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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

視点のシフト マタイ福音書15:21∼28

2025年08月23日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年8月17日
 「視点のシフト」  
  マタイ福音書15:21∼28
             清水 和恵

 旅は出会いです。その出会いによって気づかされ、
抱いていた価値観が変わることがあります。視点がシフトするのです。
イエスもまたそのような経験をしました。
福音宣教をしていく上で、その人生において大きな転換点となった
出会いでした。

 旅先はフェニキアのティルスとシドン。古くから栄えた町でした。
イスラエルからすると異教の地です。ここでイエスはカナンの女性との
とても印象的な出会いをいたします。
 ちなみに聖書にはイエスがユダヤ教の指導者たちと論争する
場面が多くありますが、100%論破しています。ところが唯一、
負けたのがこのカナン人の女性です。ユダヤ人からすると外国人であり
しかも女性ということで、軽んじられた人でした。

 女性は娘の癒しを懇願しますが、イエスはとても排他的な態度を取ります。
「自分はユダヤ人にしか遣わされていない。こどものためのパンを
犬にやってはいけない」と突っぱねます。
ここでの子どもとはユダヤ人、犬とは非ユダヤ人のことです。
なぜ、このような冷たい態度をイエスがとったのか。
それは文明の先進地であったフェニキアからガリラヤは搾取され
収奪されていたからではないかという説をふまえると、ここではイエスの
フェニキア批判が背景にあるのかもしれません。
それにしてもイエスらしくない言動が記されていますねぇ。

 過日の参院選で躍進したある政党は「日本人ファースト」を
謳っていました。これは差別と排外主義を煽動するもので共生社会を
壊していくものと批判されています。国籍、民族に関わらず誰の尊厳も
守られなければなりません。
 言ってみればイエスの言動はまさに「ユダヤ人ファースト」なのです。
しかしカナンの女性は諦めません。
「犬もテーブルの下の落ちたパンを食べるでしょう。
ならばほんの少しでも、落ちた余りものでよいので分けてほしいのです。」

 このウイットには感動します。「押してもだめなら引いてみる」といった
知恵の豊かさを感じます。彼女の思いには、「神様はユダヤ人
ファーストなんて言うはずがない、すべての人に恵みを注ぐのが神様
でしょう。」との確信が込められています。
 イエスは感心し、ユダヤ人が絶対に非ユダヤ人には言わないことを
女性に言います。「あなたの信仰は立派だ」(28節)

 そして娘は癒されます。イエスの中で、宣教観が大きく変わった
瞬間でした。太陽がすべての人を分け隔てなく照らすように神はすべての
人を愛される、その恵みをイエスは確信したのです。
このイエスの柔軟さ、自由さには驚きます。
ユダヤ人であるイエスはユダヤ人に軽蔑されていた非ユダヤ人の
女性から、神の愛と恵みとは何かを学びました。

 私たちの毎日は旅。旅は出会いです。
私たちは出会いによって気づかされ変えられ、新しい世界を見る
可能性に開かれています。
 そんな旅を楽しみたいですね。




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小さな種が マタイ13:31∼33

2025年08月17日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年8月10日 主日礼拝 
「小さな種が」   マタイ福音書13:31∼33
               清水 和恵

 友人からプレゼントされた数十センチのからしの木が、
2メートルに近くになりました。ところがある時、枯れる寸前に
なってしまいました。それを斎藤智子さんが丹念にお世話してくださり、
元気になりました。感謝です。

 からし種は、1ミリほどの小さな種です。
イエスはこの小さな種が、ぐんぐん伸びていく力を持っていると語ります。
神の国(神の支配、統治)は、このからしの木に鳥が巣をつくるほどになる
イメージです。
 パンだねのたとえは、どうやら家庭で焼くパンの話ではなさそうです。
パンだねが3サトン(40リットル)の粉に入り膨らむと、
100人以上の人たちの共食になると語ります。
大勢の人が共にパンをいただく祝宴、これがイエスが描く神の国のイメージです。

 小さな種からやがて成長する木や成熟する多くのパン。
イエスは小さな種にこそ目を留めます。
そして私たちの想像を超える広く遥かな世界、神のなされる壮大な計画の
一端を見せてくれます。私たちが見つめているものはすべてではありません。
あくまでも一部にすぎません。

 神の国は大きな木の下で誰もが平和に集い憩える世界、
誰もが美味しいパンをいただける祝宴の交わり、きっとそんな日が来ると
イエスは語るのです。今だけ、現実だけ見るのではなく、
未来に対しての遥かなまなざし、神への信頼をもちたいですね。
私たちの間にいのちの種はすでにまかれて育ち始めているのですから。

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塩を持つ マルコ9:45∼50

2025年08月09日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年8月3日 平和聖日礼拝
  「塩を持つ」   マルコ9:49∼50
             清水 和恵

 北海道にしては記録的な暑さの夏。
冷えたスイカが美味しい季節ですね。
子どもの頃、不思議に思ったのは、塩そのものは
しょっぱいのに、甘いスイカに塩をかけると
なぜ甘くなるのだろう?ということでした。
 それを知ったこどものわたしはある時、
塩をたくさんかければ美味になるのだろうと思い、
かけ過ぎすぎてスイカがしょっぱくなり、
味が損なわれたことも思い出します。
本当にしょっぱい思い出です。

 少量の塩はいわゆる「かくし味」です。
たくさんの塩でなくてほんの少しで味がぐっと違ってきます。
このかくし味の用い方を知っていると、お料理も
ぐんと上達するのではないでしょうか。

 イエスは「塩は良いものだ・・・自分自身の内に
塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい。」
と言われました。(マルコ9:50)。
 この箇所の様々な翻訳があります。
「互いに平和を保ちなさい」(フランシスコ会訳)
「互いに平和でありなさい」(田川訳)
「互いに和らぎなさい」(口語訳)
「互いに和合して暮らしなさい」(新改訳)
口語訳は平安を、新改訳は調和を強調した訳になっています。
(もっとも新改訳2017年改訂版では、平和に・・・となってました)

 古代イスラエル人にとって塩は友情のしるしでした。
敗戦80年を迎えた今年、日本は軍備を増強して再び戦争への道を
拓く様相を見せています。
 ほんの少しでいいのですが、互いに塩を持ち
平和に過ごす歩みをして行きたいですね。
教会も塩のように地域に溶け込んで、平和を作り出すことができますように。

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ひとつになって 使徒言行録2:43∼47

2025年08月08日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年8月3日礼拝
「一つになって 」   使徒言行録2:43∼47
             清水 和恵

 エルサレムに誕生した最初期の教会は、43節以下を読むと
「一つに」とか「一緒に」と言う言葉が記されており、
教会がワンチームのようであったことが伺われます。
 ワンチームとは、共通の目標にむかって異なる役割を持つ
メンバーが一つとなって働くことを言います。
2019年の流行語大賞にも選ばれました。

 2019年は、ラグビーワールドカップがあり、
日本代表が初のベスト8になりました。当時日本中が盛り上がり、
ラグビーにまったく詳しくないわたしでも、わくわく
しながらテレビを観ていました。
ラグビーチームは、7か国の出身者が所属し多様な文化、
言語,習慣、個性を持つ選手が互いにコミュニケーションを豊かにして、
一つのチームを作ることを大事にしたそうです。
それがベスト8という結果をもたらした要因のひとつと考えられます。

 ただ、ワンチームも気を付けなければならない側面があります。
戦時中、日本では戦争遂行のための「挙国一致」つまり国民が天皇のもとに
ワンチームになることを叫ばれ、反対する者は「非国民」と呼ばれ差別、
弾圧されました。多様性や個の尊厳、人権を認めなかった時代の
悪しき産物です。
 先日の参院選挙でも日本人ファーストを謳って躍進した党がありました。
これも差別と対立を生む可能性があり危惧を覚えます。

 3000人が仲間になった最初期の教会は、地中海世界から集まった
生活背景の異なる人たちの教会でした。
最初期の教会は○○ファーストを超えて、誰をも招きキリストにある共同体
を形成したのです。

※こぼれ話
教会やいろんなところでクイズを出しました。
「現在、世界は197国あると言われていますが日本へは一体何か国の人々が
 来られて生活しているでしょう?」
幾つかの答えがあって、例えば50か国、80か国、100か国とありました。
正解は193か国だそうです。
意外と多いように思います。というか、ほぼ全世界から滞在しているのです。
これはすでにで日本は多民族、多文化、多言語の国であるということですが、
共生社会と言えない現実があります。今や第1次産業や、介護福祉、サービス業
その他の分野でも外国の方が担ってくださっていますが、政府は端に「労働力」
としか見ていない政策を打ち出しています。
 「日本人ファースト」を謳う政党が躍進しました。
この政党を支持する人たちは、自分がいつも後回しにされてきた痛い体験があるので
しょうか。そのうっぷんばらしで、支持するのでしょうか。
 敗戦80年の今年、再び戦争への道を歩むターニングポイントにならないように
祈りたいです。



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主が招くなら 使徒言行録2:14∼21

2025年07月20日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年7月13日 礼拝
「主が招くなら」
    使徒言行録2:14∼21
        清水和恵

 ペトロを嘲っていた人々は彼の説教を聞いて、
態度が一変しました。「心を打たれた」とあります。
この心を打たれるとは、別の聖書では「心をえぐられる、
心を突かれる」とも訳されています。(田川訳、岩波訳)

 どうやら感動するというニュアンスよりも、
「心にグサッと刺さるような強烈な衝撃、痛みを覚えた」
というほうが偽らざる心情でしょう。
 それゆえに思い悩み「私たちはどうしたらいいのか」と
ペトロに尋ねたのです。むしろ尋ねざるをえなかったというのが
本音でしょう。
 ペトロはイエスの復活は殺された者の復活だと繰り返し
語ります。(2:23∼24,36)

 人々は自分のなしてしまった罪に気づきます。
聖書でいう罪とは「的外れ」という意味で、神という的から
外れて生きていることを表わします。
 たとえば写真を撮るときに的(ピント)を外すと台無し
になりますし、何が写っているのかもわからなくなりますが、
それは人は罪をおかすと見るべき真実を見失う事にも似ています。

 けれどもその罪は赦されます。生き直しのチャンスがあるのです。
罪がなかったことにされるのではなく、罪ある者として人は
神に受け入れられ愛されるということです。
 神は徹底的に私たちを愛そうとして招かれます。
その神の招きに応えた人が悔い改めて(生き方の方向転換をして)、
罪ゆるされ新しく生き直しをしていくのです。

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