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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

ふたりの兄弟 ルカ福音書15:31∼32

2024年11月30日 | 礼拝メッセージ要旨
 ふたりの兄弟 ルカ福音書15:31∼32
 ―11/24 札幌地区礼拝交流 礼拝説教要旨―
             三好 祐輝(月寒教会牧師)

 この物語の登場人物、お父さんは神さま。
兄は当時のユダヤの人々。弟は取税人や娼婦、病人、異邦人といった、
当時のユダヤ人社会では罪人として軽蔑されていた人々、
そしてまた、私たちのような、ユダヤ人ではないけれど神さまと
イエスさまを信じるようになったキリスト教徒を指していると
考えられています。

 この物語を読むとき、私はほっとした気持ちになります。
それは、神さまは、この例え話の父親のように、ほんとうに
優しいお方だからです。キリスト教において、罪とは神さまとの
関係の断絶のことを指すそうです。罪という言葉は原語では「的外れ」
という意味で、盗みや殺人など、何か悪いことをしたというよりは、
正しい方向、つまりは愛である神さまの方を向かずに、自分中心に
生きているという意味なんだそうです。

 弟は、自分勝手に生きるために自らお父さんのもとから
離れ去りました。罪に生きて、死んだも同然でした。
しかし、弟が飢えてお父さんのもとに帰ってきたとき、
まだ遠くにいたにもかかわらず、お父さんは急いで迎えに来てくれました。
神さまとはそういうお方であると、イエス様は教えてくださいました。
 この物語のお兄さんは弟に嫉妬し、弟にだけ甘いとお父さんに腹を立てます。
しかし、お父さんは決してお兄さんを愛していないわけではありません。
二人の息子、そのどちらをも愛し、再び家族の輪の中に誘っておられるのです。
そして、私たちもその家族の輪に加わりなさいと招いておられます。

 イエスさまは、あなたたちは神さまに愛されているのだから、
互いに愛し合いなさいと教えてくださいました。
私たちは時に憎みあうことがあるかもしれませんが、
私たちを造った神さまは、私たちを愛してくださっている。
だから私たちも神さまに喜ばれるように生きていけたらと思います。

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最高の道 1コリント12:31b~13:13

2024年11月23日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年11月17日の礼拝
「最高の道 」 
1コリント12:31b~13:13
       清水 和恵

 今日の聖書は「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所です。
教会墓地に故桑野直義さんの書による聖句は「信仰、希望、愛」。
アンケートで募りこれに決まりました。信仰・希望・愛こそが、
新発寒教会が大事にして祈りめざすこと、追い求めているといえます。
新築した現会堂の礎石の言葉も、みんなで考えて信仰・希望‣愛に
いたしました。問題はその中身です。どんな信仰。希望、愛なのか。

 パウロはコリント教会の人々に最高の道を教えます。
ひらたく言うととっておきの優れたことを知らせたいというのです。
13章全体を包んでいるのは「愛」です。ところがコリント教会の
人たちは、派閥を作り争い対立していました。
そんな問題山積のコリント教会に、パウロは愛が必要だと説きます。
愛は相互の尊重、尊敬が必要不可欠なのです。

 米国に5000万人いるといわれるキリスト教原理主義者(シオニストクリスチャン)
は基本的にはイスラエル支持ですが、イスラエルはガザに武力攻撃を続けています。
彼らなりの信仰や希望はあるでしょう。けれども、愛があるでしょうか。
ガザの人々を殺戮するィスラエルを支持するそのどこに愛があるでしょうか。
同時に私たち日本のキリスト者も責任が問われています。
無関係ではないし無関心であってはならないと思わされています

 来年1月開催の年修の講師は清末愛砂さん
(憲法学、ジェンダー法学)ですが、そのことを
丁寧にお話くださるでしょう。

 まずは知るところから始めてみたいと思うのです。
マザーテレサの言葉を思い起こします。
「愛の反対は無関心です。」

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むしろ弱い部分が必要 1コリント12:12~26

2024年11月16日 | 礼拝メッセージ要旨
 2024年11月10日 礼拝 
「むしろ弱い部分が必要「」
   1コリント12:12~26
        清水 和恵

 「むしろ弱い部分が必要」と記されたメッセージ題の看板を見て、道行く人は
一体どう思うのだろう?と思い巡らします。弱さはできれば不必要と思うのが
「一般的」な感覚ではないかと思うのです。自分の弱さは人には見せたくないのが
人の正直な思いであり、また集団、組織にとって弱い人は足手まといになるので
弊害、迷惑と思われているのではないでしょうか。
できることなら誰もが「戦力外通告」を受けたくはないでしょう。
その意味では「むしろ弱い部分が必要」という聖書の言葉は、不思議で不可解に
映るかもしれません。

 先史考古学の研究の成果により、世界各地の調査において人類は
群れの中の弱さを抱えた人を支えたり、大事に埋葬する習慣があったことが
報告されています。
 洞爺湖教会の近くの入江遺跡では紀元前1800年頃、埋葬者の中にポリオか、
筋ジストロフィと思われる人の骨が見つかっており、その人は手厚い介護を
受けて生き長らえたと推察されています。
 一般的には動物の世界では、障がいを負うものを群れ全体で支えることは
ないと言われています。

 ところが20万年前に誕生したホモサピエンス(現生人類が属する種の学名)は、
十分ではないとしても弱い人を排除したり見捨てたりしない社会を形成しよう
としたようです。
 彼らが今日まで生き長らえたのは、強かったからではありません。
むしろ弱いからこそ助け合い支えあわなければ生きのびることができない
ことを知っていたのです。
 ライバルであったネアンデルタール人は、身体能力や知性において
ホモサピエンスより優れていましたが、群れを作らなかったことが滅んだ
要因の一つと言われています。しかしホモサピエンスはコミュニケーション
能力にたけ、弱いからこそ知恵を出し合い、協力しあう仲間を作って
いきました。つまり、弱さを排除するのではなく、みんなで何とかして
生きのびる道を選んだということです。 
 弱い人はただ助けられる人なのではなく、命の尊さを照らし出す
人であり、また群れの質を高める存在であったと思います。
 人類はいっぽうで暴力をふるう残忍さもあるのですが、
人を思いやる心も持ち合わせていました。
現代人は彼ら・かの女らから共生する知恵や感性を継承しているの
ではないでしょうか。宝の持ち腐れにしてはもったいないですね。

 神の目からすると、すべての人が必要です。
わたしたちは、たとえ何もできない、役立たないと思うことがあっても、
神から与えられた役目を担っているのです。

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一人ひとりに 1コリント12:1~11

2024年11月09日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年11月3日の礼拝
「一人ひとりに 」
   1コリント12:1~11
       清水 和恵

 コリントの教会は個性的で賜物豊かな人たちの集まりだったようです。
8節以下では、その賜物について記されています。
賜物とは「神さまからの贈り物」という意味です。
知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、
霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力。
パウロはこのように賜物はいろいろあるけれども、同じ神さまによって、
限られた人だけではなく、一人ひとりに与えられていると語ります。

 「異言」を聞いたことがあるでしょうか。
私は一度だけ、学生時代の近くの教会で異言を語る教会の礼拝に出席したこと
がありました。異言は外国語とも違うつぶやきのような、耳にしたことのない全く
初めての言葉でした。もちろん意味は解りません。
そのとき、率直に感じたのが疎外感でした。
その礼拝に出席してはいけないような感覚を覚え、
二度と行くことはありませんでした。(というより、行けませんでした)

 当時のコリントの教会には異言を語る人が優位に立つような風潮が
あったようです。異言の語れない人、解らない人を見下すようなことが教会内の関係性
の悪さを助長していたと思われます。
異言の語れない、解らない人は劣等感や疎外感を感じ、
居場所のなさを覚えたでしょう。ただパウロは異言を否定していません。
 神が一人ひとりに賜物を与えるのは全体の益になるためで(7節)、
みんなのためになるような賜物の用い方が大切だと語ります。
 関係性を壊すようなことでは本末転倒です。
教会は誰か特別、特定の人の集まりではなく、誰もが招かれ神様の祝福を喜ぶところです。

 コリントの教会で起こっていたことは、ハラスメントではなかったかと推測します。
ハラスメントはリスペクト(相手を尊敬し尊重すること)がないところで起こると
言われています。
 一人ひとりに与えられた賜物を感謝し、他者へのリスペクトを忘れることなく
歩むことができますように。


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平和があるように ヨハネ福音書20:19~23

2024年11月03日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年10月27日 地区間交換講壇礼拝
平和があるように  
 ヨハネ福音書20:19∼2
    三浦忠雄(留萌宮園伝道所牧師)
  
 イエスさまは弟子たちに「平和」を告げつつ、使命を与えました。
イエスさまは続けてこう言われます。「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、
その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ。
赦されないまま残る。」(21~23節)。

 ここで「平和があるように」と二回繰り返されています。
イエスさまからの使命は「平和」がなければできないということでしょう。
自分が平和でない中で使命を行うと、それは喜びからというより、
強制(やらねばならない)ものとなり、相手にも押し付けになって
喜びではなくなるからです。

 しかも、その使命は神さまからの助け=聖霊によって行われます。
イエスさまは「聖霊を受けなさい」と語ります。
神さまのご意志で助けを送りつけてくださる。それを受け取りなさい、と。
 

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