ウロ

木の洞に頭突っ込み独り言

親の毒

2014年06月03日 | 日記
昨日のランチは昼会席。
目においしいお料理でした(舌には……私には分かりません)。
説明を受けて意味不明な単語が出てきて
でも他のふたりは黙っているから、すごく一般的な単語なのかなと
後から訊けばいいやと私も黙って頷いていたけれど
お店の人が暫し間を置いたから、質問した。
どういう単語だったか既に忘れているが、すごく粘りのある昆布から抽出したなんたら
だそうで、塩だけ舐めてみたけれど、やはり私には違いが分からない。

ふたりは当然ご存知で

その後も「あら五月豆なの」とか。いんげんとどこがどう違うのか私には分からん。
なんたら汁が出て、お店の人が「ご存知ですか」と訊き、ふたりは頷き、
私は「なんでも知ってるのね」と呟いた。説明を受けたが、聞いて忘れた。

ひとりの人はこれまでも何度かブログに書いたが、料理センスがずば抜けている方。
ひとりの人はいろいろ洗練された趣味の方(つまり育ちが大変によろしい)。

このおふたりを前になら「知らないもーん」と平気で言えるのである。


これがタイトルとどうつながるかと言うと
ブログで親の愚痴を言っては受け容れられ、毒親が最早特殊な存在でなくなっていたがために
うっかりと同じように喋ってしまい、ことごとく「思い過ごし」的な反応を頂いた事に始まる。

そうか。知らない人には親の悪意なんて信じられないんだ。
子どもにとっての絶対的立場を利用した、悪意溢れる行動なんて理解できないんだ。

まあ お幸せ。

趣味のいいもので身を固められるのは、経済的基盤も勿論あるけれど
それ以上に自分にそれらが相応しいと思えるからで、
彼女の場合実に品よくまとめているから嫌味もなく部分的にも真似たいなあと
素直に思わせる ほどに身についている
……なんてまとまりのない文章。でも言わんとする事はお分かり頂けるだろう。
一方の方も、子供全員が学生だから家計が大変と言いながら
一品ずつブランドが入れ替わる(財布の次がバッグがびっとん とか)。

高級品・ブランド品が買えるかどうかはお金があるかどうかだけの問題じゃない。

なんだかんだで恵まれた、或いはごく普通の家庭にお育ちになっている。

でもさ。こういう言い方は誤解を招きそうだけれど
現時点で子どもたちの状況は我が家が一番いいのである。
どうして恵まれた家で、親の影響による性格の破たんもなく育った人の
子育てがうまくいかないのだろう?

私の子育てがよかったと言うのではない。
私以外の環境がうまく嵌っていっただけである。
勿論私なりにポリシーを持っての育児であったが
時に厳し過ぎた躾に娘が歪まなかったのは旦那の無条件の愛情があったからだし
今の学力に到達できたのは先生に恵まれたからである。
私の功績は
自分の親の毒に気づいてから自分は毒親にはなるまいと意識するようになった事 なんじゃないか。


虐待は、自分が受けた虐待を認識すれば、連鎖を防げる。
気づかぬまま認めぬまま過ごせば、連鎖に繋がる。

私が彼女らに感じた、無自覚の毒(子どもにとって ためにならないこと。悪意はなくても)が
実際に毒であったか滋養であったかの判断は、人によって分かれると思う。

自分たちの子どもに相応しい事、自分たちに叶えられる事は全て施すというやり方。
たとえば子どもがお絵かきに興味を示したならば先生を探す。
そこらの絵画教室の教師ではない。一線で活躍する画家を。
運動もしかり。部活動の範囲を越え、個人指導の場を設ける。

そしてこちらはもっとありがちだが
受験回避のための道を拓く。

これらは決して虐待とは称されるまい。
しかしどちらも子どもから自主性を奪い、
かつ前者の場合はプレッシャーを与えかねない。
だが親に悪意はなく、子どもにも批判は芽生えない。


何が正解か分からない。正解なんてない。
ないが私は思う。いや ないからこそ、思う。
親が子に与える影響は良し悪し関係なく小さい方がいい。

これは親を全否定する立場ゆえの見解なのだろうか?

でも親の毒の存在を認識出来た事は 不幸な事ばかりじゃない と気づけたのは幸いだ。
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