雅子妃の超多忙ー流産となった年の公務状況からうかがえることー

2018年09月26日 | 公務

以下は、1999(平成11)年の1年間の雅子妃の主な活動状況である(なお、これが全てではない)。 
  
(『「わたしたちの皇室」第2号~第6号 主婦と生活社 』より集計して作成)





この年の年末12月30日、流産となった。




※ 地方行啓には、一県につき3~4件程度(99年の場合30~40件)の地元施設訪問がある。

※ 上記下段の「勤労奉仕団への御会釈』の40回は、流産翌年のことで例年よりかなり少ない。

※ これ以外に宮中祭祀もあるが、私的行為であって、公務ではない。

 憲法が定めるのは天皇の国事行為のみであって、他の皇族に法的に求められる公務など(国事行為の代行以外)全くありません


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宮内庁は、雅子妃の多忙を極めていた頃の皇太子夫妻の活動状況をHPに出しません。
公的機関の文書隠しや改ざんは、宮内庁が先鞭をつけたようです。

写真集等に年間の概要をまとめたものがあっても、あらゆる活動を網羅した資料を見つけるのは非常に困難ですが、なかでも比較的詳しく記録していると思われる季刊の「わたしたちの皇室」があり、そこから集計しました。


しかしそれでも、2月の「ヨルダン国王葬儀参列」(とんぼ返りと思われる)などという比較的大きな出来事さえ抜け落ちており、この上記の夥しい一覧さえ、全てではないと思われます。


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御成婚直後から上記のように超多忙で、毎年9~12回ほどの泊りがけの地方訪問を中心に、宮中での要人接遇、そして近郊の外出公務がびっしりと組まれていた。

その結果、しばしば体調不良や発熱が報道され、そのたびごとに「すわ、ご懐妊か」との騒ぎが繰り返されていました。
 
「雅子さまはお疲れがたまると微熱がしばらく続くことがある。しかしお立場上、予定されているご公務を休むこともできず、無理なさることも多い」

「これはご結婚以来のことですが、雅子さまのご公務のスケジュールはどう考えても強行過ぎました。実際、雅子さまはそのために体調を崩されることも少なくなかったんです。」

「さすがに宮内庁内部からも、雅子様のご公務を少し減らすべきとの意見も出ていた」

             (「女性セブン別冊御成婚5周年記念」1998年6月刊より)

そもそも1993年6月の御成婚から同年11月までのわずか5ヶ月間に、10回もの地方行啓が予め立て続けに組まれていました。(同上)

天皇と皇太子の「行幸」、「行啓」は、大名行列さながらの重装備で身体的負担も大きく、身軽な宮家の皇族の「地方へのお出かけ」とは事情が全く異なります。


また、ご静養どころか、疲れに行っているとしか思えないようなごく数日の「御用邸滞在」が頻繁にあり(マスコミ同行の登山もあり、すでに公務となっている)、とにかく結婚当初から移動の連続であった。

すでに上記の1999年当時、東大病院の堤医師がついており、これでも多少は軽減されていたのかもしれないが、しかし、誰がどう見ても、子供を持つことを優先的に考えた日程とは思えません。
(上記の表を見て、「こんな状況で、本当に不妊治療なんてなさってたのかしら!?」と言う人も私の周囲にいました。)

さて一方、今の天皇皇后は結婚当時、全くこんな状況ではありません。



◆昔はこんなに公務など無かった◆


評論家の松本健一氏曰く、

「宮内庁は一方で子作りに励めと言いながら、公務自体をどんどん増やしているわけです。逆に言うと、今の天皇皇后がそれだけ公務を作ってしまったんですよ。
昭和天皇の場合、それほど公務はなかったわけです」


(「皇位継承と宮内庁」別冊宝島2004 175P)

  ※参照:昭和天皇皇后の行幸啓表(「宮内庁要覧」より)(拡大します)
    

実際、明仁・美智子夫妻の結婚した昭和34年から数年を調べてみると、公務全般が驚くほど少ない。地方訪問は1~3回程度(新幹線も高速道路もまだなかった)、外出公務は上記雅子妃の3分の1にも及ばない年もある。
来日要人も少なく、そもそも宮殿すらなかった。

             (朝日・毎日新聞縮刷版S34~S38 当時は詳報されている)

午前中は語学や楽器のレッスン、歴史の勉強時間にあてられ、更にご静養の期間も長く(その後、軽井沢では月単位で長くなる)、ゆったりした日常がありました。
浩宮もすぐに生まれています。
      (週刊文春S37年 7/30号「皇太子殿下ただいま勉強中」や上記縮刷版) 

(むしろ、国の代表としての大きな外遊がメインで、日常のお出かけなどとの軽重のメリハリがついていたように感じられる。)

その後、東京五輪、高度成長、そして経済大国になるにつれ、イベント、式典が増え、そうしたお出ましを昭和の皇太子夫妻がどんどん「公務化」していきました。
(昭和天皇はこんなことはしていない。)

浩宮が生まれ、家庭が安定したころから自由に公務体制を作っていけた明仁・美智子夫妻は、国の経済成長とライフサイクルが一致する、非常に幸運な世代でした。

こうしてできたのが上記一覧に見られる「お出かけ公務体制」であり、「後任者」は結婚した瞬間から、何の法的根拠も伝統もないのに、それらを自動的に踏襲させられる羽目になりました。

子供を強く望まれるとわかっているのに(あまりこういうことは言いたくないが)、天皇皇后は、若いころの自分たちに与えられていた結婚当初の落ち着いた生活環境を、どうして長男夫婦には与えなかったのだろうか?

(皇太子の7大行啓などと仰々しく言われるが、バブル期の平成初期に始まったものあり、もっと早くに見直して整理しておくべきでした。天皇の三大行幸も同様に。)





◆欧州中心に、海外旅行三昧だった平成の天皇皇后◆


さて、2001年12月1日にめでたく愛子様ご出産となりますが、休む間もなく翌年2月8日に公務再開、3月から本格復帰、日常の多くの公務に加え9県の地方行啓、更に翌年は14府県(皇太子は17府県で、その後も高どまりが続く)となぜか異様にエスカレートし、雅子妃は倒れ、以降、表舞台から遠ざかっています。
(どう見ても、皇太子夫妻に対して第2子を望んでいる状況ではない)

皇太子夫妻が倒れるまで公務をしていた頃、意外にも天皇皇后は、即位以来、地方行幸啓も4~6回程度で、全体にさほど負担は感じられない。
というのもこのころ(50代半ば以降)、二人はほぼ毎年の海外旅行だったからです。
  
 
           

(宮内庁HPより作成)  ※上記以外に、雅子妃が不調になって以降、皇太子単独の外遊は多数ある


「お世継ぎができるまで、外遊はダメ」というのは、こういうことです。

「そんなに外国(特にヨーロッパ)に行きたかった」のが誰であったのかは一目瞭然です。



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※天皇よりもずっと多い皇太子の地方行啓※



マスコミ報道の印象では天皇が日本中を旅して行幸し、皇太子はそれほどでもないかのようだが、実際は真逆で、平成を通じて天皇皇后の地方訪問よりも、皇太子(1993年から2003年までの11年間は「皇太子夫妻」)の方が格段に多く、2倍以上の年などザラにある。


天皇の平成の29年間の地方行幸の平均は年間約6.5回
皇太子の結婚以降25年間の行啓の平均が年間約11.6回である。
(独身時代も同傾向と思われる)


(なお、雅子妃の公務を誰か別の皇族が肩代わりしているなどというのは、大嘘である。彼女が不調となったのちも、皇太子は単独で非常に多くの公務を行っている。なぜか殆ど報じられないが。そもそも、冒頭一覧の膨大な公務を肩代わりするなど、物理的に不可能である。)


天皇皇后の地方訪問が多少増えたのは、年をとって(遠方の海外旅行から遠ざかるようになって)以降だ。
東日本大震災だけでなく、ごく日常的な災害への日帰り見舞いが増え、またそれらを頻繁にテレビで中継させている。
「生前退位」の正当化と、皇太子の回数との格差を気にしてのものだろうか?
(葉山などの御用邸滞在や私的外出分も行幸啓数にカウントして水増している報道も散見される。


(宮内庁HP「皇室のご活動」、朝日新聞縮刷版、前掲「女性セブン別冊」)






※1999年、公務が極めて少ない秋篠宮家※

上記資料「わたしたちの皇室」によれば、結婚10年目の秋篠宮夫妻の公務は非常に少なく、紀子妃の公務は、(身分と内容が異なるため回数を比較しても意味はないが)上記の雅子妃の半分にも遠く及ばない。
同じ宮家の立場で下位の高円宮夫妻と比べても遥かに少ない。

また、その内容も、一部特定団体(結核、動物園・水族館関係)によるものが大半で、質的にも比較にならない(これは今も同様)。
また秋篠宮家のみならず、宮家の皇族は「宮中行事など」(公賓との午餐など)にあたる公務が非常に少なく、宮邸での接見等も(高円宮家を除けば)それほどない。

つまり紀子さんは結婚後10数年、二人の子供をもうけ、養育するのに何ら支障のない公務状況であり、長らく大学院生でもありました。

(一方、秋篠宮はこのころよほど暇だったのか、頻繁にタイに通い、現地の愛人が噂されていた。)



この数年後、高円宮が急逝、そして雅子妃が表に出てこなくなったころから、突然、秋篠宮夫妻がやたらと何でも「公務」と称して、一年中、出歩くようになります。




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実際の活動状況を調べると、天皇周辺が、懇意の書き手や記者クラブを通じて、いかに「デタラメな物語」を流布させているかがよくわかります(一見、東宮家サイドに立った記事もかえって悪質)。
そして、その「デタラメな物語」を根拠に生前退位と代替わりが行われるようです(まさかと思ってましたが)。

もう公務は、「天皇の国事行為」に限るべきかもしれませんね。
「公務の悪用」と周囲(皇族を含む)の著しい不作為でここまで来たわけですから。
国の中心は、今も、法も秩序も善悪の区別もない世界のようだ。