day by day

癒さぬ傷口が 栄光への入口

「十三人の刺客」

2010-10-29 | エイガ。
さむらいがそんなに偉いのかよー!

「十三人の刺客」(2010)◆原作:池宮彰一郎(1963年版脚本)◆監督:三池崇史◆出演:役所広司・山田孝之・伊勢谷友介・伊原剛志・松方弘樹・稲垣吾郎・平幹次朗・松本幸四郎・市村正親 他
《あらすじ》
幕府の権力をわが物にするため、罪なき民衆に不条理な殺りくを繰り返す暴君・松平斉韶(稲垣吾郎)を暗殺するため、島田新左衛門(役所広司)の下に13人の刺客が集結する。斉韶のもとには新左衛門のかつての同門・鬼頭半兵衛(市村正親)ら総勢300人超の武士が鉄壁の布陣を敷いていたが、新左衛門には秘策があった。(シネマトゥディ

公式サイト

主演の役所広司あたりが公開時のPRだとかで「老若男女に楽しめるエンターテイメント時代劇です!」みたいなことを言ってたという記憶があるのですが、三池監督が大掛かりな映画を撮ったということはきっと「老若男女が楽しめる」ような作品には仕上がってないんじゃないかなーという気がちょっとした。

あはははははははははは。

老若男女の中でも随分見る人を選ぶものを撮りましたね!
と思った私の第一印象は間違ってないんじゃないでしょうか?(笑)
これ、バイオレンスなものを見慣れてない人には楽しむどころじゃないんじゃないですか?いや私は「三池監督だし」と思ってたので何が出てきても驚きませんでしたけど。

刺客が狙う標的は明石藩主であり将軍の弟であり、次の老中と内定している身分の高~いお人。
でもそれが何故狙われる羽目になったかといえばその目に余る暴虐ぶり。
その身分ゆえに、正攻法で彼を失脚させることは出来ず。さりとて、周囲の人間を使ってその事実をもみ消したり見ないふりをするにはあまりにも残虐な所業。刺客を差し向けて亡き者にするしか方法がない。
その「仕方ない」のを補強するために、これでもかと彼の残虐ぶりを描いてゆく前半となりますが、もう偏執的といいたくなるくらいこってりとそれを描いてあります。暗殺される標的に嫌悪感や敵対心や怒りを抱かせるには十分すぎて、見ていて辛くなる人も多かったかもしれない。

物語は単純ではあるのですが、この標的、死に至らしめるに十分と客に思わせることには成功してるだろうな。

もちろんこの映画の見所は後半50分にも及ぶ落合宿での13人対300人の大立ち回り。ここを描くために少々13人のそれぞれを描く尺が足りなかった気はします。
この場面、50分もあったらしいですが、私は見ていてずっと目が離せずで飽きませんでした。
おかしいなー。なんでチャンバラだと楽しんで見てしまうんだろう。テレビ時代劇のように形のきれいな殺陣ではもちろんなく、血まみれ泥まみれのドロドロの死闘なのですが。
それぞれの役者さんたちの圧巻のアクションも勿論素晴らしかったのですが、「ケータイ捜査官7」で三池監督に見出された窪田正孝の最期ときたらもう、見事な死にっぷり。あれをやらせたくて窪田を起用したとしか思えません(そこまではさして窪田を選ぶほどの理由がある場面はなかったので)。

しかし単純にチャンバラアクションだけ楽しむ映画かといえば、爽快感など齎してはくれない。
ここが曲者です。
何故なら13人の刺客が殺したかったのは、ただ一人の標的のみ。あとの侍たちは「侍の務めとして」主君を守るために戦っただけ。いわばこれは、侍の務めをどこに求めるかという思想の違いの戦いでもあったのではないか。
それを代表していたのが、島田と鬼頭の対立。
鬼頭は何故あそこまで頑なに、暴君である斉韶を守るのか。それが単に「侍は主君を守るもの」という信念だけに基づいたものかが疑問には思える。その所業を改めさせるため死して諫言を、というのでもない。ただ、そのあとがどういうことになっても知らぬ、自分は侍なのだからどんな暴君であろうと主君を守りさえすれば良いのだ──思考停止したような鬼頭の言動にはもしかしたら島田には及ばぬことに大きなコンプレックスを抱いていたからではないかとか勘ぐってしまうわけだ。
 自らのお役目を解かれ将軍の弟を暗殺するという、引き受けた時点で命を棄てた指令に「天下のため」と従う島田の潔さ。鬼頭には最期まで島田にはかなわぬという絶望にも似た羨望があったのではないか。
 そうして、その羨望を自ら誤魔化すため、「侍は主君を守ることこそ役目」と言い聞かせてそうしていたのではないか。決して斉韶に心から従っていたわけではないのに。
 それが鬼頭の悲劇だったのかもしれない。

工藤栄一監督のオリジナル作品では違ったキャラクターだったらしい、「山の者」。
山の者とは人別帳にも載らない、つまり現代で言えば戸籍もない、つまり江戸幕府に支配されず山の民の掟の中で生きている者たち。
かつて先祖は落ち武者だった(らしい)小弥太は、侍社会を実際には知らない。侍社会では当然のことを、それを「全く知らない」目で見せるという意味で山の者という設定に変えたのはもしかしたらすごく良かったのかも。
島田たちのやっていることも、「悪いヤツ」を懸命に守ろうと命をかける明石藩の侍たちも、小弥太から見れば馬鹿ばっかりだったろう。小弥太にとってはお役目よりも天下よりも、今日の夕飯になるであろう兎一匹の方が大事なのだから。


300人を殺してやっと成し遂げるたった一人の暗殺。
実際のとこ、仲間も敵も全員皆殺しにする前に自分では戦わない殿さま一人の命を何故頂戴できないのか、そこは演出だと思うが、残るものは虚しさだけ。けれど、侍の社会ではそれもひとつの常識。

こういう虚しさややるせなさや馬鹿馬鹿しさを、総力のチャンバラアクションの末余韻として残されたからにはそこを拾わなければならないだろうと思った次第。


あと、夜の場面の暗さにこだわりを感じた。江戸時代の女性の白粉の、現代の目から見れば異様なまでの白さは、夜の行灯やろうそくだけの灯りの中で顔を浮き上がらせて美しく見せるために必要だったという。女性たちの浮き上がるような顔は、こう見えていたのだろうかという興味を刺激した。あと、若くても結婚した女性は眉を落としお歯黒を付けていた・・・とか。谷村美月のお歯黒顔、怖い(笑)てゆうか谷村美月も好きだよね、三池監督。
そんな中で山の女であるウパジだけが現代っぽい(笑)。もしかしてその対比をさせるためにわざわざウパジのカットを挿入したのかな?



とは言っても、やっぱ見る人を選ぶ映画だと思うので、話題作だからって無闇に見に行かない方がいいよー、と思うんだけどもう公開してから随分たっちゃったし遅いね(笑)
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