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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

鶏が鳴く前に マタイ26:69~75

2025年04月20日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年4月13日の礼拝
「鶏が鳴く前に」  マタイ26:69~75 
          清水和恵

 ペトロの否認の場面(26:69~75)は、イエスのペトロ離反の予告
(26:31~35)に対応しています。
「鶏が鳴く前にあなたは3度、私を知らないと言うだろう」
 イエスの言葉は見事に的中し、ペトロは呪いの言葉すら吐き、
イエスとの関係を否定してしまいます。するとすぐに、鶏が鳴きました。
イエスの言葉を思い出したペトロは号泣し、後悔と情けなさと、
心はドロドロです。大事な人を裏切った悲しみで一杯です。

 けれどもペトロは涙を流すことで救われたのです。
涙は「さんずい」に戻ると書きます。どこに戻るでしょうか。
それは本来のペトロに戻るためです。
イエスを否定し、自ら遮断してしまった関係を修復し、
再び共に歩みだすためです。

 泣くとは「さんずい」に立つと書きます。
ペトロは再び立ち直るため、立ち上がるために、激しく泣いたのです。

ルターはこのペトロの否認の場面について語っています。
「もしペトロの肖像画を描くとしたら、髪の毛一本一本に
『罪の赦し』と書くだろう。」
 髪の毛一本一本とは、たくさんという意味でしょう。
人間はそれほど罪深いのかもしれません。
しかしルターはそのすべてを神は赦されると言ったのです。

 鶏は早朝に鳴き夜明けを告げます。
その鳴き声は、ペトロが今何をしたのか、何者なのかを気づかせる
サインでした。悔いるペトロにイエスの赦しがありました。
私たちにも気づきや悔い改めのサインが送られているのでは
ないでしょうか。
 誰でもそのサインに気づき、イエスの恵みを受け取る時、
その人の夜明けは訪れているのです。

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祝福のうちに遣わされる 2コリント13:11~13

2025年04月12日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年4月6日
「祝福のうちに遣わされる」  Ⅱコリント13:11~13  
              清水和恵

 コリント教会へのパウロの勧めの言葉です。
「喜びなさい、完全な者になりなさい、励まし合いなさい、
思いを一つにしなさい、平和を保ちなさい。互いに挨拶をかわしなさい」 

ここの箇所は実行するにはどれも難しいと思いますが、最も難しいのは
「完全な者になりなさい」ではないでしょうか。
「完全な者っていったい何?パウロさん」と、つっこみたくなりますね。
それは完全な者になろうとしても到底なれない自分であることを、
私達は知っているからです

 ここで使われているカタルティゾーという言葉は、完全にするの他に、
正常の状態に戻す、用意する、繕う、補う、創造すると言う意味があります。
聖書学者の田川建三さんは「回復され」と訳しています。
 つまりこのカタルティゾーとは、もともとあったものが欠けてしまった、
そのところをまた元どおりに修復すると言う意味です。
しかもコリント教会が自力で頑張って完璧になりなさい、
という意味ではありません。

 コリント教会は、欠けだらけ、問題だらけでした。
しかしパウロは、欠けたところを神が補われる希望を語っているのです。
わたしたちも欠け、破れの多い者ですが、その欠けや破れを繕い、
補う方によってやがて回復されていくのです。
 これは今、朝ドラで放映している「あんぱん」のモデルになった、漫画家やなせたかしさんの
作品に登場するアンパンマンとジャムおじさんの関係を思い起こしますね。
アンパンマンは完璧ではなく、弱さを持つヒーローですが力を失った時、
ジャムおじさんが新しい顔を焼いて元気100倍にします。
 ジャムおじさんはいつも、アンパンマンの味方です。
それは神と人間の関係にも似ています。

 13節は礼拝の祝祷に用いられる言葉です。
私達の教会では「祝福と派遣」としています。
礼拝で神から豊かな祝福と力をいただいてそれぞれの場へと遣わされます。

 学生時代、ユースホステルが全盛でよく利用したものでした。
どのユースでもスタッフは旅人を迎える時「お帰りなさい」
送りだす時は「行ってらっしゃい」と、声をかけていました。
まるで家(ホーム)のようです。
 教会もそうです。
そのために教会は安心、安全なところでないとなりませんね。
私達は7日の旅路を終えて教会に帰り、癒され力を得て
神の豊かな祝福のうちに遣わされていきます。
日曜日は週の始まりにして、キリスト者の生活の中心です。

 新しい一週間と新しい年度が始まりました。
どのような旅になるでしょうか。どんな出会いが待っているでしょうか。
神の愛を証し分かち合い、平和を造りだしていくことができますように。
傷つき悩み迷っても私達はひとりではありません。
私達には帰るところがあり、癒され再び歩みだすことができます。
キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私達と共にあります。
神にゆだね安心して歩み始めていきましょう。
それぞれの旅路が平安のうちに守られますように。


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その時イエスは輝いて マタイ17:1~13

2025年04月05日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年3月30日 地区有志教会オンライン礼拝
「その時イエスは輝いた」 マタイ福音書17:1~13  
        杉本和道(真駒内教会牧師)

 聖書には、しばしば、限られた人々だけが体験した出来事が書かれています。
主イエスと◯◯といったように、ある意味では個人的な体験、
秘められた体験のはずの出来事が、敢えて記されます。
 きっとそれは、公にされることで、それを聞く者、
それを読む者に告げ知らせたいことがあるからです。

 今日、多くの方にお読みいただいた主イエスの山上の変容の物語も、
わたしたちに伝えたいことがあるはずです。福音書の書き手も、
伝えたい何かがあるからこそ、筆をとり書き記したのです。
それを読む者、それを聞く者への思いを持って。

  「主イエスが光り輝いた」この出来事は、神の愛の現れだと
確信しました。神は、主イエスの受難の意味をあらかじめ伝えて
いてくださいました。神の愛は、今も働いてくださっています。
聖書を通して、後の世に生きる、キリストの跡に続こうとする人々の
ことをも、神は導いてくださいます。

 ※礼拝では、聖書記者マタイを杉本和道さん、
ペトロを三好祐輝さん、ヤコブを原和人さんが扮して朗読劇仕立てで
メッセージが語られました。
 また聖書朗読も各教会から動画を繋いでなされました。
オンライン礼拝ならではのメリットですね。
またこの日は、地区内から琴似中央通、手稲、北部、元町、新発寒、
月寒、東札幌、真駒内の諸教会が参加しました。
地区外からも新得、美唄、滝川二ノ坂、江差、渡島福島教会が
新たに参加しました。

そのうちに、教派を超えて全国は勿論、海外からも参加があるかも
しれませんね。また諸事情で対面の礼拝に参加できない方も、
環境が整えばオンラインでしたら参加することができます。
様々に試みて礼拝の可能性が広がるといいですね。

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惠みは十分 2コリント12:1~10

2025年03月29日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年3月23日礼拝要旨
「惠みは十分」
  2コリント12:1~10
        清水 和恵

 パウロは「誇り」のかたまりのような人でした。
出自、家系、業績、環境、ユダヤ人にとってはとても大事な律法遵守など、
非の打ちどころがないと告白しています。(フィリピ3:4~8)
ところがそれら誇れるものを損失、塵あくたになったと付け加えます。
なぜでしょうか。それはキリストを知る素晴らしさのゆえだと言うのです。
キリストとの出会いにより、パウロに価値の大転換が起きました。

 2コリント書で展開されている「力は弱さの中で発揮される
(別訳では完成される)。わたしは弱い時に強い。
キリストの力が私の内に宿る様に、
むしろおおいに喜んで自分の弱さを誇ろう」は
その代表的なものです。
しかしはたして、人間は自分の弱さを誇れるものなのでしょうか。

 パウロの働きは、キリスト教史に燦然と輝くものです。
当時の国際語であったギリシア語を駆使し、地中海世界を自由に
移動できるコスモポリタン(国際人)であり、各地に教会を建て、
文書を残しそれが新約聖書におさめられています。
 しかしその彼も弱さを抱え、挫折もしています。
彼が「トゲ」と呼ぶ苦しみがありました。
何らかの病気と考えられています。目の病気、発作、メンタルなど・・確定はできませんが
相当、彼を痛め悩ませ苦しめたものです。
それを癒してほしいと神に祈るのですが、答えは「神の恵みは十分」。
神は癒してあげようとも言わず、今のままでトゲの刺さってままで
いきなさい,というものでした。冷淡な感じもしますが、病気が治ったら、
恵みは十分ということではなさそうです。

 ただ、今のあなたの弱さと思える中に働く神の力があって、
その支えを信頼するゆえに強いと言えるのです。
パウロはいまいましいトゲが刺さった自身の中に、
自分の力とは全く異なる次元の力を発見しました。
 信仰とは、その力の発見です。
神の力は世の中で強さに象徴される誉れや評価が得られるところ
ではなく、見向きもされない弱さの中にこそ働くと、
パウロは確信しました。

 神の力は私たちの想像を超えて働きます。
たとえば私達も困った時、ふしぎと人に助けられることがあります。
これもまた、神の力が働いたのではないでしょうか。
神は人を介して働き、恵みを表わされるのです。
私達も助けを必要としている人、弱っている誰かの支えとなることが
できますように。
神の働きかけに応えていきたいと思います。

※こぼれ話
マザーテレサは、珠玉の言葉を残していますが、しばしば意表をつく
言葉も発しています。たとえば
「自分が弱いということを知っている限り、安全です」
逆にいうと、そうでない場合は危険ということでしょうか。
一体何において安全だったり危険だったりするのでしょうか。
また、マザーはこんな言葉も残しています。
「自分の弱さに固執するよりも、神の愛を強く信じる時
 神は大いなることをなすためにあなたを用いられる」

何だか、パウロと重なるものを感じます。

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ネットワークへの招待 2コリント9:1~15

2025年03月22日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年3月16日の礼拝
「ネットワークへの招待」  Ⅱコリントの信徒への手紙9:1~15
                 清水和恵
 パウロは困窮するエルサレム教会を支援することにおいて、
主にあって繋がる恵みの豊かさを強調したかったのではないでしょうか。
それは繋がりや連帯や分かち合いによって互いに豊かにされていく
ネットワークへの招きでした。
 新発寒教会は2016年に新築をし、2024年に借入金を完済しました。
最初は途方もない計画に思えましたが、全国から温かな支援があり
成し遂げることができました。
 この会堂建築をとおして新たな繋がりが与えられました。
毎週の祈祷会では、献金してくださった教会、個人を覚えて感謝と
執り成しの祈りをささげお便りを書きました。
 この会堂建築事業がなければ、もしかしたらずっと知り合うことも
できなかったかもしれない方々や教会もあると思います。
ある教会から「新発寒教会と共に歩めることを感謝いたします」
というお便りをいただきました。大いに励まされました。
中には私たちの教会よりも、財政的にけして豊かではない教会からの献金がありました。
また切り詰めた生活の中から、精一杯の捧げものをしてくださった方もおられます。
この経験から私達もささげる恵み、繋がる喜びを学びました。

 元北海教区幹事の小西二巳夫さんの言葉を思い起こします。
「献金なき連帯は絵に描いた餅」 絵にかいた餅にならない連帯、
それは無関心にならないこと、想像力と共感が求められているのだと学びました。
 献金はあくまでも自発的、主体的、信仰的な行為です。
強制ではありません。無理をしなくていいのです。ただ献金はいっぽうで神さまの働きの参加であることを
会堂建築の業をとおして確信いたしました、

 ネットワークのネットは網目のことです。
この網目を繋ぐことで、無数に関係性が広がっていきます。
そこにうれしい出会いや再会があります。
新発寒教会は、そのうれしい体験をいっぱいいたしました。
それはこれからも続きます。
みなさんと繋がり合えるめぐみを感謝して。


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