5.てのひら
鈴(りん)の残響が消えるまで、多恵子はじっと手を合わせて目を閉じていた。耳に残る音がいつまでも消えない気がして、どれくらいそうしていただろう。ふう、とひとつ息を吐くとようやく多恵子は合掌を解き、その手を膝に置いて顔を上げた。小さなテーブルの上に祀られた写真をじっと見つめると小さく呟く。
「遼平、殺しちゃったよ。あのひと」
ほんと馬鹿だよねえ、と自嘲するような笑いを微かにこぼす。
「ねえ遼平、私、これからどうすればいい?」
写真の中の男が返事をするわけもなく、多恵子は小さく苦笑した。写真の脇には仏花の代わりの黄色い薔薇がグラスに挿してある。
多恵子は立ち上がって台所へ行くと夕食の用意を始めた。
こんなに何も無いのに、なんでお腹だけは減るんだろう。自分のためだけに食事を作るのって、なんて虚しい。それなのに食べずにはいられない。
なんで私、生きてるんだろう。
自分がこうして生きていることが何故か滑稽に思えて、多恵子はまた苦笑した。
笹中多恵子は亀崎辰彦の勤めていた会社の隣のビルにある居酒屋『どんどん』で働いていた。昼は定食屋、夜は居酒屋として営業していたので亀崎やその同僚も日常的に利用していた店である。
そう若くもないしずば抜けて美人というわけではないが、愛想が良いので常連たちからは多恵ちゃん多恵ちゃんと可愛がられていた。中にはデートに誘う強者もいたらしい。しかし大抵はやんわりと断られ、最後には大将のイエローカードが出てお誘いは断念させられていた。
多恵ちゃんは家でダンナと幼い子供が待ってるから身持ちが堅い、などと根拠の無い噂も流れていたものである。本人は一言も結婚しているとも子供がいるとも言っていないのに。
そんな多恵子がごくたまにそういう「お誘い」にのってくることがある。営業部の何人かが集まって『どんどん』に繰り出したあと、二次会がてらどこかへ行こうという話になった時だ。
「多恵ちゃん、どうも亀狙いらしいぞ」
誰かがそう言いはじめたのは、営業の飲み会に限って多恵子がついてくるようになって3度目のことだった。
カラオケボックスで営業の男4人が顔を突き合わせていた。
ビールや焼酎のグラスがテーブルの上に散乱している。一番後輩の長岡が歌いかけの流行りの歌を放り出してくいついた。
「え、亀崎さんて新婚でしょ」
「それも二回目の新婚、な」
「くそー、なんであいつばっかモテるんだ。頭くんなあ」
「田代さんは日端ちゃんも狙っててさらわれたんですもんねー。恨み積もりますよねー」
「でも多恵ちゃんもダンナがいるんじゃなかったっけか」
「あ、あれガセらしいぞ。一緒に住んでるのはダンナじゃなくて弟だってよ」
「ええー、弟って名のオトコじゃないんですかー」
「てーかあいつら消えてね?」
4人の男たちははた、と部屋の中を見回した。手洗いに立った多恵子と亀崎がまだ戻ってきていない。
「いや、亀のカバンはここに人質として確保してある。そう簡単には消えさせん」
ひそひそと話していると当の多恵子が部屋に戻ってきた。
「あれ、歌わないの?」
「多恵ちゃん、亀は?」
多恵子は不思議そうに首を傾げると、ああ、フロントのあたりで電話してたよ、と言った。
あー、可愛い優美ちゃんに言い訳電話してるんだな、と誰かが漏らす。亀崎がいないのをいいことに、4人が多恵子を取り囲んだ。
「で、多恵ちゃん。亀崎狙いって本当?」
「あいつ新婚だよ」
「嫁さん、面倒くさい子だからやめといた方がいいよ」
「田代さんが俺の方がいいって言ってますよ」
長岡が田代に頭をはたかれる。
多恵子は一瞬きょとんとして、大きな声で笑い始めた。
「やだ、そんなの知ってるって。可愛い新婚の奥さんでしょ。みんな言ってるし、不倫なんて面倒じゃない」
一同はほっとしたように笑うと、誰からともなく乾杯のグラスを差し出した。ちょうど、グラスを合わせたところへ亀崎が戻ってくる。
「あれ、俺がいない間に何乾杯してんの。何の乾杯?俺も入れてよ」
「日端ちゃんが今すぐ帰ってきてよーとか言ってたんじゃないの?」
亀崎は少し口を尖らせた。図星なのだろう。
「いいの。俺だってたまにはみんなととことん飲みたいし」
「よし、じゃあとことん飲むぞ。今日は無事帰れると思うなよ」
「帰しませんよ亀崎さん~」
勘弁してくれえ、という亀崎の悲鳴がボックス内にこだまする。すっかり出来上がった男たちは、時折多恵子が亀崎に向ける強い視線に気づくことは無かった。
亀崎の同期、田代が苦労の末多恵子を単独で誘い出すのに成功したのはそれから暫くしてからのことである。
「みんなの前ではふざけてるけど、俺本気だから」
これほど決死の覚悟で告白したのは高校生の頃以来だ。しかし多恵子は少し困ったような悲しそうな顔で笑った。
「ありがたいけど、本気なら尚更田代くんとは付き合えないよ」
「そんなの…付き合ってみなきゃどうなるかわからないだろ」
食い下がる田代を多恵子は掌で制した。
「……田代くん、前に私に亀崎狙いって本当?って聞いたでしょ。それ、ある意味当たってるわ」
くすっ。
定食屋で見るのとも、居酒屋で見るのとも、そして飲み会で見るのとも違う顔の女がそこで微笑んでいる。ちゃきちゃきの色気とは無縁の陽気な女だと思っていたのに、どこか妖艶にすら見えた。
「私、亀ちゃん狙ってるの。だから私に本気になっても無駄──」
軽く首を傾け、見上げるように笑う。
田代は自分の喉がごくりと音を立てるのを聞いた。
平日とはいえ、席はそこそこ埋まっている。
ママに促されて着いたテーブルでは、普段月2~3度のペースで来る常連のサラリーマンが若いホステスを困らせていた。
「いらっしゃいませ。どうしたの、なんだか荒れちゃって」
「あー、かのんちゃん~。会いたかったよ~。昨日も来たのにかのんちゃん休んでただろ~」
あらこの人、珍しく随分酔ってる。いつもは酔っ払ってもスマートに飲んでるタイプだったのに。それに、昨日と二日連続で来てたんだ。
佳音は溜息を隠してごめぇん、と甘えた声を出した。
亀崎辰彦が死んだ翌日は警察からほぼ一日中事情聴取をされていたので疲れてさすがに店は休ませてもらい、火曜日には店に顔を出した。
「かのんちゃん!もう出てきて大丈夫なの?」
ラウンジ『ラヴィアンローズ』のママは佳音の顔を見るなり慌てて駆け寄り、肩を掴んで心配そうに顔を覗きこむ。社交辞令でも野次馬根性でも、心配そうにされると少しほっとした。
佳音が亀崎と同棲していたことを知っているのは、この店ではママだけである。借金の件もあり、店の他のホステスにも知られないように頼んでいたのだ。そしていずれ判ることだしとママには亀崎が死んだことについて簡単に報告していた。
「無理せずに休んでても良かったのに。色々大変なんじゃないの」
「ありがとうママ。でも店に出てる方が気も紛れるし、大丈夫。お客さんの前で顔に出したりしないから」
佳音はにっこり笑って見せたが、たった1日で佳音はげっそり痩せたように見えた。とはいえ、亀崎の遺体はまだ司法解剖に回されたまま戻ってきていないので葬式も出せないし、図らずも亀崎が死んだとはいえ保険金が下りるとは限らない状況なのだからおちおち休んでもいられない。休んでいる間にも借金の利息は着々と増えていくのだ。
警察が自分をマークしていることは佳音も承知している。
これでもしも物的証拠も無いままに犯人にされてしまったら、ワイドショーで保険金殺人などと騒がれるのだろうな──他人事のように思った。
「昨日いなかったお詫びに嫌なことがあったんなら私がなんでも聞いてあげる」
嫌なことがあって一時でも忘れたいのは私の方。
今はこの客の話に集中しよう。
客は佳音の両手をとってぎゅっと握りしめ、聞いてくれる、と情けない声を出した。
「俺は陥れられたんだよう」
「あら、物騒ね。一体どうしたの」
「かのんちゃん、もう当分ここには来れないかも。急だけど俺、田舎の営業所にトバされることになっちゃってさ。もう駄目だ、出世も無いよ。春には部長になる筈だったのに、営業所の所長なんか名前だけで待遇は課長と一緒だもん」
ああ、まあ色々あるわねサラリーマンの世界は。心の中では少しも驚かないが、派手に驚いて、残念がってみせる。
「どうせ単身赴任だし、かのんちゃん連れてっちゃおうかなあ」
「その街にもきっと可愛い子はいるわよ。浮気し放題じゃない」
「浮気かぁ…」
男はしょんぼりと肩を落した。
「もう女は懲り懲りだよ。いや、こういうお店の女の子はある程度は弁えてるじゃん。素人の女の子になんか手を出すもんじゃないね」
昨日の朝会社に行ってみたら上司だの部下だの事務所のFAX宛に大量の怪文書メールやFAXが届いていたのだという。いや、社内だけならいい。取引先の会社にまで同様の怪文書はばら撒かれていた。同じ文面のFAXが大量に届き業務に支障が出た会社もあったらしい。
「そうなっちゃ会社も俺を処分しないわけにはいかないらしくてさ。それどころか嫁さんには離婚だってキレられるし」
「その浮気相手の素人の女の子がやったの?」
「そうとしか思えないよ。どうも俺と付き合ってたのが原因で派遣の契約を突然切られたらしくて、多分その腹いせだ。間違いない」
がっくりと肩を落す背中を優しく撫でながら、佳音の視線は冷ややかだった。
面倒な女にひっかかったものね。いい気になってあちこちに女作って浮気ばっかりしてるからそんな目に遭うんじゃない。いい気味。
男は暫くそうしてしょんぼりと俯いていたが、グラスの水割りをいきなりぐいっと干した。
「ちくしょう、あんなに可愛がってやったのに。うまいもん食わせて、ブランドもの買ってやって、嫁に内緒で旅行にも連れていってやったのに。あの女、ただじゃおかねえからな」
空になったグラスに慌てて水割りを作りながら佳音は苦笑し、もう三杉さんたら、と言った。
「そんな女のこと忘れちゃいなさいよ。仕返ししたって三杉さんが損するばっかりよ」
「うるさい!」
ぱりん、とグラスの割れた音。
佳音がテーブルに置こうとしたグラスに、三杉の振り上げた手が当たったのだ。
ざわついていた店内が一瞬しいんとした。
ぽたりぽたりと真紅の雫が落ちている。
「三杉さん、大丈夫?!」
三杉は顔色を無くしている。
佳音の白い掌から血がぼたぼたと零れ落ちていた。淡い紫のドレスにその血が染みてゆく。
「ここはあたしが片付けるからかのんさん早く手当てして下さい!」
ヘルプの若いホステスが慌てている。当の佳音は落ち着いて立ち上がり、三杉さんは怪我していない?と確認してごめんなさい、ちょっと失礼しますねとあくまでも平静にその場を後にした。
思ったより深いかも。
あんまり痛みを感じないし。
店の奥の厨房でまずは血を洗い流しながらぼんやりと思った。お運びのボーイ、ユウヤが救急箱を持って駆けつけてきた。
「とりあえず消毒して包帯巻きますけど、救急病院でいいから今から行った方がいいですよ。お酒も入ってるから多分出血は多いし、縫った方がいいかもしれないし」
ありがとう、と呟くように言いながら、なおも流れる血をみつめる。
辰彦は頭を打った時、痛かったのかな。
意識はいつまであったんだろう。
「大丈夫ですか?僕も一緒に病院行きましょうか?」
ユウヤがタクシーを呼んでくれたが、そこまででいいと笑顔で送り返す。これ以上店には迷惑かけられない。タクシーが到着するのが見えたのでそちらへ足を進めたと同時に、ビルの陰から素早い動きで男が一人駆け寄ってきた。心臓を掴まれたような気がして息が止まる。
「大槻───」
「よ。なんだこの怪我」
「関係ないでしょ」
佳音が警察にマークされていることくらいこの男も判っている筈だ。なのに大胆なのか馬鹿なのか。大槻は笑いながら佳音の顔を舐めるように見回した。
「それよりお前、うまくやったな」
にやにや顔を思い切りひっぱたく。怪我をした方の手では勿論ないが、その衝撃で傷口がじくりと痛んだ。
「───あんたが」
頭に血が上る。胸を打っているのは警戒を呼びかける早鐘か。
「あんたがやったんでしょ?!あんたが辰彦を───」
「おいおい、濡れ衣だよ。そりゃ亀ちゃんが死んだ方が俺には都合がいいけど……なんだ、お前がやったんじゃねえのか。つまんねえ」
鼓動と掌の痛みがリンクするようにどくどくと脈打っている。
「あんたしかいないじゃないよ!他の誰が辰彦殺して得するってのよ!」
「あいつが死んで一番得すんのはお前だよ、かのん」
ぎくり、と動きが止まった。
「そうだろ?あいつの保険金はお前の借金がチャラになる額はある。そしたら残りはお前のもんだし水商売は続けたとしてもちゃんと自分の金にならあな。あいつがいなきゃいいパパ掴んで店出してもらうことだって出来る。いいことだらけだ。だからサツはおまえを疑ってんだろ」
「───」
「こっちも叩けばホコリがわんさか出る体だが、亀崎やったのはウチのもんじゃねえよ。俺にはアリバイもあるしな」
大槻は佳音の腰を抱くように停まって待機しているタクシーの前に誘導した。いやに手つきが優しい。
「あいつがドジふんで勝手にくたばったって事になりゃ万々歳だがな。当分俺はここには来ねえが、うちの若いのがお前のことはずっと張ってるから逃げられると思うなよ」
押し込むように佳音をタクシーに乗せると大槻はへらへらと笑いながら後ずさっていった。
タクシーのドアが閉まると、大槻の姿は再びビル陰へと消えていく。それを呆然と見送る。
「救急病院でいいんですか?」
タクシーの運転手の声に、ぼんやり頷いた。
辰彦が死んで、一番得をするのは私。
倒れていた辰彦は、どんな顔をしていたんだっけ?
まぶたの裏に焼きつくくらい強烈な光景だったのに、思い出そうと追いかけると霧散してしまう。
ぼんやり眺める窓の外の景色が目の中で滲んだ。
この程度の出血じゃ人は死ねないのかな。
ねえ辰彦、私もう疲れたよ。
私も辰彦んとこ行きたいよ。
あれからろくに眠れていない。
蓄積した疲れと酒と出血と、大槻と話して興奮したせいで頭がぐらぐらする。
車にも酔っているのかもしれない。
掌の傷がようやく激しい痛みを主張し始めて、それがかろうじて佳音の意識を繋ぎとめている。
運転手の愛想のない声がどこか遠くの方で聞こえた。
「お客さん、怪我大丈夫なの?シート汚さないでね」
水曜───
朝から日端優美の実家を訪ねてみたが、電話と同じで案の定母親によって優美との面談は拒絶された。事情聴取は当然任意なので、引き下がるしかない。
玄関先で応対する母親に亀崎辰彦について尋ねてはみたものの、この母親は娘の夫だった男を良くは思っていなかったらしく、ろくな返事が返ってこなかった。
その足元にじゃれつく幼い子供が印象に残った。
あれが亀崎の子供か。
紺野祐二はそれでも落ち着いたら連絡下さい、と言い残し日端家を後にした。
立派な日本家屋。家は代々医者らしく、父親も開業医である。優美には少し年の離れた兄がおり、その兄も大学病院に勤める医師で近々父の病院を継ぐ予定で勤務先の病院は退職することになっているという。
「それでめちゃくちゃ甘やかされて育ったわけですね、日端優美は」
紺野の後輩で同じ刑事課の鈴木は、ブランコの鎖をきい、と鳴らしてそれに跨るように乗った。子供用のサイズなので普通には座れない。
第三者の関与が濃厚と見られた段階で、他の案件に携わっていない他の刑事も回してもらうことが出来たのは助かった。この捜査を高山と若干名の地域課の制服警官の応援だけで進めるのはさすがに無理がある。
「ぱっと見はすごく可愛い子だったよ。あれで馬鹿な男どもが騙されて女からは反感買うわけか」
日端優美は紺野よりも年上である。しかし「子」という表現しかしようがない気がしていた。
あれが母親なんだもんなあ。
紺野は自分の母親を思い浮かべ、その差に苦笑いした。
ブランコ脇の金属の柵に腰掛けてパンを齧ると、片手で胸から手帳を取り出してページをめくる。
「午後から日端の勤務先の会社な。やれやれ、高山さんは何やってんだか」
「暴対の坂田さんとどっか出かけるとか。杉野の借金してたマチキンの関係じゃないですか」
そう言えば昨夜、杉野に大槻が接触したと杉野を張り込んでいた者から報告を受けている。
そっちは任すか、と呟いて紙パックのコーヒー牛乳を吸い込んだ。ずずずと音がする。
「で例の笹中多恵子の住処はまだわかんないんだよなあ」
亀崎をストーキングしていたと思われる女、笹中多恵子は勤めていた居酒屋を1年半ほど前に退職し住んでいた部屋も引き払っていた。住民票はその時のまま。
居酒屋『どんどん』の店主から写真を提供してもらうことは出来たが、客と記念写真の体なのでごく小さい。
杉野佳音によれば、少なくとも杉野が気づく範囲では亀崎が誰かからストーキングされている様子は見られなかったという。だとすれば笹中多恵子がストーカーだったのが事実だったとして日端優美と結婚していた時期に限定される可能性が高い。笹中が『どんどん』に勤め始めたのは亀崎が須郷友香と離婚する少し前。須郷にももう一度確認した方がいいかもしれない。
「やっぱ、日端に聞かなきゃ話は始まらないなあ」
とりあえず外堀から埋めてくか。
コンビニの袋からアーモンドチョコを取り出してパンの空袋とコーヒー牛乳の紙パックを入れる。くしゃっと丸めるとゴミ箱に投げ込んだ。
「鈴木、日端の会社行く前に日端のマンションに寄って監視カメラ映像借りていこう。あの豪勢な分譲マンションだから確実にある筈だ」
日端優美の勤めていた会社の受付嬢はにこやかに言い放った。
「日端は先週金曜日付けで派遣の契約を解除しておりますが」
「ああ……そうなんですか。では当時の上司の方や同僚の方にお話を伺いたいのですが」
「大変申し訳ありません。日端の勤務しておりました部署は只今大変立て込んでおりまして、管理職は会議に入っております。生憎現在応対出来る者がおりません」
受付嬢には罪は無いが、つい舌打ちしたい気分になった。
そこへ、背広のビジネスマン3人組が血相を変えて───とはこのことだと紺野は思った───紺野たちを押しのけ、受付嬢に詰め寄った。
「おいあんた、素材課の三杉とか言う課長出してもらおうか。素材部の部長でもいい」
「三杉は本日付で異動になりまして、素材部は只今たいへん立て込んで───」
「判ってる!電話じゃ埒がないからわざわざ来たんだ!入るぞ!」
「お客様、お待ち下さい!」
受付嬢と警備員が慌てて無頼の来客を押し留めようとしている。
「ほんとに立て込んでるみたいっすね。素材課って日端が勤めてた部署でしょ」
鈴木の耳打ちに小さく頷くと、紺野は受付嬢に向かって日を改めます、と大声で呼びかけ、この場を後にした。これじゃあ確かに落ち着いて聞き込みなど出来るわけがない。
ロビーを出ようとした時、その隅で床を拭いている清掃員を発見した。受付嬢に見つからないようにそれに近づき、声をかける。
「梓条署の紺野といいますが、今素材課で何か起こってるんですか?」
清掃員の制服のキャップを目深にかぶった、中年に差し掛かったような疲れた顔の女はさあ…と首を傾げ、それから「あ」と小さく声を上げた。
「『怪文書』かなんかが大量に届いたみたいですよ。派遣の女の子とここの課長さんか誰かが不倫してるとかそういうスキャンダル系の」
派遣の女の子───
それは、日端優美のことではないのか。
さらに質問を続けようとすると女は慌てて後ずさった。
「いけない、こんなこと喋ったってバレたらくびになってしまいます。もう勘弁して下さい。今の、私が言ったって誰にも内緒にして下さいね」
女はそれだけ早口で言うとぺこぺこと何度か頭を下げてビルの奥へと撤収していった。
なんだろう。
何かが───
喉に刺さった魚の小骨のように痛痒い。
紺野は微かに目を眇めもう一度清掃員の消えた関係者口をちらりと見ると、ロビーを後にした。
四輪の薔薇 |1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|
禁無断複製・転載(C)Senka.yamashina
鈴(りん)の残響が消えるまで、多恵子はじっと手を合わせて目を閉じていた。耳に残る音がいつまでも消えない気がして、どれくらいそうしていただろう。ふう、とひとつ息を吐くとようやく多恵子は合掌を解き、その手を膝に置いて顔を上げた。小さなテーブルの上に祀られた写真をじっと見つめると小さく呟く。
「遼平、殺しちゃったよ。あのひと」
ほんと馬鹿だよねえ、と自嘲するような笑いを微かにこぼす。
「ねえ遼平、私、これからどうすればいい?」
写真の中の男が返事をするわけもなく、多恵子は小さく苦笑した。写真の脇には仏花の代わりの黄色い薔薇がグラスに挿してある。
多恵子は立ち上がって台所へ行くと夕食の用意を始めた。
こんなに何も無いのに、なんでお腹だけは減るんだろう。自分のためだけに食事を作るのって、なんて虚しい。それなのに食べずにはいられない。
なんで私、生きてるんだろう。
自分がこうして生きていることが何故か滑稽に思えて、多恵子はまた苦笑した。
笹中多恵子は亀崎辰彦の勤めていた会社の隣のビルにある居酒屋『どんどん』で働いていた。昼は定食屋、夜は居酒屋として営業していたので亀崎やその同僚も日常的に利用していた店である。
そう若くもないしずば抜けて美人というわけではないが、愛想が良いので常連たちからは多恵ちゃん多恵ちゃんと可愛がられていた。中にはデートに誘う強者もいたらしい。しかし大抵はやんわりと断られ、最後には大将のイエローカードが出てお誘いは断念させられていた。
多恵ちゃんは家でダンナと幼い子供が待ってるから身持ちが堅い、などと根拠の無い噂も流れていたものである。本人は一言も結婚しているとも子供がいるとも言っていないのに。
そんな多恵子がごくたまにそういう「お誘い」にのってくることがある。営業部の何人かが集まって『どんどん』に繰り出したあと、二次会がてらどこかへ行こうという話になった時だ。
「多恵ちゃん、どうも亀狙いらしいぞ」
誰かがそう言いはじめたのは、営業の飲み会に限って多恵子がついてくるようになって3度目のことだった。
カラオケボックスで営業の男4人が顔を突き合わせていた。
ビールや焼酎のグラスがテーブルの上に散乱している。一番後輩の長岡が歌いかけの流行りの歌を放り出してくいついた。
「え、亀崎さんて新婚でしょ」
「それも二回目の新婚、な」
「くそー、なんであいつばっかモテるんだ。頭くんなあ」
「田代さんは日端ちゃんも狙っててさらわれたんですもんねー。恨み積もりますよねー」
「でも多恵ちゃんもダンナがいるんじゃなかったっけか」
「あ、あれガセらしいぞ。一緒に住んでるのはダンナじゃなくて弟だってよ」
「ええー、弟って名のオトコじゃないんですかー」
「てーかあいつら消えてね?」
4人の男たちははた、と部屋の中を見回した。手洗いに立った多恵子と亀崎がまだ戻ってきていない。
「いや、亀のカバンはここに人質として確保してある。そう簡単には消えさせん」
ひそひそと話していると当の多恵子が部屋に戻ってきた。
「あれ、歌わないの?」
「多恵ちゃん、亀は?」
多恵子は不思議そうに首を傾げると、ああ、フロントのあたりで電話してたよ、と言った。
あー、可愛い優美ちゃんに言い訳電話してるんだな、と誰かが漏らす。亀崎がいないのをいいことに、4人が多恵子を取り囲んだ。
「で、多恵ちゃん。亀崎狙いって本当?」
「あいつ新婚だよ」
「嫁さん、面倒くさい子だからやめといた方がいいよ」
「田代さんが俺の方がいいって言ってますよ」
長岡が田代に頭をはたかれる。
多恵子は一瞬きょとんとして、大きな声で笑い始めた。
「やだ、そんなの知ってるって。可愛い新婚の奥さんでしょ。みんな言ってるし、不倫なんて面倒じゃない」
一同はほっとしたように笑うと、誰からともなく乾杯のグラスを差し出した。ちょうど、グラスを合わせたところへ亀崎が戻ってくる。
「あれ、俺がいない間に何乾杯してんの。何の乾杯?俺も入れてよ」
「日端ちゃんが今すぐ帰ってきてよーとか言ってたんじゃないの?」
亀崎は少し口を尖らせた。図星なのだろう。
「いいの。俺だってたまにはみんなととことん飲みたいし」
「よし、じゃあとことん飲むぞ。今日は無事帰れると思うなよ」
「帰しませんよ亀崎さん~」
勘弁してくれえ、という亀崎の悲鳴がボックス内にこだまする。すっかり出来上がった男たちは、時折多恵子が亀崎に向ける強い視線に気づくことは無かった。
亀崎の同期、田代が苦労の末多恵子を単独で誘い出すのに成功したのはそれから暫くしてからのことである。
「みんなの前ではふざけてるけど、俺本気だから」
これほど決死の覚悟で告白したのは高校生の頃以来だ。しかし多恵子は少し困ったような悲しそうな顔で笑った。
「ありがたいけど、本気なら尚更田代くんとは付き合えないよ」
「そんなの…付き合ってみなきゃどうなるかわからないだろ」
食い下がる田代を多恵子は掌で制した。
「……田代くん、前に私に亀崎狙いって本当?って聞いたでしょ。それ、ある意味当たってるわ」
くすっ。
定食屋で見るのとも、居酒屋で見るのとも、そして飲み会で見るのとも違う顔の女がそこで微笑んでいる。ちゃきちゃきの色気とは無縁の陽気な女だと思っていたのに、どこか妖艶にすら見えた。
「私、亀ちゃん狙ってるの。だから私に本気になっても無駄──」
軽く首を傾け、見上げるように笑う。
田代は自分の喉がごくりと音を立てるのを聞いた。
平日とはいえ、席はそこそこ埋まっている。
ママに促されて着いたテーブルでは、普段月2~3度のペースで来る常連のサラリーマンが若いホステスを困らせていた。
「いらっしゃいませ。どうしたの、なんだか荒れちゃって」
「あー、かのんちゃん~。会いたかったよ~。昨日も来たのにかのんちゃん休んでただろ~」
あらこの人、珍しく随分酔ってる。いつもは酔っ払ってもスマートに飲んでるタイプだったのに。それに、昨日と二日連続で来てたんだ。
佳音は溜息を隠してごめぇん、と甘えた声を出した。
亀崎辰彦が死んだ翌日は警察からほぼ一日中事情聴取をされていたので疲れてさすがに店は休ませてもらい、火曜日には店に顔を出した。
「かのんちゃん!もう出てきて大丈夫なの?」
ラウンジ『ラヴィアンローズ』のママは佳音の顔を見るなり慌てて駆け寄り、肩を掴んで心配そうに顔を覗きこむ。社交辞令でも野次馬根性でも、心配そうにされると少しほっとした。
佳音が亀崎と同棲していたことを知っているのは、この店ではママだけである。借金の件もあり、店の他のホステスにも知られないように頼んでいたのだ。そしていずれ判ることだしとママには亀崎が死んだことについて簡単に報告していた。
「無理せずに休んでても良かったのに。色々大変なんじゃないの」
「ありがとうママ。でも店に出てる方が気も紛れるし、大丈夫。お客さんの前で顔に出したりしないから」
佳音はにっこり笑って見せたが、たった1日で佳音はげっそり痩せたように見えた。とはいえ、亀崎の遺体はまだ司法解剖に回されたまま戻ってきていないので葬式も出せないし、図らずも亀崎が死んだとはいえ保険金が下りるとは限らない状況なのだからおちおち休んでもいられない。休んでいる間にも借金の利息は着々と増えていくのだ。
警察が自分をマークしていることは佳音も承知している。
これでもしも物的証拠も無いままに犯人にされてしまったら、ワイドショーで保険金殺人などと騒がれるのだろうな──他人事のように思った。
「昨日いなかったお詫びに嫌なことがあったんなら私がなんでも聞いてあげる」
嫌なことがあって一時でも忘れたいのは私の方。
今はこの客の話に集中しよう。
客は佳音の両手をとってぎゅっと握りしめ、聞いてくれる、と情けない声を出した。
「俺は陥れられたんだよう」
「あら、物騒ね。一体どうしたの」
「かのんちゃん、もう当分ここには来れないかも。急だけど俺、田舎の営業所にトバされることになっちゃってさ。もう駄目だ、出世も無いよ。春には部長になる筈だったのに、営業所の所長なんか名前だけで待遇は課長と一緒だもん」
ああ、まあ色々あるわねサラリーマンの世界は。心の中では少しも驚かないが、派手に驚いて、残念がってみせる。
「どうせ単身赴任だし、かのんちゃん連れてっちゃおうかなあ」
「その街にもきっと可愛い子はいるわよ。浮気し放題じゃない」
「浮気かぁ…」
男はしょんぼりと肩を落した。
「もう女は懲り懲りだよ。いや、こういうお店の女の子はある程度は弁えてるじゃん。素人の女の子になんか手を出すもんじゃないね」
昨日の朝会社に行ってみたら上司だの部下だの事務所のFAX宛に大量の怪文書メールやFAXが届いていたのだという。いや、社内だけならいい。取引先の会社にまで同様の怪文書はばら撒かれていた。同じ文面のFAXが大量に届き業務に支障が出た会社もあったらしい。
「そうなっちゃ会社も俺を処分しないわけにはいかないらしくてさ。それどころか嫁さんには離婚だってキレられるし」
「その浮気相手の素人の女の子がやったの?」
「そうとしか思えないよ。どうも俺と付き合ってたのが原因で派遣の契約を突然切られたらしくて、多分その腹いせだ。間違いない」
がっくりと肩を落す背中を優しく撫でながら、佳音の視線は冷ややかだった。
面倒な女にひっかかったものね。いい気になってあちこちに女作って浮気ばっかりしてるからそんな目に遭うんじゃない。いい気味。
男は暫くそうしてしょんぼりと俯いていたが、グラスの水割りをいきなりぐいっと干した。
「ちくしょう、あんなに可愛がってやったのに。うまいもん食わせて、ブランドもの買ってやって、嫁に内緒で旅行にも連れていってやったのに。あの女、ただじゃおかねえからな」
空になったグラスに慌てて水割りを作りながら佳音は苦笑し、もう三杉さんたら、と言った。
「そんな女のこと忘れちゃいなさいよ。仕返ししたって三杉さんが損するばっかりよ」
「うるさい!」
ぱりん、とグラスの割れた音。
佳音がテーブルに置こうとしたグラスに、三杉の振り上げた手が当たったのだ。
ざわついていた店内が一瞬しいんとした。
ぽたりぽたりと真紅の雫が落ちている。
「三杉さん、大丈夫?!」
三杉は顔色を無くしている。
佳音の白い掌から血がぼたぼたと零れ落ちていた。淡い紫のドレスにその血が染みてゆく。
「ここはあたしが片付けるからかのんさん早く手当てして下さい!」
ヘルプの若いホステスが慌てている。当の佳音は落ち着いて立ち上がり、三杉さんは怪我していない?と確認してごめんなさい、ちょっと失礼しますねとあくまでも平静にその場を後にした。
思ったより深いかも。
あんまり痛みを感じないし。
店の奥の厨房でまずは血を洗い流しながらぼんやりと思った。お運びのボーイ、ユウヤが救急箱を持って駆けつけてきた。
「とりあえず消毒して包帯巻きますけど、救急病院でいいから今から行った方がいいですよ。お酒も入ってるから多分出血は多いし、縫った方がいいかもしれないし」
ありがとう、と呟くように言いながら、なおも流れる血をみつめる。
辰彦は頭を打った時、痛かったのかな。
意識はいつまであったんだろう。
「大丈夫ですか?僕も一緒に病院行きましょうか?」
ユウヤがタクシーを呼んでくれたが、そこまででいいと笑顔で送り返す。これ以上店には迷惑かけられない。タクシーが到着するのが見えたのでそちらへ足を進めたと同時に、ビルの陰から素早い動きで男が一人駆け寄ってきた。心臓を掴まれたような気がして息が止まる。
「大槻───」
「よ。なんだこの怪我」
「関係ないでしょ」
佳音が警察にマークされていることくらいこの男も判っている筈だ。なのに大胆なのか馬鹿なのか。大槻は笑いながら佳音の顔を舐めるように見回した。
「それよりお前、うまくやったな」
にやにや顔を思い切りひっぱたく。怪我をした方の手では勿論ないが、その衝撃で傷口がじくりと痛んだ。
「───あんたが」
頭に血が上る。胸を打っているのは警戒を呼びかける早鐘か。
「あんたがやったんでしょ?!あんたが辰彦を───」
「おいおい、濡れ衣だよ。そりゃ亀ちゃんが死んだ方が俺には都合がいいけど……なんだ、お前がやったんじゃねえのか。つまんねえ」
鼓動と掌の痛みがリンクするようにどくどくと脈打っている。
「あんたしかいないじゃないよ!他の誰が辰彦殺して得するってのよ!」
「あいつが死んで一番得すんのはお前だよ、かのん」
ぎくり、と動きが止まった。
「そうだろ?あいつの保険金はお前の借金がチャラになる額はある。そしたら残りはお前のもんだし水商売は続けたとしてもちゃんと自分の金にならあな。あいつがいなきゃいいパパ掴んで店出してもらうことだって出来る。いいことだらけだ。だからサツはおまえを疑ってんだろ」
「───」
「こっちも叩けばホコリがわんさか出る体だが、亀崎やったのはウチのもんじゃねえよ。俺にはアリバイもあるしな」
大槻は佳音の腰を抱くように停まって待機しているタクシーの前に誘導した。いやに手つきが優しい。
「あいつがドジふんで勝手にくたばったって事になりゃ万々歳だがな。当分俺はここには来ねえが、うちの若いのがお前のことはずっと張ってるから逃げられると思うなよ」
押し込むように佳音をタクシーに乗せると大槻はへらへらと笑いながら後ずさっていった。
タクシーのドアが閉まると、大槻の姿は再びビル陰へと消えていく。それを呆然と見送る。
「救急病院でいいんですか?」
タクシーの運転手の声に、ぼんやり頷いた。
辰彦が死んで、一番得をするのは私。
倒れていた辰彦は、どんな顔をしていたんだっけ?
まぶたの裏に焼きつくくらい強烈な光景だったのに、思い出そうと追いかけると霧散してしまう。
ぼんやり眺める窓の外の景色が目の中で滲んだ。
この程度の出血じゃ人は死ねないのかな。
ねえ辰彦、私もう疲れたよ。
私も辰彦んとこ行きたいよ。
あれからろくに眠れていない。
蓄積した疲れと酒と出血と、大槻と話して興奮したせいで頭がぐらぐらする。
車にも酔っているのかもしれない。
掌の傷がようやく激しい痛みを主張し始めて、それがかろうじて佳音の意識を繋ぎとめている。
運転手の愛想のない声がどこか遠くの方で聞こえた。
「お客さん、怪我大丈夫なの?シート汚さないでね」
水曜───
朝から日端優美の実家を訪ねてみたが、電話と同じで案の定母親によって優美との面談は拒絶された。事情聴取は当然任意なので、引き下がるしかない。
玄関先で応対する母親に亀崎辰彦について尋ねてはみたものの、この母親は娘の夫だった男を良くは思っていなかったらしく、ろくな返事が返ってこなかった。
その足元にじゃれつく幼い子供が印象に残った。
あれが亀崎の子供か。
紺野祐二はそれでも落ち着いたら連絡下さい、と言い残し日端家を後にした。
立派な日本家屋。家は代々医者らしく、父親も開業医である。優美には少し年の離れた兄がおり、その兄も大学病院に勤める医師で近々父の病院を継ぐ予定で勤務先の病院は退職することになっているという。
「それでめちゃくちゃ甘やかされて育ったわけですね、日端優美は」
紺野の後輩で同じ刑事課の鈴木は、ブランコの鎖をきい、と鳴らしてそれに跨るように乗った。子供用のサイズなので普通には座れない。
第三者の関与が濃厚と見られた段階で、他の案件に携わっていない他の刑事も回してもらうことが出来たのは助かった。この捜査を高山と若干名の地域課の制服警官の応援だけで進めるのはさすがに無理がある。
「ぱっと見はすごく可愛い子だったよ。あれで馬鹿な男どもが騙されて女からは反感買うわけか」
日端優美は紺野よりも年上である。しかし「子」という表現しかしようがない気がしていた。
あれが母親なんだもんなあ。
紺野は自分の母親を思い浮かべ、その差に苦笑いした。
ブランコ脇の金属の柵に腰掛けてパンを齧ると、片手で胸から手帳を取り出してページをめくる。
「午後から日端の勤務先の会社な。やれやれ、高山さんは何やってんだか」
「暴対の坂田さんとどっか出かけるとか。杉野の借金してたマチキンの関係じゃないですか」
そう言えば昨夜、杉野に大槻が接触したと杉野を張り込んでいた者から報告を受けている。
そっちは任すか、と呟いて紙パックのコーヒー牛乳を吸い込んだ。ずずずと音がする。
「で例の笹中多恵子の住処はまだわかんないんだよなあ」
亀崎をストーキングしていたと思われる女、笹中多恵子は勤めていた居酒屋を1年半ほど前に退職し住んでいた部屋も引き払っていた。住民票はその時のまま。
居酒屋『どんどん』の店主から写真を提供してもらうことは出来たが、客と記念写真の体なのでごく小さい。
杉野佳音によれば、少なくとも杉野が気づく範囲では亀崎が誰かからストーキングされている様子は見られなかったという。だとすれば笹中多恵子がストーカーだったのが事実だったとして日端優美と結婚していた時期に限定される可能性が高い。笹中が『どんどん』に勤め始めたのは亀崎が須郷友香と離婚する少し前。須郷にももう一度確認した方がいいかもしれない。
「やっぱ、日端に聞かなきゃ話は始まらないなあ」
とりあえず外堀から埋めてくか。
コンビニの袋からアーモンドチョコを取り出してパンの空袋とコーヒー牛乳の紙パックを入れる。くしゃっと丸めるとゴミ箱に投げ込んだ。
「鈴木、日端の会社行く前に日端のマンションに寄って監視カメラ映像借りていこう。あの豪勢な分譲マンションだから確実にある筈だ」
日端優美の勤めていた会社の受付嬢はにこやかに言い放った。
「日端は先週金曜日付けで派遣の契約を解除しておりますが」
「ああ……そうなんですか。では当時の上司の方や同僚の方にお話を伺いたいのですが」
「大変申し訳ありません。日端の勤務しておりました部署は只今大変立て込んでおりまして、管理職は会議に入っております。生憎現在応対出来る者がおりません」
受付嬢には罪は無いが、つい舌打ちしたい気分になった。
そこへ、背広のビジネスマン3人組が血相を変えて───とはこのことだと紺野は思った───紺野たちを押しのけ、受付嬢に詰め寄った。
「おいあんた、素材課の三杉とか言う課長出してもらおうか。素材部の部長でもいい」
「三杉は本日付で異動になりまして、素材部は只今たいへん立て込んで───」
「判ってる!電話じゃ埒がないからわざわざ来たんだ!入るぞ!」
「お客様、お待ち下さい!」
受付嬢と警備員が慌てて無頼の来客を押し留めようとしている。
「ほんとに立て込んでるみたいっすね。素材課って日端が勤めてた部署でしょ」
鈴木の耳打ちに小さく頷くと、紺野は受付嬢に向かって日を改めます、と大声で呼びかけ、この場を後にした。これじゃあ確かに落ち着いて聞き込みなど出来るわけがない。
ロビーを出ようとした時、その隅で床を拭いている清掃員を発見した。受付嬢に見つからないようにそれに近づき、声をかける。
「梓条署の紺野といいますが、今素材課で何か起こってるんですか?」
清掃員の制服のキャップを目深にかぶった、中年に差し掛かったような疲れた顔の女はさあ…と首を傾げ、それから「あ」と小さく声を上げた。
「『怪文書』かなんかが大量に届いたみたいですよ。派遣の女の子とここの課長さんか誰かが不倫してるとかそういうスキャンダル系の」
派遣の女の子───
それは、日端優美のことではないのか。
さらに質問を続けようとすると女は慌てて後ずさった。
「いけない、こんなこと喋ったってバレたらくびになってしまいます。もう勘弁して下さい。今の、私が言ったって誰にも内緒にして下さいね」
女はそれだけ早口で言うとぺこぺこと何度か頭を下げてビルの奥へと撤収していった。
なんだろう。
何かが───
喉に刺さった魚の小骨のように痛痒い。
紺野は微かに目を眇めもう一度清掃員の消えた関係者口をちらりと見ると、ロビーを後にした。
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