2025年6月22日礼拝
「イエスの生き方に学ぶ非暴力直接行動 」
1テサロニケ5:16、ルカ福音書17:21
谷百合子
私は1945年6月、終戦の年に生まれたので、毎年
「今年は戦後〇年」を背負って生きてきまし
た。それは否定的な意味ではなく、あの大戦を生き抜いた
両親や先生たちがやっと手に入れた「希望」という願いを
浴びて育ってきた気がします。それは両親の愛情であり、
時代の熱でもあったと思います。自分の頭で考え、自分から
行動する事が何の疑いもなく広がっていく子供時代でした。
中・高・大学と新聞部に属し、社会問題にも向き合いました。
1986年チエルノブイリ原発事故が起き、1988年に泊原発建設の時から
仲間たちと、地球と命に反する原発に反対する運動に関わりました。
北電の株主運動や裁判もしましたが、なんといっても青森県六ケ所村の
再処理工場反対の女たちのテントが私の人生の財産になりました。
従来の組織や男たちの運動とは違う横のつながり、歌と花と祈りの女たちの、
のびやかな新しいスタイルの運動の始まりでした。
そこで非暴力直接行動に出会うことになります。
1991年東西ドイツ統一の翌年、ドイツの再処理工場を止めた教会に行く
機会があり、そこで素晴らしいクリスチャンに出会いました。
映画「核分裂課程」にも出演し、正に非暴力直接行動で再処理工場を止めた方達でした。
2000年にはグリーナム・コモンの流れを組むアンジージェルターさんを我が家に招き、
講演会をしました。家庭用のハンマーで原子力潜水艦のコンピュータを壊し、
しかしスコットランドの裁判所は無罪を言い渡したのです。
彼女は核兵器がゼロになるまで非暴力直接行動で闘うとにこやかに語っていました。
私は宗教はアヘンだと長い間信じていました。
確かに宗教は諸刃の刃でもあります。しかし、聖書を疑って読めというフエミニスト神学
に出会い、山口雅弘著「ガリラヤに生きたイエス」からイエスこそ正に非暴力直接行動を
示したのだと確信します。ローマ帝国の悪政と宗教権威者に立ち向かい、政治犯として
殺されたイエスの思いは、少数ではあったけれど、その意思を継ぐ支援者として、
ガンジーやキング牧師、沖縄の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんなど、
2千年後の今も引き継がれているのです。
何気なく過ぎていく日常ですが、世界に目を向けると、無法国家がはびこり、
独裁者たちが意味のない殺戮を繰り返しています。イエスを信じ、
イエスに倣うものとして、見ぬふりは出来ません。教会の在り方、クリスチャン
としての生き方が問われていると思います。
「イエスの生き方に学ぶ非暴力直接行動 」
1テサロニケ5:16、ルカ福音書17:21
谷百合子
私は1945年6月、終戦の年に生まれたので、毎年
「今年は戦後〇年」を背負って生きてきまし
た。それは否定的な意味ではなく、あの大戦を生き抜いた
両親や先生たちがやっと手に入れた「希望」という願いを
浴びて育ってきた気がします。それは両親の愛情であり、
時代の熱でもあったと思います。自分の頭で考え、自分から
行動する事が何の疑いもなく広がっていく子供時代でした。
中・高・大学と新聞部に属し、社会問題にも向き合いました。
1986年チエルノブイリ原発事故が起き、1988年に泊原発建設の時から
仲間たちと、地球と命に反する原発に反対する運動に関わりました。
北電の株主運動や裁判もしましたが、なんといっても青森県六ケ所村の
再処理工場反対の女たちのテントが私の人生の財産になりました。
従来の組織や男たちの運動とは違う横のつながり、歌と花と祈りの女たちの、
のびやかな新しいスタイルの運動の始まりでした。
そこで非暴力直接行動に出会うことになります。
1991年東西ドイツ統一の翌年、ドイツの再処理工場を止めた教会に行く
機会があり、そこで素晴らしいクリスチャンに出会いました。
映画「核分裂課程」にも出演し、正に非暴力直接行動で再処理工場を止めた方達でした。
2000年にはグリーナム・コモンの流れを組むアンジージェルターさんを我が家に招き、
講演会をしました。家庭用のハンマーで原子力潜水艦のコンピュータを壊し、
しかしスコットランドの裁判所は無罪を言い渡したのです。
彼女は核兵器がゼロになるまで非暴力直接行動で闘うとにこやかに語っていました。
私は宗教はアヘンだと長い間信じていました。
確かに宗教は諸刃の刃でもあります。しかし、聖書を疑って読めというフエミニスト神学
に出会い、山口雅弘著「ガリラヤに生きたイエス」からイエスこそ正に非暴力直接行動を
示したのだと確信します。ローマ帝国の悪政と宗教権威者に立ち向かい、政治犯として
殺されたイエスの思いは、少数ではあったけれど、その意思を継ぐ支援者として、
ガンジーやキング牧師、沖縄の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんなど、
2千年後の今も引き継がれているのです。
何気なく過ぎていく日常ですが、世界に目を向けると、無法国家がはびこり、
独裁者たちが意味のない殺戮を繰り返しています。イエスを信じ、
イエスに倣うものとして、見ぬふりは出来ません。教会の在り方、クリスチャン
としての生き方が問われていると思います。