2025年3月23日礼拝要旨
「惠みは十分」
2コリント12:1~10
清水 和恵
パウロは「誇り」のかたまりのような人でした。
出自、家系、業績、環境、ユダヤ人にとってはとても大事な律法遵守など、
非の打ちどころがないと告白しています。(フィリピ3:4~8)
ところがそれら誇れるものを損失、塵あくたになったと付け加えます。
なぜでしょうか。それはキリストを知る素晴らしさのゆえだと言うのです。
キリストとの出会いにより、パウロに価値の大転換が起きました。
2コリント書で展開されている「力は弱さの中で発揮される
(別訳では完成される)。わたしは弱い時に強い。
キリストの力が私の内に宿る様に、
むしろおおいに喜んで自分の弱さを誇ろう」は
その代表的なものです。
しかしはたして、人間は自分の弱さを誇れるものなのでしょうか。
パウロの働きは、キリスト教史に燦然と輝くものです。
当時の国際語であったギリシア語を駆使し、地中海世界を自由に
移動できるコスモポリタン(国際人)であり、各地に教会を建て、
文書を残しそれが新約聖書におさめられています。
しかしその彼も弱さを抱え、挫折もしています。
彼が「トゲ」と呼ぶ苦しみがありました。
何らかの病気と考えられています。目の病気、発作、メンタルなど・・確定はできませんが
相当、彼を痛め悩ませ苦しめたものです。
それを癒してほしいと神に祈るのですが、答えは「神の恵みは十分」。
神は癒してあげようとも言わず、今のままでトゲの刺さってままで
いきなさい,というものでした。冷淡な感じもしますが、病気が治ったら、
恵みは十分ということではなさそうです。
ただ、今のあなたの弱さと思える中に働く神の力があって、
その支えを信頼するゆえに強いと言えるのです。
パウロはいまいましいトゲが刺さった自身の中に、
自分の力とは全く異なる次元の力を発見しました。
信仰とは、その力の発見です。
神の力は世の中で強さに象徴される誉れや評価が得られるところ
ではなく、見向きもされない弱さの中にこそ働くと、
パウロは確信しました。
神の力は私たちの想像を超えて働きます。
たとえば私達も困った時、ふしぎと人に助けられることがあります。
これもまた、神の力が働いたのではないでしょうか。
神は人を介して働き、恵みを表わされるのです。
私達も助けを必要としている人、弱っている誰かの支えとなることが
できますように。
神の働きかけに応えていきたいと思います。
※こぼれ話
マザーテレサは、珠玉の言葉を残していますが、しばしば意表をつく
言葉も発しています。たとえば
「自分が弱いということを知っている限り、安全です」
逆にいうと、そうでない場合は危険ということでしょうか。
一体何において安全だったり危険だったりするのでしょうか。
また、マザーはこんな言葉も残しています。
「自分の弱さに固執するよりも、神の愛を強く信じる時
神は大いなることをなすためにあなたを用いられる」
何だか、パウロと重なるものを感じます。