仁皇太子のお妃選びのメンバーでもあったわけです。

ところが現在、それぞれの子孫・縁戚である麻生大臣と平川氏が強く改憲を推しているようです。

それにしてもよく言われることですが、戦後ずっと、いかに特定の血脈の範囲内で国家の重要事項が決定されていることか・・・・・。

「生前退位」と「憲法改正」機運が同時期に起こったのは、偶然ではないのかもしれないな・・・・

 





昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈①ー田中最高裁長官、竹山パーティー、小泉参与ー

2018年07月30日 | このくにのかたち

昭和の御成婚当時の報道を見ると、小泉信三、田中耕太郎、竹山謙三郎の三氏の手記やインタビューがあちこちにみられます。
小泉氏については、長らく明仁皇太子の教育参与をつとめたことで知られ、当時のお妃選びの話題では繰り返し登場する人物であり、敢えて書く必要もないでしょう。



◆田中最高裁長官と正田家とフロジャク神父◆------------------------

田中耕太郎氏は、ご成婚当時の最高裁長官です。

今や、(米軍基地で起こった砂川事件への最高裁判決(昭和34年)を下すにあたり、田中長官が駐日アメリカ公使らと打合わせを行い、更に米国サイドに裁判情報を漏えいしていたことが、2008~2013年に米国公文書から判明したことで)「対米従属」、「属国化」の代名詞のような存在となっているようです。
参照 新聞記事

   (「機密解禁文書にみる日米同盟」「検証・法治国家崩壊」)


学者から官僚、政治家(吉田内閣の文部大臣)に転じ、昭和25年に吉田茂首相により最高裁長官に指名され10年あまりの長期間つとめました。
また、青年時代の明仁皇太子の「法学」の御進講も6年に渡って担当しています。(朝日夕刊昭和33年11月27日)


        
        (「近代日本人の肖像」田中耕太郎)


そして正田家に非常に近い存在でした。

美智子さんの祖母の正田きぬ氏は、明治末ごろ群馬・館林へ布教に来たヨゼフ・フロジャク神父と出会い、後に昭和2年、東京・関口教会で同神父により受洗。

正田貞一郎・きぬ夫妻と田中夫妻はカトリック仲間で同神父と極めて親しく、

この神父の伝記には、主な後援者として、最初に田中耕太郎夫妻、次に正田夫妻が挙げられており、神父の最期の頃に彼らが見舞う様子も描かれている。

その伝記「フロジャク神父の生涯 」(五十嵐茂雄著)の最初のページに、
「最後の握手皆様によろしくとみ声細く 仰せありしも悲しき思ひ出」と、きぬ夫人の歌が掲載されているのは有名だ。

明治前半生まれの田舎の女性が熱心な信者となったのには、余程の理由が(ネット上でも家族の事情についていろいろ出ているが)あったのだろう。以降、子孫やその配偶者の実家も含め、「(個人ではなく)一族としての」信仰者が多いようだ。

         

また、この神父は戦前から御下賜金を受けるなど皇室とも縁があり、
敗戦で占領下にあった昭和23年、昭和天皇は、ローマ教皇ピウス12世に謁見するフロジャク神父を介して教皇と親書を交換しており(英国公文書、前掲の伝記)、占領軍への対抗のため、より力のあるカトリック界に味方・加勢を求めたとも言われます。(「英国機密ファイルの昭和天皇」)

なお、その2年前には、皇室が同神父に那須の広大な旧御料地を貸与、年末には天皇皇后そろってフロジャク神父の拝謁を受けている。
更に翌22年には両陛下がこの那須の開墾地を行幸啓、高松宮なども同神父の福祉施設を訪問しています。(「フロジャク神父の生涯」)


皇后以下他の皇族も、(皇室存続に資するとの配慮からか)キリスト教の教義を学ぶ様子が当時の資料からうかがえ、高松宮の「神社新報」への発言(昭和22年)でも、「神道に欠けているものを、キリスト教とのタイアップで」とはっきり述べている

この当時、侍従や側近にカトリック信者が目立って多かったのは、「政策上」その方面の人脈が切実に求められたという側面もあるのだろう。






※軽井沢テニストーナメント※

田中長官が、明仁皇太子と美智子嬢が初めて会ったテニスの試合を写真に撮ったエピソードは有名です。
            

「美智子さん担当記者のメモ① 予期せぬ顔合わせ 撮影頼まれた田中長官」より 
(朝日新聞 昭和33(1958)年11月28日)



(引用開始)

試合が始まると、美智子さんの母富美さんは、あわててカメラを持っている知人をさがした。折よく、観覧席には、顔みしりの最高裁判所長官の田中耕太郎氏がいた。
『美智子が皇太子さまと当たりました。すみません、一枚撮っていただけませんか』
昨年八月十九日、軽井沢親善テニストーナメントの二回戦で皇太子・石塚組と正田・ドイル組がまったく「偶然」にぶつかった時のことだ。富美夫人も予測しないことだったらしい。
『せめて娘の一生の記念に・・・・』
との母心からの頼みだったのだろう。
“田中カメラマン”は気さくにこの頼みを果した。ご覧のようにプレーする皇太子と美智子さんの姿は三十五フィルムの一コマにみごとに捕えられた。
この写真はそのとき富美夫人が考えられていたものより遥かに意味のある『娘の一生の記念』となった。

だが、これを見ていた新聞記者は一人もいなかった。たとえ出くわしたとしても写真一枚とろうとはしなかったに違いない。なぜなら、選考首脳部が当時、ときおりもらす言葉は、判で押したように「やっぱり家柄は大事にしなければいけない」ということだったからだ。


(引用終了)



(この「テニスコートの出会い」を含め皇太子の縁談には、田中長官と政治的にも宗教的にも近い吉田茂首相が深く関わっている。
(「隠された皇室人脈」他多数))



小泉信三氏ばかりが取り上げられますが、この御成婚の真のキーマンは田中長官と何よりフロジャク神父だったでしょう。
祖母の代から親しい田中長官は、美智子嬢にとって入内の大きな後ろ盾だったと思われます。婚約後のお妃教育では、憲法の進講も務めています。


さらに、この昭和の皇太子妃決定の「皇室会議」のメンバーは、
秩父宮妃、高松宮、岸信介首相(議長)、星島衆議院儀長、椎熊衆院副議長、松野参議院議長、平井同副議長、田中耕太郎最高裁長官、小谷最高裁判事、宇佐美宮内庁長官となっている。




さて次は、美智子さんが会員だったお見合いの会の主催者について。


◆ 竹山パーティー ◆---------------------------------------------


竹山謙三郎氏は工学博士で当時、建設省建築研究所所長。

「自宅を若い人に解放、お話や音楽会を開いている。美智子さんは第一回からの会員。竹山氏は夫人と共に美智子さん個人のよき心の柱であった。
評論家の竹山道雄氏(「ビルマの竪琴」の作者)、船田享二(法学者、国会議員、作新学院院長)夫人の実弟にあたる。」(毎日夕刊 昭和33年11月27日)
(船田享二の兄は船田中(防衛庁長官)で、その孫が現・衆議院議員の船田元である。)

更に、竹山氏の伯父は、戦前の昭和天皇の側近で宮内大臣を務めた一木喜徳郎。
豪農の出の学者・官僚で、内相、文相も歴任、昭和8年に男爵、同19年逝去。

この会は、「竹山パーティ」といういわゆるお見合いの会で、美智子さんは「昭和二六年創設以来の会員だった」と週刊新潮にもある(当時美智子嬢は16~17歳)。
「それ以前から知り合いだったお母様につれられて」(毎日前掲)初めて会ったと書かれている。
竹山夫妻と若者たち大勢で、ハイキングや音楽会、ダンスパーティを開いており、婚約時に掲載された美智子さんの写真にも、その「竹山パーティー」でのものが結構あります。

竹山氏は毎日新聞の手記に、「(テニスコートでの出会いが)彼女の将来にこんな大きな意味を持つとはだれしも思わなかった」と書き、

また小泉信三氏は、美智子嬢について、美智子さんの親戚(おじ)が慶応の学生だったので、正田家のことや彼女の事も以前から知っていた(毎日前掲)と話しています。

しかし、こうした話しも、彼らの関係性を知るとかなり空々しく感じられます。

有名な話なのでしょうが、小泉、田中、竹山の三者は、一つの系図に書き入れることができます。



                                                         以下、後篇に続く

 

宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ② 

2018年02月27日 | このくにのかたち
「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①」より続き


◆果てしなく繰り返される血縁関係◆


岡部長章氏と同僚侍従だった入江相政氏や徳川義寛氏の関連著書が朝日から多く出版されているのも、この世代には自然なことなのだろう。
また、入江氏親戚の冷泉家叢書や香淳皇后の画集「錦芳集」も同社である。

入江氏の夫人は長章氏同様、三菱の岩崎家の出身であり、姪は三笠宮百合子妃。
そして徳川氏は岡部氏と同じく大名家であり、姪は常陸宮華子妃、妹は戦前の北白川宮妃(戦後は女官長)だった。つまり彼らは皆、たどると親戚である。
                   

また岡部長章元侍従の著書にも、

「後になって、大東亜戦争の末期に、『文(ふみ)さん(近衛文麿)が(なかなか陛下に会えないと)さかんにこぼしていた』と三井夫人から私は聞かされました。久しい以前から両人はゴルフ仲間でしたし、三井夫人は私の実の姉で、近衛さんは私どもの母の里、前田家(加賀藩)の親類でもあります。」とある。

このように婚姻によって大名家、公家、財閥、神社等宗教界、維新の元勲から各界エリートが結びつき、皇室を取り巻く「血縁同盟」(「昭和天皇の終戦史」)が形成されていたわけである。

戦前の日本に政党政治が育たなかったのは当然だろう。


                             

◆権力中枢としての宮中◆


https://omugio.exblog.jp/17563069/(側近グループ)

上記写真に岡部氏らと写る宮中グループの代表的人物・松平康昌侯爵(旧福井藩主家、夫人は徳川家達公爵長女、妹は三井本家夫人)について、後に東條首相の秘書官は、

「宮中、政府内、財界、政界および言論界の各方面にわたってなかなかつよい潜在勢力をもっており、広い情報網を握っていることを、痛いほど理解させられた」

「いわゆる雲の上の状況を知ることは、東條首相も私も不得手であったので、(中略)松平氏の世話にならざるを得ない実情であった」と話す。(「昭和天皇の終戦史」)

当の本人も予期していなかった東條を首相に選んだのは、同じく写真に納まる木戸幸一内大臣であった。
内大臣は職務規定すらなく、キングメーカーにもなりえたようだ。

また木戸と岡部長景(東條内閣の文相)は、共に華族による「十一会」会員で、内大臣秘書官長経験者だった。(日本の天皇政治ー宮中の役割の研究))

                   

戦前の日本の権力中枢が宮中にあったことを認識していた国民は少ないが、米国では戦後の占領を見据えて、早くから研究していた。

旧憲法下では、すべては(議会ではなく)「天皇の御璽」で決定したので、そこに直接進言できる宮廷側近には、あいまいだが絶大な特権が生じる余地があった。
彼らはまさに「代議制議会に対して何らの責任も負わず、天皇個人の守護者としての職務を通じて日本の政治を実際上支配している」存在であった。

       (「資料日本占領1「天皇制」、「日本の天皇政治」)


また彼らの縁戚である財閥は、多くの政治家や軍人のスポンサーであり、その利益と大陸進出との間には、明確な相関関係があったことがわかっている。(「帝国主義下の財閥商社」)

そもそも、岡部元侍従が自著で、「帝室林野庁」を「これは皇室の大きな財源です」と表現するように、戦前の皇室を「日本最大の財閥」とする見方も近年あるようだ。

皮肉なことに、戦前の国家体制を強く批判し、その基盤に重層的な婚姻関係があることを指摘したのが、岡部侍従の子息・牧夫氏であった。(「近代日本の戦争をどう見るか」「国家と社会」)
                    

今や、天皇の終戦に際しての最大の眼目が(国民の安寧ではなく)「国体(皇室)の護持」であったことは定説となっているが、こうした統治構造をみれば、それは自らの守護と免責を賭けた周囲の縁戚者たちの強い要請でもあっただろう。

新憲法となり、軍部(陸軍)の戦争責任ばかりを追求しても、こうした宮中政治の本質は戦後も残存し、最近まで(というより今も)多くの国民が想像もしない形で現れていたようだ。




◆象徴天皇の外交ルート◆


特に致命的だったのは、独立に際して天皇が、前述の松平侯爵、吉川男爵ら側近(及び米紙特派員)を介し、米国(ダレス長官)との非公式ルートを通じて、自ら従属的な安保体制(無条件的な米軍駐留)の形成に深く関わったことである。

これは、朝鮮戦争に伴う共産化(皇室の廃止)を何より恐れた天皇とその側近の、政府を飛び越しての政治関与であり、象徴天皇の重大な憲法違反であった。
    (「昭和天皇・マッカーサー会見」「占領史追跡」他多数)

内外の識者が言うように、つねに「国家」より前(先)に「皇室の存続」があったということだろう、それがある意味、アメリカに国を譲り渡すようなことであったとしても。

このことが、現在の日本のあらゆる方面に大きな禍根を残していることはいうまでもない。
そしてその関係者の子孫が、昭和、平成と宮中の側近(渡辺元侍従長など)として存在しているのである。
当然、政界にも、財界にも。


(時期的に見ても、この驚愕すべき全体像がわかりつつあったことと、この10数年来の皇室のゴタゴタとが全く無関係とはちょっと考えられないが・・・。こうしたことは未だに周知されず、その前に言論・出版の世界が崩壊してしまった。)


                    


◆かつての「藩屏」としての新聞社◆


朝日新聞は戦前・戦中とまさにこうした宮中グループの「言論部門」を担う「藩屏」だったといえる。(この他、講談社も皇室の遠縁である)

村山家は(上野家も)戦後も長らく朝日の大株主として存在し(最近、半減したが、2007年3月までは村山家が45%所有)今も長挙氏の長女が超高齢ながら社主であり、その後は甥に引き継がれるようだ。

また、天皇の学友で旧大名家の学習院同窓会会長や、元総理で熊本藩主家の細川護熙氏なども、同社のOB社員である。


数年前、「週刊朝日」が東宮家へのデタラメな中傷記事を連発する中、社主家とも近い「血縁同盟」の子孫たちのインタビューが連載されており、少々怪訝に感じたことがあった。

他愛のない先祖自慢にすぎなかったが、かつての皇室の親戚でもあり、本来なら高齢の方に対し、(先帝の「二重外交」も含めて、)占領下での、GHQと日本の上流・支配層との隠された関係について、証言を集めておくべきだっただろう。
占領軍と日本の名門との「合作」こそが、戦後日本の「体制」であり、「対米従属」の起点なのだから。

他にも、敗戦直前の莫大な皇室・財閥資産の海外逃避(木戸幸一の命令との海外報道がある)も、その一端が外国の公文書で確認されている。(2001年に日本でも報道)

いずれも体質的な「縁戚政治」の延長上のことで、「身内」、「子孫」にしかわからないことばかりである。(政治の世襲化はこうした要因もあるのだろう。)
同社こそ大きくとり上げるべきだと思うのだが。



最後に・・・・

◆どの面下げて◆


このように、同社の論調と社主の背景には大きな齟齬があり、会社(記者、社員)と社主家との対立は「お家騒動」として有名だ。
                   

(上記写真には、「米英機撃滅の歩武堂々、出陣学徒の分列行進と答禮の岡部文部大臣」との説明書きがある。出典:「写真週報」S18.11/3)

これを書くのにいろいろ調べていたとき、知人の遠縁が学徒兵だったと知ったのだが、その家族は生前、夏に朝日系で反戦の番組や記事が流れると、
「本当に、どの面下げてこんなことやってるんだろうね、毎年毎年」と怒っていたそうだ。

村山社長の実兄の裁可した学徒出陣だけでなく、他にも、同紙が強く批判する植民地からの強制徴用も、村山(岡部)家の縁戚(複数の財閥)が行ったのだが、記者は戦後、そのことを記事に明記しているのだろうか?



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さて、同社の皇室報道は、特にこの10年余り、読むに堪えないが、意外にもこの部門だけ、いまなお(悪い意味での)「藩屏」としての役割を果たしているということなのだろうか。
実際、前出の保阪氏と共に、同社の皇室記者も生前退位に関するヒアリングメンバーであった。

嘘で塗り固めないと、すでに存立しえなくなっているということだろうが、それにしても、あの秋篠宮家を担ぎ上げ続けなければならないとは、まるで敗戦直前のようである。

全マスコミの中でも、とりわけ同社にとって、東宮家(特に雅子妃)は不都合で警戒すべき存在なのだろうが、あまりにヒステリックで滑稽なほどだ。(そもそも、彼女には何の関係も責任もないことだ。)。

しかし、どんな理由があるにせよ、こんなどっちつかずの都合の良いことをしていると、結果として、左右問わず全方位的に読者を失っていくのは確実で、実際、急激にそうなっているようだ。
 


               

宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①

2018年01月31日 | このくにのかたち
「岡部長景巣鴨日記」と「ある侍従の回想録」。
旧岸和田藩主・岡部子爵家出身の兄と弟が書いたものである。


◆兄は東條内閣で学徒出陣を決定◆


前者の岡部長景は、明治17年8月生。岡部長職の長男、
村山長挙(朝日新聞社長)の兄。大正15年に子爵。
外務省に入り亜細亜局文化事業部長、内大臣秘書官長を経て、昭和5年貴族院議員、14年には国民精神総動員中央連盟事務局総長、15年帝室博物館顧問を歴任。

昭和18年東條内閣の文部大臣となり、学徒出陣を決定。
13万人とも、20万人超ともいわれる(文書が残っておらず確定人数不明)多くの学徒を戦地に送ることとなった。(戦死者も、概数すら不明)
同年9月の有名な「雨の神宮外苑」では、東條首相と共に出席、「開戦の詔」を奉読している。

なお、東條首相と岡部大臣は学習院初等科の同級生である。

       

(「出陣学徒を送る右から岡部文部大臣、東條内閣総理大臣、嶋田海軍大臣」
  出典:「写真週報」昭和18年 11月3日号)

戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に22カ月間拘留される
釈放後は、文化事業に復帰、27年、国立近代美術館長、国際文化振興会理事長などを歴任。昭和45年死去。

長景氏の夫人は加藤高明首相の娘で、夫人の母方祖父は三菱の岩崎弥太郎。
長景氏の長男・長衡の夫人は、毛利子爵家出身で華子妃の叔母にあたる。


(また、弟の村山長挙は、明治27年生。長職の3男で、朝日新聞創始者村山龍平の養子となり長女藤子と結婚。昭和15年朝日新聞社長。戦後辞任したが、26年公職追放解除とともに、社主に復帰、35年社長。昭和52年死去。)
      
 (日本人名大辞典、世界大百科事典、日本大百科事典、岡部長景巣鴨日記より)




◆末弟は昭和天皇の侍従◆

そして後者「ある侍従の回想録」の著者岡部長章は、明治42年生。
岡部家の八男。
東京帝大卒業後、帝室博物館、昭和11年から21年まで昭和天皇の侍従を務める
退官後、京都外語大教授、香雪美術館評議員、泉州学園理事。
夫人は、三菱の岩崎家出身。

「閨閥」(立風書房)では、岡部、村山の両家を岩崎家の傘下として書いているが、姉や妹は、大名家(後に離婚)のほか、三井財閥、川崎財閥等にも嫁いでいる。

(参照;一族の画像https://omugio.exblog.jp/17481819/)





◆朝日新聞社の車で巣鴨プリズンへ◆
               
         (国立国会図書館デジタルライブラリー)

自著によれば、兄・長景氏は自身の戦犯容疑での逮捕について、

「(弟・長挙の夫人)藤子さんよりの話で先刻新聞社より電話でお名前があった」と疎開先から上京の際、市兵衛町の村山邸で知らされている。

収監当日は、「朝食は美知子富美子のお料理で飯田の饂飩(うどん)とホットケーキの御馳走」、(美知子というのは、現在の朝日新聞社主)

朝日新聞社の自動車を九時半に呼び」「愈々(いよいよ)自動車も来たので着換へして皆玄関で見送を受け長挙と長衡(長男)とが同車した。」
             (「岡部長景巣鴨日記」より)

朝日新聞の車で同社社長の弟といっしょに巣鴨プリズンまで行っていることがわかる。
この本の「解説」(京大教授による)にも、長景・長挙の兄弟は家族も含めて極めて近しいと書かれており、村山邸での二人の写真も掲載されている。

また、同じく解説には「長景は、華族、政界、官界、財界、ジャーナリズムにまたがる姻戚関係を持ち、各界の結節点に位置する人物であった」とも書かれている。

※ちなみに、朝日新聞のもう一つの創業家の上野家も、九鬼子爵家(三田藩)との縁組がある。

戦時中の朝日の翼賛的報道や戦意高揚を煽る論調、そして虚報の連発に、こうした血縁的背景が無関係とは到底考えられないだろう。

さて、このような戦中の朝日新聞の「立ち位置」は、末弟長章氏の「ある侍従の回想録」の中で、敗戦の混乱時にはっきりと表れている。




◆玉音放送◆


そもそも敗戦時の玉音放送を執り行った下村宏情報局総裁が、元朝日新聞副社長だったことは有名だ。
前任の情報局総裁も、同社の緒方竹虎であり、のちの東久邇宮内閣での「一億総懺悔」という表現も、内閣書記官長となった緒方によるものとされる。
(「占領期の朝日新聞と戦争責任」)

             


以下、岡部長章著「ある侍従の回想録」p194~195(当然のことながら、この本は朝日ソノラマ刊である)によると、

(引用開始)

考えてみれば、玉音放送が終わった直後に最初に御前に出たのは、私だったのです。
「今の、どうであったろう」
との仰せです。玉音放送の国民への反響を心配されていたのです。
先を考えられ行動される陛下は、それまでにない充実したご様子でした。それで私は、陛下のお考えにこたえられる一案を思いつきました。

「私の兄(長挙)が朝日新聞におります(村山龍平の養子で社長)。
こういう場合は、新聞社が一番早いと思います。皇后宮大夫の広幡も兄のことを良く知っております。(必ずこの考えに賛成で許可すると思い)聞いてまいってはいかがかと存じます。」

「それはよい。ぜひ、そうしてくれ」というお答えを得ました。
さっそく広幡大夫に連絡すると、「大変よい思いつきだ」とのことで、ダットサンを一台用意してもらい、防空服に着替えて目立たぬようにして、有楽町の朝日新聞社に行きました。

兄に、陛下が心配なされているので状況を聞きにきたことを告げると、
「社の者をみんな講堂に集めて玉音放送を伺った。その後に『時局重大だから、一同心して社の大任を果たすように』というような訓示をする予定であった。
そのうちにこちら(自分)も泣いてしまい、訓示などできずに止めてしまった。
全国の状況はまだ分からないが・・・・」と言葉少なに話してくれました。
私が「では、効果がありましたね」と念を押すと、「まあそうだ」と一言ポツリといいます。
「それではこのことを申し上げます」と兄に伝え、朝日新聞社を出ました。


(引用終了)


この末弟・長章氏の本の「解説」で保阪正康氏は、

「岡部は、岸和田藩の藩主の流れを汲んでいる。長兄の岡部長景は外務官僚であり、その後は貴族院議員になっている。
昭和16年の東条内閣では文部大臣を務めている。華族(子爵)の爵位も得ている。
岡部は13人兄姉の末弟になるが、その血脈は日本のエスタブリッシュメントにそのままつながっている。
つまり日本の政界、財界、官界などの有力者となんらかのかたちで縁籍になる
という家系である。」

と、兄の「岡部長景巣鴨日記」の「解説」と同様のことが述べられている。



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どちらも著者サイドから依頼される「解説」なので仕方がないのかもしれないが、もうちょっと批判的な記述があってしかるべきではないだろうか。

学徒出陣というのは、戦時中を代表する重大な政策だ。
多くの学徒が悲惨な最期を遂げたというのに、裁可した大臣は戦後、免責されたあげく優雅に美術館館長だったのだ。
本来なら、朝日新聞がここぞとばかりにその人物を責め立てるはずだが、長年、しれっと知らん顔しているようだ。

学徒の出征数や戦死者数が未だ明確でないことにほっとしているのは、文科省や送り出した大学だけではないのだろう。

それにしても、こうしたことが意外と知られていないのは、自社に不都合なことを報道するわけがないうえに、外部の書き手も仕事を貰う立場上、書きにくいということなのだろうか。

或いは「藩屏」の家柄の人々は情報源でもあり、その上、彼らへの批判は、皇室の戦争責任に繋がる面倒な存在なのかもしれない。

書き手に不利益になることは書かれず、書かれないことは気づかれないままだが、殊に昨今、皇室報道周辺に配置されているお決まりの書き手たちの虚偽や不作為は、殆ど犯罪的と言っていいだろう。

それにしても、同社の言うところの「戦争責任」というのをどのように解釈したらよいのだろうか?
自社の社主の親族がこれほど深く関係しているというのに。

一方で、戦前から社主家と対立関係にあった主筆の緒方竹虎はじめ社員・記者の側も、戦中の政権の中枢にいたのだ(反東條ではあったが)。
敗戦時、「東久邇内閣は朝日内閣」と呼ばれたほどである。

(「新聞 資本と経営の昭和史-朝日新聞筆政 緒方竹虎の苦悩―」
「緒方竹虎とCIA」)

「アカヒ新聞」などと言われるのは、存外、そう悪いことではないのかもしれない。
 





戦前は、岡部子爵家に見られるこうした血縁関係が、そのまま宮中を中心とする政治体制を形成していた。
敗戦で、すべて終わったと思われていたが、こうした宮廷政治の名残りは、驚いたことに「戦後体制」の構築にまで及んでいたようで・・・・


                  「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣②」へ続く