スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁(加筆して再掲)

2019年03月15日 | 雅子妃の系譜

明治天皇の大葬

今から100年以上も昔の大正元(1912)年9月、明治天皇の大喪の礼に参列するため、英国、ドイツ、スペインの王族をはじめとする外国要人が来日しました。
その際、スペイン王族のアルフォンソ公ボルボン殿下の滞在中の接遇を、雅子様の曽祖父で、後に海軍大将となる山屋他人少将(当時)が拝命しています。





(出典:「日本歴史写真帖 近古の巻」大正3 東光園  国立国会図書館デジタルコレクション)
(拡大します)



外務省の「日本外交文書 第45巻 第一冊」の『事項十九 明治天皇崩御一件』に、以下の記述があります。
(621p下段)



「明治天皇大喪儀へ西國皇帝陛下ノ御名代トシテ参列ノ爲メ御渡来相成候
ドン、アルフォンソ、デ、オルレアン、イ、ボルボン殿下ニハ本月十日午後四時二十分新橋停車場御着 天皇陛下御出迎直ニ御旅館芝離宮ニ入ラセラレ候

是レヨリ先陸軍中将村田惇、宮中顧問官田内三吉、海軍少将山屋他人、式部官伯爵亀井玆常、大使館三等書記官佐藤尚武 同殿下接伴員被仰付候。」
  




(出典:同上「日本歴史写真帖 近古の巻」”西班牙大喪使節西班牙皇族殿下及随員接伴官諸士” )


着席している前列左から、

・山屋他人 海軍少将
(明治41年東宮御用掛、大正8年に海軍大将、雅子妃の曾祖父)

・村田惇 陸軍中将

・ドン・アルフォンソ・ボルボン親王殿下
(当時のスペイン皇帝アルフォンソ13世のいとこ)


・田内三吉 宮中顧問官(陸軍少将、大正天皇侍従)



後列、山屋氏と村田氏の間の大礼服の方が、
・亀井玆常伯爵 宮内省式部官(津和野藩主家当主)


そして、一番右端の方が、
・佐藤尚武 外交官(後に、昭和20年の終戦時の駐ソ大使)




(尚、雅子さまのもう一人の曾祖父である江頭安太郎氏も、「大喪儀海軍事務委員長」をつとめています(アジア歴史資料センター)。翌年、40代の若さで中将で早世。)





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スペイン皇帝の称賛


さて、この大葬の4年ほど前にも、以下の話があります。

「大正名家録」(大正4年)の「山屋他人」の欄には、プロフィールとともに、政府の命で艦長として海外差遣の途中、寄港したスペインの小港ポロンでの出来事として、


「當時同国皇帝其狭小なる港口に於いて氏の能く艦船を自己の手足の如く自由に操縦するを観覧し其の超越せる手腕に感じ稀世の好艦長なりと称讃之れを久しうせられたりといふ」


と、山屋艦長にスペイン皇帝が賛辞を送ったエピソードが記されています。


           




海軍の海外差遣


海軍は日露戦争勝利後、日本の台頭を脅威とみなす欧米諸国に対する政府の外交上の要請で、友好親善のための艦隊差遣を行っています。

伊集院中将を指揮官に、筑波、千歳(山屋艦長)の艦隊が、明治40(1907)年2月から11月まで、米国を皮切りに英国、フランス、ドイツ、イタリアなど10か国を歴訪しました。

(上記のエピソードは、そのうちのスペインでの出来事ではないかと推察されます。)



最初の訪問国は、日露講和を仲介した米国で、バージニア州での「万国陸海軍祝典」に陸軍とともに招待されており、陸軍の日誌には、多くの歓迎行事、式典、そして一行がルーズベルト大統領に謁見したことが書かれています。

(当時、西海岸での日系移民排斥運動で両国関係が深刻化しており、親善交流による沈静化の努力がうかがえる。)



(「万国陸海軍祝典参列員旅行日誌」明治45年、「日米関係史」五百旗頭真)




その後、筑波、千歳の艦隊は、英国をはじめ欧州諸国を訪問して巡ります。
世界の大方の予想をくつがえしてロシアを破った日本への関心は非常に高く、


「同艦隊は、戦勝後帝国艦隊の初めて欧米に派遣せられたるものなれば、諸外国の注目を引ける事著しきものあり 米国に至般の歓待をうけ同盟国なる英国の上下より亦最大なる熱心と厚情を以て遇せられたるは勿論なるが上に、独逸国キールに於ける同国皇帝の御優待の如き異例のものありたり」。

(小栗孝三郎「帝国及列国海軍」明治42年)




この海外差遣は、海軍が担った外交上の正式訪問であり、山屋艦長もスペイン皇帝(アルフォンソ13世)、ドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)はじめ、20世紀初頭の欧米列強の皇帝、元首への拝謁の機会があったようです。

11月に帰国直後、山屋氏に「ポルトガル、スペイン、フランス、オーストリア等各国より勲章贈与さる」とあります。(「大将傳・海軍編」)

(後年、更に欧米各国から非常に高位の勲章を贈られている。)





冒頭の明治天皇の大葬の礼は、それから4年余り後ですが、複数の外国王族の参列は初のことであり、日本の国際的地位の上昇とともに、この海軍の親善航海も、良い影響があったのかもしれません。

昇進した山屋少将は、スペインで賛辞を贈られた皇帝の従兄弟を接遇をすることになりました。
(大葬後、更にスペイン皇帝から叙勲されている。)




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また後年、山屋大将の大正末生まれの孫娘は、スペイン大使夫人として同国に滞在しています。

夫君は旧家の出身で、戦前に外務省からスペインに留学、同地で敗戦を迎えています。
スペイン語の達人として知られ、外交官・大使としてのみならず、昭和30年代に、海外の著名詩人(後年、ノーベル賞受賞)とともに、日本の古典文学の翻訳(芭蕉を初めて本格的に西欧語圏に紹介)を行うなど、学術分野でも活躍しました。 (「外交フォーラム」他)



そして昭和の終わり、ひ孫で、外交官試験に合格した雅子嬢と、浩宮(徳仁親王・皇太子)との縁を結ぶきっかけと報じられたのが、スペインのエレナ王女来日のレセプションでした。


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(2017年の4月初旬、スペイン国王夫妻来日の際に書いた、当ブログ最初の記事を加筆・編集して再掲しました。)



占領下、GHQ幹部と「不適切な関係」だった旧華族夫人たちと美智子妃との深い繋がり

2019年01月07日 | このくにのかたち
      

◆占領鹿鳴館時代◆
               

敗戦後、皇室の存続、憲法改正、財閥のゆくえ等々、日本のあらゆる面での決定権は占領軍(GHQ)が握ることになった。
そうした状況下で、彼らと親交を深め、情報を探り、歓心を買うべく盛んに接待パーティーが開かれている。
「占領鹿鳴館時代」とも言われ、日本の皇族、華族、政界、財界、官界など各界を代表する人々が参加していた。
皇室が、その存続を賭けてGHQを接遇したことは、「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵氏のエピソードでも有名だ。


高松宮妃の著書「菊と葵のものがたり」でも、夫妻で自宅の光輪閣でパーティーを開き、カーペンター、ホイットニー、ウィロビー、ケーディス、ハッセイなど多くのGHQ高官、そしてキーナンはじめ東京裁判の検事たちを招待したことが書かれている。

高松宮、松平康昌侯爵(宮内省内記部長、宗秩寮総裁)、加瀬俊一氏(外交官、長男の加瀬英明氏は、日本会議副会長)、沢田廉三氏(外交官、アメリカ対日協議会メンバー、夫人は三菱の岩崎家出身)などが、平和主義者としての天皇をアピールし、天皇制の維持と訴追回避を必死に働きかけていた。
(キーナン検事はこのパーティーで、天皇を訴追しない旨を話している。)

また、のちに米国国務長官となり、昭和帝や吉田首相を通じて戦後日本を作ったダレス氏も出席している。


特に、貴族制を持たない米国人にとって、皇族や華族のご婦人方は人気で、
秩父宮妃、高松宮妃、竹田宮光子、照宮(東久邇)成子などが、ダンスだなんだと引っ張りだこだったそうだ。
(「週刊新潮」1985.8.15号 ”GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年”39p)

元米国人記者の著書によれば、昭和天皇の母の貞明皇后も、王(皇)女や公爵夫人たちを集め、GHQ将校を接待する社交パーティに積極的だったようだ。


こうして頻繁に行われたパーティで、上流夫人とGHQ幹部との間に恋愛関係が生じることも珍しくなかった。

旧華族夫人の話として、

「殆どの方が用心深く、特に外部には嗅ぎつけられぬようにしていましたし、お互いにかばい合ってましたからね。大体昔から上流階級なんてものは恋愛はゲームですから、(中略)見て見ぬふりをして知らぬ顔をしているのがマナーというものですからね」(同上39p)

と、そのほとんどは表沙汰にはならなかったが、一つだけ有名になった貴族夫人のグループがあった。





◆楢橋パーティー◆
                 

そのグループが常連だったのが「楢橋パーティー」である。

幣原喜重郎内閣の内閣書記官長(今の官房長官)だった楢橋渡氏と文子夫人が中心となって、麻布永坂町の書記官長公邸(ブリジストン社長の石橋正二郎氏の屋敷を借り受けていた)で、主にGS(民生局)のケーディス大佐一派を囲むディナーパーティーを開催した。


そこで、楢橋書記官長と福島首相秘書官などが中心になって、
外国人とのパーティにも気後れしないような海外生活の経験、教養、語学力のある上流の御婦人方を人選し、沢田美喜女史(三菱財閥令嬢、外交官沢田廉三夫人で、のちにエリザベスサンダースホーム主宰)はじめ、楢橋夫妻と親しかった海外駐在歴のある銀行・官庁エリートの奥様方などを招待することになった。


それに加えて楢橋夫人が声をかけたのが、後にケーディス大佐との大恋愛で知られる鳥尾鶴代氏をはじめとする華族の令夫人たち「女子学習院グループ」であった。
この女子学習院グループこそが、GHQ高官との奔放な恋愛関係を結んだ中心メンバーだったとされる。


「楢橋パーティー」は石橋邸で4回、楢橋の大磯の別荘「滄浪閣」で2回行われている。
会合の出席者や人数は、その都度多少異なったようだが「子爵夫人・鳥尾鶴代」(立風書房)66Pによれば、おおよその日本側参加者として、


楢橋渡・文子夫妻、福島慎太郎首相秘書官、白洲次郎外相秘書官、松本烝治国務相(憲法改正担当)、元神奈川県知事内山夫人、元横浜正金銀行NY支店長太田夫人、東大教授荒木光太郎夫人(GHQ勤務・ゾルゲ事件の関係者との説がある)、実業家若尾家令嬢、松平子爵夫人、鍋島公爵夫人、そして、「女子学習院グループ」の、男爵M夫人のM子(財閥令嬢)、N子爵令嬢のK子(大名家出身・会社社長夫人)、子爵N夫人のS子(公爵令嬢、以下「S子さん」)、そして有名な子爵・鳥尾敬光夫人の鶴代、の名前が挙げられている。

(なお、「子爵夫人・鳥尾鶴代」には名前が明記されている。)



※澤田廉三・美喜夫妻の岩崎邸(本郷ハウス)、澤田邸(サワダハウス)は、GHQの秘密情報機関(キャノン機関など)の活動拠点であり、夫妻は占領軍(G2)と非常に近く、その家賃収入は「エリザベス・サンダースホーム」の貴重な運営資金の一部だった。また、下山事件との関連も推測されている。





◆「女子学習院グループ」◆

                  

楢橋パーティの中心メンバーがこの「女子学習院グループ」で、彼女たちは同校の学友だった。
いずれも既婚の30代半ば。ほとんどが母親で、当時の感覚ではそろそろ中年といってもいい頃だった。
その一人、鳥尾鶴代氏の子息は、平成の明仁天皇の幼稚園以来の学習院のご学友である。

彼女たちについて、「楢橋パーティー」の一員で後の東京銀行常務夫人は、

とにかく鳥尾さんとかS子さんたちは遊び暮らした連中ですよ。女子学習院のお嬢様たちはいい所の出のわがまま娘ですからね。我々とは違う世界の人たちなんです」(前掲『週刊新潮」41p)
  
 (この週刊新潮の記事も、全て実名で書かれている。)

と話している。
(ただし、鳥尾夫人の実家は、良家だが華族ではない)
このグループでは、夫と死別の鶴代氏を除いて、後に全員が離婚している。


前述のように、地位も名誉も財産も失った夫を捨て、奔放な不倫関係に走ったのは、決して彼女たちだけではないのだが、鶴代氏とケーディスの関係が当時から報道され有名だったので、このグループばかりが目立ったのは気の毒だったかもしれない。

また、後に鶴代氏が自らの恋愛について記した著書を残したことも影響しているだろう。

         



◆美智子さんとの不思議な縁◆


このうち、鳥尾鶴代氏とS子さんの二人は学生時代からの親友で、ともに美智子さんと不思議な縁がある。

ケーディスは、鶴代氏との結婚をマッカーサー元帥に願い出るが許可されず(「占領「鹿鳴館」の女たち」松本清張全集34)、この不倫も原因となって失脚、帰国を余儀なくされた。

その半年後に夫とも死別した鶴代氏は、このあと、昭和電工創業家(森コンツェルン)出身の国会議員・森清氏と長く愛人関係になっており、自著に赤裸々につづっている。

ケーディスはかつて、昭電疑獄事件も調査しており(このときは創業家社長ではなかったが)、まさに奇縁と言える。


森氏の姉の一人は、のちの首相夫人・三木睦子、もう一人の姉は安西正夫(昭和電工社長)夫人である。
この安西正夫氏の長男(つまり森氏の甥)に嫁いだのが美智子さんの妹である。

言うまでもないが、大正期まで千葉の漁師仲間だった森家と安西家で創業したのが昭和電工(新潟水俣病の原因企業である)であり、安西氏は公害病発覚以前からその後も社長であった。


この安西家から政官財に大きく広がる閨閥は、美智子妃の絶大なバックグラウンドとなると同時に、同家も、正田家を通じて皇室とつながったことで(美智子妃の実兄もこの閨閥内の女性と結婚)、この一族は「昭和の新貴族」とも呼ばれた。安倍首相もこの閨閥に含まれる。(「閨閥」立風書房)


そして、その鶴代氏の親友で、同じく占領軍高官との関係で知られたS子さん(公爵令嬢)は、美智子入内のわずか数年後(上記の兄や妹の結婚とほぼ、同じ時期)、なんと正田本家に後妻に入っている





◆実家本家の後妻◆


S子さん。公爵家の次女で、昭和6年、大名子爵家に嫁いでいる。
同じ「楢橋パーティー」のメンバーからは、

「S子さんは、大変な美人であり、大変な遊び女でしたよ」(前掲「週刊新潮」41p)

と言われてしまっている。

その後、昭和24年に夫と離婚、「親族もその理由については口を閉ざす」(同上)とある。

ところがご本人はこの当時、結構マスコミに出ており、雑誌の座談会等で名前を出して顔写真も掲載されている。

昭和26年の雑誌「富士」(世界社)の、旧華族・準皇族3人による、
『転変の人生を語る旧貴族の座談会  新生活は幸か不幸か』
という記事の写真を見ても、白黒の古い誌面にもかかわらず、非常に美人であることがよくわかる。

記事中、本人自ら「あんたのは、パンパン哲学だと良く言われるんですが、」と述べており、当時、周知のことだったようだ。


「旧貴族座談会」のS子さんの人物紹介によれば、離婚後は、酒場「レイ」を経営するがうまくいかず、その後、驚いたことに探偵社に勤務、女探偵として結婚調査などを生業としている(S25年 光文社「面白倶楽部」“私立女探偵打明け座談会”)。


(この座談会の別の女性は、やはり大名家の伯爵令嬢で公家の子爵夫人だったが、終戦前に自ら婚家を出て、戦後、新橋で酒場を独力で経営している。)


またS子さんは、「父の家の裏にバラックを建てて住んでいます」と話している。
もともと公家は経済的に脆弱なうえに、離婚後4人の子供を引き取ったこともあって苦労していたようだ。
他に、週刊新潮には「生命保険のセールスもしたことがあるそうだが」(p41)とある。

「姉が三井財閥に嫁いでおりますし、よく友達に、そんな苦労することはないじゃないか、世話になればいいと言われますが、嫌なんですね。自分の力でやるのが楽しいんですよ。負け惜しみではないけれど」(「旧貴族座談会」)、

と話していたものの、その後、驚くべきことに、

「美智子妃殿下の大叔父にあたる正田氏と再婚」。「正田氏は(昭和)48年に亡くなり、S子さんは遺産を相続し、現在は伊豆の伊東市にある有料老人ホームで晩年を送っている」(前掲「週刊新潮」p41)


この再婚は、S子さんが50才ごろになってからのもので、美智子さんが皇太子妃になってごく数年後のこと(昭和30年代半ばから後半)である。

(いくら美人で超の付く名門出身の女性とはいえ、いろいろ取り沙汰されていたはずで、この大叔父も、複雑な心境ではなかったかと思うのだが・・・・、美智子妃の立場を慮ってのことだろうか?)

                 

S子さんの出戻った実家は古来、歴代皇后を輩出しており、ごく近い親戚が皇族であり、その他、徳川、細川など大名家、公家、財閥が十重二十重に広がっている。
したがって、当時の秩父、高松の両宮妃以下、現在の常陸宮華子妃などともたどれば皆、先祖累代の親戚である。

また実家筋は、当然のことながら伝統的宗教界と近く、代々、有名神社の宮司も務めているようだ。

(ちなみにS子さんのおばのうち二人も戦前の皇族妃で、うち一人は、敗戦による臣籍降下後、夫君の同性愛を暴露して離婚を申し立て、後に10歳年下の仕事上の部下と同居している。(「現代家系論」本田靖春))


昭和初期に、群馬県下でさえ納税額100位にも入っていない正田家である。
両者が若い頃であれば、結婚などあるはずもない組み合わせであった。

美智子さんの実家からすると、「いわくつき」の彼女を引き受けることで、伝統的血縁の円環への仲間入りをした、と見ることもできるだろう。


こうした美智子妃の親族たちの結婚に、「女子学習院グループ」の二人の親友関係は、どのように影響していたのであろうか?




※この他、「女子学習院グループ」の一人で、大名子爵家出身の方(G2のウィロビー准将に接近したと週刊新潮に書かれている。上流夫人たちの間で人気将校は取り合いだったようだ)は離婚後、聖心女学院のシスターとなった娘の縁で、昭和28年まで聖心の舎監を務めている。(前掲「週刊新潮」41~42p)

皇后の友人で同窓の曽野綾子も、この女性と知り合いのようで、月刊誌にちらっと書いている。

もしかしたら美智子さんも、彼女たち母娘と学校で面識があったのだろうか




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今や(表立っては書かれないものの)結構、知られた話であるが・・・

やはり、なんというかこの上ない、ゾッとするような「禁忌」といった感は否めない。

ある意味、戦後の日本の「本質」をストレートに映し出していると言えなくもない。

むしろ大事なのは、その「本質」を作った初めの方に出てくる戦前以来の(皇族も含めた)要人たちであり、上記の話の流れこそが、この国の戦後の「保守」ということだったのだろう。

引用した週刊新潮の記事は1985年のもので、5ページに渡り占領下での不倫スキャンダルを詳報しているが、今ならちょっとありえない記事でしょう。
当時はまだ、その意味するところが、よくわかっていなかったのだろう。


一方、占領政策への疑念と、米国と日本のいびつな主従関係を指摘し続けた人物が、雅子妃の著名な御親戚であったが・・・・今にして思えば、本当にお気の毒であった。



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「週刊新潮」1985年8月15日号「GHQ高官の取巻きだった『上流夫人』七人の四十年」
「子爵夫人 鳥尾鶴代  GHQを動かした女」 木村勝美 立風書房
「松本清張全集 34」より「占領『鹿鳴館』の女たち」

「富士」 1951年3月号「旧貴族座談会」 世界社
「面白倶楽部」1950年2月号「私立女探偵打明け座談会」光文社
「菊と葵のものがたり」高松宮喜久子妃  中公文庫

「占領下日本」   ちくま文庫
「GHQと戦った女 澤田美喜」 青木富貴子 新潮文庫
「秘密のファイル CIAの対日工作」 春名幹男 共同通信社

「現代家系論」  本田靖春 文藝春秋
「閨閥」「門閥」 佐藤朝泰 立風書房


※ 占領下に形作られたとされる日本の戦後体制や対米人脈、当時の皇室の動向を知る上でも、GHQ幹部とも皇室とも非常に近い彼女たちの存在はとても重要で、本来ならば、すべて実名で論じるべきものでしょう。
あくまでも彼女たちグループは、取り巻きの華族夫人たちの「ごく一端」にすぎないのだ。



幕末・明治から雅子妃に続くエリートの系譜(高祖父・丹羽与三郎家を中心に)

2018年11月10日 | 雅子妃の系譜
◆幕末から明治・大正に続くエリート家系◆



(更に広がりがあるが書ききれなかった。)          



山屋他人の妻・貞子さんの実家丹羽家は、尾張士族で、戦国時代に織田家に仕えた武将丹羽氏の流れである。
藤堂高虎の槍奉行を務め、後に尾張藩士となり幕末を迎えた。

貞子さんの父・丹羽与三郎房忠は、弘化4年(1847年)、同じ尾張藩士平尾家から、丹羽家・ハツの婿養子に入っている。

戊辰の役では官軍の陣場奉行をつとめ、維新後は新政府の教部省(のちに内務省)の神祇官に聘され、井伊谷宮(遠州引佐)権宮司、鎌倉宮(神奈川)宮司、気多神社(能登)宮司、寒川神社(神奈川)宮司を経て、明治35年から大正5年の逝去まで、鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を長く務めた。

                     
丹羽与三郎・ハツ夫妻は、雅子妃曾祖母の貞子夫人を含めて6男一女に恵まれ、「七福神」と呼ばれている。
その子供たちは、当時、女子教育も含め最高レベルの学校の一つであった近藤真琴の主宰する攻玉社で学んでいる。

(この近藤と山屋他人の伯父・野辺地尚義は同じ大村益次郎門下で鳩居堂の同窓。山屋も当然、攻玉社出身。)

それぞれの配偶者の親族も含め、明治から大正時代の非常に先進的な超エリート階層を形成している。



(国立公文書館アーカイブ、官国幣社便覧、「海将山屋他人の足跡」他)





長男  
安政元年(1859)生 海軍少将 
厳島艦長、水路部測量科長、艦政本部部長を歴任。
夫人の父は佐賀藩士鳥巣敬義。

                            長男は東京高商(現・一橋大)卒 三菱重工業






次男 
鋤彦  明治元年生 工部大学校(今の東大工学部)卒 工学博士 
近代港湾幕開けからの先駆者であり、港湾技術界の大権威者である。(「港湾」丹羽鋤彦博士を憶う)  

夫人は、出石藩儒官の家柄で知られた官僚、政治家で「天気予報創始者」の桜井勉の令嬢。
                             

明治22年内務省入省、最上川、木曽川の整備・近代化を手掛け、その後、築港を管轄する大蔵省に転じ、横浜港埠頭工事の施工責任者として欧米に視察。「ニューマチックケーソン工法」を初採用、日本人だけの工事を初めて成功させた。
その後も赤レンガ倉庫や鉄桟橋、鉄道整備と横浜港の形成に尽力、神戸港その他の築港にも指導的役割を果たした。

退官後は、日本水力常務、帝都復興院参与、国会議事堂建設において常任顧問、会計監査院顧問、母校の攻玉社工学校校長を歴任。この他、隅田川河口整備および東京築港の道も開いている。
昭和30年逝去。(「日本のコンクリート技術を支えた100人」、「土木人物事典」他多数)

(拡大します)
(議事堂設計コンペの審査員・近代日本の建築・土木界を代表する名前が並ぶ 「議員建築意匠設計懸賞募集規定」)



なお、攻玉社の幼稚舎寮では、会津藩主家の松平容大氏(秩父宮勢津子妃の伯父、後に養女となる)と同室で寝食を共にし、屋敷にも遊びに行っている。(「攻玉社90年史」)



※ 夫人の父・桜井勉は、内務省地理局長(気象測候網の整備)、神社局長、徳島、山梨の知事を歴任。郷土史「校補但馬考」編纂。

いうまでもなく夫人の兄は医学者の桜井恒次郎(九州帝国大学教授)、弟は訳詩家(菩提樹、野ばら、ローレライなど)の近藤朔風、叔父は明治女学校を設立した木村熊二と著名人が並ぶ。
 


 
                      長女は、旧内務省局長(理工系)の夫人
                      子息は、いずれも帝大卒で、鉄道省等の幹部





三男 

明治4年生 東京帝大法科卒 
横浜正金銀行入行、サンフランシスコ支店、長崎支店等の支店長歴任後、当時、煙草王として財を成し(京都東山の「長楽館」で知られる)、銀行を設立した「村井吉兵衛氏に懇望され」、大正7年、村井銀行に転じ常務取締役。

義弟(妻の妹の夫)の春藤氏は三菱銀行常務取締役を経て、戦後、花王油脂会長、花王石鹸相談役を歴任。


        
長女は東急電鉄重役夫人
次女は縁戚の資産家(地方の銀行・鉄道の創業家)の孫である国文学者(東京女子大教授)に嫁す。




四男 

明治7年生 京都帝国大学工科卒 
九州鉄道入社、鉄道省、帝国鉄道院を経て、筑波高速鉄道技師長、京成電鉄取締役、在任中急逝。
(鉄道先人録)
  
夫人について、「葦原眉山の長女」と書かれているが、もしかしたら、江戸末期から明治期に活躍した日本画家の葦原眉山のことだろうか。

(眉山は、徳島・興源寺の住職で、鉄翁に師事。名古屋で官職に就き「同好会」を創立、第2回共進会出品作が、宮内省御用品となった。)(愛知書家画家事典)      
              

                子供の配偶者の一人は山川健次郎(帝大総長・男爵)の孫




長女 
 
 貞子  明治10年生 攻玉社女子科卒 海軍大将山屋他人夫人
      

               雅子妃の祖母・寿々子さんを含め2男5女に恵まれる(後述)





五男 

明治14年生 東京帝国大学医学部卒 同大医局、勤務医を経て開業医。医学博士。
          
夫人は、医学博士で宮内省侍医をつとめた大谷周庵(旧幕臣)の令嬢

妻方の義兄に大谷彬亮(北里研究所、慶大医教授、済生会病院長)や 梅野実(工学博士 九州鉄道から三菱製鉄常務、満鉄理事。戦後はブリジストン顧問。合成ゴム研究や鉱山開発に功績。)など当時の医学・工学分野で活躍した人が多数いる。

(「日本近現代医学人名事典」 「鉄道先人録」)



岳父の大谷周庵は、明治16年に大学東校(東大医学部)卒業後、五高教授、ドイツ留学、長崎病院長などを経て、同級生の北里柴三郎の推薦もあり大正元年から4年まで宮内省侍医を拝命。
昭憲皇太后付、貞明皇后拝診主任をつとめた。
(「長崎医学100年史」)




このほかもうお一人、六男で会社重役のかたがおられる。



(上記のほか、「紳士録」「人事興信録」「国立公文書館アジア歴史資料センター」)






◆明治維新後の旧士族の大成功例◆------------------------------------------

ご兄弟のお一人について、当時の人名事典には、

「君の兄弟は五人にして各々其学ぶ所を異にするもいずれも逸足俊才を以て大正の新世に活躍しつつあり 果して然らば其の慶福や豈に丹羽家一門の為のみならんや」

とある。一人っ子の山屋大将にとって、各界で活躍する妻の兄弟たちは頼りになる存在だっただろう。

閨閥の広がりを見ると、明治から大正期の医学、工学部門を背負った超エリートが多い。
(草創期の)東大、攻玉社、海軍、そして九州鉄道や九大を拠点とした旧士族たちの婚姻関係がうかがえ、それはこのあと、それぞれの子孫にも繋がっている。

上記系図は、山屋大将を調べれば、たちどころに判明する顔ぶれであり、学問上、高名な方も多い。
皇室との関わりもあり、周囲は歴史上の人物が目白押しで、本来、必ず報じられるべきものだ。






※ なお、一方の山屋家も非常に由緒があり、南部家に敗れて以降の家臣だが、本家(百十石)と四つの分家(百石、五十石、以下微禄と続く)の5系ある。(南部藩参考諸家系図)

山屋他人は小さな分家の出だが、婿養子の父方・大萱生氏は江戸家老など要職を務め、母方大叔父で実業家・菊池金吾の屋敷は明治帝の行在所、伯父は蘭学者の野辺地尚義、その孫はピアニストの野辺地勝久(東京芸大教授)。
また尚義の養子に、帝大教授で鉄道草創期に活躍した野辺地久記博士(下記画像参照)がおり、丹羽家の兄弟と学友である。 



(拡大します・国立国会図書館「大日本博士録」)






前々からずっと疑問でしたが、
皇室の専門家の多くは歴史・政治学者と称し、中には医学や鉄道分野に詳しいとされる人もいるのに、四半世紀に渡ってこうしたことに何の言及も無いというのは、一体どういうことだろうか?



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次世代の山屋夫妻の子女についても少し触れておくと、




長女  
明治31年生 女子学習院卒

夫は海軍少将・岩下保太郎
昭和10年第2次ロンドン軍縮会議の首席随員(全権は永野修身大将)、
昭和12年、連合艦隊参謀長に在任中、急逝


        
(子息、子女)
海軍中佐(戦死なさっている・海軍中将の令息)の夫人
旧商工省(通産省)官僚夫人
大学名誉教授(東大工学部卒)




長男  
明治33年生 海軍兵学校卒 同校の監事、皇族(伏見宮博恭王)付武官を務めている。終戦時は大佐。 
夫人の実家は甲信越の地主、銀行家で、明治初期に電力(水力発電)会社創業。




子息のお一人(海軍経理学校卒、入社後コーネル大留学)は若くして帝国ホテル取締役に就任するも、40代半ばで早逝。
ライト館から現在の帝国ホテル本館の改築の際のプロジェクトリーダー(企画室長)を務めた。
         
        
           



次女
明治35年生  女子学習院卒
   
夫は日本郵船勤務(東京帝大工科卒)で、
昭和初期に一家で長くロンドン駐在、その後長崎支店、神戸支店監督であったが30代で早逝。




長女(神戸女学院卒)は外交官に嫁ぎ、特命全権大使夫人。
夫は、北陸と京都の名家の出身で、外交官のみならず、外国のノーベル賞受賞者との共訳をはじめ学術分野でも活躍、退官後は大学教授、銀行顧問。
夫の実兄も大きな業績を残した高名な学者で日本学士院会員。
他にも茶人、文化人として知られた親族もいる。

(この夫君の兄とまだ学生だった浩宮(皇太子)とは偶然に縁があったと、ご婚約当時、知人の大学関係者から聞いたことがあったが・・・・)
   





次男
明治38年生 東京商大(現・一橋大学)卒業後、満鉄勤務。
戦後は、末妹の嫁ぎ先が創設した海城学園の役員を務めた。

夫人は、工学博士で三井系企業重役(福岡士族)の令嬢。
夫人の叔父(父の実弟)は、大正から昭和初期の大蔵官僚で、理財局長、銀行総裁職など要職を歴任。 





三女 
明治43年生 企業(東証1部)創業者の子息(東京帝大工科卒・愛媛士族)に嫁いだが、病気により早逝。
           
            遺した子息たちが後年、社長、重役を務めている。




四女
明治45年生  
夫は東京帝国大学卒で、鐘淵紡績(のちの鐘紡)勤務であったが早逝。





五女
寿々子(雅子妃の祖母) 大正5年生、双葉高女卒。

父・山屋他人と同期の江頭安太郎中将の三男・豊氏に嫁ぐ。
豊氏の母方祖父は、現在の海城学園の創立者・古賀喜三郎である。
   
豊氏は、東京帝大法科卒業後、日本興業銀行入行。
人事部長、中小企業金融公庫理事、取締役資金部長、常務取締役大阪支店長を経て、経営再建中のチッソに派遣され、社長、会長。




一人娘の優美子さんは雅子妃の母。
昭和13年生。慶大仏文科卒。エールフランス勤務を経て、外交官で、後に外務次官、国際司法裁判所所長の小和田恒氏に嫁ぐ。
       
                 
  





※ 雅子妃の祖母・寿々子さんは、父は子供たちの縁談について、人物本位という固い信念を変えることがなかった、と話している。当時、更なる華々しい縁談があったはずだが、そうした志向とは無縁だったようだ。
 


(「海軍兵学校・機関学校・経理学校」、「人事興信録」、「満州紳士録」、関連・所属団体や公的機関のHP、社史、ご本人についての記事、著作物の著者紹介など)



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以上の流れが雅子妃の重要な「バックボーン」であり、有力なお妃候補となった由縁だろう(他の系統もご立派だが)。

婚約当時に報道された親族系図が、大事な部分がごそっと抜け落とされていることは一目瞭然で、調べるまでもなく、
「こんな構図にはならないでしょうが」、「皇太子は家庭を持つ資格がないな、こんなとこに嫁に行ってはいかんよ」と、なかなか先見性のある(?)ことを言っていた友人もいた。


まさに「人格否定」の最たるものだろう。
(問題は、なぜ全マスコミ挙げてこんな書き方をする必要があったのか、ということだ。
その後も週刊誌や皇室本どころか、専門書や事典の類にも、そのまま平気で間違いや曲解させるような記述をしているものがある。)



結婚して25年あまり、雅子妃はいまだプロフィールの紹介さえ満足になされないままである。




※ 雅子妃に関してはネット上の嫌がらせやデマが激しく、(非常に古い世代で、すでに評価の定まった方を除き)なるべく姓名は伏せ、肩書の表記にも細心の注意を払ったつもりです。


※ 帝国ホテルの方については、複数のデータからまず間違いないと判断して掲載しました。



群馬県で納税額100位にも入っていなかった正田家ー明治~昭和初期の多額納税者名簿からー

2018年10月29日 | 美智子さんについて

◆戦前の多額納税者名簿◆

戦前、群馬県の多額納税者は10回公示されています。

当時の「官報」や、全回をまとめた「多額納税者議員互選人名簿 第9巻 群馬県」で確認できますが、明治、大正そして昭和ひとケタ代まで、皇后の実家本家・正田家(醤油醸造業)は掲載がありません。

上位15名のみ公示だった初回の明治23年から大正7年まではもちろんのこと、その後100位まで公示となった大正14年、昭和7年にさえ掲載は無く、戦時体制に入りつつあった最後の昭和14年に、やっと県下で59位でした。(これは、分家筋の美智子祖父の貞一郎氏の日清製粉の成長も関係しているのでしょう。)

つまり戦前10回のうち最後の1回だけでした。
長年の報道からくる印象とはずいぶん異なります。

意外と知らない人も多いようで、いくつか納税者名簿のリンクを貼っておきます。

以下のリンクした多額納税者名簿には、群馬の正田家は全く出てきませんが一方で、ほとんどの年で上位に、福岡県には麻生家(信子妃)、そして香川県には鳥取家(久子妃)が掲載されているのが確認できます。


目安として、

※ 日本の人口は、明治初期でおよそ3400万人、明治30年で4240万、明治末で5050万、大正末で6070万、昭和10年で6925万。現在、1億2670万人。(総務省「日本統計年鑑」)

※ 群馬県の人口は、大正9年で今の半分、世帯数は4分の1です。(群馬県統計課 「群馬県人口と世帯の動き」より)




明治23年 群馬県多額納税者

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900128/20



明治期は上位15名ですが、当時の人口を考えると、現在の50位ぐらいでしょうか。
明治前半期は、まだ江戸末期の経済状況を反映しているといえるでしょう。






明治30年 群馬県多額納税者 


「群馬縣多額納税者及大地主」(商工者名鑑)(明治31年)より、上段の「多額納税者」が明治30年のもの



美智子さんの実家・正田本家のある館林は、↑の画像の左下の「邑楽郡」です。
念のため町村名を消していますが、「多額納税者」にも、「大地主」にも、館林町の方が複数おられますが、正田家ではありません。









明治37年、同44年 群馬県多額納税者
(上段が明治44年、下段が37年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910298/219 



隣のページの新潟県は、「千町地主」といわれる日本有数の大大地主が複数あり、群馬県の納税額とはケタが違います。





そして、大正14年から上位100名公表となりましたが、これも当時の人口と世帯数を考えると現在の200位あたりからもう少し多いかもしれません。





大正14年 群馬県多額納税者 (4月と7月の2回選挙があった)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922789(群馬県はコマ番号116)


                  

1位の中島知久平は、戦前の「中島飛行機」の創業家で、戦後は富士重工業(スバル)。
納税額も2位の倍以上あります。






昭和7年 群馬県多額納税者 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445744(群馬県はコマ番号20)




100位まで公表となって、職種もはっきりわかります。


「荒物商」に「興行業」に「魚商」もいますが、この顔ぶれと納税水準でランク外なんですね・・・。





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この多額納税者名簿は、戦前の各地の資産家調べの最も基本的で最初に調べる資料です。


(当時の貴族院(今の参議院)議員が、都道府県の納税額上位15人による「互選」で1~2名選出されていたため、7年ごとの選挙(および補欠選挙)のたびに公示されていました。)


いくらなんでもこの実情で、「上州きっての」、「由緒ある資産家」などというのは、ありえないでしょう。

これで江戸期からの「豪商」などと言い始めると、日本中「財閥」だらけになってしまいます。



(そもそも県の「多額納税者」と言っても、殆どは地元の農家と商人。全国レベルのごく数家を除けば、到底それだけで、昭和30年代に皇太子妃が出るような顔ぶれでないのは、一目瞭然です。)




正田本家が貴族院議員でなかったことは資料からも明らかですが、一方、分家筋の正田貞一郎氏(美智子皇后の祖父・日清製粉会長)も、一応、勅選の貴族院議員になったとはいえ、
「敗戦後」の昭和21年から翌22年の3月に貴族院が廃止されるまでの、
占領下でのごく短い期間でした。
(「貴族院」というので、戦前と勘違いさせるような報道が多いのですが。)
まさに戦後の混乱期でした。





◆地主名簿◆


農家ではないので関係ないだろうとは思いましたが、一応、地主を調べる資料として、

「50町歩以上ノ大地主」 農商務省 大正13年
「群馬県各都市別耕地10町歩以上所有地主調」 群馬県 明治45年


やその他、篤農家名鑑等も見てみましたが、掲載されていません。

なお、戦前の大地主と多額納税者はかなりの部分で重なっており、あらゆる資料で出てくる名前は大体決まっています。





※日清製粉の前身である「館林製粉」は、もちろん正田家も出資していますが、
 それだけでなく多額納税者常連の地元の大地主たちが多く出資して設立された会社です。
 高商(現・一橋)を出ている正田貞一郎氏は設立時、専務として経営を任されていました。




一方、のちにライバル社となる「日本製粉」の(事実上の初代)社長に招聘されたのが、南條新六郎氏でした。
実家は館林藩家老をつとめ、群馬県初の銀行「国立第四十銀行」を館林に創立、初代頭取となり(行員の多くは士分を失った旧藩士)、同地の近代産業発展の礎を築いた人物です。
子息は、三井合名筆頭常務理事。

家柄、業績から見ても、本来、館林の近代史の中心にあって、同地が輩出した代表的人物であるはずですが、古い資料にでもあたらない限り、関連書籍や記述も少なく、殆ど知られていません。
この方についてのおそらく唯一の本(2008年出版)の帯には「忘れ去られた館林の歴史」とあります。

これも、正田家を皇后の実家本家たらしめるために生じた、大きな「歴史のゆがみ」の現れなのでしょうか?

                 (参照:「館林第四拾国立銀行創立と頭取 南條新六郎」)








◆「根拠がない」◆


また、正田家の先祖について、「新田義重の老臣、生田隼人重幸とされる」との婚約時の報道も、なんら学問的・客観的裏付けがなく、

「正田家が群馬県新田郡世良田村の長楽寺住職 平泉恭順氏(すでに故人)に、とくに調査を依頼した結果わかったとして」発表したもの

(週刊読売 昭和33年12月7日号 p24)

にすぎない。

そもそも朝日新聞(昭和33年11月27日縮刷版436p)では、

「生田隼人重幸から出たとの説もあるが、重幸が実在したかどうかは根拠がない」。

(ただしこの生田隼人家の子孫が家康の命で正田姓に改め、代々新田の徳川郷の名主となっており、世良田東照宮とも非常に関わりが深い。)



更に、館林に来てからの正田家の初代とされる人物も、

「(常光寺の墓碑の)名前は消えてわからない」、

「先祖がどこのだれであるか、実のところ正田家については明確ではない。」。

(ともに前出「週刊読売」24p)



※「正田」姓となった時期について、朝日は(明治維新の数年前の)文久年間、一方、「週刊読売」と毎日新聞は「生田隼人説」に則って天保年間(豊臣時代)としている。
とにかく驚くほどいい加減である。



(多くの美智子関連本では、古い来歴について(上記のように殆どが伝承)、実家筋の会社の社史や、近しい人がまとめた祖父の評伝から引用しているが、こういうのは言うまでもなく「無効」である。)




ただし、明治から大正期の群馬県の(すでに公開されている)商工人の名簿(館林町)には、


「醤油醸造 正田文右衛門」 
「和洋紙商 正田直次郎」
「米穀商 正田房五郎」
このほか谷越村に、「荒物商 正田卯平」 とあり、
 
館林町や目車町あたりで、一族で各種、商売しておられます。





まあしかし、この幾人かが存命中に親戚の娘が皇太子妃になるというのは、ちょっと考えられないことだったでしょう。
(旧皇族・華族か民間か、とかいう以前の問題。)

誰がどう見ても、この一族でようやく広い世に出つつあったのは、祖父の正田貞一郎氏が最初でしょう。

貞一郎夫妻(同族のいとこ同士の結婚)の年の離れた妹たち(美智子さんの大おば)あたりから、若干の婚姻の上昇と広がりがみられますが、それでも、その時代の町村長、組合長、町村会議員など、総じて地元・北関東レベルのものといっていいでしょう。


ここから美智子さんが皇太子妃になるまで、わずか1.5世代しか経っていません。

正田美智子さんって、「誰」ですか?




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こうした漠然とした疑問を覆い隠し、彼女を皇太子妃たらしめる大きな役割を果たしたのが(女性)週刊誌でした。
婚約翌日の毎日新聞に『「週刊女性」発刊』とあり、当時、各社で創刊ラッシュでした。
史実や信ぴょう性を求められず、何とでも書ける週刊誌なくして、美智子さんは存立しえなかったでしょう。(彼女に関するこうしたデタラメは、今や専門書にも及びつつある)

入内後にできた美智子さんの実家閨閥はマスコミのスポンサー企業であり、相互利益が形成され、そこに、皇室本を書く学者、評論家、ライター等々が「寄生」するという構造ができていきました。
これも、皇室の存続・繁栄のため、という大義名分によって正当化されたのでしょう。

その後のテレビも含め、「マスコミ天皇制」となったのは必然でした。



「やかまし屋」の古賀喜三郎学監(雅子妃の高祖父) 「威仁親王行實」より

2018年10月13日 | 雅子妃の系譜



「威仁親王行實」巻下 1926年刊より   国立国会図書館)


(有栖川宮威仁親王)殿下が海軍兵学寮の宿舎に入らせられたのは、明治八年四月で、御歳十四の時の事であつた。
當時の校長は中牟田倉之助、学監は古賀喜三郎、この古賀が有名な八釜し屋(やかましや)であった。
ある時外出された殿下の御帰舎が門限過ぎであつたといふので、古賀は少しも容赦せず、『たとひ殿下たりとも校則は枉(ま)げる譯には参りませぬ』といつて、直に何日間かの禁足を申し渡した。すると殿下には、ご立腹と思ひの外『生徒が校則に遵ふのは當然である』と仰され、謹んで禁足を厳守せられた。

その頃の兵学寮生徒は、衣至骭式の豪傑揃ひで、動もすれば常軌の外に逸出せむとしたから、教官も余程手古摺って居た。

ある時生徒が小金井に遠足したが、俄かの大雨に濡れ鼠となり、勇を鼓して兎も角も、府中まで辿り着き、そこで着物だけは乾かしたものゝ、何分道路泥濘で、歩むことが出来ず、豪傑連もこれには痛く閉口して『今から一泊させて呉れろ』といつて、弱音を吹いたが、学校の都合上當日中に是非還らねばならなかつたので、古賀学監は思案の末、その旨を殿下に申し出ると、殿下は直に頷かせられ『さういふ事なら予が第一に出發しよう』と仰せられた。

そこで古賀は一同に向かひ、『殿下でさへ御歩きに成るのに、こゝに泊りたいと申すは何事だ』と励聲叱咤したので、一同返す言葉もなく、とうとう歩き通しで帰校した。

この時殿下の御足がまだ小さかつた為に、有り合せの草鞋がうまく穿けず、甚だ困つたといふ話もあつた。

かくの如く校則を励行する場合には、第一に殿下に御勧めして、これを模範とするやうな有様で、その後校則は次第に厳守されるやうになった。




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この「やかまし屋」の古賀喜三郎学監が、雅子妃の高祖父である。
佐賀藩士で、現・海城学園の創立者である。





◆佐賀海軍◆


古賀喜三郎は、弘化二(1845)年、北川副村古賀に生まれた。
父は平尾吉左衛門、幼名秀辰。後に、同村の中野古賀(卯兵衛)家の養子となっている。


江戸時代、佐賀藩は福岡藩とともに、外国との唯一の窓口だった長崎の警護を担っており、幕末、欧米列強が押し寄せた際、藩主鍋島直正は海防の必要性を痛感、藩士の人材養成に乗り出していた。

藩内の有望な年少者を選抜し、彼らに洋学と近代砲術の修得を奨励、その中の一人が古賀喜三郎であった。



オランダ語で西洋砲術を学んだ古賀は、幕末の文久2(1862)年、長崎港外、伊王島砲台指令に任ぜられ、その後、元治元(1864)年には、19歳で、長崎に碇泊中の英国軍艦に派遣される14名に選ばれたことが以下の資料からわかる。

          

(「長崎表碇泊の英軍艦へ乗込、砲術其外質問の為早速立にて彼地」へ派遣されている。
出典:「佐賀藩海軍史」 大正6年 国立国会図書館)


上記「威仁親王行実」に校長として出てくる「中牟田倉之助」の名前も見える。
8歳年上の中牟田との先輩後輩の関係はその後もずっと続くことになる。

なお、長崎から帰藩後、古賀は藩の教官となっている。





また戊辰戦争では、

「維新に際し、九条道孝に従い砲隊司令として奥羽征討に参加す。
平定の後、大総督宮殿下より感状を賜い、」
(先覚者小伝)

とある。この大総督は有栖川宮熾仁親王で、前述の威仁親王の実兄である。

当時22歳の古賀は佐賀藩砲隊司令兼武庫方助役として奮戦、奥羽戦争の兵を率いて帰藩の途中、大総督宮から京都・御花畠に特に召されての感状の拝受だった。



鍋島公の政策により、最先端の装備と人材を有するまでになった「佐賀海軍」が、維新後、帝国海軍に繋がっていった。
古賀のひと世代上から幾つか年長までの藩士たちは、その創設メンバーとして中牟田子爵のように元勲となったが、その後、藩閥争いで薩摩に敗れてゆくことになる。







◆学校創立◆

廃藩置県後は海軍入り。兵学校の教官や学監、監事(明治14年)等の教育畑の職務も多く、自身でも、現役時代から自宅の屋敷内に「一貫舎」という学校を作っている。

明治23年に引退(海軍少佐)、(※引退を明治14年と誤った資料が散見される)
翌24年、海軍予備学校を設立(麹町区元園町)、
「以来、宅地家財及び恩給等全部をなげうってひたすら学校の為に尽し」、教育と学校経営に邁進した。

ひ孫で評論家の江藤淳氏によれば、古賀は、当時所有していた芝・田村町の500坪の土地と屋敷を抵当に入れ、娘・米子(雅子妃の曾祖母)も家政の手伝いのため東京女学館を中退している。

(古賀喜三郎校長)


設立にあたっては、海軍兵学校での教え子であった山本権兵衛(当時大佐)が認可、同郷の先輩である中牟田(枢密院顧問、海軍中将、子爵)も後援している。

その後、学校の拡張にあたり、司法省の建物を譲り受け、霞が関の海軍省裏手の土地を入手出来たのは、前者は上記の有栖川宮威仁親王、後者は娘婿の江頭安太郎(のち中将)によるものとも伝えられる。

(明治29年の第1回の卒業式にはこの威仁親王と山階宮菊麿王が、翌年には小松宮が臨席している)

こうしてできた学校が、現在の海城学園である。


古賀は、同じ佐賀藩・嘉村家出身のすま夫人との間に、米子嬢のほか数人の子供をもうけるも、多くが早世したため、同郷の江頭中将に嫁いでいた米子嬢(この方は長命)の次男を跡継ぎの養子とし、大正3年に逝去。
享年七十。





(「(佐賀県歴史人名事典(先覚者小伝)」、「百年史」、「佐賀藩海軍史」)



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尚、明治の人事録等を見ると、古賀の後妻となった女性の父は、朝廷に仕える家柄で、岩倉公と通じた幕末の尊攘運動家のようだが、これは誰が間に入っての縁談だったのだろうか?
雅子妃と血の繋がりはないものの、なかなか興味深い縁組である。



古賀氏の系統は、子孫も海軍や佐賀県にゆかりのある方が多いようだが、
ひ孫の配偶者である江口朴郎氏(歴史学者、東大名誉教授)も、やはり同県の出身で、父が海軍(人事興信録)というのは、イメージと違っていてちょっと意外でした。
戦後の左派知識人の重鎮でありました。



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        (有栖川宮威仁親王)

さて、古賀が学監として指導した威仁親王の孫(美枝子女王の次女)が徳川喜久子姫で、のちの高松宮宣仁親王妃喜久子であった。

「威仁親王行實」には、親王が孫娘を溺愛する様子が描かれており、最期のころには、舞子別邸に逗留させ、一緒に過ごしている。

この評伝は、大好きだった祖父の死をまだ理解できない幼い喜久子姫を見て、周囲の人々が涙するところで終わっている。





(・・・あまり本題とは関係ないが、)


このとき偶然にも、亡くなられた舞子別邸に人事局長として勲章を届けにやってきたのが、山屋他人少将(当時)であった。



(「七月八日 山屋海軍人事局長(少将)元帥号並に菊花頸飾章進達の為め舞子御別邸に到らるゝところ」 『歴史写真』8月號 大正2年 国立国会図書館)


さらに後年、喜久子妃の外国語教師(御用掛)を務めたのが、山屋の母方いとこで英国留学経験のある野辺地安子女史であった。





安子の父で、山屋他人の伯父の野辺地尚義は、幕末に南部藩を脱藩、大村益次郎門下の蘭学者となり、江戸の毛利藩邸で教授(生徒に伊藤や木戸がいた)、京都で日本初の女学校(後の府立第一高女)校長を経て、和の迎賓館と呼ばれた高級社交場・紅葉館館主を長く務めた。)

              (「明治過去帳」 「東京芝・紅葉館 紅葉館を巡る人々」他)


雅子妃の超多忙ー流産となった年の公務状況からうかがえることー

2018年09月26日 | 公務

以下は、1999(平成11)年の1年間の雅子妃の主な活動状況である(なお、これが全てではない)。 
  
(『「わたしたちの皇室」第2号~第6号 主婦と生活社 』より集計して作成)





この年の年末12月30日、流産となった。




※ 地方行啓には、一県につき3~4件程度(99年の場合30~40件)の地元施設訪問がある。

※ 上記下段の「勤労奉仕団への御会釈』の40回は、流産翌年のことで例年よりかなり少ない。

※ これ以外に宮中祭祀もあるが、私的行為であって、公務ではない。

 憲法が定めるのは天皇の国事行為のみであって、他の皇族に法的に求められる公務など(国事行為の代行以外)全くありません


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宮内庁は、雅子妃の多忙を極めていた頃の皇太子夫妻の活動状況をHPに出しません。
公的機関の文書隠しや改ざんは、宮内庁が先鞭をつけたようです。

写真集等に年間の概要をまとめたものがあっても、あらゆる活動を網羅した資料を見つけるのは非常に困難ですが、なかでも比較的詳しく記録していると思われる季刊の「わたしたちの皇室」があり、そこから集計しました。


しかしそれでも、2月の「ヨルダン国王葬儀参列」(とんぼ返りと思われる)などという比較的大きな出来事さえ抜け落ちており、この上記の夥しい一覧さえ、全てではないと思われます。


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御成婚直後から上記のように超多忙で、毎年9~12回ほどの泊りがけの地方訪問を中心に、宮中での要人接遇、そして近郊の外出公務がびっしりと組まれていた。

その結果、しばしば体調不良や発熱が報道され、そのたびごとに「すわ、ご懐妊か」との騒ぎが繰り返されていました。
 
「雅子さまはお疲れがたまると微熱がしばらく続くことがある。しかしお立場上、予定されているご公務を休むこともできず、無理なさることも多い」

「これはご結婚以来のことですが、雅子さまのご公務のスケジュールはどう考えても強行過ぎました。実際、雅子さまはそのために体調を崩されることも少なくなかったんです。」

「さすがに宮内庁内部からも、雅子様のご公務を少し減らすべきとの意見も出ていた」

             (「女性セブン別冊御成婚5周年記念」1998年6月刊より)

そもそも1993年6月の御成婚から同年11月までのわずか5ヶ月間に、10回もの地方行啓が予め立て続けに組まれていました。(同上)

天皇と皇太子の「行幸」、「行啓」は、大名行列さながらの重装備で身体的負担も大きく、身軽な宮家の皇族の「地方へのお出かけ」とは事情が全く異なります。


また、ご静養どころか、疲れに行っているとしか思えないようなごく数日の「御用邸滞在」が頻繁にあり(マスコミ同行の登山もあり、すでに公務となっている)、とにかく結婚当初から移動の連続であった。

すでに上記の1999年当時、東大病院の堤医師がついており、これでも多少は軽減されていたのかもしれないが、しかし、誰がどう見ても、子供を持つことを優先的に考えた日程とは思えません。
(上記の表を見て、「こんな状況で、本当に不妊治療なんてなさってたのかしら!?」と言う人も私の周囲にいました。)

さて一方、今の天皇皇后は結婚当時、全くこんな状況ではありません。



◆昔はこんなに公務など無かった◆


評論家の松本健一氏曰く、

「宮内庁は一方で子作りに励めと言いながら、公務自体をどんどん増やしているわけです。逆に言うと、今の天皇皇后がそれだけ公務を作ってしまったんですよ。
昭和天皇の場合、それほど公務はなかったわけです」


(「皇位継承と宮内庁」別冊宝島2004 175P)

  ※参照:昭和天皇皇后の行幸啓表(「宮内庁要覧」より)(拡大します)
    

実際、明仁・美智子夫妻の結婚した昭和34年から数年を調べてみると、公務全般が驚くほど少ない。地方訪問は1~3回程度(新幹線も高速道路もまだなかった)、外出公務は上記雅子妃の3分の1にも及ばない年もある。
来日要人も少なく、そもそも宮殿すらなかった。

             (朝日・毎日新聞縮刷版S34~S38 当時は詳報されている)

午前中は語学や楽器のレッスン、歴史の勉強時間にあてられ、更にご静養の期間も長く(その後、軽井沢では月単位で長くなる)、ゆったりした日常がありました。
浩宮もすぐに生まれています。
      (週刊文春S37年 7/30号「皇太子殿下ただいま勉強中」や上記縮刷版) 

(むしろ、国の代表としての大きな外遊がメインで、日常のお出かけなどとの軽重のメリハリがついていたように感じられる。)

その後、東京五輪、高度成長、そして経済大国になるにつれ、イベント、式典が増え、そうしたお出ましを昭和の皇太子夫妻がどんどん「公務化」していきました。
(昭和天皇はこんなことはしていない。)

浩宮が生まれ、家庭が安定したころから自由に公務体制を作っていけた明仁・美智子夫妻は、国の経済成長とライフサイクルが一致する、非常に幸運な世代でした。

こうしてできたのが上記一覧に見られる「お出かけ公務体制」であり、「後任者」は結婚した瞬間から、何の法的根拠も伝統もないのに、それらを自動的に踏襲させられる羽目になりました。

子供を強く望まれるとわかっているのに(あまりこういうことは言いたくないが)、天皇皇后は、若いころの自分たちに与えられていた結婚当初の落ち着いた生活環境を、どうして長男夫婦には与えなかったのだろうか?

(皇太子の7大行啓などと仰々しく言われるが、バブル期の平成初期に始まったものあり、もっと早くに見直して整理しておくべきでした。天皇の三大行幸も同様に。)





◆欧州中心に、海外旅行三昧だった平成の天皇皇后◆


さて、2001年12月1日にめでたく愛子様ご出産となりますが、休む間もなく翌年2月8日に公務再開、3月から本格復帰、日常の多くの公務に加え9県の地方行啓、更に翌年は14府県(皇太子は17府県で、その後も高どまりが続く)となぜか異様にエスカレートし、雅子妃は倒れ、以降、表舞台から遠ざかっています。
(どう見ても、皇太子夫妻に対して第2子を望んでいる状況ではない)

皇太子夫妻が倒れるまで公務をしていた頃、意外にも天皇皇后は、即位以来、地方行幸啓も4~6回程度で、全体にさほど負担は感じられない。
というのもこのころ(50代半ば以降)、二人はほぼ毎年の海外旅行だったからです。
  
 
           

(宮内庁HPより作成)  ※上記以外に、雅子妃が不調になって以降、皇太子単独の外遊は多数ある


「お世継ぎができるまで、外遊はダメ」というのは、こういうことです。

「そんなに外国(特にヨーロッパ)に行きたかった」のが誰であったのかは一目瞭然です。



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※天皇よりもずっと多い皇太子の地方行啓※



マスコミ報道の印象では天皇が日本中を旅して行幸し、皇太子はそれほどでもないかのようだが、実際は真逆で、平成を通じて天皇皇后の地方訪問よりも、皇太子(1993年から2003年までの11年間は「皇太子夫妻」)の方が格段に多く、2倍以上の年などザラにある。


天皇の平成の29年間の地方行幸の平均は年間約6.5回
皇太子の結婚以降25年間の行啓の平均が年間約11.6回である。
(独身時代も同傾向と思われる)


(なお、雅子妃の公務を誰か別の皇族が肩代わりしているなどというのは、大嘘である。彼女が不調となったのちも、皇太子は単独で非常に多くの公務を行っている。なぜか殆ど報じられないが。そもそも、冒頭一覧の膨大な公務を肩代わりするなど、物理的に不可能である。)


天皇皇后の地方訪問が多少増えたのは、年をとって(遠方の海外旅行から遠ざかるようになって)以降だ。
東日本大震災だけでなく、ごく日常的な災害への日帰り見舞いが増え、またそれらを頻繁にテレビで中継させている。
「生前退位」の正当化と、皇太子の回数との格差を気にしてのものだろうか?
(葉山などの御用邸滞在や私的外出分も行幸啓数にカウントして水増している報道も散見される。


(宮内庁HP「皇室のご活動」、朝日新聞縮刷版、前掲「女性セブン別冊」)






※1999年、公務が極めて少ない秋篠宮家※

上記資料「わたしたちの皇室」によれば、結婚10年目の秋篠宮夫妻の公務は非常に少なく、紀子妃の公務は、(身分と内容が異なるため回数を比較しても意味はないが)上記の雅子妃の半分にも遠く及ばない。
同じ宮家の立場で下位の高円宮夫妻と比べても遥かに少ない。

また、その内容も、一部特定団体(結核、動物園・水族館関係)によるものが大半で、質的にも比較にならない(これは今も同様)。
また秋篠宮家のみならず、宮家の皇族は「宮中行事など」(公賓との午餐など)にあたる公務が非常に少なく、宮邸での接見等も(高円宮家を除けば)それほどない。

つまり紀子さんは結婚後10数年、二人の子供をもうけ、養育するのに何ら支障のない公務状況であり、長らく大学院生でもありました。

(一方、秋篠宮はこのころよほど暇だったのか、頻繁にタイに通い、現地の愛人が噂されていた。)



この数年後、高円宮が急逝、そして雅子妃が表に出てこなくなったころから、突然、秋篠宮夫妻がやたらと何でも「公務」と称して、一年中、出歩くようになります。




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実際の活動状況を調べると、天皇周辺が、懇意の書き手や記者クラブを通じて、いかに「デタラメな物語」を流布させているかがよくわかります(一見、東宮家サイドに立った記事もかえって悪質)。
そして、その「デタラメな物語」を根拠に生前退位と代替わりが行われるようです(まさかと思ってましたが)。

もう公務は、「天皇の国事行為」に限るべきかもしれませんね。
「公務の悪用」と周囲(皇族を含む)の著しい不作為でここまで来たわけですから。
国の中心は、今も、法も秩序も善悪の区別もない世界のようだ。



米内光政新首相へのそっけない(?)祝辞と海軍葬

2018年08月31日 | 雅子妃の系譜

山屋他人大将の葬儀で、葬儀委員長を務めたのが、おなじ岩手出身で海軍の後輩の米内光政前首相でした。


◆「米内首相を語る山屋大将」◆

さて、その葬儀のわずか8か月前の昭和15年1月16日、米内氏が内閣総理大臣となりました。(在任期間1940年1月16日~1940年7月22日) 

この時、同郷の大先輩で、当時すでに体調を崩し、熱海で病気療養中だった山屋氏へのインタビュー記事があります。
(保養中の熱海の邸宅は、親戚の実業家の所有する別邸)



「寒もやがてあけるといふ、うすら寒い風の吹きしきる日の夕べ、記者は、熱海に病を養ふ山屋閣下を訪ねて、米内新首相の話をねだった。」

「玄関に見えられた夫人に案内されて、見晴らしのいい階上の、将軍の寝室に導かれた。
夫人は火鉢の灰をかきのけて赤い炭火を掘り起こしながら、
『今少し先、やっと床を離れて、下でお茶を飲んで居るのです。』と仰言る。
間もなく、階下から丹前姿の将軍が『やあ、よく来た。何しろ階段を上るにもこの通りでな。』と四つ這いの真似をされながら座布団を敷かれた。
おもひなしか大分おやつれのようにみえる。『どうも暮れに不幸やら何やらごたごたがあって少し無理をしたもんで・・・・然しおかげでもう大分いい。』
夫人が間もなく階下に去られて、畳の香も新しい六畳間に将軍と二人きりになる。

『米内君について語れと言われても、實の処、気の毒だが何もないよ。
ただ同じ海軍の飯を喰った同郷の者だといふだけのことで、而(しか)も米内君とは十七期も違ふのだから、現役中全く面識すらなかったといっていい。
洵(まこと)に御縁が薄かった。私が米内君の名を知ったのは、たしか米内君が佐世保鎮守府司令官になられたころではなかったかと思ふ。

先日もある新聞記者がやってきて昔話をしろといふのだが、この通り何も話の種がない。その話の種のないことを語ったら、次の日の新聞を見ると、デカデカに「愛すべき男」といふ標題で書かれてある。いやはや洵に困った。
いくら何でも米内君に済まないことに思って、いづれ会ったらお詫びをしたいと思っていた。この機会に、是非一つ君の雑誌で訂正して置いてくれ給へ。

大命を拝した米内大将について彼是(かれこれ)いふことは、とりも直さず畏れ多くも大命を是非することになる。これは大いに慎しまなければならないことだ。
米内君が大命を拝されてこの難局に起たれたとは並々ならぬことである。
ただ、私が米内首相について言えることが一つある。それは「至誠」といふ二字である。すべて米内大将の一挙手一投足が、この二字から出ていることだけは伝へていただきたいものだ。

米内君と私が顔を合わせるやうになったのは、新岩手人の会や、岩手海軍会や海相になられてから、しばしば吾々隠居の大将を集められて時局についての懇談会があって、その席上などであるが、いつも頼もしく思ふのは私のこんな貧弱な體格に較べて、米内君にしろ及川君にしろ、あの身體の立派なことだ。ご苦労でも、この際である、吾々の何倍も働いていただかなければならない。』

山屋大将はここまでポツリポツリと厳かな口調で語られて、やがて深々と眼をつぶられた。白くなった長い眉毛、その下にぢっと暫らく閉ぢたままにして居られる眼。(閣下は米内さんの為に祈っておられるのだな) 記者はさう独断できめて、吐く息も自づと音無しに、小刻みとなるのを意識しないわけにはいかなかったのである。」


                       (出典:「新岩手人」)

・・・・と、記事は終わっている。
どうやら最後は、眠ってしまわれたようです。

けんもほろろ・・・とまでは言いませんが、そっけなく少々突き放した感じで意外でした。
というのもこの方は、どれを見ても「温厚篤実」、「慎重居士」と評される穏やかな方で、諸先輩や友人についての思い出話をいくつか読んだのですが、あまりに話しぶりが違っていて驚きました。

大正時代に現役を退いており、あまり付き合いがなかったという事もあるでしょうが、親族に海軍関係者もいるわけで、何も知らないという事もないでしょう。
実質褒めているのは「体格」だけです。
わずか8か月後、自身の葬儀委員長を米内氏が務めたと知ったら、驚かれたかもしれません。



◆ 海軍葬 ◆

さて、この後、山屋大将は昭和十五年九月一〇日に亡くなられています。
当時の年譜には、「薨去」と書かれているものも散見されます。

新聞には、「山屋大将邸に勅使を御差遣」として、「一二日午前一一時、勅使内藤侍従を差遣し、幣帛を下賜あらせられた」とあります。
また同時に、「海軍葬次第決まる」として、一三日に青山斎場で行われ、葬儀委員長に、二か月前まで首相だった米内光政大将、幹事にやはり同郷の八角三郎中将以下二八名と出ている。(朝日・昭和15年9月13日)


                   
(むかって右から3番目の白い制服が米内前首相、その右隣の有馬大将は故人と同期、一番右は鈴木貫太郎と思われる:「新岩手人」)

当日の様子について、
「故・山屋他人海軍大将の海軍葬は秋晴れの十三日青山斎場で正午から盛大に挙行された。」
有馬、鈴木、山梨各大将その他顕官諸将星、南部利英伯爵ご一家、毛利子爵、島津男爵、田中館愛橘博士等列席。永平寺の大導師の読経に入り、東伏見宮、山階宮、久邇宮の各御代拝があり、及川海相以下の弔辞のあと、全員起立の中に、横須賀海兵団儀仗隊による「弔銃」3発が碧空にこだました。
その後、午後一時から一般の告別式にうつった。(朝日新聞9月14日、新岩手人)


※この葬儀の導師を勤めた越前の永平寺と山屋大将は御縁があり、 雅子妃は、外交官試験を終えた後、曾祖父の「書」が残されているこの名刹を友人と訪ねている。


◆「山屋閣下を思ふ」◆

さて、葬儀委員長を務めた米内氏は、同じく「新岩手人」にて、先輩について以下のように語っています。

(引用開始)

私は元来人を訪問することが好きでないで、郷土の大先輩たる山屋閣下もあまりお訪ねしたことがなかった。
何でも私の大尉時代に、八角、原、小山田の諸君に連れられて、当時たしか麻布の狸穴近くだったかと記憶する山屋閣下をお訪ねして御馳走になったことがあるが、これが私の山屋閣下にお目にかかった最初だったやうにも憶えてゐる。

御承知の如く山屋閣下は温厚な人格者で、慈父のような尊厳のある方だったが、決して単にそれだけでなく、かなりの閃きをもったユーモリストでもあられた。
人を導くのに決して理屈をもってすることなく、笑ひ話の諧謔の中に、おのがじしそのゆくべき道をしめされるといふ風であった。


  「近代日本人の肖像」

私が海軍大臣に就任したとき、世田谷のお宅に御挨拶に参上したが、言葉少なに、この際洵(まこと)にご苦労だと仰言ったのみで、別に政治上のご意見は仰言らなかった。
山屋閣下はあれだけの人材であられたのだから、定めし政治上とかその他の誘ひもあったに相違ないが、(中略) 終始一貫一切政治上のことに関係されずに七十五の清い生涯を帝国軍人としてのみ終えられたことは、さすがにお偉かったと欽慕の情に堪へないと同時に、洵にお羨ましくさへ思はれる。

私が大命を拝したとき、岩手海軍会でそのお祝ひの会を開いて下さったが、その当時山屋閣下は病床に居られて、ご出席になれないのを大変残念がられ、小森閣下に託して「御挨拶」の原稿を読ませられたが、あとで、山屋閣下と碁敵として大変親しかった大見丙子郎少将(秋津洲艦長時代の部下)の話に依ると、この御挨拶の原稿を書かれるのに三時間も大変苦しまれ、推敲を重ねられて漸く出来上がったものだと聞いて、私は涙の出るほど感激した。
(中略)
ちょうど亡くなられる一週間ばかり前にお見舞いに参上したが、大変弱って居られて洵にお気の毒であった。それから又少し間を置いて、お見舞のお手紙を奥様宛に差上げたが、ちょうどそれが亡くなられた日に届いたといふやうにあとで奥様から知らしていただいて感慨無量であった。
海軍葬には委員長たるの光栄に浴し、遥かに英霊の昇天をお見送り申し上げたが、時局下、かうした偉材を亡ったといふことは、ひとり郷党や海軍としてのみならず国民の一人として洵に残念でならない。


(引用終了)   

山屋先輩は、若い米内氏を自宅で御馳走したこともすっかり忘れてしまっていたようですね。






・・・・・ここから5年後、

日本は米国に敗れ、占領下におかれることになった。

マッカーサーの部下・フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び、天皇免責案として、開戦時の天皇は無力であったとする立証を日本側に要請(このために「昭和天皇独白録」が作られた)、そして東京裁判において「東條に全責任を負わせるようにすることだ」と提案し、それに対し米内も「同感だ」と応じている。
(「昭和天皇の終戦史」他)


陸軍と海軍は犬猿の仲でしたが、東條家も、山屋家・米内家と同じく南部盛岡藩士でした。






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この昔の県人会誌に、山屋大将の話としてちょっと驚いたのが、

「横川省三と私」

「私は下小路の家から盛岡小学校へ通った。私の隣家が例の華厳の瀧へ投身して名を遺した藤村操、その向かひが横川(省三)の家だった

「横川と私の関係はいはば小学校の友達でした」とあり、

雪解け道で、横川少年が山屋少年の下駄の鼻緒をすげてくれた思い出を話しておられます。

後年、横川は、朝日の記者などを経て、国の命で対ロシアの諜報活動に従事するも捕えられ、悲劇的死を遂げましたが、その34年後、横川氏を偲び麻布に「横川公園」ができることになった際、山屋氏も協力し地鎮祭にも出席している。

「かうしてゐる中にも鼻緒をすげてゐる少年、横川の幼い顔がはつきり浮び出る、『愛』の横川です。」
(昭和13年談)



昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈②ー更に憲法改正にも?

2018年08月21日 | このくにのかたち

「昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈①」から続き


◆三者は縁戚関係◆

さて「人事興信録」によれば、この小泉、田中、竹山の三者の関係は、以下のように示すことができます。
後年の、生前退位表明に伴う有識者会議のヒアリングメンバーもいます 。       
(なお、彼らの関係を示すのに最低限の人物しか表示していません)



田中耕太郎夫人が小泉信三の姪(松本烝治の娘)であることはわりと有名ですが、竹山氏も縁戚とは知りませんでした。
(田中夫人の父、松本烝治は高名な商法学者で、敗戦直後、占領下の幣原内閣で新憲法制定担当大臣。昭和21年公職追放。

この3人が縁談に関わる立場となったのも、戦前の昭和天皇の側近で信任厚かった一木喜徳郎大臣の親戚というところも大きいのでしょう。
一応男爵ではあるが昭和以降と遅く、公家や大名と言った封建的家系ではなく、新たな世代の宮中グループと言えるかもしれません。
      
さて、東宮参与の小泉氏から見て美智子さんは、姪夫婦と長年のクリスチャン仲間の家の娘で、甥の妻の親戚が主宰する「お見合いの会」の会員であったわけです
「東宮妃」という公人を探すというのに、また随分とせまいプライベートな範囲で「見繕った」ものです。 
                                  
                 
          (「近代日本人の肖像」 一木喜徳郎)

しかも彼らの親族は、親の代から天皇と直接的な人間関係もあり、戦前と占領期の重要な大臣もいて、当時の普通の感覚に照らせば、この人たちの縁続きのお嬢さんを探すほうが余程、順当だと思われるのに(実際、書き入れてはいないが上記系図内に複数のお嬢さんがおり、うち一人は聖心で美智子さんと中等科以来の同級生で、取材も受けている。のちの著名財界人夫人もいる。)、なぜか自分たちより歴然と『格落ち』の家の娘を東宮妃に推しています。

 



※美智子さんの不思議※


そもそも美智子さんというのは、予め知り合いででもなければ、昭和33年当時、客観的に「東宮妃」を探したとして(民間から探すとしても)、彼女に行き着く要素が見当たりません。

側近たちでさえ天皇との関わりがこれだけあるのに、そうした要素が無い人物が入内するなど、縁故主義の皇室で、この時代、ちょっと考えられない人選だろう。

また館林の実家本家も、明治から昭和一ケタまで群馬県の多額納税者でさえなく100位内にすら入っていないのだ。
実家の会社も、堅実ではあるが国家を背負うほどのものではない。
紳士録等を見れば、正田美智子さん程度の娘さんはいくらでもいる。

また、当人の経歴もあまりに凡庸で(成績表はどう見ても首席ではない)、長い慣習を打ち破って平民から選ぶほどの「特別さ」をどこにも見出すことができません。

実際、婚約発表後、よほど批判があったのか、竹山氏も「売り込んだという事や、仕組まれたなんていうことは絶対にない」とわざわざ釈明している。(週刊新潮 昭和33年 12/15)

にもかかわらず、小泉氏が彼女を縁談の対象に推したということは、当時、誰もが当たり前に想定するのとは違う、彼ら(つまりは昭和天皇)がこの当時、必要とする「何か別の条件」に合致したからなのでしょう。

その合致する人を探すために、昭和26年(皇太子18歳)に「竹山パーティ」が始まったのでしょうか?

(岸信介に田中耕太郎(に昭和帝)とくれば・・・・と皆言いますが、確かに独立からまだ数年、当時は日米安保をめぐる「政治の季節」であり、某氏が言うように、彼女は日本の悲しい戦後体制そのものなのかもしれません。)


今後、小泉信三氏への評価は随分と違ったものになるのではないでしょうか。


さて、当初この3人の関係を示すだけで終わる予定でしたが、こうした美智子妃をめぐる人々の血脈はその後も続くようで・・・・・




◆生前退位の有識者会議と憲法改正◆--------------------------

         

さらに、竹山謙三郎氏の姪は平川祐弘氏(東大名誉教授)の夫人です。
平川氏は、今上天皇の突然の「生前退位」表明に伴う有識者会議のヒアリングメンバーでした。


また、桜井よし子氏(彼女もヒアリングメンバー)が理事長の保守系団体「国家基本問題研究所」の理事でもあり(同所のHPより)、この研究所の掲げる憲法改正推進の広告にも名を連ねています。

今上夫妻の婚約、ご成婚は岸首相のもとで行われ、そして突然の生前退位表明は、その孫の安倍首相のもとでなされました。

美智子さん入内後のきょうだいたちの大企業との閨閥結婚は有名で、特に妹の結婚で昭和電工(言うまでもなく新潟水俣病の原因企業)の創業一族(安西家)の閨閥(東京ガスなども同族)に入ったことで、そこを通じて安倍首相の祖父の岸(佐藤)首相ほか歴代首相や住友財閥などとも繋がりました(まだまだ果てしなく広がる)。


この段階ですでに、血縁の重なりがいくつか見られるのですが、その血脈は御成婚から生前退位を経て、なぜか安倍首相が強く推進する憲法改正を審議する人物にも見られるような・・・・・。

以下は、現在進行形なので何とも言えませんが・・・・


          

さらに、その美智子皇后の義弟(妹の夫)のいとこが現在、衆議院の憲法審査会会長の森英介議員(やはり昭和電工創業家出身)であり、自民党の憲法改正推進本部長も歴任しています。

また、竹山謙三郎氏の親戚筋にあたる船田元議員も、同じく憲法改正推進本部長の経験者です(ただし、船田氏は改憲には慎重あるいは反対のようです)。

こうした血縁関係は、全て単なる偶然なのだろうか?

一見、公的な手続き・人選にみえますが、(それぞれに考え方の違いはあるものの)非常に狭い縁戚関係に属する「身内」の人達がたびたび目に入るような気がするのですが・・・・。

日本の社会とはそういうもの、と言われればそうなのかもしれませんし、
おそらく気が付かない縁戚関係はもっとたくさんあるのでしょう。

(こうした世代を超えたいくつもの血縁を見ると、天皇皇后や首相など、そこに属する人物のお互いへの発言も、単純に額面通り受け取ってよいのか、ちょっと考えさせられます。)

さらに、こうした人脈の流れを「日本会議」などが強力に押し上げることで政治(改憲)勢力ができ、それは同時に、長らく東宮家を執拗に排斥しようとする勢力と重なります。
 
        


以前から感じていましたが、今上夫妻がしつこくアピールする姿勢(憲法や沖縄問題などについて)と、実際の皇后の親族や、結婚当時からの関係者や伴走者たち(田中耕太郎や曽野綾子など)の顔ぶれとはどうもかなりの齟齬があります。

(この数年来、砂川事件判決おいて、田中最高裁長官と米国との「内通」が判明したことは、沖縄に心寄せるはずの平成の天皇皇后(特に皇后)にとって非常にまずいことだったと思います。この判決こそが「米軍基地の特権性」を支えているのだから。)

突然の生前退位の表明(そもそもこのこと自体、憲法に抵触すると思われるが)が、天皇による「改憲阻止」との見方もあったようだが、今となってはむしろ、選挙大勝直後で政権が長く続くと踏んでの表明だったような気もします。
更にこのイレギュラーな退位は、首相の任期延長に影響はなかったのだろうか?

そして憲法改正(現実には相当難しいと思われるが)の真の目的は、本当に大きく報道されていることだけなのだろうか?

肩書きと血縁が混然一体となって公私の別が無くなり、国の法治が崩壊していくというのは、顔ぶれが少しずつ移動しているとはいえ、戦前の皇室周辺と非常によく似ています。

「法治の外にあって予め免責された空間」というものがどんどん肥大化して、御濠の外側にまで浸食して来ているような・・・・。

まあ、いくらなんでも私の思いすごしだろうとは思いますが・・・・。



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少々蛇足ですが、この画像を見て・・・・・



新憲法制定の担当が松本烝治大臣(松本試案はGHQに拒絶されたが)。
そしてその娘婿の田中耕太郎が吉田内閣の文部大臣として憲法公布。
さらにその吉田首相によって田中氏は最高裁長官に就任。

松本・田中ファミリーと吉田首相は、新憲法に関わるとともに、明仁皇太子のお妃選びのメンバーでもあったわけです。

ところが現在、それぞれの子孫・縁戚である麻生大臣と平川氏が強く改憲を推しているようです。

それにしてもよく言われることですが、戦後ずっと、いかに特定の血脈の範囲内で国家の重要事項が決定されていることか・・・・・。

「生前退位」と「憲法改正」機運が同時期に起こったのは、偶然ではないのかもしれないな・・・・

 





昭和の皇太子妃出現から生前退位に続く不思議な血脈①ー田中最高裁長官、竹山パーティー、小泉参与ー

2018年07月30日 | このくにのかたち

昭和の御成婚当時の報道を見ると、小泉信三、田中耕太郎、竹山謙三郎の三氏の手記やインタビューがあちこちにみられます。
小泉氏については、長らく明仁皇太子の教育参与をつとめたことで知られ、当時のお妃選びの話題では繰り返し登場する人物であり、敢えて書く必要もないでしょう。



◆田中最高裁長官と正田家とフロジャク神父◆------------------------

田中耕太郎氏は、ご成婚当時の最高裁長官です。

今や、(米軍基地で起こった砂川事件への最高裁判決(昭和34年)を下すにあたり、田中長官が駐日アメリカ公使らと打合わせを行い、更に米国サイドに裁判情報を漏えいしていたことが、2008~2013年に米国公文書から判明したことで)「対米従属」、「属国化」の代名詞のような存在となっているようです。
参照 新聞記事

   (「機密解禁文書にみる日米同盟」「検証・法治国家崩壊」)


学者から官僚、政治家(吉田内閣の文部大臣)に転じ、昭和25年に吉田茂首相により最高裁長官に指名され10年あまりの長期間つとめました。
また、青年時代の明仁皇太子の「法学」の御進講も6年に渡って担当しています。(朝日夕刊昭和33年11月27日)


        
        (「近代日本人の肖像」田中耕太郎)


そして正田家に非常に近い存在でした。

美智子さんの祖母の正田きぬ氏は、明治末ごろ群馬・館林へ布教に来たヨゼフ・フロジャク神父と出会い、後に昭和2年、東京・関口教会で同神父により受洗。

正田貞一郎・きぬ夫妻と田中夫妻はカトリック仲間で同神父と極めて親しく、

この神父の伝記には、主な後援者として、最初に田中耕太郎夫妻、次に正田夫妻が挙げられており、神父の最期の頃に彼らが見舞う様子も描かれている。

その伝記「フロジャク神父の生涯 」(五十嵐茂雄著)の最初のページに、
「最後の握手皆様によろしくとみ声細く 仰せありしも悲しき思ひ出」と、きぬ夫人の歌が掲載されているのは有名だ。

明治前半生まれの田舎の女性が熱心な信者となったのには、余程の理由が(ネット上でも家族の事情についていろいろ出ているが)あったのだろう。以降、子孫やその配偶者の実家も含め、「(個人ではなく)一族としての」信仰者が多いようだ。

         

また、この神父は戦前から御下賜金を受けるなど皇室とも縁があり、
敗戦で占領下にあった昭和23年、昭和天皇は、ローマ教皇ピウス12世に謁見するフロジャク神父を介して教皇と親書を交換しており(英国公文書、前掲の伝記)、占領軍への対抗のため、より力のあるカトリック界に味方・加勢を求めたとも言われます。(「英国機密ファイルの昭和天皇」)

なお、その2年前には、皇室が同神父に那須の広大な旧御料地を貸与、年末には天皇皇后そろってフロジャク神父の拝謁を受けている。
更に翌22年には両陛下がこの那須の開墾地を行幸啓、高松宮なども同神父の福祉施設を訪問しています。(「フロジャク神父の生涯」)


皇后以下他の皇族も、(皇室存続に資するとの配慮からか)キリスト教の教義を学ぶ様子が当時の資料からうかがえ、高松宮の「神社新報」への発言(昭和22年)でも、「神道に欠けているものを、キリスト教とのタイアップで」とはっきり述べている

この当時、侍従や側近にカトリック信者が目立って多かったのは、「政策上」その方面の人脈が切実に求められたという側面もあるのだろう。






※軽井沢テニストーナメント※

田中長官が、明仁皇太子と美智子嬢が初めて会ったテニスの試合を写真に撮ったエピソードは有名です。
            

「美智子さん担当記者のメモ① 予期せぬ顔合わせ 撮影頼まれた田中長官」より 
(朝日新聞 昭和33(1958)年11月28日)



(引用開始)

試合が始まると、美智子さんの母富美さんは、あわててカメラを持っている知人をさがした。折よく、観覧席には、顔みしりの最高裁判所長官の田中耕太郎氏がいた。
『美智子が皇太子さまと当たりました。すみません、一枚撮っていただけませんか』
昨年八月十九日、軽井沢親善テニストーナメントの二回戦で皇太子・石塚組と正田・ドイル組がまったく「偶然」にぶつかった時のことだ。富美夫人も予測しないことだったらしい。
『せめて娘の一生の記念に・・・・』
との母心からの頼みだったのだろう。
“田中カメラマン”は気さくにこの頼みを果した。ご覧のようにプレーする皇太子と美智子さんの姿は三十五フィルムの一コマにみごとに捕えられた。
この写真はそのとき富美夫人が考えられていたものより遥かに意味のある『娘の一生の記念』となった。

だが、これを見ていた新聞記者は一人もいなかった。たとえ出くわしたとしても写真一枚とろうとはしなかったに違いない。なぜなら、選考首脳部が当時、ときおりもらす言葉は、判で押したように「やっぱり家柄は大事にしなければいけない」ということだったからだ。


(引用終了)



(この「テニスコートの出会い」を含め皇太子の縁談には、田中長官と政治的にも宗教的にも近い吉田茂首相が深く関わっている。
(「隠された皇室人脈」他多数))



小泉信三氏ばかりが取り上げられますが、この御成婚の真のキーマンは田中長官と何よりフロジャク神父だったでしょう。
祖母の代から親しい田中長官は、美智子嬢にとって入内の大きな後ろ盾だったと思われます。婚約後のお妃教育では、憲法の進講も務めています。


さらに、この昭和の皇太子妃決定の「皇室会議」のメンバーは、
秩父宮妃、高松宮、岸信介首相(議長)、星島衆議院儀長、椎熊衆院副議長、松野参議院議長、平井同副議長、田中耕太郎最高裁長官、小谷最高裁判事、宇佐美宮内庁長官となっている。




さて次は、美智子さんが会員だったお見合いの会の主催者について。


◆ 竹山パーティー ◆---------------------------------------------


竹山謙三郎氏は工学博士で当時、建設省建築研究所所長。

「自宅を若い人に解放、お話や音楽会を開いている。美智子さんは第一回からの会員。竹山氏は夫人と共に美智子さん個人のよき心の柱であった。
評論家の竹山道雄氏(「ビルマの竪琴」の作者)、船田享二(法学者、国会議員、作新学院院長)夫人の実弟にあたる。」(毎日夕刊 昭和33年11月27日)
(船田享二の兄は船田中(防衛庁長官)で、その孫が現・衆議院議員の船田元である。)

更に、竹山氏の伯父は、戦前の昭和天皇の側近で宮内大臣を務めた一木喜徳郎。
豪農の出の学者・官僚で、内相、文相も歴任、昭和8年に男爵、同19年逝去。

この会は、「竹山パーティ」といういわゆるお見合いの会で、美智子さんは「昭和二六年創設以来の会員だった」と週刊新潮にもある(当時美智子嬢は16~17歳)。
「それ以前から知り合いだったお母様につれられて」(毎日前掲)初めて会ったと書かれている。
竹山夫妻と若者たち大勢で、ハイキングや音楽会、ダンスパーティを開いており、婚約時に掲載された美智子さんの写真にも、その「竹山パーティー」でのものが結構あります。

竹山氏は毎日新聞の手記に、「(テニスコートでの出会いが)彼女の将来にこんな大きな意味を持つとはだれしも思わなかった」と書き、

また小泉信三氏は、美智子嬢について、美智子さんの親戚(おじ)が慶応の学生だったので、正田家のことや彼女の事も以前から知っていた(毎日前掲)と話しています。

しかし、こうした話しも、彼らの関係性を知るとかなり空々しく感じられます。

有名な話なのでしょうが、小泉、田中、竹山の三者は、一つの系図に書き入れることができます。



                                                         以下、後篇に続く

 

三代の天皇に仕えて

2018年03月17日 | 雅子妃の系譜

雅子妃の曾祖父、山屋他人海軍大将については多くの公的資料があり、そのうち「宮中行事」や皇族の「冠婚葬祭」など、皇室との関わりを示すものを、(過去に記事にしたものも含め)一部ピックアップして見ました。


◆東宮(のちの大正天皇)へのご進講◆ ---------------------------

                 

           (国立国会図書館デジタルコレクション)

  終盤に、軍事についての進講者の一人として、名前が挙げられています。(大正天皇御大喪写真帖)




◆明治43年 東宮御用掛として皇太子葉山行啓に伴う出張の仰せ付け◆

山屋氏は明治41年に東宮御用掛となっており、下記の公文書は、坂本中将(男爵)とともに、東宮(のちの大正天皇)の葉山行啓についての出張の要請が書かれています。

         
                          (国立公文書館アーカイブ)


大正天皇については今も実像がわからず、暗愚であったとか、いやそうでもないとか諸説ありますが、山屋氏は東宮時代から非常に近く接しており、雅子妃の祖母やご親族は、実情をよく御存知だったかもしれません。




◆大正元年 明治天皇大喪にあたり、来日したスペイン皇族の接遇◆

最初の記事「スペイン王室と海将・山屋他人(雅子妃曾祖父)のご縁」でも書きましたが、
この写真の着席している前列左端です。

                    




それから、天皇ではなく宮家の皇族についての慶事や弔事への参列の資料も多くあり、そのうちの一例として、


◆大正2年 有栖川宮威仁親王(海軍大将)薨去に際して◆---------------
                  



山屋他人少将(当時)が海軍省人事局長として、舞子の有栖川宮家別邸に向かう写真が残っています。(舞子別邸で亡くなられたため )
                        
                       (国立国会図書館デジタルコレクション)


この有栖川宮は明治8年に海軍兵学校に入学していますが、在学中、兵学校の学監を雅子妃の高祖父・古賀喜三郎(江頭安太郎中将の岳父)がつとめており、親王への厳しい指導のエピソードが「有栖川宮威仁親王行實」に記されている。
古賀は現在の海城学園の創立者であり、その前身学校の式典等に、来賓としてこの有栖川宮が臨席している。


                    




◆大正5年 神武天皇式年祭に海軍省勅任官総代(当時中将)として参列◆-----
              
 
              
                       (国立公文書館)

神武陵がまだ今のように形成・整備される以前の頃でしょうか。
江戸末期生まれの彼らが「2500年」を信じていたはずもありませんが・・・どのように解釈しておられたのでしょうか。
雅子妃は御成婚の際と、さらに、上記からちょうど100年後の2015年には東宮ご一家3人で参拝しています。






それから例外として、これは宮中行事等ではなく、日常的な軍務ですが、

◆大正9年 横須賀鎮守府長官として東宮(後の昭和天皇)の帰還をお出迎え◆
            

                     


皇太子が地方行啓から戻った際、横須賀入港に際し、横須賀鎮守府長官だった山屋大将が迎えに行き、
お召艦に「御陪乗」して一緒に上陸する旨が書かれています。
・・・・しかしまあ後年、昭和天皇は非常に問題でした。人間の評価というのは難しいものです。
                     





さて、これ以降は、すでに完全に引退なさっていますが、


◆大正13年  皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚◆----------------------
 

「皇太子殿下ご結婚関係」と題された公文書より
 
            




◆昭和2年  大正天皇大喪の礼◆---------------------------------------

霊轜霊輦側供奉将校の件」と題された公文書より

                 

                 

                 


この写真のもう少し後ろにおられると思うのですが、ご本人がはっきり写ったものは見つけられませんでした。
葬列図によると、山屋他人は百武三郎と鈴木貫太郎の間。


「朝日年鑑」の「轜車発引の御儀」によると
「霊轜の真近く侍従衣冠単に帯剣素服を加へ、藁沓を穿てる(中略)各侍従供奉し その外側には、正装燦然たる内山、鈴木、山屋、鈴木各大将以下陸海軍将官二十八人左右に分れて侍衛し、」とあります。

この時は、正副4頭の聖牛が轜車を引いています。昭和天皇の時とは全く異なります。




◆昭和3年 昭和天皇即位の大礼◆----------------------------------------

「昭和の大礼(即位の礼)に参列した雅子妃曾祖父」で記事にしましたが、
                  
(最前列左から6番目)
                  
(こちらの写真では最前列左から5番目)

 


◆昭和初期  観桜会と観菊会 ◆-----------------------------------------------
 
     春の観桜会

                 

                                    

                 



        秋の観菊会(前略)
                  
             

もうかなり高齢になりつつありましたが、ご夫妻で招待されておられたのでしょう。
こうした季節の催しへの招待は、昭和8年のみならず、このころ毎年のようにあります。
この観桜会と観菊会が、現在の春と秋の園遊会になっていったようです





<賢所での行事>

この他、宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があったようで、山屋他人の5女で、雅子妃の祖母にあたる江頭寿々子さんは、非常に寒がりの父のエピソードとして、

「二月が殊に駄目で、十一日の紀元節には宮中賢所での行事のお招きには、いつも『所労に付』というお断りの欠席届を出していたものである。」
               (「父のどてら」より)


とお書きになっている。






最後に、これは皇室とは別の話で、かつ軍務によるものですが・・・・


◆ 数々の勲章と ◆------------------------------


以前にも少し書きましたが、大佐以降、世界各国から非常に多くの勲章を授与されています。
資料・年譜によって挙げられている国がまちまちで、どれだけあるのか確定できませんでしたが、スペイン、オランダなど複数回授与されている国もあります。
その他、オーストリア、ポルトガル、中国、英国(バース勲章)、フランス、米国、イタリア等々。

以下、最高位かそれに近いものだけ、画像を掲載しておきます。

フランス 「グラン・オフィシェ」

(拡大します 以下、同様)(画像はいずれも国立公文書館)

ルーマニア 一等勲章


米国


イタリア 一等勲章 




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あえて一つ一つ記事にするまでもないので、ごく一端ですがいくつか選んで並べてみました。

それにしても、婚約決定時から現在に至るまで、
なぜこういう事が、全く報道されないのか?


特に、大正天皇の御用掛であったことや葬列への参加、昭和天皇の即位礼や結婚の儀への列席は、雅子嬢が皇太子妃に決まった際に、基本的な人物データとして最低限報じるべきことでしょう。

彼女については、外国の超有名大卒の外交官だとか、海外で育った期間が長いとか、非常に現代的・先進的なイメージばかりを強く打ち出していた感がありました。
しかし実際は、むしろ「地味に手堅く」、「縁があった人物の子孫」をたどってのオーソドックスな「お見合い相手」だったといえるでしょう。


それにしても、平成5年御成婚の雅子嬢でさえ、天皇と先祖との直接的関わりが結構あるのに、まだ戦前の慣習が残る昭和33年の正田美智子嬢にこうした要素がみられないのは、非常に謎です。

こういう事が全く周知されないというのは、美智子皇后への忖度もあるのでしょうか?

また皇室というのは、そこを取り巻く特定の人々や家系、関係組織の「利益」と「免責」のために存在するところでもあります。

「自分たちの利益と相反するならば、デマでも流して排除しようと警戒していた勢力が、最初から周辺にいくつもあったんじゃないの?後年いろいろわかってきたことからみても」とは友人の弁ですが・・・。


美智子妃のディオール衣装が4着もあった昭和の御成婚、東宮御所も豪華新築

2018年03月08日 | 美智子さんについて

昭和34年の皇太子ご成婚では、美智子さんに4着のクリスチャン・ディオールの衣装が作られたことが、結婚直後の新聞に出ている。                      
                 



これは皇室記事ではなく、「家庭」欄の記事である。

御成婚のお支度に関わるデパートに焦点を当て、各社間の受注競争やさや当て、宮内庁への配慮と忖度、そして当日のドレス写真をめぐるマスコミとの攻防の様子が書かれている。
その中に、美智子さんの御成婚衣装の情報が詳しく出ている。

毎日新聞・昭和34年4月13日 「ローブ・デコルテ物語」より(縮刷版の245p)

(引用開始)

お支度の中でもいちばん花やかに取りざたされたのは、朝見の儀から仮御所まで美智子妃殿下がお召しになるローブ・デコルテを誰が作るか。
そしてどんなデザインかということだった。
田中千代、松田はる江、ミス・ヘイの名がクローズアップされたが、なんといっても本命はパリのディオール・デザインによる四点とうわさされた。
六年前からディオールの店と契約して商売にならない投資だけを続けてきたDデパートも、これでようやく日の目を見たと張り切ったものだ。
パリと東京を結んで着々すすめられたローブ・デコルテ四点も、三月下旬には完成、その記録写真もとって無事宮内庁に納めた。

(引用終了)



紙面には4着の衣装の写真が掲載され (以下、「」内上記記事より引用)

「Dデパートの株が上がったとうわさされるディオール・デザインの服四点である。
皇后さま、皇太子さま、秩父、高松両宮妃とおそろいで、美智子さんを加え、二十数枚のデザインのなかから選んだものといわれる。」



写真の一枚目は、朝見の儀やパレードで着用したウエスト正面に大きなリボンのついた、誰もが見たことのあるローブデコルテ

「朝見の儀から馬車行進までずっと着ておられたローブデコルテで、白地に金とおしの絹織物。遠目にはベージュに見えるが雲間に竜とホウオウの模様がとんでいる。
京都の竜村で織り上がるまで一か月。十五メートルを使っている。
値段は秘密だが、Dデパートのディオール・コレクションの場合よりズバ抜けて高いという事もないらしい。」



そして2枚目は、上記のローブデコルテと共布で作られたコート(マント・エシャルプ(フランス語))。
馬車パレードでドレスの上に羽織っている。


3番目の写真は、

「五回の披露会のうちにお召しになるはずの夜会服。生地はローズピンクのシルク・オットマンで、胸に共布のばらが飾られている。皇太子さまのお好みがたくさんとりいれられているというのはこの服。」

画像:ミスユニバース世界一の伊藤絹子氏と並べられてお気の毒だが、適当な画像が他に見当たらなかった。
”婚約の頃”と書かれているが、これは披露宴のディオールドレスである。
このドレスは見たことがあったが、これがディオール製とは気が付かなかった。殆ど知られていないのではないか。)


そして最後の4番目の写真のドレスは、

「同じく披露宴の服だが、これはいかにもディオール調で、白チュールに白シュスのアップリケをしてある。
人造ダイヤ二千個以上をちりばめたきらびやかなもの。」


(個人的には、このドレスが一番素敵だと思った。優美で可愛らしい。
旧い新聞で写りが悪いこともあるかもしれないが、これはおそらく初めて見たと思う。
ネットで画像を探したが同一と思われるものは見つけられなかった。
上記縮刷版245pに出ているので図書館で見てください。)

「この四点は二カ所の縫製工場とDデパート技術者の総力で、独特なディオール技術をとりいれている。」



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4着もあったとは知りませんでした。

ディオールだと報道されるのは、有名な白い正装ドレスだけなので、その1着だけだと思いこんでしまうようです。

当時、このブランド名を知る日本人がどのくらいいただろうか?

人造ダイヤを2000個というのも、今なら相当批判されそうな派手派手しさだ。
半年前には、ナイロンのドレスで記者会見したのに、文字通りの大出世である。

それにしても、この当時でこの衣装なのに、その後、経済大国となった次世代の雅子妃のデザイナーが森英恵、芦田淳、伊藤すま子というのは、ちょっと考えさせられる。


この10年余り、皇室では絶対に国産のものしか使わないとか、私の世代からすると、仰天するような嘘が平然と報道されるのには驚く。
ディオールの結婚衣装に始まって、美智子さんもシャネルのバッグを持っていたし、美智子妃、華子妃がこうした海外のブランド品を身に着けたことで、同世代の主婦層も購入するきっかけとなったのだ。

もうひと世代上の妃殿下にも舶来好みのかたもいたし、なにより、昭和天皇の帽子は「ボルサリーノ」だった。


美智子さんの若いころからの衣装道楽は、この最初の衣装づくりでの「勘違い」から始まったのかもしれない。



なお、この当時の記事を見ると、衣装と同時に新東宮御所の建築の話題が大きく出ている。
ともに、昭和の御成婚の豪勢ぶりを示すもので、有名な話だがついでにまとめて書いておきたい。





◆御所や宮殿よりも先に新築された東宮御所◆----------------------


昭和の御成婚パレードで、若い男性が投石して馬車に乗り上がろうとする場面が一瞬映る。
青年はその動機について、「ご成婚は贅沢すぎるとの意見を、直接、皇太子夫妻に訴えたかった」と供述している。まだ当時、日本は貧しかったのだ。
そして青年の話すように、その豪勢さはディオールのドレスだけではないのだ。

前年の昭和33年11月27日の婚約決定の時点で、東宮御所の新築が報じられており、設計は東工大の谷口吉郎氏。
婚約直後から、週刊誌や婦人雑誌(婦人生活、主婦と生活など)に設計図や模型が掲載。予算額も明示され、総工費、当時で2億3千万円。

皇太子の強い希望もあって、設計図にはすでに子供部屋も設けられ、結婚前から「初の親子同居」が認められていたこともわかる。
東宮御所の完成は結婚から一年後の昭和35年4月。

(言うまでもないが、平成の皇太子夫妻はこの同じ建物にずっと住んでいる。結婚や愛子内親王誕生で多少の改修は行ったが。)

ところが当時、まだ天皇皇后の住居である「御所」も戦災で焼失したままで、ずっと「御文庫」(戦時中の防空建物)住まいだった。
御文庫は、非常に湿気が強く、「爆弾よけのため壁や天井が厚く作られており、居間に日がさすのは年に数えるほど」(朝日 昭和35年6月28日)で、吊るした背広が数日でシミだらけ(入江侍従談・婚約時の週刊読売)等々、衛生上も健康上も良くないと書かれている。

親である天皇の家がこういう状態なのに東宮の家を先に作るというのは、普通ちょっと考えられない。まだ「長幼の序」の感覚が強く残っていた時代である。
昭和の吹上御所の設計は宮内庁で総工費が約1億6千万円。
完成は、東宮御所から1年半遅れの昭和36年11月。(朝日同上)

またこの頃、戦災で儀式や要人接遇を行う宮殿すらなかった。
今では信じられない話だが、宮内庁舎の上階を使うなどしてしのいでいた。
             
まだその当時は日本の国際的地位も低く、要人来日も少なくそれで済んでいたとも言えるかもしれない。
宮殿が出来上がったのは、御成婚から9年半後の昭和43年11月。

そして更に・・・・

バブル絶頂期に即位した明仁・美智子夫妻は、今度は莫大な予算を組んで平成の新御所を新築した(表向き58億円だが、実際はそれをはるかに上回る(70億とも)のは周知のことで、当時、新聞でさえ少々揶揄した表現だ)。

昭和の御所の約3倍の規模で、膨大な部屋数と80畳の晩餐・映画会、コンサート可能な多目的ホール、その上、なぜか要人の宿泊施設まで備え、「平成のチャウシェスク宮殿」とまで言われた。美智子皇后の意向が強いとも書かれている。(週刊文春 1993年4月15日他多数)
とにかくこのご夫婦は、常に「豪華新築」なのだ。

今、生前退位に伴うわずか1年ほどの“仮住まい”(旧高松宮邸)の改装に何億円もかけているのも、こうした感覚の延長だろう。
なお、昭和天皇・皇后は、昭和35年の御所建築の期間、
「宮内庁舎の別むねになっている内廷庁舎にお住まいになる」と書かれている
(朝日・S33年6月28日)。マスコミはどうして黙っているのだろうか?


4着のディオール衣装に新しい東宮御所、なぜ「初の民間出身」の美智子さんをこんなに「破格の待遇でお迎え」しないといけないのか?

ちょっと前まで、明仁皇太子が彼女のポートレートを写真展に出品しても、誰もお妃になるとは想像もせず、素通りしていたというのに。

実際、お祝い記事と共に
「十二ヒトエなんか、コナ屋の娘が着たって似合うものですか」
「すっかり仕組まれた猿芝居」「あんな成り上がり者が皇后になるなんて」等々、旧勢力の口を借りて、結構、辛辣な言葉が書かれている。(週刊新潮 昭和33年12月15日)

美智子さんというのは、一体どういう「お客様」なんですかね?


宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ② 

2018年02月27日 | このくにのかたち
「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①」より続き


◆果てしなく繰り返される血縁関係◆


岡部長章氏と同僚侍従だった入江相政氏や徳川義寛氏の関連著書が朝日から多く出版されているのも、この世代には自然なことなのだろう。
また、入江氏親戚の冷泉家叢書や香淳皇后の画集「錦芳集」も同社である。

入江氏の夫人は長章氏同様、三菱の岩崎家の出身であり、姪は三笠宮百合子妃。
そして徳川氏は岡部氏と同じく大名家であり、姪は常陸宮華子妃、妹は戦前の北白川宮妃(戦後は女官長)だった。つまり彼らは皆、たどると親戚である。
                   

また岡部長章元侍従の著書にも、

「後になって、大東亜戦争の末期に、『文(ふみ)さん(近衛文麿)が(なかなか陛下に会えないと)さかんにこぼしていた』と三井夫人から私は聞かされました。久しい以前から両人はゴルフ仲間でしたし、三井夫人は私の実の姉で、近衛さんは私どもの母の里、前田家(加賀藩)の親類でもあります。」とある。

このように婚姻によって大名家、公家、財閥、神社等宗教界、維新の元勲から各界エリートが結びつき、皇室を取り巻く「血縁同盟」(「昭和天皇の終戦史」)が形成されていたわけである。

戦前の日本に政党政治が育たなかったのは当然だろう。


                             

◆権力中枢としての宮中◆


https://omugio.exblog.jp/17563069/(側近グループ)

上記写真に岡部氏らと写る宮中グループの代表的人物・松平康昌侯爵(旧福井藩主家、夫人は徳川家達公爵長女、妹は三井本家夫人)について、後に東條首相の秘書官は、

「宮中、政府内、財界、政界および言論界の各方面にわたってなかなかつよい潜在勢力をもっており、広い情報網を握っていることを、痛いほど理解させられた」

「いわゆる雲の上の状況を知ることは、東條首相も私も不得手であったので、(中略)松平氏の世話にならざるを得ない実情であった」と話す。(「昭和天皇の終戦史」)

当の本人も予期していなかった東條を首相に選んだのは、同じく写真に納まる木戸幸一内大臣であった。
内大臣は職務規定すらなく、キングメーカーにもなりえたようだ。

また木戸と岡部長景(東條内閣の文相)は、共に華族による「十一会」会員で、内大臣秘書官長経験者だった。(日本の天皇政治ー宮中の役割の研究))

                   

戦前の日本の権力中枢が宮中にあったことを認識していた国民は少ないが、米国では戦後の占領を見据えて、早くから研究していた。

旧憲法下では、すべては(議会ではなく)「天皇の御璽」で決定したので、そこに直接進言できる宮廷側近には、あいまいだが絶大な特権が生じる余地があった。
彼らはまさに「代議制議会に対して何らの責任も負わず、天皇個人の守護者としての職務を通じて日本の政治を実際上支配している」存在であった。

       (「資料日本占領1「天皇制」、「日本の天皇政治」)


また彼らの縁戚である財閥は、多くの政治家や軍人のスポンサーであり、その利益と大陸進出との間には、明確な相関関係があったことがわかっている。(「帝国主義下の財閥商社」)

そもそも、岡部元侍従が自著で、「帝室林野庁」を「これは皇室の大きな財源です」と表現するように、戦前の皇室を「日本最大の財閥」とする見方も近年あるようだ。

皮肉なことに、戦前の国家体制を強く批判し、その基盤に重層的な婚姻関係があることを指摘したのが、岡部侍従の子息・牧夫氏であった。(「近代日本の戦争をどう見るか」「国家と社会」)
                    

今や、天皇の終戦に際しての最大の眼目が(国民の安寧ではなく)「国体(皇室)の護持」であったことは定説となっているが、こうした統治構造をみれば、それは自らの守護と免責を賭けた周囲の縁戚者たちの強い要請でもあっただろう。

新憲法となり、軍部(陸軍)の戦争責任ばかりを追求しても、こうした宮中政治の本質は戦後も残存し、最近まで(というより今も)多くの国民が想像もしない形で現れていたようだ。




◆象徴天皇の外交ルート◆


特に致命的だったのは、独立に際して天皇が、前述の松平侯爵、吉川男爵ら側近(及び米紙特派員)を介し、米国(ダレス長官)との非公式ルートを通じて、自ら従属的な安保体制(無条件的な米軍駐留)の形成に深く関わったことである。

これは、朝鮮戦争に伴う共産化(皇室の廃止)を何より恐れた天皇とその側近の、政府を飛び越しての政治関与であり、象徴天皇の重大な憲法違反であった。
    (「昭和天皇・マッカーサー会見」「占領史追跡」他多数)

内外の識者が言うように、つねに「国家」より前(先)に「皇室の存続」があったということだろう、それがある意味、アメリカに国を譲り渡すようなことであったとしても。

このことが、現在の日本のあらゆる方面に大きな禍根を残していることはいうまでもない。
そしてその関係者の子孫が、昭和、平成と宮中の側近(渡辺元侍従長など)として存在しているのである。
当然、政界にも、財界にも。


(時期的に見ても、この驚愕すべき全体像がわかりつつあったことと、この10数年来の皇室のゴタゴタとが全く無関係とはちょっと考えられないが・・・。こうしたことは未だに周知されず、その前に言論・出版の世界が崩壊してしまった。)


                    


◆かつての「藩屏」としての新聞社◆


朝日新聞は戦前・戦中とまさにこうした宮中グループの「言論部門」を担う「藩屏」だったといえる。(この他、講談社も皇室の遠縁である)

村山家は(上野家も)戦後も長らく朝日の大株主として存在し(最近、半減したが、2007年3月までは村山家が45%所有)今も長挙氏の長女が超高齢ながら社主であり、その後は甥に引き継がれるようだ。

また、天皇の学友で旧大名家の学習院同窓会会長や、元総理で熊本藩主家の細川護熙氏なども、同社のOB社員である。


数年前、「週刊朝日」が東宮家へのデタラメな中傷記事を連発する中、社主家とも近い「血縁同盟」の子孫たちのインタビューが連載されており、少々怪訝に感じたことがあった。

他愛のない先祖自慢にすぎなかったが、かつての皇室の親戚でもあり、本来なら高齢の方に対し、(先帝の「二重外交」も含めて、)占領下での、GHQと日本の上流・支配層との隠された関係について、証言を集めておくべきだっただろう。
占領軍と日本の名門との「合作」こそが、戦後日本の「体制」であり、「対米従属」の起点なのだから。

他にも、敗戦直前の莫大な皇室・財閥資産の海外逃避(木戸幸一の命令との海外報道がある)も、その一端が外国の公文書で確認されている。(2001年に日本でも報道)

いずれも体質的な「縁戚政治」の延長上のことで、「身内」、「子孫」にしかわからないことばかりである。(政治の世襲化はこうした要因もあるのだろう。)
同社こそ大きくとり上げるべきだと思うのだが。



最後に・・・・

◆どの面下げて◆


このように、同社の論調と社主の背景には大きな齟齬があり、会社(記者、社員)と社主家との対立は「お家騒動」として有名だ。
                   

(上記写真には、「米英機撃滅の歩武堂々、出陣学徒の分列行進と答禮の岡部文部大臣」との説明書きがある。出典:「写真週報」S18.11/3)

これを書くのにいろいろ調べていたとき、知人の遠縁が学徒兵だったと知ったのだが、その家族は生前、夏に朝日系で反戦の番組や記事が流れると、
「本当に、どの面下げてこんなことやってるんだろうね、毎年毎年」と怒っていたそうだ。

村山社長の実兄の裁可した学徒出陣だけでなく、他にも、同紙が強く批判する植民地からの強制徴用も、村山(岡部)家の縁戚(複数の財閥)が行ったのだが、記者は戦後、そのことを記事に明記しているのだろうか?



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さて、同社の皇室報道は、特にこの10年余り、読むに堪えないが、意外にもこの部門だけ、いまなお(悪い意味での)「藩屏」としての役割を果たしているということなのだろうか。
実際、前出の保阪氏と共に、同社の皇室記者も生前退位に関するヒアリングメンバーであった。

嘘で塗り固めないと、すでに存立しえなくなっているということだろうが、それにしても、あの秋篠宮家を担ぎ上げ続けなければならないとは、まるで敗戦直前のようである。

全マスコミの中でも、とりわけ同社にとって、東宮家(特に雅子妃)は不都合で警戒すべき存在なのだろうが、あまりにヒステリックで滑稽なほどだ。(そもそも、彼女には何の関係も責任もないことだ。)。

しかし、どんな理由があるにせよ、こんなどっちつかずの都合の良いことをしていると、結果として、左右問わず全方位的に読者を失っていくのは確実で、実際、急激にそうなっているようだ。
 


               

宮中政治と朝日新聞と学徒出陣 ①

2018年01月31日 | このくにのかたち
「岡部長景巣鴨日記」と「ある侍従の回想録」。
旧岸和田藩主・岡部子爵家出身の兄と弟が書いたものである。


◆兄は東條内閣で学徒出陣を決定◆


前者の岡部長景は、明治17年8月生。岡部長職の長男、
村山長挙(朝日新聞社長)の兄。大正15年に子爵。
外務省に入り亜細亜局文化事業部長、内大臣秘書官長を経て、昭和5年貴族院議員、14年には国民精神総動員中央連盟事務局総長、15年帝室博物館顧問を歴任。

昭和18年東條内閣の文部大臣となり、学徒出陣を決定。
13万人とも、20万人超ともいわれる(文書が残っておらず確定人数不明)多くの学徒を戦地に送ることとなった。(戦死者も、概数すら不明)
同年9月の有名な「雨の神宮外苑」では、東條首相と共に出席、「開戦の詔」を奉読している。

なお、東條首相と岡部大臣は学習院初等科の同級生である。

       

(「出陣学徒を送る右から岡部文部大臣、東條内閣総理大臣、嶋田海軍大臣」
  出典:「写真週報」昭和18年 11月3日号)

戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に22カ月間拘留される
釈放後は、文化事業に復帰、27年、国立近代美術館長、国際文化振興会理事長などを歴任。昭和45年死去。

長景氏の夫人は加藤高明首相の娘で、夫人の母方祖父は三菱の岩崎弥太郎。
長景氏の長男・長衡の夫人は、毛利子爵家出身で華子妃の叔母にあたる。


(また、弟の村山長挙は、明治27年生。長職の3男で、朝日新聞創始者村山龍平の養子となり長女藤子と結婚。昭和15年朝日新聞社長。戦後辞任したが、26年公職追放解除とともに、社主に復帰、35年社長。昭和52年死去。)
      
 (日本人名大辞典、世界大百科事典、日本大百科事典、岡部長景巣鴨日記より)




◆末弟は昭和天皇の侍従◆

そして後者「ある侍従の回想録」の著者岡部長章は、明治42年生。
岡部家の八男。
東京帝大卒業後、帝室博物館、昭和11年から21年まで昭和天皇の侍従を務める
退官後、京都外語大教授、香雪美術館評議員、泉州学園理事。
夫人は、三菱の岩崎家出身。

「閨閥」(立風書房)では、岡部、村山の両家を岩崎家の傘下として書いているが、姉や妹は、大名家(後に離婚)のほか、三井財閥、川崎財閥等にも嫁いでいる。

(参照;一族の画像https://omugio.exblog.jp/17481819/)





◆朝日新聞社の車で巣鴨プリズンへ◆
               
         (国立国会図書館デジタルライブラリー)

自著によれば、兄・長景氏は自身の戦犯容疑での逮捕について、

「(弟・長挙の夫人)藤子さんよりの話で先刻新聞社より電話でお名前があった」と疎開先から上京の際、市兵衛町の村山邸で知らされている。

収監当日は、「朝食は美知子富美子のお料理で飯田の饂飩(うどん)とホットケーキの御馳走」、(美知子というのは、現在の朝日新聞社主)

朝日新聞社の自動車を九時半に呼び」「愈々(いよいよ)自動車も来たので着換へして皆玄関で見送を受け長挙と長衡(長男)とが同車した。」
             (「岡部長景巣鴨日記」より)

朝日新聞の車で同社社長の弟といっしょに巣鴨プリズンまで行っていることがわかる。
この本の「解説」(京大教授による)にも、長景・長挙の兄弟は家族も含めて極めて近しいと書かれており、村山邸での二人の写真も掲載されている。

また、同じく解説には「長景は、華族、政界、官界、財界、ジャーナリズムにまたがる姻戚関係を持ち、各界の結節点に位置する人物であった」とも書かれている。

※ちなみに、朝日新聞のもう一つの創業家の上野家も、九鬼子爵家(三田藩)との縁組がある。

戦時中の朝日の翼賛的報道や戦意高揚を煽る論調、そして虚報の連発に、こうした血縁的背景が無関係とは到底考えられないだろう。

さて、このような戦中の朝日新聞の「立ち位置」は、末弟長章氏の「ある侍従の回想録」の中で、敗戦の混乱時にはっきりと表れている。




◆玉音放送◆


そもそも敗戦時の玉音放送を執り行った下村宏情報局総裁が、元朝日新聞副社長だったことは有名だ。
前任の情報局総裁も、同社の緒方竹虎であり、のちの東久邇宮内閣での「一億総懺悔」という表現も、内閣書記官長となった緒方によるものとされる。
(「占領期の朝日新聞と戦争責任」)

             


以下、岡部長章著「ある侍従の回想録」p194~195(当然のことながら、この本は朝日ソノラマ刊である)によると、

(引用開始)

考えてみれば、玉音放送が終わった直後に最初に御前に出たのは、私だったのです。
「今の、どうであったろう」
との仰せです。玉音放送の国民への反響を心配されていたのです。
先を考えられ行動される陛下は、それまでにない充実したご様子でした。それで私は、陛下のお考えにこたえられる一案を思いつきました。

「私の兄(長挙)が朝日新聞におります(村山龍平の養子で社長)。
こういう場合は、新聞社が一番早いと思います。皇后宮大夫の広幡も兄のことを良く知っております。(必ずこの考えに賛成で許可すると思い)聞いてまいってはいかがかと存じます。」

「それはよい。ぜひ、そうしてくれ」というお答えを得ました。
さっそく広幡大夫に連絡すると、「大変よい思いつきだ」とのことで、ダットサンを一台用意してもらい、防空服に着替えて目立たぬようにして、有楽町の朝日新聞社に行きました。

兄に、陛下が心配なされているので状況を聞きにきたことを告げると、
「社の者をみんな講堂に集めて玉音放送を伺った。その後に『時局重大だから、一同心して社の大任を果たすように』というような訓示をする予定であった。
そのうちにこちら(自分)も泣いてしまい、訓示などできずに止めてしまった。
全国の状況はまだ分からないが・・・・」と言葉少なに話してくれました。
私が「では、効果がありましたね」と念を押すと、「まあそうだ」と一言ポツリといいます。
「それではこのことを申し上げます」と兄に伝え、朝日新聞社を出ました。


(引用終了)


この末弟・長章氏の本の「解説」で保阪正康氏は、

「岡部は、岸和田藩の藩主の流れを汲んでいる。長兄の岡部長景は外務官僚であり、その後は貴族院議員になっている。
昭和16年の東条内閣では文部大臣を務めている。華族(子爵)の爵位も得ている。
岡部は13人兄姉の末弟になるが、その血脈は日本のエスタブリッシュメントにそのままつながっている。
つまり日本の政界、財界、官界などの有力者となんらかのかたちで縁籍になる
という家系である。」

と、兄の「岡部長景巣鴨日記」の「解説」と同様のことが述べられている。



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どちらも著者サイドから依頼される「解説」なので仕方がないのかもしれないが、もうちょっと批判的な記述があってしかるべきではないだろうか。

学徒出陣というのは、戦時中を代表する重大な政策だ。
多くの学徒が悲惨な最期を遂げたというのに、裁可した大臣は戦後、免責されたあげく優雅に美術館館長だったのだ。
本来なら、朝日新聞がここぞとばかりにその人物を責め立てるはずだが、長年、しれっと知らん顔しているようだ。

学徒の出征数や戦死者数が未だ明確でないことにほっとしているのは、文科省や送り出した大学だけではないのだろう。

それにしても、こうしたことが意外と知られていないのは、自社に不都合なことを報道するわけがないうえに、外部の書き手も仕事を貰う立場上、書きにくいということなのだろうか。

或いは「藩屏」の家柄の人々は情報源でもあり、その上、彼らへの批判は、皇室の戦争責任に繋がる面倒な存在なのかもしれない。

書き手に不利益になることは書かれず、書かれないことは気づかれないままだが、殊に昨今、皇室報道周辺に配置されているお決まりの書き手たちの虚偽や不作為は、殆ど犯罪的と言っていいだろう。

それにしても、同社の言うところの「戦争責任」というのをどのように解釈したらよいのだろうか?
自社の社主の親族がこれほど深く関係しているというのに。

一方で、戦前から社主家と対立関係にあった主筆の緒方竹虎はじめ社員・記者の側も、戦中の政権の中枢にいたのだ(反東條ではあったが)。
敗戦時、「東久邇内閣は朝日内閣」と呼ばれたほどである。

(「新聞 資本と経営の昭和史-朝日新聞筆政 緒方竹虎の苦悩―」
「緒方竹虎とCIA」)

「アカヒ新聞」などと言われるのは、存外、そう悪いことではないのかもしれない。
 





戦前は、岡部子爵家に見られるこうした血縁関係が、そのまま宮中を中心とする政治体制を形成していた。
敗戦で、すべて終わったと思われていたが、こうした宮廷政治の名残りは、驚いたことに「戦後体制」の構築にまで及んでいたようで・・・・


                  「宮中政治と朝日新聞と学徒出陣②」へ続く
 
              

「『嫁ぎゆく心境』をスクープした頃」 と 大使館を使っての世界旅行

2017年12月14日 | 美智子さんについて
                                  

美智子さんが皇太子妃に正式に決まる前から、正田家が新聞記者を極秘に出入りさせていたことは、当時の記者たちの手記等からもよく知られています。

そのうちの一人、毎日新聞の皇室担当だった清水一郎元記者の
「『嫁ぎ行く心境』をスクープしたころ」(文芸春秋1990年2月号 338~339p)には、
当時の正田邸の様子がよく表れています。




御成婚時の報道によれば、昭和天皇が正田美智子への縁談を許可したのが昭和33年の8月15日。

小泉信三氏からの打診の後、美智子さんは突然、ベルギーでの聖心OBの国際会議出席を名目に、
9月3日から10月26日まで、欧州6か国と米国に長期海外旅行に出ている。

当時、平民出身の美智子さんは報じられたことも無く、世間的には全くの無名。
この縁談は全て、7月下旬からの宮内庁による報道規制のもとで進められた。


手記によれば、清水氏はこの年5月ごろから、皇太子とテニスをする美智子さんにいち早く目をつけていた。




◆「たまたま正田邸におりましたら」◆-------------------

(以下、「『嫁ぎ行く心境』をスクープしたころ」より)



「この旅行は、富美子さん(美智子さんの母)によれば『渦巻きから脱出させたかった、静かに自分で考える時間を与えてやりたかった』というものでした」


「帰国されて二、三日後、私は池田山の正田邸で美智子さんにお話を伺う機会を得ました。すでに富美子さんとはかなりの信頼関係を築いていたのです。
外国旅行中の娘さんの足取りを、本人の手紙より早く伝えていたこと、あるいは東宮御所の内情を説明したりもしました。
正田家としても、皇室の実際の生活ぶりなどの情報を得たかったのでしょう。」



「あえて殿下の事はお聞きしませんでした。しかし美智子さん自ら『殿下は意外に孤独な方だとお伺いしたことがあります。せめてテニスの間だけでも楽しくお過ごしいただけるよう、お相手をさせていただいているだけです。それ以上の何でもありません』とおっしゃったのです。」


ところが、(婚約当日の清水氏の記事によれば)それからわずか10日後


「それが十一月の初め、ご承諾なされました。その数日後、今度は偶然インタビューできました。
たまたま正田邸におりましたら、どこかの報道機関が押しかけ、私は鉢合わせになるとまずいので、茶の間にいることにしました。
テレビをみていましたら、そこに美智子さんが入ってこられ、お話を伺うことになったのです。二人の話が隣の居間に聞こえるとまずいだろうということで、美智子さんがテレビのボリュームを上げたりしました。
ところが隣から富美子さんが来て、小さくされてしまうのです。
美智子さんは『子の心、親知らずだわ』と苦笑いされていました。」


「そこでサンルームのようなところに場所を移して話を続けました。
この時の一問一答が、ご婚約が発表された昭和三十三年十一月二十七日の毎日新聞夕刊一面トップを飾ったのです。『お分かりになりにくいかもしれませんが、普通の結婚と変わりはございません』とおっしゃっていたのが印象的でした。」


「ご婚約の後、お手紙をいただきました。その一部を特別に許可をいただいて、御成婚の三十四年四月十日、毎日新聞のトップに『嫁ぎゆく心境ー美智子さん本社に寄せる』と題して掲載させていただきました。」




※美智子さんと清水記者の文通※

後に清水氏(当時72歳)は、毎日新聞1999年3月22日朝刊『21世紀への伝言』でのインタビューで、このときの手紙のやり取りについて、




「結婚の儀が迫るにつれて多忙になった美智子さまから
『これからはお手紙にしましょう』といわれた」
「あて名のない封筒に便箋が3枚。細かく丁寧な字だった」
とあり、父親の会社の秘書を通じてやり取りされていたことが書かれている。

正式婚約以降もしばらくは清水氏を自宅で応対していたこと、そして手紙も、掲載されたものだけではないことがわかります。そちらも今後、公開してもらいたいものです。

後年、紀子さんが同様に結婚当日、4年間懇意だった朝日に手紙を掲載させている。)





婚約発表当日に掲載された正田邸内での美智子さんへの単独インタビュー記事と、ご成婚当日の手紙の掲載、この二つが昭和の皇太子ご成婚に関して、「私の2大スクープになりました」と手記は締めくくられています。



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驚く程の世慣れたやり手ぶりで、彼女の「マスコミ操縦術」は母親譲りなのがよくわかります。

到底、昔から言われ続ける「正田家は何度も固辞した」「身分違いで滅相もない」という感じではありません。


また清水記者が書くように、富美子さんは皇室の内部情報を求めており、
朝日の佐伯記者も同じく、(週刊朝日2008.12.5号より)

「(正田家が)お妃選びの情報を欲しているのは明らかでした」、
「ようやく富美子さんとの体面がかなったのは6月26日。とはいえ、一方的に情報を聞かれるだけです」


その後、軽井沢の別荘にも同行し、
「民主化が行き過ぎることはないでしょうか」など、「夫妻と夜更けまで話し込んだ」。 



そして以下の美智子嬢の旅行事情を知ると、更に考えさせられます。




◆大使館を使っての世界旅行◆------------------------



欧州を終えて米国に入った10月半ばごろから一般のマスコミも気付きはじめ、現地特派員が同行取材。
本人もナイアガラなどで記念写真を撮らせている。


見出しには「ご辞退したが」、「悩みながらの旅行」などとあるが、よく読むと以下の内容がしっかり織り込まれている。
(ただし、報道規制下であったので報じられたのは婚約後。)




週刊朝日(昭和33年12月7日号p13)によれば、

「各地で特別な扱い」、
「彼女のスケジュールはすべて大使館から大使館へと組まれていた。飛行場へ着くと、大使館の車が待っている。乗るときも もちろんそうである。」、
「プライベートな一人の女性の海外旅行にしては”異例な大使館旅行”だった」。

            ※一部、知人や親戚の駐在銀行員宅に滞在。




また、読売新聞(昭和33年11月29日)でも、

「ともかく、美智子さんの外遊コースは、五年前の皇太子さまのときとそっくりだった。ベルギーからイギリス、イタリア、スイス、フランス、オランダ、アメリカへ。」
5泊したパリの大使公邸二階の来客用アパルトマンは、「5年前に皇太子さまが特に所望されて泊まられたところだった。」



そして驚いたのが、読売新聞(同年11月28日)の

「外電がすでに美智子さんの皇太子妃内定を伝えていたので、ロンドンでは”ロイヤル・ファミリー”にもひとしい待遇を受けたが」とのくだり。


※ロンドン滞在は9月半ばごろと思われる。このころすでに外国では報道されていたということなのだろうか?
一般の日本国民は、彼女のことなどまだ誰も知らないというのに。
なお、週刊明星(同年11.23号)によれば、米国APが美智子嬢を打電したのは(未確認情報として)11月7日、ニューズウィークが11月10日号で報道。
当時はテレビすら普及しておらず、一般人は外国の情報を入手する術もなかった。




そもそも「主婦と生活」(昭和34.1月号)によれば、

美智子嬢は旅行のお別れを告げるためわざわざ軽井沢に皇太子を訪ねており、その時、皇太子は、
「イギリスにいったら、スコットランドまで回るといい。特に首都エジンバラを見ておくといい」とアドバイスしている。


また「週刊女性」(同年12月14日号)も同様に皇太子のアドバイスの記述があり、
一部には、旅行をすすめたのは皇太子自身だとか、旅行するまえに、すでに美智子さんは、ご自分が皇太子妃になられることを知っていたとかいう推量も生まれたのだが、」とある。

残念ながら日程上エジンバラは訪問できず、美智子さんは「はたで見るのもかわいそうなくらいに、がっかりしていたそうだ。」


また、帰国に際して、
毎日新聞 (同年11月27日)

同社の内田特派員は、米国(ワシントン)から帰国する美智子さんに同行。
途中、ホノルル空港で4時間半の待ち時間があり、ハワイ現地社員も含め一緒にドライブしている。

「美智子さんにすすめ、ハワイの本社通信員が案内役となって、アロハ塔からワイキキ海岸、ダイヤモンドヘッドに車を走らせる。」

この時の「マウナルア湾」を背にした美智子嬢の写真が大きく掲載されている。

その後、東京行の便に危うく乗り遅れそうになっている。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


この結婚は、一体、いつ決まっていたのだろうか?

宮内庁は「悩みながらの世界旅行」をお膳立て・演出するつもりだったようだが。
(箔づけとの記述もちらっとある)

当時、海外渡航は自由化されておらず、個人が即座に7か国もの海外旅行などありえない話だ。

宮内庁の演出というのは敗戦後、天皇制存続のため大手紙の皇室記者を使っての悪質なプロパガンダが盛んに行われており(「国民の天皇」他多数)、元来、お手のものだ(今も続いているようだが)。

しかしこの時は、同庁の影響下にない外信部の特派員が関わったうえ、婦人雑誌等も大きくとりあげたためか、
明言はしないまでも察しがつくように書いてあり、上手くいかなかったようだ。

むしろ結婚後、「縁談からの逃避行」がテレビ等で繰り返されたようだ。




◆白樺のしるし汚さぬよう◆--------------------------




婚約決定時の新聞を見比べると、清水氏の毎日(特別夕刊)が質・量ともに格段に充実しています。

この海外旅行の実情を知って、改めて冒頭の手記やスクープ記事を読むと、またいろいろ印象も変わってきます。
この記者だって当時からおおよそわかっていたわけです。

(新聞では、帰国後の美智子嬢の震えるような結婚決意のスクープ記事から数ページめくると、ハワイのドライブ記事と写真が出てきて、ちょっと意地悪です。)

さて、同記者はすでに2012年にお亡くなりになっているようです。(参照)

大昔、文通までしていた美智子さん、半世紀後の彼女の醜態を、晩年この方はどのように見ていたのでしょうか?

(そもそも新聞社は群馬も含め全国に支局があり、相対的に見ても彼女は東宮妃に推される根拠に乏しく、「なんで突然、この娘なのかな?」と記者は皆、感じていたと思うのだが・・・・)


御成婚当日、清水氏のスクープ記事に付けられた

「誠実に”光”を求めて  白樺のしるし汚さぬよう」
との見出し、今となっては、何とも皮肉な文言になってしまいました。



満州・康徳製粉と朝鮮製粉  (旧植民地と美智子さん)

2017年11月25日 | 美智子さんについて

以下の出典は、「日清製粉株式会社史」(1955年発行)の巻末の年表、および本文。
尚、この社史は既に、「渋沢社史データベース」でもネット上で公開されています。




昭和9(1934)年------------------------------

    (3月1日 満洲国帝政実施、康徳と改元
                      
6月25日   東洋拓殖、三井物産、三菱商事および内地製粉会社等で出資した
      「日満製粉株式会社」(本店ハルビン)が創立。
       日清製粉は、この「内地製粉会社等」の一つとして参加。
             
    ※この年、館林、高崎、名古屋の3カ所で一部工場増設




昭和11(1936)年------------------------------

  4月   正田英三郎取締役、満州へ調査(日清製粉株式会社史192p)

 7月1日   京城府南大門通五ノ一に京城出張所設置

 7月7日   名古屋新工場落成  運転開始

 8月1日   朝鮮製粉株式会社創立 (取締役会長正田貞一郎)

   8月   正田英三郎、再度、渡満し、満州国政府と関東軍を訪問(192~193p)


     (11月25日  日独防共協定成立)

 11月27日    役員会で満洲進出決定

 12月21日   第六十回株主総会
(社長制を改めて会長制とし、社長の正田貞一郎が取締役会長に、  
 常務取締役に正田英三郎就任 )

 12月26日   下関支店設置




昭和12(1937)年--------------------------------

 1月4日   野付牛(北海道北見)工場落成 運転開始

 2月     朝鮮製粉(株) 京城工場操業開始(189p)

 2月18日   満州に 康徳製粉股份有限公司創立
       (翌13年5月に康徳製粉(株)と改称)

 5月6日    取締役会長正田貞一郎、朝鮮満洲視察のため出発、6月1日帰国

 5月29日    本社事務所増築工事落成
 
 
 5月31日   国内工場の製粉機械一部を康徳製粉股份有限公司
             及び朝鮮製粉株式会社に譲渡



    (8月13日   上海事件起る )

    (11月6日  日独伊防共協定成立 )


 11月30日 国内工場の製粉機械一部を康徳製粉股份有限公司
         及び朝鮮製粉株式会社に譲渡


 12月1日   愛国製粉株式会社と合併契約締結

 12月2日  康徳製粉 新京工場 運転開始(p195)

  12月    朝鮮製粉(株) 鎮南浦工場完成、翌年から運転開始(p190)

 
    (南京陥落、中国臨時政府成立)

12月23日  康徳製粉 牡丹江工場 試運転開始(p194)


                 
               (国立国会図書館デジタルコレクション)

昭和13(1938)年------------------------------

 1月7日    康徳製粉 四平街工場 (前年落成) 運転開始(同上)

 1月13日   常磐製粉株式会社と合併契約締結


  (1月16日 政府、「爾後国民政府を対手とせず」と対支声明 )

     (1月  支那における関税改正で小麦粉無税)

 3月16日  済南市東流水大干家橋に済南出張所設置

 3月25日   北京市永定門外に北京出張所設置


(4月1日  国家総動員法公布 )


昭和14(1939)年----------------------------------

7月15日   株式会社敷島屋製粉所と合併契約締結

  (9月3日 英仏、対独宣戦布告、第二次世界大戦始まる )

10月13日    高浜製粉所買収



昭和15(1940)年---------------------------------

   (3月30日  南京政府成立 )

  8月    朝鮮殖産興業(株)設立 (販売部門)(190p)

 9月26日   台北市末広町に台北出張所開設


(9月27日   日独伊三国同盟成立 )

(10月12日   大政翼賛会発会式)



昭和16(1941)年------------------------------------
 
 1月   朝鮮製粉(株) 海州工場完成(同上)

 8月   朝鮮酵母株式会社(日清製粉系のオリエンタル酵母の直系)設立(同上)


     (12月8日  わが国、米、英に宣戦)


昭和18(1943)年------------------------------------

9~10月 企業整備令により、鶴見工場を立川飛行機(株)の協力工場として
     「航空機鶴見航機工場」設立 (263p)



昭和19(1944)年 ----------------------------

 2月15日   高崎工場を転用し、航空機用硬化木材工場(高崎硬化材工場)設置

 3月16日   日清航空工業株式会社創立 

      (当局の要請で、愛知航空(株)の協力工場として工場転用、 
       社長は正田英三郎。 主として発動機のシリンダー、動弁腕、軸等を
       製作した。263p)      

     ※愛知航空は、戦闘機、偵察機等を製造した日産系の航空機メーカー。
      現在の愛知機械の前身。 




 ※ なお、1955年版の社史には、植民地での現地工場の写真も多数掲載されています。


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満州など旧植民地への経済進出については、資料が多く残されている三井や三菱などの大財閥を中心に研究が進んでおり、こうした巨大資本の経済活動と植民地の拡大や開戦との強い関連性が論じられています。

植民地への進出や戦争も、単純に政治家や軍人だけによって引き起こされるように考えがちですが、最近は、むしろそれによって利益が上がる集団のために引き起こされる、いわゆる経済面を重視する傾向が強まっています。
政治的意思決定がスポンサーの方を向いて行われるのは、今も昔も変わりません。

なかなか大陸から撤退できなかったのも、多くの日本企業の活動拠点があり、そこに従業員が生活し、すでに活発にお金が回っていたという現実を無視することはできません。

美智子さんの実家は財閥などとは比較にもならず、帝国主義下の日本を代表するような存在でもないので、上記のような実情をあまり知られずに済んでいます。
結婚以来、新聞や週刊誌でこの件を正面から大きく取り上げた記事は殆ど無いだろうと思います。

しかし祖父・正田貞一郎が創立メンバーの一人で、父も跡継ぎとして若くして役員という同族企業であり(この当時は)、中規模軽工業とはいえ、やっていることは同じです。
雇われのサラリーマン社長ではなく、一族で大株主であり、祖父が経営の意思決定をしているわけです。

実際、満州、朝鮮、台湾進出にともなって、工場や支店が増えてゆき、どんどん会社が成長しているのがよくわかります。
この時代、日本中どの企業も大陸に出ていくことで、(一時は)景気が良くなったわけです。

(ただし、国内における合併に次ぐ合併は「館林製粉」設立時から絶え間なく続く、正田貞一郎氏の特徴的経営手法と言っていいと思います。)

それから、あまりに生々しくて書き入れませんでしたが、昭和15年9月27日には、日清製粉も陸海軍に「航空研究資金」を「寄附」との名目で多額の献金を行っています。


平成4年、天皇皇后の強い希望による中国訪問が行われました。
「美智子様、植民地支配への贖罪のお気持ち」などというような見出しが躍ってましたが、多少、こういう方面に詳しい知人は、
「一体、どういうつもりでこんなしらじらしいこと書いてるんだろう?」と呆れ返っていました。(おそらく中国サイドだって知っていただろうと思いますが。)

誰でも先祖に一人や二人、満州などで働いていた親戚がいるもので(他の皇族関係者にも当然いる)、こうした皇后実家の植民地進出を単純に批判しているわけではありません。
しかし、マスコミが決して報じないのをいいことに、自分は何の関係もないかのように繰り返される皇后の同情的アピールは、見ていて不快極まりないものです。

組織に属する勤め人が赴任するのとは違い、そこでの利益はストレートに一族の家産に直結していたというのに。

スポンサー企業である上に、いくら彼女が「タブー」な存在で書きにくいと言っても、ここまでくると、もはや意図的にだましているのと同じです。

更に退位のあと、韓国に謝罪の訪問などとも言われています。
ならば、上記のような戦前の植民地進出をしっかり報道し、「朝鮮製粉」を周知させてから行くべきだと思いますね。
財閥とは比較にならないとはいえ、一応、一族で要職を占めるオーナー会社の小資本家であったわけですから。