おまえひとりが、美しいままで───
楳図かずおの漫画というと、よくよく考えてみたら「まことちゃん」くらいしか読んだことがないことに今更気づいた。
昔から身近にあったような気がするのだけど…
私の幼い頃、我が家にはなぜか古賀新一の「白へび館」という漫画の1巻のみ(全2巻なのになぜか1巻のみなので結末がわからない)があって、子ども心に怖いくせに何度も読み返して本がボロボロになった覚えがある。
楳図かずおの最盛期は多分その頃で、漫画単行本の巻末にあった他の作品のCMでバカほど見かけたせいかもしれない。楳図かずおの作品群を調べてみると、タイトルだけはよく知っているのに読んだことのない作品ばかりだ。
小学生になって先述の古賀新一の「エコエコアザラク」や学校で妙に流行った日野日出志の「まだらの卵」を背筋をぞくぞくさせながら読んでいてあまりの怖さにわざわざ恐怖まんがなんか読まないやい!と思ったせいか、その後名作と呼ばれる古い漫画を漁って読んだ時にもこのジャンルには手を出さなかった。
というわけで、この映画の原作である「おろち」も読んでいない。
「おろち」◆監督:鶴田法男◆脚本:高橋洋◆出演:木村佳乃、中越典子、谷村美月、山本太郎、嶋田久作
《あらすじ》100年に一度、永い眠りに就くことによって不老不死の体を保ち、人の世を彷徨い続ける謎の美少女“おろち”(谷村美月)。行く先々で起こる悲劇や惨劇を、時に自らの不思議な力を介入させつつ、彼女は見つめ続ける――。おろちが家政婦として潜り込んだ門前家には、2人の美しい姉妹、長女の一草(木村佳乃)と次女の理沙(中越典子)がいた。誰よりも美しく生まれるが、29歳を過ぎる頃には突然美貌が崩れ、果ては化け物のように醜く死んでいくという彼女たち。ある日、理紗は死にゆく母親の口から、もう一つの門前家の秘密を打ち明けられる…。楳図かずお原作の同名漫画より「姉妹」、「血」というエピソードを基に描かれる怪奇ミステリー。女性の美醜への執着が、美しい姉妹を恐怖と悲劇へと導いていく…。(cinemacafe.net)
公式サイト
映画を見終わった後に、この「おろち」について調べると2つのエピソードを融合させて映画のストーリーに仕上げたという。
なるほど、「姉妹」と「血」はどちらも姉妹の確執をテーマにしているらしいので融合させやすかったのだろう。
もとは2つのエピソードとは思えないほど自然にまとまっていたと思う。
美しい母。
美しい姉妹。
原作のあらすじを見たところ、女優という設定はおそらく映画オリジナルなのだろう。
女優という属性を追加することによって彼女たちの「美しさ」は自己評価や家族内での評価やローカルで評判になるレベルでなく、一般の賞賛や崇拝の対象になるというステイタスを持つ。彼女たちが「美しさ」と「醜さ」に固執する説得力がより増したのではないだろうか。
原因も治療法もわからないが、この血筋の女は29歳を過ぎるとその美しさを失う運命にある。最初は小さな吹き出物のようなものからやがてそれは全身を覆いつくし、やがて精神をも蝕むのだろう。
それが遺伝性の病気なのか、あるいは呪いのようなものなのかは明かされない。
原因はどうあれ、門前家の血を引く女は、必ず逃れられない運命だとされる。
執事はかつて門前葵の母親の主治医で、彼女を救う為に手を尽くしたが防ぐことが出来なかった───と語られている。古い時代には祈祷などに頼ってみた者もいたかもしれない。
運命に抗おうとした者もいたが徒労に終わったことで、この運命に囚われた葵や一草・理沙姉妹の絶望が際立つ。
旧作ですがネタバレしますので注意を。
20年後、「それ」を間近に控えて怯えながら寄り添っていた姉妹に訪れた岐路。
二人でそれを迎えるのだと覚悟していたのに、片方だけがそれから逃れられると判った時。
恐怖を慰めあってバランスを保っていた二人の関係が一気に崩れる。
おまえだけが美しいままだなんて───
母の今際の告白を聞いていたのは理沙だけ。
「理沙は門前家の娘ではない」
最後にそれは理沙の嘘で門前家の血を引いていないのは一草の方だったということがわかるのだが、では何故理沙はそんな嘘をついたのだろう。
理沙は一草を最初から妬んでいたのだろうか。
幼い頃は自分の方が歌が上手で母に愛されていると思っていた。
けれど、成長するにつれ母のように女優として才能を発揮し世間の賞賛を受ける立場になった姉。自分はその付き人状態。それを、姉に尽くしているように振る舞いながら忸怩たる思いでいたのか。
そして母から真実を告げられた時、母が愛していたのは「自分の血を引いていない」一草の方だったと確信したのかもしれない。
門前家の娘として、やがて自分と同じ運命を辿るであろう理沙を哀れんで慈しむよりも、その呪いを引き継がないだろう一草の方を後継者として───
真実をそのまま一草に告げて、一草が理沙にそうしたように理沙が一草に暴行を働く道もあった筈だ。多分、一草は逆らえない。
けれど理沙に凝っていたのはもっと執拗な悪意。
一時の感情に囚われて一草を殴る蹴るしたところで運命は変わらない。
一草が美しいままで自分が醜くなることは逃れることが出来ない。
それならば、一草もまた醜くなって女優なんて華やかな世界には住めなくなってしまえばいい。
自分の絶望を隠して一草に同じ絶望を味わわせる。
たとえ殴る蹴るされてもそれが永遠に続くわけがない。
やがて、絶望が限界を超えた一草は自らの顔を火箸で焼き、自分の手でその美しさを手放してしまう。ずっと美しかったはずの顔を。
理沙はその行動まで見越して嘘をついたのだろうか?
醜く生き残るよりも自ら命を絶つことは考えなかったのだろうか?
理沙は自分ならどうするかを考えたのかもしれない。
誰よりも一草を知っているからこそ、どうすれば一草が最も絶望するかを考え抜いた末だったのかも。
「血を入替えればなんとかなるかも」と術を施した理沙。
最初にその術を弄して佳子を引き入れた時には理沙もまだ真実を知らなかった。
理沙と一草、二人で蜘蛛の糸のような希望を掴むつもりでいたのだろうか。
そして、一草にはもともと意味の無いことだと知りながら「自分が助かるために」それを実行した。
理沙自身が言ったように、その頃には理沙は一草の気持ちと同化してしまっていてまるで一草にその術を施せば自分が助かるように錯覚していたのか。
それとも、一草の絶望をさらに決定的にするために?
一草が自らの顔を焼いたことでようやく本懐を遂げたように真実を語る理沙。
一緒に醜くなって一緒にいましょう、姉さん。
だってあたしたち、ずっと一緒だったじゃない。
そんな台詞はなかったけれど、まるでそんな理沙の声が聞こえてくるような結末だった。
ただの妬みや恨みだけではない、切っても切れない絆。
それはグロテスクに変形して崩れてしまった愛情の名残なのかもしれない。
非常によくできた物語でした。
しかし「おろち」のファンの方には申し訳ないのだけど、「おろち」の存在そのものが少し浮いた状態になってしまっていたのが残念。
もちろん、「おろち」が見たエピソードとしてのこの物語という大前提は尊重しなければならない気はするのですが、どうしても「おろち」がどういう存在なのかを観客にわからせるために説明的なモノローグや場面が必要で、それが物語の進行を邪魔していた感じがします。
谷村美月はとても浮世離れしていて人ならざる謎の存在みたいな感じはよく出てたと思うんだけどね。
正直なところを言えば、「おろち」がいない方が壮絶で美しい物語になっていたかもしれません。
とにかく木村佳乃と中越典子の壮絶さと退廃的な美しさや色彩が際立つ作品だったと想います。
△こちら原作愛蔵版4巻セット。
楳図かずおの漫画というと、よくよく考えてみたら「まことちゃん」くらいしか読んだことがないことに今更気づいた。
昔から身近にあったような気がするのだけど…
私の幼い頃、我が家にはなぜか古賀新一の「白へび館」という漫画の1巻のみ(全2巻なのになぜか1巻のみなので結末がわからない)があって、子ども心に怖いくせに何度も読み返して本がボロボロになった覚えがある。
楳図かずおの最盛期は多分その頃で、漫画単行本の巻末にあった他の作品のCMでバカほど見かけたせいかもしれない。楳図かずおの作品群を調べてみると、タイトルだけはよく知っているのに読んだことのない作品ばかりだ。
小学生になって先述の古賀新一の「エコエコアザラク」や学校で妙に流行った日野日出志の「まだらの卵」を背筋をぞくぞくさせながら読んでいてあまりの怖さにわざわざ恐怖まんがなんか読まないやい!と思ったせいか、その後名作と呼ばれる古い漫画を漁って読んだ時にもこのジャンルには手を出さなかった。
というわけで、この映画の原作である「おろち」も読んでいない。
「おろち」◆監督:鶴田法男◆脚本:高橋洋◆出演:木村佳乃、中越典子、谷村美月、山本太郎、嶋田久作
《あらすじ》100年に一度、永い眠りに就くことによって不老不死の体を保ち、人の世を彷徨い続ける謎の美少女“おろち”(谷村美月)。行く先々で起こる悲劇や惨劇を、時に自らの不思議な力を介入させつつ、彼女は見つめ続ける――。おろちが家政婦として潜り込んだ門前家には、2人の美しい姉妹、長女の一草(木村佳乃)と次女の理沙(中越典子)がいた。誰よりも美しく生まれるが、29歳を過ぎる頃には突然美貌が崩れ、果ては化け物のように醜く死んでいくという彼女たち。ある日、理紗は死にゆく母親の口から、もう一つの門前家の秘密を打ち明けられる…。楳図かずお原作の同名漫画より「姉妹」、「血」というエピソードを基に描かれる怪奇ミステリー。女性の美醜への執着が、美しい姉妹を恐怖と悲劇へと導いていく…。(cinemacafe.net)
公式サイト
映画を見終わった後に、この「おろち」について調べると2つのエピソードを融合させて映画のストーリーに仕上げたという。
なるほど、「姉妹」と「血」はどちらも姉妹の確執をテーマにしているらしいので融合させやすかったのだろう。
もとは2つのエピソードとは思えないほど自然にまとまっていたと思う。
美しい母。
美しい姉妹。
原作のあらすじを見たところ、女優という設定はおそらく映画オリジナルなのだろう。
女優という属性を追加することによって彼女たちの「美しさ」は自己評価や家族内での評価やローカルで評判になるレベルでなく、一般の賞賛や崇拝の対象になるというステイタスを持つ。彼女たちが「美しさ」と「醜さ」に固執する説得力がより増したのではないだろうか。
原因も治療法もわからないが、この血筋の女は29歳を過ぎるとその美しさを失う運命にある。最初は小さな吹き出物のようなものからやがてそれは全身を覆いつくし、やがて精神をも蝕むのだろう。
それが遺伝性の病気なのか、あるいは呪いのようなものなのかは明かされない。
原因はどうあれ、門前家の血を引く女は、必ず逃れられない運命だとされる。
執事はかつて門前葵の母親の主治医で、彼女を救う為に手を尽くしたが防ぐことが出来なかった───と語られている。古い時代には祈祷などに頼ってみた者もいたかもしれない。
運命に抗おうとした者もいたが徒労に終わったことで、この運命に囚われた葵や一草・理沙姉妹の絶望が際立つ。
旧作ですがネタバレしますので注意を。
20年後、「それ」を間近に控えて怯えながら寄り添っていた姉妹に訪れた岐路。
二人でそれを迎えるのだと覚悟していたのに、片方だけがそれから逃れられると判った時。
恐怖を慰めあってバランスを保っていた二人の関係が一気に崩れる。
おまえだけが美しいままだなんて───
母の今際の告白を聞いていたのは理沙だけ。
「理沙は門前家の娘ではない」
最後にそれは理沙の嘘で門前家の血を引いていないのは一草の方だったということがわかるのだが、では何故理沙はそんな嘘をついたのだろう。
理沙は一草を最初から妬んでいたのだろうか。
幼い頃は自分の方が歌が上手で母に愛されていると思っていた。
けれど、成長するにつれ母のように女優として才能を発揮し世間の賞賛を受ける立場になった姉。自分はその付き人状態。それを、姉に尽くしているように振る舞いながら忸怩たる思いでいたのか。
そして母から真実を告げられた時、母が愛していたのは「自分の血を引いていない」一草の方だったと確信したのかもしれない。
門前家の娘として、やがて自分と同じ運命を辿るであろう理沙を哀れんで慈しむよりも、その呪いを引き継がないだろう一草の方を後継者として───
真実をそのまま一草に告げて、一草が理沙にそうしたように理沙が一草に暴行を働く道もあった筈だ。多分、一草は逆らえない。
けれど理沙に凝っていたのはもっと執拗な悪意。
一時の感情に囚われて一草を殴る蹴るしたところで運命は変わらない。
一草が美しいままで自分が醜くなることは逃れることが出来ない。
それならば、一草もまた醜くなって女優なんて華やかな世界には住めなくなってしまえばいい。
自分の絶望を隠して一草に同じ絶望を味わわせる。
たとえ殴る蹴るされてもそれが永遠に続くわけがない。
やがて、絶望が限界を超えた一草は自らの顔を火箸で焼き、自分の手でその美しさを手放してしまう。ずっと美しかったはずの顔を。
理沙はその行動まで見越して嘘をついたのだろうか?
醜く生き残るよりも自ら命を絶つことは考えなかったのだろうか?
理沙は自分ならどうするかを考えたのかもしれない。
誰よりも一草を知っているからこそ、どうすれば一草が最も絶望するかを考え抜いた末だったのかも。
「血を入替えればなんとかなるかも」と術を施した理沙。
最初にその術を弄して佳子を引き入れた時には理沙もまだ真実を知らなかった。
理沙と一草、二人で蜘蛛の糸のような希望を掴むつもりでいたのだろうか。
そして、一草にはもともと意味の無いことだと知りながら「自分が助かるために」それを実行した。
理沙自身が言ったように、その頃には理沙は一草の気持ちと同化してしまっていてまるで一草にその術を施せば自分が助かるように錯覚していたのか。
それとも、一草の絶望をさらに決定的にするために?
一草が自らの顔を焼いたことでようやく本懐を遂げたように真実を語る理沙。
一緒に醜くなって一緒にいましょう、姉さん。
だってあたしたち、ずっと一緒だったじゃない。
そんな台詞はなかったけれど、まるでそんな理沙の声が聞こえてくるような結末だった。
ただの妬みや恨みだけではない、切っても切れない絆。
それはグロテスクに変形して崩れてしまった愛情の名残なのかもしれない。
非常によくできた物語でした。
しかし「おろち」のファンの方には申し訳ないのだけど、「おろち」の存在そのものが少し浮いた状態になってしまっていたのが残念。
もちろん、「おろち」が見たエピソードとしてのこの物語という大前提は尊重しなければならない気はするのですが、どうしても「おろち」がどういう存在なのかを観客にわからせるために説明的なモノローグや場面が必要で、それが物語の進行を邪魔していた感じがします。
谷村美月はとても浮世離れしていて人ならざる謎の存在みたいな感じはよく出てたと思うんだけどね。
正直なところを言えば、「おろち」がいない方が壮絶で美しい物語になっていたかもしれません。
とにかく木村佳乃と中越典子の壮絶さと退廃的な美しさや色彩が際立つ作品だったと想います。
△こちら原作愛蔵版4巻セット。
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