2024年10月20日 礼拝
「パンを分かつ群れ」清水和恵
教会はよく、食卓共同体と呼ばれたりします。
食事をすることを大切にして繋がりを深めてきた、そんな伝統があるように思います。
コリントの教会でも、みんなで持ち寄って食事をして、その中で
イエス・キリストの十字架の死を記念していました(主の晩さん)。
ところが問題が起きました。
食事の時、それぞれが勝手に自分の分を食べてしまい、酔っている人がいるかと
思えば、空腹の人もいる。それでは本当にパン分かつ食卓共同体と言えるのだろうか。
絆や関係を深める大事な食卓が、愛や配慮のない分断と差別を生むものに
なっていることにパウロは問題提起をしたのです。
コリント教会にはいろんな人が集っていました。
貧しい人は、遅くまで働かねばならない状況にあって礼拝と食事に間に合わないことが
あったでしょう。パウロは早くから集えて、たくさん持ち寄ることのできる余裕ある者
に対して、他の人を待てないほどお腹がすいているのだったら、家で食べてくると
いいと言います。
27節「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲む者は主の体と血に対して
罪を犯すことになります」ここのふさわしくないままとは、どういうことでしょうか。
これは未受洗者のことだと解釈されてきました。
わたしもかつては、そう聞かされてきたように思います。
確かに聖餐式の式文には、「ふさわしくないままで主のパンを食べ、
その杯を飲むことがないよう自分をよく確かめて聖餐にあずかりましょう」
と記されています。(教団信仰職制委員会編)
ところが、ふさわしくないままとは、パウロによればふさわしくない人ではなく
食事の仕方のことを言っています。けして罪深いとか、クリスチャンではない人
という意味ではなく、早く来たくても来れない事情のある人たちを待てないで、
食事をしてしまう愛や配慮のないやり方を「ふさわしくないままで」と言っているのです。
パンを分かつ群れの「ふさわしさ」が問われている聖書の箇所です。