人間は、食って寝ると大体生きていられる。
でも、そのうちトイレに行きたくなったり、体が汚れるので風呂に入ったりする。歯も磨く。
起きて、食って、歯を磨いて、食って、トイレに行って、風呂入って、食って寝る。
それだけでも生きていけるけど、これだけだと起きている時間の大半(具体的には10時間ぐらいだろうか)が余る。
余った時間は大体皆仕事している。お金がないと大体のことはできないし、最悪食えなくなって命の危機にもなったりするからだ。
労働法で休みはきちんと定められているので、仕事のない休みは、テレビを見たり買い物にいったり、
テレビを見たりして好きなように過ごす。
では、働きたくても働けない人は?
好きなことをしたくても、するツールを持っていない人は?
特養に勤務を始めた頃、私は高校を出たばかりの18歳で、福祉のふの字も知らなかった。
回廊式の特養のだだっ広い食堂に、1日中座らされているお年寄りを見るのが可哀想で、胸が痛かった。
現状を変えようと、「流れ作業はやめよう」といった趣旨の発表を施設内の学会でやったり、入浴が終わった後レクをやったりして、何とかお年寄りの「楽しみ」を作ろうと一生懸命だった。
父が倒れ、一緒に時間を過ごすようになって、何ができるか考えた。
そうだ、外出しよう。外にいって、おいしいものを食べて、一緒に買い物しよう。
しかし、外出して食堂に入ると、絶え間なく流れている有線や音楽で耳がガンガンしてつらい。
外にでて知り合いに出会うのは嫌だ。
じゃあ、本はどうだろう。間違い探し。ジグソーパズルは?
後遺症で対象物は二重三重に見え、細かいものは見えない。
私が考えた「外出して、本を読んだり、ジグソーパズルをする」なんて、全部私自身の視点から考えた
「楽しいだろうと思うこと」だった。
父が好きなのは、庭で柿の木を見ること。柿の木を見上げながら、ずっと目をこらしている。
家の畑が綺麗なこと。草ぼうぼうの現在をいつも嘆いて怒っている。
特養の頃から、自分の価値観で、車に乗って遊びに行ったり、買い物に行ったりできないことが可哀想だと思っていた。高齢者も障害者も、健常者と全く同じ行動はできないのだということをわかっていなかった。自分と同じように朝から晩までフルで遊ぶことが「楽しい」ということの最善の形だと思っていた。
しかし、「楽しいこと」って人それぞれ。健常者と同じように動けば、高齢者や障害者の方が早く疲れるし、場合によっては何もせずゆっくり休んでいた方が快適になってしまう場合もありうる。
残された力の中で、今ある環境で楽しみを見つける。大事だと思う。
これからの、長い長い父の人生の一日一日を、何で埋めよう。
来年こそは、畑を整備してちゃんと草取りしたい。
でも、そのうちトイレに行きたくなったり、体が汚れるので風呂に入ったりする。歯も磨く。
起きて、食って、歯を磨いて、食って、トイレに行って、風呂入って、食って寝る。
それだけでも生きていけるけど、これだけだと起きている時間の大半(具体的には10時間ぐらいだろうか)が余る。
余った時間は大体皆仕事している。お金がないと大体のことはできないし、最悪食えなくなって命の危機にもなったりするからだ。
労働法で休みはきちんと定められているので、仕事のない休みは、テレビを見たり買い物にいったり、
テレビを見たりして好きなように過ごす。
では、働きたくても働けない人は?
好きなことをしたくても、するツールを持っていない人は?
特養に勤務を始めた頃、私は高校を出たばかりの18歳で、福祉のふの字も知らなかった。
回廊式の特養のだだっ広い食堂に、1日中座らされているお年寄りを見るのが可哀想で、胸が痛かった。
現状を変えようと、「流れ作業はやめよう」といった趣旨の発表を施設内の学会でやったり、入浴が終わった後レクをやったりして、何とかお年寄りの「楽しみ」を作ろうと一生懸命だった。
父が倒れ、一緒に時間を過ごすようになって、何ができるか考えた。
そうだ、外出しよう。外にいって、おいしいものを食べて、一緒に買い物しよう。
しかし、外出して食堂に入ると、絶え間なく流れている有線や音楽で耳がガンガンしてつらい。
外にでて知り合いに出会うのは嫌だ。
じゃあ、本はどうだろう。間違い探し。ジグソーパズルは?
後遺症で対象物は二重三重に見え、細かいものは見えない。
私が考えた「外出して、本を読んだり、ジグソーパズルをする」なんて、全部私自身の視点から考えた
「楽しいだろうと思うこと」だった。
父が好きなのは、庭で柿の木を見ること。柿の木を見上げながら、ずっと目をこらしている。
家の畑が綺麗なこと。草ぼうぼうの現在をいつも嘆いて怒っている。
特養の頃から、自分の価値観で、車に乗って遊びに行ったり、買い物に行ったりできないことが可哀想だと思っていた。高齢者も障害者も、健常者と全く同じ行動はできないのだということをわかっていなかった。自分と同じように朝から晩までフルで遊ぶことが「楽しい」ということの最善の形だと思っていた。
しかし、「楽しいこと」って人それぞれ。健常者と同じように動けば、高齢者や障害者の方が早く疲れるし、場合によっては何もせずゆっくり休んでいた方が快適になってしまう場合もありうる。
残された力の中で、今ある環境で楽しみを見つける。大事だと思う。
これからの、長い長い父の人生の一日一日を、何で埋めよう。
来年こそは、畑を整備してちゃんと草取りしたい。