2025年3月9日の礼拝
「こうして平等になる」
Ⅱコリントの信徒への手紙8:1~15
清水和恵
8∼9章において、エルサレム教会への献金の勧めが記されています。
乏しいエルサレム教会への献金をめぐって、マケドニアとコリントの教会は
対照的でした。前者は貧しかったのですが自発的に献金し、
後者はあらゆる面で豊かだったのに消極的でした。
コリント教会は、最初は献金していたものの、いつのまにか停滞していったようです。
パウロは均等さを願っていました。
より豊かな側から貧しい側へお金が動くことで、格差を縮め平等になって
いくことを思い描いたのです。パウロは出エジプト記16章のマナの物語を引用して、
必要なものは与えられる、受けた恵みを分かち合うよう勧めます。
献金は神の働きに参加することです。
教会の活動はすべて献金によってなされていますが、
献金に消極的な教会は致命的です。献金は他者を覚えて祈り、支えることですが
もし「無関心」であれば,献げることにはつながりません。
マザーテレサは、「愛の反対は無関心」と語りました。
マザーの言葉を借りるならコリント教会には愛がなかった、
貧しいエルサレム教会が見えなかったのでしょうか。
逆に愛があるとは、関心を持つ、関わることでしょう。
その関わりにおいて必要なのは相手への想像力であり共感です。
パウロは1コリント12:26∼で教会はキリストの体であって、
有機的な集まりだと説きます。
一つの部分が苦しむならすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば
すべての部分が喜ぶのです。
神にあって、つながる恵みと連帯に生かされたいと願います。
※こぼれ話
マザーテレサは「愛の反対は無関心」と言いました。
沖縄のガンジーと言われた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう/1901∼2002)は、
米軍共生土地接収に反対する反基地運動をリードした方です。
阿波根さんは、「平和の反対は無関心」と言いました。
17歳でクリスチャンになった阿波根さんは、生涯、イエスの非暴力と平和に倣い
実践された方と思います。
1996年、わたしは晩年の阿波根さんにお会いすることができました。
おだやかに語るひとつひとつの言葉に、心に染み入るものがありました。
また、アイヌ民族の原田公久枝さんは最も冷たい差別は無関心と述べています。
(北海道新聞2025年3月16日 旭川・上川版)
そうこうしているうちに、キング牧師の言葉が、わたしのもとを訪れました。
「最も悲劇的なのは、悪人の辛辣な言葉や暴力ではなく、善人たちの恐ろしいまでの
沈黙と無関心である。沈黙は暴力の陰に隠れた同伴者である。」