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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

恐れないで 1コリント15:50∼58

2025年05月24日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年5月18日の礼拝
「恐れないで」  1コリント15:50~58
          清水和恵

讃美歌21-317はマルチン・ルターの作詞作曲です。
1コリント15:50∼58をもとに、全編にわたってキリストの
十字架と復活を歌っています。
 そのルターの時代から200年後、バッハが登場し
(ルターとは、アイゼナッハの聖ゲオルグ教会付属ラテン学校の同窓)、
ルターの讃美歌をもとに「教会カンタータ第4番」を作曲しました。
教会のイ―スター礼拝で演奏されたものです。
8曲からなりますが、今日はCDより合唱の部分を聴きます。
バッハの作品でも傑作と言われていますが、これを20代前半で創作したのですから
その才能に驚かされます。敬虔なルター派の信者であったバッハは、
音楽において見事に福音を表現し、聖書の言葉を下支えしたといえます。
そしてルターなくしてバッハは存在しなかったと思います。

 復活信仰はキリスト教の核心です。パウロは朽ちるはずの人間が、
世の終わりのときに朽ちない者とされると語ります。
神は死をも支配し勝利するのです。
 その希望に生きる時、わたしたちは死への恐れから解放されます。
絶対的な神の恵みに捕えられているからです。
さらにパウロはそのうえで、今をどう生きるのかを語ります。
「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」(58節)
復活の希望は、私たちに今何をどうしていくのか神が課しているものは
何かを見極めつつ、今日を存分に生きる視点を与えるのです。

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復活のいのちに生かされる 1コリント15:12∼22

2025年05月20日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年5月11日の礼拝
「復活のいのちに生かされる」  1コリント15:12~22
               清水和恵

コリントの教会の人々はキリストの復活は信じていたようですが、
死者の復活はないと信じていたようです。(12節) 
それに対してみなさんはどう考えるでしょうか。
パウロの声を聴いてみましょう。

 パウロは「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの
初穂となられました。」(20節)パウロは25節以降で種の例を語ります。
種は土にまかれると、形をなくすのですが、そこから新しい命が
芽生えてきます。種と新しい芽は形は異なっていても、同じ命です。
 まかれた種は、芽となってよみがえり成長し実を結んでいきます。
パウロはそのさま、いのちの巡りを見て、キリストはその初穂、
最初の実りとなったと述べました。
死者は死んでも神がキリストをよみがえらせたように、
わたしたちを新しい命に生かしてくださると語るのです。

 礼拝後の協議会の中で、メッセージのふりかえりをいたしました。
その時に何人かの方が「死は怖くない。」と言われました。
天に召された人たちとの再会の希望があり、復活の命に生かされるという
信仰のゆえに、そう確信されているのだと思いました。
 死は死に終わりません。
死を超える新しい命が神によって備えられています。

【こぼれ話】
教会メンバーのSさんは、教会の元気がなくなった植物をお家にひきとって
心をこめてお世話をしてくださいます。そして植物はすっかり元気になって教会に
帰ってきます。これまでもウンベラータやからしだねが、死にそうでしたけど
生き返りました。愛情なくしてできることではありません。
本当に感謝なことです。
そこで「直球」で言いますが、わたしたちも神様の愛によって、日々生かされて
いるということを、しみじみ思います。
わたしたちを養い育む「み手」を感じます。


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神の恵みによって 1コリント15:1~12

2025年05月10日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年5月4日
「神の恵みによって」  1コリント15:1~12
            清水和恵

 パウロにとって福音(喜ばしい良い知らせ)は
「最も大切なこと」と語ります。それはキリストの十字架と復活に関することです。
復活のキリストが誰に現れたかを記し、一番最後に自分に現れたと語ります。
そのリストを見て、訝しく思われる人もいるでしょう。

 福音書にはマグダラのマリアたちが、復活の証人として記されているのですが、
1コリント15章にはありません。なぜ省略されているのか、
パウロは女性への復活顕現の伝承を知らなかったのか、さだかではありません。
ただ当時、証言能力がないと思われ差別されていた女性たちを記憶し、
その名を記録した福音書著者たちの編集意図を併せて、くみ取っておきたいと思います。

 パウロは生前のイエスに出会っていません。彼はそもそも熱心なユダヤ教徒であり、
クリスチャン迫害者でした。不思議なことに、迫害する最中に復活のイエスと出会います。

人生の大転換が起こりました。
その後、世界史に残るほどの伝道者として働くことができたのは、
一言でいうなら「神の恵み」の何物でもありません。
「神の恵みによって、今日のわたしがある。」
これは、パウロが最も大切なこととして伝えたかった使信です。
そしてそれはどの時代、どの場所においても、神の恵みによって、
生かされていることに感謝するすべての者の告白でもあるのです。

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あなたがたは行って マタイ28:11∼20

2025年05月04日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年4月27日礼拝
 「あなたがたは行って」 マタイ28:11~20
            清水和恵

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」
(19節)とイエスは、弟子たちに語ります。
 あなたの今いるところから、出て行って、行動に移してと背中をおされます。

 宮澤賢治の「雨にも負けず」という詩を思い出します。
 そこに「行って」という言葉が 使われているのです。
 厳密には、手帳に走り書きに書かれたメモのようであり、
 賢治は人に見せ発表するために書いたのではなさそうです。

 「東に病気の子どもあれば行って 看病してやり、 
 西に疲れた母あれば行って その稲の束を負い、
 南に死にそうな人あれば行って こわがらなくてもいいと言い・・・・。」

 賢治は、おそらくマタイ28:16~20やサマリア人のたとえ話(ルカ10:37)を
 読んで 深いインスピレーションを与えられたと思います。
 「行って あなたも同じようにしなさい」とのイエスの言葉が、
 賢治の心に迫ったのではないでしょうか。

 挫折した弟子たちをイエスは一切とがめず、次の一歩を提示します。
 さらに「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」という約束もされました。
 ここの「いつも」はすべての日々、どんな時もという意味です。
 その約束に弟子たちは安心したのでしょう。
 だから出かけていけたのだと思います。

 私たちもこの約束の言葉に支えられ、今週もそして新年度も歩んでいきます。

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ここにはいない マタイ28:1~10

2025年04月26日 | 礼拝メッセージ要旨
2025年4月20日の礼拝(イースター)
「ここにはいない」  
  マタイ28:1~10
       清水和恵

  復活をどうとらえるか、それは人によって違うと思います。
聖書の一字一句のとおり読む人、またある人はイエスの肉体の復活は科学的に
考えるのはありえないけれど、しかし確かにイエスは私たちの間に復活し、
実存的に私たちといつも共におられる。と理解する人もいるでしょう。
ただ歴史的、科学的には2000年前のイエスの復活について説明、証明できないのです。

 けれども、一つのことが確実に起こりました。
それはイエスの復活がイエスと共にいた弟子たち
(いわゆる「12弟子」だけではありません。もっともユダはこの時点で存在していませんが)
に強烈な衝撃を与え、生き方に大きな変化をもたらしたということです。
そしてキリスト教が誕生していきます。

 かつてイエスを見捨てた弟子たちがなぜ十字架で権力によって殺された
イエスのもとに再結集したのか、そしてキリスト者として生き始めたのか。
彼ら、かのじょらを突き動かす決定的な何かが起こったのです。

 弟子たちはイエスを裏切り逃げ去りました。
その中で女性たちだけが、十字架の死を見届け墓に赴き、復活の証人となりました。
「復活した」は(エゲイロ―)の受動態で記されており、「起き上がらされた」
という意味です。主語は神です。

 神は暴力的な死を遂げたイエスを放置せず、新しい命に起き上らせたのです。
復活とはこの世界の権力による暴力はけして勝利しないこと、
神は暴力を認めることなく赦さないこと、
神はイエスに新しい命を吹き込んだこと、
イエスをキリストと信じた人々が起こされたことを示しています。

そしてその人々が希望と勇気を与えられ福音の宣教を担っていきました。
わたしたちはその人々に続く者として、今日(こんにち)
イースターを祝っているのです。



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