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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

こうして平等になる ⓶コリント:1~15

2025年03月16日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年3月9日の礼拝
 「こうして平等になる」
  Ⅱコリントの信徒への手紙8:1~15
               清水和恵

 8∼9章において、エルサレム教会への献金の勧めが記されています。
乏しいエルサレム教会への献金をめぐって、マケドニアとコリントの教会は
対照的でした。前者は貧しかったのですが自発的に献金し、
後者はあらゆる面で豊かだったのに消極的でした。
コリント教会は、最初は献金していたものの、いつのまにか停滞していったようです。

 パウロは均等さを願っていました。
より豊かな側から貧しい側へお金が動くことで、格差を縮め平等になって
いくことを思い描いたのです。パウロは出エジプト記16章のマナの物語を引用して、
必要なものは与えられる、受けた恵みを分かち合うよう勧めます。
 献金は神の働きに参加することです。

 教会の活動はすべて献金によってなされていますが、
献金に消極的な教会は致命的です。献金は他者を覚えて祈り、支えることですが
もし「無関心」であれば,献げることにはつながりません。
 マザーテレサは、「愛の反対は無関心」と語りました。
マザーの言葉を借りるならコリント教会には愛がなかった、
貧しいエルサレム教会が見えなかったのでしょうか。

 逆に愛があるとは、関心を持つ、関わることでしょう。
その関わりにおいて必要なのは相手への想像力であり共感です。
パウロは1コリント12:26∼で教会はキリストの体であって、
有機的な集まりだと説きます。
一つの部分が苦しむならすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば
すべての部分が喜ぶのです。
 神にあって、つながる恵みと連帯に生かされたいと願います。

※こぼれ話
マザーテレサは「愛の反対は無関心」と言いました。
沖縄のガンジーと言われた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう/1901∼2002)は、
米軍共生土地接収に反対する反基地運動をリードした方です。
阿波根さんは、「平和の反対は無関心」と言いました。
17歳でクリスチャンになった阿波根さんは、生涯、イエスの非暴力と平和に倣い
実践された方と思います。
1996年、わたしは晩年の阿波根さんにお会いすることができました。
おだやかに語るひとつひとつの言葉に、心に染み入るものがありました。

また、アイヌ民族の原田公久枝さんは最も冷たい差別は無関心と述べています。
(北海道新聞2025年3月16日 旭川・上川版)

そうこうしているうちに、キング牧師の言葉が、わたしのもとを訪れました。
「最も悲劇的なのは、悪人の辛辣な言葉や暴力ではなく、善人たちの恐ろしいまでの
沈黙と無関心である。沈黙は暴力の陰に隠れた同伴者である。」



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心を開いて 2コリント7:2~16

2025年03月08日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年3月2日の礼拝
 心を開いて  Ⅱコリントの信徒への手紙7:2~16
                   清水和恵
  パウロとコリント教会の人たちの間には、深刻なわだかまりがあったことが、
2コリント書を読むとうかがえます。
 2節には「心を開いてください」とパウロは書いています。
心を開くとは「広くする、寛容になる、親しくなる、率直に、打ち解ける、信頼する」
と言った意味があります。両者には心を開くことのできない事情があったのです。

 礼拝の司式者が「これから語る○○牧師に力を与え、み言葉が十分に伝えられますように。
聴く私たちの心を開いてください。」と祈ってくださるのを、耳にすることがあります。
聖書の言葉は、心が開かれないと、聴く側には充分に響いてこないのでしょう。
聖書のメッセージがより深く響くには耳だけで聴くのではなく、
心を柔らかくして聴くことがコツかもしれませんね。

 パウロはコリント教会の人々に対してこうも言っています。
「わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました」(6:11)
ここの原意は「コリントの人々よ、私達の口はあなた方に向かって開かれている。
私達の心は広げられている」です。
 パウロは心を開き口も閉ざしてはいない。むしろ対話する用意ができている。
だからあなたたちも、どうか心を開いて対話してほしい、との願いが溢れているのです。
これらのパウロの言葉から、教会の交わりについて深く考えさせられます。
 教会は人の集まりですから、対立や軋轢が生じることがあると思います。

 もし和解を望むのだったら心や口を開くことなしに、それはなし得ないと
思います。教会はキリストの体と言われます。つまり有機的な繋がりがあります。
わたしが苦しめば誰かが苦しむし、誰かが苦しめばわたしも苦しみ、
そしてキリストも苦しむのです。
 しかし互いに心を開き、尊重しつつ対話が始まる時、教会が教会(キリストの体)
となっていくのでしょう。そこに大きな喜びがあります。

 3/5(灰の水曜日)からレントに入ります。
レントは自分の信仰を見つめ直し、更新する機会であると同時に、
教会から離れてしまった人たちを覚えて祈る時とされてきました。
平和や和解が必要なところに、神様が働いてくださり対話への道が
開かれますように。
それぞれのレントの歩みが平安のうちに導かれますように。

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今や、恵みのとき 2コリント6:1~16

2025年03月02日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年2月23日の礼拝
「今や、恵みのとき」 Ⅱコリントの信徒への手紙6:1~16
                清水和恵

  新発寒教会には「お宝」がたくさんありますが、
その中の一つは教会の玄関に掲げている作家、三浦綾子さんの自筆の色紙でしょう。
2コリント6:2の聖書(口語訳)の言葉「見よ、今や恵みの時」と
書かれてあります。なぜ「お宝」かというと、2018年に三浦綾子の研究者である
森下辰衛さんを、講演会でお呼びしたときにこの色紙を見るなり
「綾子さんは、いろんな聖句を書いていますが、この箇所はとても珍しい。
お宝です。」と言って写真を撮られていたことによります。

 この箇所をめぐってさまざまな翻訳がなされています。
たとえば「今こそ恵みの時」(聖書協会共同訳)「さあ、今こそ恵みをいただく時」
(フランシスコ会訳)「確かに今は恵みの時」(新改訳) 
「見よ、今こそ絶好の時」(岩波訳) 「さあ今こそ、そのしかるべき時」(本田哲郎訳)
 「見よ、今は良くふさわしい時」(田川建三訳) 

 どれも味わい深いですね。
こんな時、では原文(ギリシア語訳)ではどうなのか?と知りたくなりますね。 
調べましたら「見よ、今は絶好の時」とありました。
岩波訳が近いようですね。
そして「見よ」という言葉があり、「恵み」ということばがありません。
おそらく新共同訳などで「恵み」と訳されているのは、
1節の「神の恵みを無駄にしてはいけない」や2節「惠みの時」
(イザヤ書49:8の引用)を受けているからだと思われます。 

 「見よ」という言葉は、聖書にしばしば出てきます。
古風ですが「ぜひ、大切なこと、知ってほしいことなので注目してください」
という意味で使われていると思います。
それにしても、言葉を見るとはユニークですね。言葉は「聞く」というのが
一般的でしょうから。
 
 ところがパウロは4節以降に記されてあるように、ありとあらゆる
苦難の経験をしています。まるで苦難のデパートです。
何度死んでもおかしくない凄まじい苦難の中で、
パウロはどうして「見よ、今は恵みのとき(絶好の時)、救いの日」
と言うことができたのでしょうか。

 それは共におられる神への信頼だと思います。
神はパウロの味方であって、苦難の時けして見捨てることがなく、
パウロに共感し一緒に苦しんでくださるという信頼です。
しかしそれだけではありません。その先があります。
 
 ローマ書8:28でパウロはこう語っています。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを私達は知っています」
 これぞ「見よ!」 注目すべき言葉です。
まさに信仰の確信であり醍醐味です。
神への信頼のゆえに、すべてがよい方向へ働くことをパウロは予見し、
神にすべてを委ねていたと言えるのです。

 パウロは、今を強調します。
決定的な絶好の今!です。明日でも明後日でも1週間後でもありません。
神の恵みを受ける時は今です。
 そういえば、林修さんというタレントで、予備校の先生が
発した言葉「いつやるか。今でしょ!」が、2013年度の新語・流行語大賞を
とり話題になりました。
 でも元祖「今でしょ!」は、パウロです。

神の言葉をいつ聞くのか。
今でしょ!とパウロは語ります。
今、このとき神さまは何を語るのか、耳を澄ます者でありたいと思います。

※こぼれ話
メッセージ題を「今や、恵みの時」としました。
できるなら三浦綾子さんの筆を真似て書こうとしましたが、うまくいきません。
特に「恵」という字、うまく書けません。
わたしの名前の一部なんですけれども・・・。



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日々、新たにされる 2コリント4:16~18

2025年02月25日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年2月16日礼拝
 「日々、新たにされる」 Ⅱコリントの信徒への手紙4:16~18
                      清水和恵

 「聖書を読むコツはテクストの前後を読むことだ」と教わったことがあります。
するとここはこんな風につながっているとか、ここは強調された箇所であるとか
新たな発見があります。
 たとえば、今日の箇所は3節しかありませんが味わい深いですね。
この聖句が大好きという方が私の周りでは多いです。

 では、ここの箇所の前後はどうつながっているかと言えば、
たとえば前段4章の初めから読むと、今日の箇所は最後の部分として読むことができるし、
または16∼18節は新たな始まりとして、5章10節まで一区切りとしても読めます。
新共同訳聖書では「信仰に生きる」と小見出しをつけて4:16∼5:10までを
一区分としています。つまり今日の聖書は始まりとも締めくくりとも、
どちらでも読めるわけです。

 さて、パウロは壊れやすい土の器に過ぎない人間の存在の中に、
素晴らしい宝が納められているので落胆しないと語り、
『たとえ私たちの「外なる人」が衰えていくとしても、「内なる人」は
日々新たにされていきます。』と言葉を続けます。

 外なる人の衰えとは、端的に言うなら私たちの肉体の衰えでしょうか。
では「内なる人」はどういう意味でしょうか。
わたしは「外なる人」が肉体であるなら、「内なる人」は精神や心ではないか
と思っていました。 
 しかし肉体が衰えると気力が落ちたり溌溂さがなくなっていく、ということ。
個人差はありますが、肉体が弱まると精神や心は元気も
なくなっていくことを経験者は承知済みでしょう。
「病は気から」とか「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
という言葉があるように、肉体と精神や心の健康は連動しているように思います。
 たとえば、やる気がなくなるのは体力がなくなるときであったり
、または体力がなくなるとやる気もなくなるということは、よくあります。

 そして年を重ねるたびに「外なる人」である肉体が衰えていくのに
「内なる人」が日々新たにされる、というのはある意味、違和感を感じますが、
パウロによると今はやりのアンチ・エイジング(抗老化)の話ではなさそうです。
つまり若返りの話ではないのです。

 では「内なる人」はなにか!それは私たちの内にある宝、キリストに生かされ、
キリストと共に生きる人ではないかと思います。
私達は土の器であって、弱くてもろい存在です。
けれどもパウロによれば頑張って強くなる必要はありません。
そのままでいいのです。たとえだんだん弱くなっていっても、
キリストが私達のうちに宿り生かされる恵みがあります。
キリストという宝に気づくことで、いのちや人生の質は高められるでしょう。

 日々新たにされるとは、リニューアル(古いものが新しくされる)という
意味のようです。再開、復活という意味もあります。
その新しさは、ニューよりはフレッシュに近いイメージを抱きます。
日々新たにされる喜びを味わいましょう。

※こぼれ話
教会員に熊谷妙子さんという方がおられました。
毎年、お誕生日には「わたしは誕生日を迎えるたびに若くなります」
とわたしたちに語ってくださったことが、心に残ります。
その意味は、単なる「若返り」とうことではないように響きました。
キリストと共にある命、キリストと共にある人生がますます
豊かにされ生き生きとするということだと、思います。
これはまさひパウロの言う、日々新たにされる「内なる人」のありようですね。

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土の器の中の宝 2コリント4:7~15

2025年02月15日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年2月9日 礼拝
 「土の器の中の宝 」 Ⅱコリントの信徒への手紙4:7∼15
                       清水和恵
 コリントは紀元前7世紀ころから陶器の産地として有名でした。
おそらく器に精通した人々が多く住んでいたと思われます。
日常的に使う器から、芸術作品に至るまで焼き物が溢れる町の人々に
パウロは「わたしたちは土の器であって、その中に宝を納めている」と語ります。
その宝とはイエス・キリストです。
それはパウロの体験による自己理解でもあったでしょう。

 自分の設立したコリントの教会に背かれて挫折感を抱くパウロは、
激しく悪口を言われています。10章10節では
「手紙では、重々しいけれど実際に会ってみると弱弱しくしく話もつまらない」
と言われ、またパウロはキリストの直接の弟子でないため、
「偽使徒」疑惑がありました。つまり、信用のおけない人と思われていた
ようです。

 想像逞しくすると、パウロはコリント教会の人から
「あなたは土の器に過ぎないではないか」と揶揄されていたのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、パウロはそれを「逆手」にとって、話を展開したのでしょう。

 土の器とは焼き物の中で最も壊れやすい素焼きの土器です。
思い浮かべやすいのは、植木鉢です。
パウロは自らも,もろく弱い土の器であることを認識したうえで、
しかしその中に神から来た並外れた偉大な力が宿っていることを確信するゆえに、
四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても
見捨てられず、打倒されても滅ぼされないと希望を抱くのです。
すなわち「外側、表面がどうであれ中身が肝心ではないか」と言ってるわけです。

 10節以下、パウロはイエスの死を身体にまとっていると言います、
ここでの「死ぬ」という言葉は殺されるという言葉です。
十字架で殺されたイエスの死をパウロは着ているというのです。
(ちょっと、こわいですね・・・・)

 イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」
(マルコ15:34)と叫びました。それは神と人に捨てられたイエスの死でありました。
けれども神はその死からイエスを起こした、と聖書は証言しています。
パウロはイエスを復活させた神が自分をも復活させてくださるのだと信じています。
神がイエスを復活させたのだったら、イエスの死を着ている自分を、神が復活させないはずが
ないという、確信があったのでしょう。
そして15節はなぜパウロが福音を伝えているのか、その目的が記されています。
「すべてこれらのことは、あなた方のためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、
感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためです」 

 ここで「栄光に帰する」という言葉が、記されていますが聖書ではよく出てきます。
端的に言うなら「神を神としてほめたたえる」という意味です。
バッハはルター派の敬虔なクリスチャンでしたが、自筆譜の最後にSDGと書きました。
これはソリ デオ グロリア(ただ神にのみ栄光)というラテン語の頭文字です。
バッハほどの天才であれば、自分に栄光を帰してもいいはずですが、
そうしませんでした。
そこにクリスチャンであったバッハの信仰者の真骨頂というべき、
信仰告白と祈りをみます。

 今年も2・11集会が開催されます。
かつてキリスト教会は神ではないものに栄光を帰し、神として拝むことを強要され、支持し
戦争に突き進んだ時代がありました。
その時代を繰り返してはならないと思います。
これから、どんな社会を作っていくのか、今を生きる私達は問われています。

※こぼればなし・・・
 パウロは口下手?
 話すのが、器用ではなかったのでしょう。
 おっと、ここで「器」がでてきてしまいました。
 器用とは、文字通り、器としてしっかりと用いられるということなんでしょうね。

 この聖書の箇所を読んでいて、ぐるぐる思い浮かんだ歌は・・・
 残念ながら讃美歌ではなく、昭和の大ヒット曲「いっぽんどっこの唄」
 チーターこと水前寺清子さんが歌っていました。
 「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」
 
 2コリントの聖書テクストとこの歌の共通しているのは、
 人はみかけじゃななく中身が肝心ということでは、ないでしょうか。
 けれども、決定的に違うのはいっぽんどっこのほうは、自分のすばらしさを謳い
 パウロはキリストのすばらしさを謳っているんですね。
 

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