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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

最初のメッセージ 使徒言行録2:14∼21

2025年07月12日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年7月6日礼拝
最初のメッセージ    
  使徒言行録2:14∼21
       清水和恵

 ペトロの説教デビューは、人々の嘲りの中で始まりました。
まさに逆風を受ける中ですが、なぜ彼は語り続けることができた
でしょうか。それは逆風をはね返す神の風(聖霊)が吹いたからです。

 そしてもう一つ、11人の仲間が傍らに立ち続けていたからです。
これがどれだけペトロを力づけたか想像に難くありません。
声をあげた人を孤立させないためには、その人に寄り沿い応援
する人の存在が必要不可欠です。
 声をあげることで社会は変わる可能性があります。
黙っていればなんの変革もありません。
勇気をもって声をあげた人に、「わたしもそう思う」と応答する人
がいると、最初の人の声は消えることなく、こだまし続けるでしょう。

 ペトロはヨエルの預言(ヨエル3:1~5)を今まさに起こって
いると力強く語ります。聖霊はすべての人に平等に注がれると
いうのです。すると息子、娘、奴隷たちは預言し、若者は幻を見、
老人は夢を見るようになると語ります。

 預言は特別の人が語るものでした。
しかし今や、聖霊が注がれると誰でも神の言葉のメッセンジャー
(証し人)になるのです。聖霊を祈り求めましょう
。神さまから力を頂き、イエス・キリストを証していきましょう。
キリストと出会ってどんな人生の転機となり恵み豊かであったか
、自分の言葉で語る者でありたいと願います。

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小さいものを用いて ルカ9:16∼17

2025年07月05日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年6月29日 地区有志教会オンライン合同礼拝

「小さいものを用いて」     ルカ9:16~17     
        島田 直(札幌北部教会牧師)

 多くの民衆に教えを語り、福音宣教に身を投じてきたイエスは、
ベトサイダという街に一旦退きます。
弟子たちとゆっくり過ごす時間を求めたのかもしれません。
しかし、イエスがベトサイダに向かうと知った人々は、
イエスの後を追ってきます。その数男性だけで5000人。
そこでイエスは、その人々を前に、教えを語りました。
話が終わった頃には、日が傾いていたといいます。
周囲には宿もなく、弟子たちが持っていた食糧は僅かしかありません。

 そこで弟子たちは言います。「こんな場所では、人々に
食事を用意することなどできません。暗くなる前に家に帰しましょう。
そうすれば、彼らは自分たちで食べ物や、宿を見つけなんとか
するでしょう」と。
 しかし彼らにイエスは呼びかけます。
「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」。
弟子たちは、慌ててもう一度、自分たちの手元にあるものを確認します。
そこにあったのは、パン五つと魚二匹だけ。五千人以上の群衆には
到底足りません。こんな小さいものではとても無理だと彼らは考えます。

 その弟子たちを前にイエスは、そのわずかな食べ物を手に取り、
神に賛美の祈りささげます。その後、イエスは弟子たちに食べ物を
配るよう命じました。すると、不思議なことに、弟子たちの持って
いた食べ物だけで、すべての人が十分に食べ、満腹したというのです。
弟子たちはその時、悟りました。
 神はわずかなもの、小さなものを用いて、多くの人々を満たされる
方なのだと。私たちもまた、自分の力不足を思い知らされることが
あるでしょう。
 「もっと知識があれば」「もっと人に優しくできたら」――
そう思って、自分を責めることもあるかもしれません。
けれど、神はそのような私たちを、用いてくださるのです。
私たちが持っている愛情、思いやり、祈り……それは決して
無意味なものではありません。たとえわずかであっても、
誰かと分かち合うとき、そこに神の働きが起こるのです。
私たちは、生きる力を得るのです。

 さぁ今日この時から、今私たちが携える愛を分かち合う道を
歩んでまいりましょう。その日々の中で私たちは、神の奇跡を
目の当たりにすることができるに違いありません。

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わかった! 使徒言行録2:1~13

2025年06月21日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年6月15日の礼拝
「わかった!」     使徒言行録 2:1~13      
           清水和恵

 6/9∼14、韓国ソウルで二つの教会会議に出席しました。
韓国語がわからない私は通訳の方にすっかりお世話になりました。
通訳の働きは伝わり合えない私たちの間に立ち、意思疎通をできるように
してくださることです。今回、何度も「ああ、なるほどそういうことか、わかった!」
とうなづく場面がありましたし、通じ合えない不安を抱くことなく、
安心してその場にいることができました。
 それだけでなく、言語の壁を超えて多くの人と友達になることができて感謝でした。

 聖霊のイメージは風、炎、神の息、鳩など様々にありますが、今回、
わたしが抱いたのは「通訳」です。聖霊は人と人を繋ぎ、わかりあえないところを
分かり合えるようにする、コミュケーションを豊かにし、友達にしてくれる神の力です。

 ペンテコステの日、ペトロたちが聖霊を受けて他の国々の言葉で話し出したとあります。
ちょうどエルサレムでは「五旬祭」という大きなお祭りがあり、地中海の東半分の地域や
今のイラク、イランからも人々が集まっていました。
 そこで人々は集まった人々の故郷の言葉で神の偉大な業を聞いて驚くのです。
言い換えると弟子たちに聖霊によって相手に届く言葉が与えられ、それを聞いた人々が
「ああ、そうか。わかった!」と思える体験をしたということです。
 これは弟子たちが語学堪能になったということではなく、人々の間に立って執り成し、
わかりあうために尽力した、共に生きるためにガイドをした、
ということではないでしょうか。

 対立と争いがやまず、人と人がばらばらで分かり合えないところに、
聖霊が注がれるとき和解がおこるのです。いろいろなことがわかるようになり、
豊かな気づきと繋がり(あるいは、繋がり直し)を与えられるのが聖霊体験です。
使徒言行録の著者ルカは、特別な人だけでなく、誰でも聖霊を受けることができると語ります。
「天の父(神)は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13) 

 これまで聖霊は時空を超えて、世界中を自由に吹き渡る風のように、
人々を励まし希望と力を吹き込んできました。
私たちも聖霊の導きを祈り求め、共に生きる道を拓いていきましょう。


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約束の時を待ちながら ルカ24:44~53

2025年06月07日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年6月1日の礼拝

「約束の時を待ちながら」  ルカ 24:44∼53
            清水和恵

 本日の聖書は4つに分けられます。
44∼46節はイエスの教え、47∼48節は弟子たちへの委任、
49節は約束、そして50∼53節は昇天についての記事です。
45節にイエスが聖書を悟らせるために、心の目を開いたとあります
。私たちも聖書を深く理解するために「心の目を開いてください」と
祈ることが大事だと思います。

 47∼48節では、弟子たちになすべきことが委ねられます。
これまではイエスと共に福音を伝えていましたが、これからは
弟子たちだけで担うことになります。イエス・キリストが天に帰って、
それで終わるのではなく新しく始まるのです。

 ここで弟子たちがイエスの働きを継承していかなかったら、
神の福音は拡がることなくたぶんキリスト教も誕生していません。
大事な使命が付与されました。
そのときの弟子たちの心境は「大丈夫だろうか、失敗しないだろうか…。」 
恐らく複雑な思いでしょう。

 しかしイエスから素敵な約束がありました。聖霊です。
この聖霊が弟子たちの働きを導きます。いわば助っ人ですね。
今日の聖書は別れの場面ですが、しめっぽくありません。
大喜び(52節)する弟子たちの姿も描かれています。
何故でしょう?
それは永遠の別れではないからです。助け手である聖霊が共にいて働くと
言う約束も、背中を押したでしょう。

 「あなたたちはけして一人ではないから大丈夫。安心して行きなさい。」 
そんなイエスの思いを彼ら彼女らは受けとめたのです。

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マラナ・タ 1コリント16:13∼24

2025年06月01日 | 礼拝メッセージ要旨
 2025年5月25日の礼拝
 「マラナ・タ」  1コリント16:13~24
         清水和恵

「目を覚ましていなさい.信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(13~14節)は、
マラナ・タ(主よ、来てください)の祈りに繋がる言葉です。

 キリスト教の信仰の一つに再臨信仰があります。
終末時に、キリストが審判のために再び来ることを待ち望む信仰です。
「日本でも再臨信仰は、ホーリネス教会の創立者、中田重治が強調し、
内村鑑三も第一次世界大戦後の影響で、再臨信仰に目を向けるようになりました」
(岩波キリスト教辞典p429)

 マラナ・タの祈りは代々のクリスチャンにとって、希望と励ましでした。
希望なき時代であっても神の国(神の支配)の完成を信じ、待ち望む祈りでも
あるからです。様々な問題が山積する21世紀に生きる私たちにとっても、
この祈りは必要不可欠です。

 パウロの説く「雄々しく強く生きなさい」は検証が必要です。
この「雄々しく」は「男らしく」とも訳せます。
ここは弱い信仰ではだめだとも読めます。
また男=強くある者という概念が前提としてあるのではないでしょうか。
日本語で「女々しい」は軟弱な男を意味します。
併せて、女性差別です。

 これは女は弱々しいもの、男によって守られるべきものという
通念があったからでしょう。しかしその通念は生きづらさをもたらしました。
人それぞれがその人らしく自由に生きることを、最初期のクリスチャンは
イエスの教えとして継承しました。このイエスに返ることが肝要ではないでしょうか。

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