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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

ザ・デストロイヤー マルコ2:1~2

2025年01月04日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年12月29日の礼拝
「ザ・デストロイヤー」 マルコ2:1~12
         原 和人(手稲教会牧師)

 ザ・デストロイヤーというプロレス選手がいた。
彼は現状を壊す破壊者でもあり、常に人の心を大事にした存在である。
私は彼とイエスが重なる。
 今日の箇所の「中風」は脳の血管障害で後遺症が残る病。
当時は神の怒りにふれる罪を犯し、罰を受けたという診断がされた。
中風に対してイエスは「人の子は地上で罪を赦す権威を持つ」と語り、
「あなたの罪は赦される」と「起きて、床を担いで歩け」と言うのは
どちらが易しいかと律法学者に聞く。
この「罪を赦す」が大胆な言葉だった。

 律法学者たちは「人間には価値も権威もない。
権威を持つのは神だけ」と宣言していたが、神の権威を借りて
威圧していた。対して、イエスは「人間は神のかたちに作られた
のだから、神と同じような尊い存在なのだ。
 だから一人一人に既に権威があり、一人一人が自信を持って
生きれば良い」と宣言した。

これは当時の宗教意識を壊す行為。
神の前では何の価値もない、と言われた群衆に対して、
イエスは「いや、人間こそ権威と価値と尊厳と力がある。
自らの権威を信じて生きるべきだ」と宣言した。
人間が人間の権威で生きて良い。「病や災い、ひいては運の悪さや
身分までが神の罰だ」といった迷信からは解放されなくてはならないと
語ったイエスの言葉は、当時は驚くべき発言であった。

イエスは当時の宗教のあり方を破壊するデストロイヤー。
「『神にかたどって』作られたのだから、一人一人が信頼され、
優れている」という人間への賛美の思いを表現した。
イエスは、宗教を使って神の罰という重荷を負わせるのではなく、
神の愛を信じるなら、人が人に対して辛さや重荷を取り除く、
それが宗教ではないかという問いを投げかけた。


 イエスは、「反逆者」と誹謗されても「それでもあなたを癒したい。
あなたは信頼され優れている誰もが持つ権威がある。
敢えて言おう。偉そうな人が言う罪は赦される。
起きて一人の尊厳ある人間として共に歩もう」と語り、病の人を癒した。

人の心を大事にしたデストロイヤー・イエス。で
もその存在こそがわたし達の明日へ生きる希望である。

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ベツレヘムへの旅 ルカ福音書2:1~’7

2024年12月28日 | 礼拝メッセージ要旨
「 ベツレヘムへの旅 」
  ルカ2:1~7
           清水 和恵

 2025年のカレンダーを用意されましたか?
わたしは「子どもたちをわれに来させよ」(フリック・フォン・ウーデ 1848∼1911)
にいたしました。(教会に掲示中)
 ウーデは、ドイツ印象派の画家で、聖書を題材とする作品が少なくありません。
「ベツレヘムへの旅」という絵があります。
一組の夫婦が雪の舞う寒々とした道を肩を寄せ合って歩いている場面が描かれています。
副題が「苦難の道」とあるように、二人にとってこの旅はつらい道程であると想像できます。

 ウーデはイエスの母マリアと父ヨセフを描いています。
ヨセフは大工でしたから、男性は肩に大工道具を背負っています。
女性は後ろ姿でよくわかりませんが、身重でお腹が大きいはずです。
男性によりかかって、やっと歩いている感じです。
(そうです。臨月であればスタスタと歩けません。
そのうえ、長旅で歩き疲れています。)

 ウーデはこの作品において聖書の情景を自分の生きた
19世紀のドイツに投影しています。
わたしはこの絵を見た途端「ああ、これは根雪になる前の11月か12月の
北海道だ!」と思いました。
雪と風が容赦なく吹き付ける冬の厳しさは、北国に暮らす私たちには実感できます。
 ウーデは2千年前のベツレヘムに向かうマリアとヨセフは、
今(19世紀のドイツ)に置き換えるとこんな感じになるとイメージしたのです。 
この視点は大事だと思います。
 私たちもクリスマス物語について、今ここでならどのようなことになるのか、
何を伝えているのかという視点と問いを持ちたいと思います。

 時の最高権力者、ローマ皇帝アウグストゥスが住民登録の勅令を発したために、
二人は翻弄されベツレヘム向かいました。
ところが宿屋に「居場所がなかった」とあります。
それこそがベツレヘムへの旅の困難さを象徴的に物語っています。
イエスは排除と拒絶の中に生まれました。
だからこそイエスは、人の重荷、悲しみ、苦しみ、痛みに共感し生涯、
排除と拒絶に苦しむ人と共に生き抜かれたのではないでしょうか。

 今年のクリスマスには教会聖歌隊を作って、讃美歌280番「まぶねの中に」を
賛美しましたが、歌詞はイエスの生涯を端的に表しています。
イエスの生まれた時代は「アウグストゥスの平和」と呼ばれた時代でした。
アウグストゥスは絶大な富、軍事力によって「平和」を確立しました。
しかし聖書は、真の平和の実現はアウグストゥスによってではなく、
あの貧しい飼い葉おけに眠る無力な幼子イエスによって成し遂げられることを伝えています。

 イエスが来られた目的は、居場所がない人に居場所を作り、悲しみ痛む人の友となるため、
神がいつでも共におられることを知らせるためでした。私たちはけしてひとりではない。
だから安心して神さまを信頼して生きて行こう、生きていてよかったと言える人生を
存分に味わおうと人々に呼び掛けたのです。
 それは「アウグストゥスの平和」(暴力と搾取によって成り立つ偽りの平和)
の犠牲になった人たちの命と尊厳を回復するためでした。
21世紀においても、「アウグストゥスの平和」は名前と形を変えて存在しています。
そこにあるのは小さき者の犠牲です。
けれども神はけしてそれを認めゆるしてはいません。
神の前に誰もが平等であり、命の価値の優劣はありません。
誰の尊厳も奪われてはならないのです。

真の平和の実現のために、イエスを迎え入れイエスに聴き
共に歩む者でありたいと思います。

2024年12月24日 燭火賛美礼拝メッセージ



「ベツレヘムの旅~苦難の道」 フリック・フォン・ウーデ

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来るべき方はあなたですか マタイ福音書11:2∼10

2024年12月21日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年12月15日礼拝
「来るべき方はあなたですか」 マタイ11:2~10
                  清水 和恵

 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの先駆者として描かれています。
「悔い改めよ(生き方の方向転換をすること)天の国は近づいた」と、
ヨルダン川でバプテスマを授けていました。
神の支配は近づいていて、すべての人が悔い改めに招かれていることを
呼びかけてしていたのです。
 イエスは故郷の村ナザレを出て、ヨハネに弟子入りします。
ヨハネの魅力は、権力者、支配者に妥協せず、おもねないところですが、
時の領主ヘロデに対しても批判したので、獄に捕われ殺害されてしまいます。

 今日の聖書は、ヨハネが牢に捕えられた後、イエスに対する疑問を
抱くと言う場面です。
ヨハネは弟子を送って「来るべき方(救い主)はあなたか?」と尋ねさせます。
それに対するイエスの答えは4~6節。
「見聞きしたことを伝えなさい。つまり障がい者、重い皮膚病の罹患者が癒され、
死者は生き返り、貧しい人に福音(よい知らせ)が告げ知らされている。」
それがイエスをとおして実現しているということなのです。
 当時、障がいや病を負った人、貧しい人は凄まじい差別を受け、
非人間的な扱いを受けていました。イエスは罪びとと言われ,
穢れているとレッテルを貼られ、生きる屍のような境遇に追いやられた人たちと
共に歩み、神は愛していると宣言し、人間としての尊さを回復したのです。
それがイエスのなされた癒しであり救いでした。

 そのイエスを私たちも聖書をとおして見聞きしていこうではありませんか。
そして伝えようではありませんか。
 イエスが私たちのありのままを良しとされたゆえに、生きていてよかったと
思えること。神が人を祝福のうちに最高傑作として創造されたゆえに、
自分は生きるに値する存在だということをイエスは気づかせてくれたのです。

「あなたは神に愛されている。あなたが大切だ、神に信頼して一緒に歩こう!」
と招き、解放の言葉と共にイエスは来られました。
だからクリスマスは喜ばしいのです。
そのイエスを受け入れることがクリスマスです。
来るべき方はイエス。インマヌエル(神われらと共にいます マタイ1:23)の
恵みと祝福は、すべての人に贈られています。
メリークリスマス2024!

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ひとりのみどりご イザヤ書9:1~6

2024年12月14日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年12月8日
「ひとりのみどりご「」
  イザヤ書9:1∼6
     清水 和恵

 イザヤ書は旧約聖書の中で最も新約に引用されている文書です。
特にイザヤ書の7,9,11章は、クリスマスの頃によく読まれているので
馴染みの方も少なくないでしょう。
キリスト教会は、旧約の預言をイエス誕生と重ねて読んできました。
しかし今日の聖書は、実際にはヒゼキヤ王の即位の記事を語るものだと
言われています。

  みどりごは生まれたばかりの子どもを意味します。
先日、友人が3か月の孫を連れて訪ねてくれました。
赤ちゃんてすごいですね。全身にエネルギーが満ち、
精一杯生きています。そして周りの人をにっこり、
ほっこりさせる力があります。そこにいるだけで
、そばにいる人は至福の時を感じるのです。

 自分ことで言えば確かに、子どもの存在によって親にならせてもらった、
親として人間として成長させてもらったことを思い起こしています。
おそらく、マリアやヨセフもイエスによって、同様の体験をしたのだろうと
思い巡らします。

 ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。
ここに神の語る平和のかたちがあります。
無防備で弱く小さな存在を大事にする時、そこに平和が生まれのです。
今年のクリスマス、平和を祈ることをテーマに歩んでいます。
「(戦争の象徴である)兵士の靴や軍服が焼き尽くされた」ように(4節)
平和の実現のために、争い、憎しみ、敵意、差別のすべてを
焼き尽くしましょう。
 キリストはみどりごの姿で私たちのところに来られました。
民族、人種、性、宗教などをこえて、すべての人のところに!

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女性の沈黙? 1コリント14:33b~40

2024年12月07日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年12月1日の礼拝
「女性の沈黙?」 1コリント14:33b∼40
              清水 和恵

  このテクストをみなさん、どう読まれるでしょうか。
聖書を読むとき、私たちは聖書の書かれてあることはみな
正しいと思っているのではないでしょうか。
 しかし、聖書を読むときは、当時の時代背景を考慮し、
かつ注意して読む必要があります。

 聖書は西欧社会において人々の生活や価値観に良くも悪くも
大きな影響を与えてきました。キリスト教会が権力を持ち支配
していた時代に、聖書は誤りなき「神の言葉」として権威をもって
教えられてきました。たとえば今日の聖書は、明らかに女性を差別する
表現ですし、男性優位社会を支えるのに役立ったと思いますが、
はたして正しき「神の言葉」なのでしょうか。

 コリント教会は、自由で開放的な雰囲気があったと思われます。
神の前に誰もが平等であって、女性の指導者や預言者が活躍しておりました。
(『彼女を記念して』エリザベス・フィオレンツァ。
『パウロとコリントの女性預言者たち』アン・ワイアなど参照)
 パウロも彼女たちの働きを否定していません。
ところが「教会では婦人たちは黙っていなさい。
婦人たちには語ることが許されていません・・・・・
わたしがここに書いたことは主の命令と認めなさい」と語るパウロは、
とても高圧的ですね。
 家父長制の縛りのある時代、女性たちは沈黙を強いられましたが、
教会で語り続けました。私たちの聖書の読み方によっては性差別
(他の差別も)を補強し増幅することがあると思うのです。
 聖書のメッセージは多面的です。その聖書をどう読んでいくのか。
行間に埋もれてしまった声を聴きとることも大事です。
創造的な聖書の読み解きにチャレンジしてみたいと思います。
言語化されてませんが耳を澄ませば、聴こえてくる声やメッセージがあります。

【おまけの話】
 歴史をふりかえるとこれまで、「女性」というだけで差別され、
その豊かな才能や働きが埋没させられ日日の目を見ることはなかった
事例が、わんさか出てきます。
どの分野においてもそうですが、実にもったいない話だと思います。

一人のたぐいまれな才能をもった画家を思い出します。
17世紀イタリアのアルテミシア・ジェンテレンスキ(1593∼1652)という女性の画家は
女性であるというだけで認められず、美術教師から性被害を受け、その後の
教会での裁判でも2次被害を受け、巷でもだらしない女というレッテル貼りが
なされるなど、貶められてしまいます。しかし1970年以降、再評価される
ようになりました。そのあたりは美術評論家の若桑みどりさんなどが、
紹介しています。
 かのじょの作品に「ホロフェルネスの首をはねるユディト」が、あるのですが
聖書続編のユディト記をモチーフに描きました。同時代の巨匠、カラバッジョ
(1571∼1610)も同名の作品を描いているのですが、全然迫力が違います。
最も違うのは女性の描き方、一目瞭然です。断然、ジェンテレンスキのほうが
迫るもの、訴えるものがあり惹きつけられます。
この作品は、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されています。
観に行かなくちゃ・・・と思っています。


  カラバッジョ「ホロフェルネスの首をはねるユディト」


  アルテミシア・ジェンテレンスキー「ホロフェルネスの首をはねるユディト」

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