昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈①ー田中最高裁長官、竹山パーティー、小泉参与ー

2018年07月30日 | このくにのかたち

昭和の御成婚当時の報道を見ると、小泉信三、田中耕太郎、竹山謙三郎の三氏の手記やインタビューがあちこちにみられます。
小泉氏については、長らく明仁皇太子の教育参与をつとめたことで知られ、当時のお妃選びの話題では繰り返し登場する人物であり、敢えて書く必要もないでしょう。



◆田中最高裁長官と正田家とフロジャク神父◆------------------------

田中耕太郎氏は、ご成婚当時の最高裁長官です。

今や、(米軍基地で起こった砂川事件への最高裁判決(昭和34年)を下すにあたり、田中長官が駐日アメリカ公使らと打合わせを行い、更に米国サイドに裁判情報を漏えいしていたことが、2008~2013年に米国公文書から判明したことで)「対米従属」、「属国化」の代名詞のような存在となっているようです。
参照 新聞記事

   (「機密解禁文書にみる日米同盟」「検証・法治国家崩壊」)


学者から官僚、政治家(吉田内閣の文部大臣)に転じ、昭和25年に吉田茂首相により最高裁長官に指名され10年あまりの長期間つとめました。
また、青年時代の明仁皇太子の「法学」の御進講も6年に渡って担当しています。(朝日夕刊昭和33年11月27日)


        
        (「近代日本人の肖像」田中耕太郎)


そして正田家に非常に近い存在でした。

美智子さんの祖母の正田きぬ氏は、明治末ごろ群馬・館林へ布教に来たヨゼフ・フロジャク神父と出会い、後に昭和2年、東京・関口教会で同神父により受洗。

正田貞一郎・きぬ夫妻と田中夫妻はカトリック仲間で同神父と極めて親しく、

この神父の伝記には、主な後援者として、最初に田中耕太郎夫妻、次に正田夫妻が挙げられており、神父の最期の頃に彼らが見舞う様子も描かれている。

その伝記「フロジャク神父の生涯 」(五十嵐茂雄著)の最初のページに、
「最後の握手皆様によろしくとみ声細く 仰せありしも悲しき思ひ出」と、きぬ夫人の歌が掲載されているのは有名だ。

明治前半生まれの田舎の女性が熱心な信者となったのには、余程の理由が(ネット上でも家族の事情についていろいろ出ているが)あったのだろう。以降、子孫やその配偶者の実家も含め、「(個人ではなく)一族としての」信仰者が多いようだ。

         

また、この神父は戦前から御下賜金を受けるなど皇室とも縁があり、
敗戦で占領下にあった昭和23年、昭和天皇は、ローマ教皇ピウス12世に謁見するフロジャク神父を介して教皇と親書を交換しており(英国公文書、前掲の伝記)、占領軍への対抗のため、より力のあるカトリック界に味方・加勢を求めたとも言われます。(「英国機密ファイルの昭和天皇」)

なお、その2年前には、皇室が同神父に那須の広大な旧御料地を貸与、年末には天皇皇后そろってフロジャク神父の拝謁を受けている。
更に翌22年には両陛下がこの那須の開墾地を行幸啓、高松宮なども同神父の福祉施設を訪問しています。(「フロジャク神父の生涯」)


皇后以下他の皇族も、(皇室存続に資するとの配慮からか)キリスト教の教義を学ぶ様子が当時の資料からうかがえ、高松宮の「神社新報」への発言(昭和22年)でも、「神道に欠けているものを、キリスト教とのタイアップで」とはっきり述べている

この当時、侍従や側近にカトリック信者が目立って多かったのは、「政策上」その方面の人脈が切実に求められたという側面もあるのだろう。






※軽井沢テニストーナメント※

田中長官が、明仁皇太子と美智子嬢が初めて会ったテニスの試合を写真に撮ったエピソードは有名です。
            

「美智子さん担当記者のメモ① 予期せぬ顔合わせ 撮影頼まれた田中長官」より 
(朝日新聞 昭和33(1958)年11月28日)



(引用開始)

試合が始まると、美智子さんの母富美さんは、あわててカメラを持っている知人をさがした。折よく、観覧席には、顔みしりの最高裁判所長官の田中耕太郎氏がいた。
『美智子が皇太子さまと当たりました。すみません、一枚撮っていただけませんか』
昨年八月十九日、軽井沢親善テニストーナメントの二回戦で皇太子・石塚組と正田・ドイル組がまったく「偶然」にぶつかった時のことだ。富美夫人も予測しないことだったらしい。
『せめて娘の一生の記念に・・・・』
との母心からの頼みだったのだろう。
“田中カメラマン”は気さくにこの頼みを果した。ご覧のようにプレーする皇太子と美智子さんの姿は三十五フィルムの一コマにみごとに捕えられた。
この写真はそのとき富美夫人が考えられていたものより遥かに意味のある『娘の一生の記念』となった。

だが、これを見ていた新聞記者は一人もいなかった。たとえ出くわしたとしても写真一枚とろうとはしなかったに違いない。なぜなら、選考首脳部が当時、ときおりもらす言葉は、判で押したように「やっぱり家柄は大事にしなければいけない」ということだったからだ。


(引用終了)



(この「テニスコートの出会い」を含め皇太子の縁談には、田中長官と政治的にも宗教的にも近い吉田茂首相が深く関わっている。
(「隠された皇室人脈」他多数))



小泉信三氏ばかりが取り上げられますが、この御成婚の真のキーマンは田中長官と何よりフロジャク神父だったでしょう。
祖母の代から親しい田中長官は、美智子嬢にとって入内の大きな後ろ盾だったと思われます。婚約後のお妃教育では、憲法の進講も務めています。


さらに、この昭和の皇太子妃決定の「皇室会議」のメンバーは、
秩父宮妃、高松宮、岸信介首相(議長)、星島衆議院儀長、椎熊衆院副議長、松野参議院議長、平井同副議長、田中耕太郎最高裁長官、小谷最高裁判事、宇佐美宮内庁長官となっている。




さて次は、美智子さんが会員だったお見合いの会の主催者について。


◆ 竹山パーティー ◆---------------------------------------------


竹山謙三郎氏は工学博士で当時、建設省建築研究所所長。

「自宅を若い人に解放、お話や音楽会を開いている。美智子さんは第一回からの会員。竹山氏は夫人と共に美智子さん個人のよき心の柱であった。
評論家の竹山道雄氏(「ビルマの竪琴」の作者)、船田享二(法学者、国会議員、作新学院院長)夫人の実弟にあたる。」(毎日夕刊 昭和33年11月27日)
(船田享二の兄は船田中(防衛庁長官)で、その孫が現・衆議院議員の船田元である。)

更に、竹山氏の伯父は、戦前の昭和天皇の側近で宮内大臣を務めた一木喜徳郎。
豪農の出の学者・官僚で、内相、文相も歴任、昭和8年に男爵、同19年逝去。

この会は、「竹山パーティ」といういわゆるお見合いの会で、美智子さんは「昭和二六年創設以来の会員だった」と週刊新潮にもある(当時美智子嬢は16~17歳)。
「それ以前から知り合いだったお母様につれられて」(毎日前掲)初めて会ったと書かれている。
竹山夫妻と若者たち大勢で、ハイキングや音楽会、ダンスパーティを開いており、婚約時に掲載された美智子さんの写真にも、その「竹山パーティー」でのものが結構あります。

竹山氏は毎日新聞の手記に、「(テニスコートでの出会いが)彼女の将来にこんな大きな意味を持つとはだれしも思わなかった」と書き、

また小泉信三氏は、美智子嬢について、美智子さんの親戚(おじ)が慶応の学生だったので、正田家のことや彼女の事も以前から知っていた(毎日前掲)と話しています。

しかし、こうした話しも、彼らの関係性を知るとかなり空々しく感じられます。

有名な話なのでしょうが、小泉、田中、竹山の三者は、一つの系図に書き入れることができます。



                                                         以下、後篇に続く