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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

パンを分かつ群れ 1コリント11:23∼34

2024年10月26日 | 礼拝メッセージ要旨
 2024年10月20日 礼拝
「パンを分かつ群れ」清水和恵

 教会はよく、食卓共同体と呼ばれたりします。
食事をすることを大切にして繋がりを深めてきた、そんな伝統があるように思います。
 コリントの教会でも、みんなで持ち寄って食事をして、その中で
イエス・キリストの十字架の死を記念していました(主の晩さん)。

 ところが問題が起きました。
食事の時、それぞれが勝手に自分の分を食べてしまい、酔っている人がいるかと
思えば、空腹の人もいる。それでは本当にパン分かつ食卓共同体と言えるのだろうか。
絆や関係を深める大事な食卓が、愛や配慮のない分断と差別を生むものに
なっていることにパウロは問題提起をしたのです。

 コリント教会にはいろんな人が集っていました。
貧しい人は、遅くまで働かねばならない状況にあって礼拝と食事に間に合わないことが
あったでしょう。パウロは早くから集えて、たくさん持ち寄ることのできる余裕ある者
に対して、他の人を待てないほどお腹がすいているのだったら、家で食べてくると
いいと言います。

 27節「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲む者は主の体と血に対して
罪を犯すことになります」ここのふさわしくないままとは、どういうことでしょうか。
これは未受洗者のことだと解釈されてきました。
わたしもかつては、そう聞かされてきたように思います。
 確かに聖餐式の式文には、「ふさわしくないままで主のパンを食べ、
その杯を飲むことがないよう自分をよく確かめて聖餐にあずかりましょう」
と記されています。(教団信仰職制委員会編) 

 ところが、ふさわしくないままとは、パウロによればふさわしくない人ではなく
食事の仕方のことを言っています。けして罪深いとか、クリスチャンではない人
という意味ではなく、早く来たくても来れない事情のある人たちを待てないで、
食事をしてしまう愛や配慮のないやり方を「ふさわしくないままで」と言っているのです。
パンを分かつ群れの「ふさわしさ」が問われている聖書の箇所です。


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試練と共に出口がある 1コリント10:13

2024年10月19日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年10月13日 礼拝
「試練と共に出口がある」
    1コリント10:13 
       清水和恵

  今日の箇所は2020年6月7日の礼拝でも取り上げました。
ちょうどコロナが始まって4~5か月の頃で、世界中が不安と試練の中にありました。
さて、パウロの語る試練ですが、神は耐えられる試練を与えると言うのです。
その根拠は「逃れる道」があるからと語ります。

 ところが「逃れる道」と訳されている言葉を、聖書学者の青野太潮さんは
「出口」と訳したほうが意味がはっきりする、と言っています。
つまり試練をさけて通る「逃れ道」ではなく、試練の真っただ中を通ったのちに、
それを突き破っていく「出口」という意味だそうです。(岩波版聖書・註) 
あれから4年余り、コロナが落ち着いてきたかなと思えるこの頃、
私達は出口にたどり着いた風景を見ているでしょうか。

 先月、遠軽にある北海道家庭学校を訪れました。
美しい森の中の礼拝堂の真正面には校祖、留岡幸助が書いた「難有」
という言葉が掲げられています。
 清水副校長さんがその意味を説明してくださいました。
「これは難有(難あり)と読みますが、当時は逆から読んでいましたから有難し
(ありがたし)と読めます。人生には難がある。けれどもこの難を引き受けて
立ち向かっていくときに,有難たい人生になっていくのです。」 

 私達の人生は困難や試練が伴います。家庭学校の少年たちは、
きっとその連続だったでしょう。けれども難有りは有難い人生になっていく、
と語った留岡の言葉は少年たちを励ますメッセージとなったと思います。
人生辛い日々ばかりではありません。
「出口がある」というパウロの言葉と共鳴しているのではないでしょうか。
神様に信頼し導きを祈りましょう。

 積丹や留萌までの日本海沿いの道を通ったことがあるでしょうか。
トンネルが多く、トンネルを出たと思ったらまたトンネルが続きます。
私達の歩く道もそうでしょう。
 「またトンネルか・・・」と落胆することがあるかもしれませんが、
道はトンネルばかりではありません。
眺望のきく光あふれる道も備えられています。

 私たちが今、不安になり痛み苦しみながら歩いているとしたらそれは、
まるで出口の見えない真っ暗なトンネルの中にいるようで「神様どこにいるの?」
と思えるかもしれません。
けれどもその道は神様が一緒に歩き守り導き、必ず出口まで導いてくださる道です。
安心していきましょう。


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愛は造り上げる 1コリント8:1~13

2024年09月28日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年9月22日の礼拝
「愛は造り上げる」 1コリント8:1~13
             清水 和恵

 この箇所は、偶像に供えられた肉を食べていいのかどうかを
めぐる質問に、パウロが答えていますが、ここでも「高ぶり」が
問題にされています。先週も触れましたが、この高ぶりは、
ふくらませるが原意だそうです。
イメージとしては、風船に息を吹き込んでふくらませる感じだと、
聖書学者の田川健三は言っています。なるほど、ふくらませるというなら、
しぼめることも出来るでしょう。

 神と偶像についての知識が高ぶりを生み、その結果、
自分の知識と力を誇り人を見下してしまうなら本末転倒、救い(解放)
はありません。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)。
パウロは知識の獲得が間違いだと言っているのではなく、
何歳になっても学びは大切です。

 ただ、そこに人への愛と配慮があるか、人を生かすものであるのか
問うているのです。
 ここで言われている愛は「造り上げる」性格があります。
造り上げるは、家を建てると言う意味です。家は様々な工程を経て、
建ち上がっていきます。土台や柱なしに、壁をつくり屋根をかけることは
できません。ひとつひとつ丁寧に作業をし、パーツとパーツが組み合されて
家は完成していくのです。
 パウロは教会形成を家造りのイメージで語ります。
その場合、愛は建設的で人や交わりを大事にしますが、高ぶりは壊して
いくと語るのです。

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神の国は言葉ではなく力にある 1コリント4:16∼21

2024年09月22日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年9月15日礼拝
「神の国は言葉ではなく力にある」 1コリント4:16~21 
                 清水和恵

  エフェソの町からパウロは心を痛めて手紙を書いています。
というのは、エーゲ海の向こう、対岸のコリントの教会の人々に問題が
生じているからです。
この手紙はパウロの教会観が表れていると言ってよいでしょう。
 
 彼が創設したコリント教会は彼が去った後、変質しました。
様々な人が教会に集っておりましたが、パウロが問題にするのは人々の「高ぶり」です。
文字通り、傲慢な人たちがいたようで、パウロは「高ぶっている人たちの、
言葉ではなく力を見せてもらおう」と記しています。
この「高ぶり」について、聖書学者の田川健三さんによると、直訳は「ふくれあがっている」
風船みたいなものを吹いたら,ふくれあがるという感じだそうです。
なるほどそうだとすると、しぼむことも可能なんですね。

 またコリント教会の人々が使う言葉とは、党派争いや仲間割れを生みだすものでした。
言葉は使い方によっては人を生かしますがいっぽうで、人を傷つけもします。
コリント教会は残念ながら、互いに尊重することをせず党派争いをし、
言葉によって人を傷つける状態になっていました。
言葉を人を攻撃する「武器」のように使っていたのでしょう。

 パウロは「神の国は言葉でなく力にある」と語りますが、神の国(神の支配)
とは自分の語る言葉と知恵に自信満々で、自分を絶対化するような賢く強く豊かな
者の高ぶりの中にあるのではなく、弱く小さく貧しくされた者の中にこそ現れる
神の力、業だと語るのです。

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揺るぎない土台の上で 1コリント3:10∼17

2024年09月14日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年9月8日
「揺るぎない土台の上で」1コリント3:10~16  
               清水和恵

「私は神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」
(10節)と、パウロは語ります。その建物とは、9節「あなたがたは神の畑、神の建物」
とありますから、コリント教会の人々のことを表しています。

 建物がしっかりと立ち続けていくためには、土台が堅固でなければなりません。
教会が神の建物(教会堂のことではありません)ということは、そこに連なる
一人ひとりが、建物の部分です。

 ところで、2011年3月11日の大地震、大津波は東北地方に甚大な被害を
もたらしました。その4か月後、私は岩手県の大槌町でボランティアをして
いたのですが、見るものすべてが茶色であったことに驚愕しました。
 一つ気づいたのは建物の屋根、柱、壁は流されても、土台が残っている
ところが少なくないということでした。

 パウロはイエス・キリストは私達の土台だと語ります。試練の嵐に遭い、
たとえ建物が崩れようとも、その土台は揺るぎません。
またその上から、何度でも建てあげることができるのです。

 
 新発寒教会の旧会堂は、堅固な土台でした。
新会堂建築のとき、当初は土台を活かした建物にしようと考えたことも
ありましたが、しっかりとした「土台」のために、建物がある程度、限定
された形状になることが判りました。土台とは、そういうものなのですね。
土台が建物を決めることがあるようです。

 建物をわたしたちの人生に置き換えて考えると、どうでしょうか
どのような土台の上に据えるのかで、人生も変わってくると言えます。

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