2023年9月10日礼拝
連帯に生きる
2コリント9:1~15
清水 和恵
2コリントの手紙8~9章は、コリント教会に対するエルサレム教会支援の呼
びかけが主に記されています。
コリント教会はマケドニア地方の教会より豊かであるのに、
エルサレム教会への献金は消極的であったようです。
それはなぜだったのでしょうか。
コリント教会は設立当初、社会的に弱くされた人が主なメンバーでした。
(1コリント1:26)ところが、パウロがコリントを去ったあと、
裕福な人たちが加わったようです。ところが残念なことに教会の中で、
対立や分裂が起きて一つになれない事情がありました。
また他者への関心が薄くなり、自己満足的な信仰になってしまったのでしょう。
パウロは主にある連帯の豊かさを説きます。
教区幹事であった小西二巳夫牧師がよく言われていたのは、
「献金なき連帯は絵に描いた餅」。
その意味では私たちの教会は会堂建築において、
そうではない恵みの経験をいたしました。
連帯に生かされたのです。
だからこそ感謝しつつ、大いに喜んで連帯していきたいと思います。
連帯はけして一方的ではなく、相互に生かしあう業です。
応援のメッセージが全国から、キリスト教内外からたくさん寄せられました。
ほとんどが、知人、友人、恩師、先輩、後輩で顔を思い出すこと
ができます。
けれども、なかには知らない方からの献金やお便りがありました。
「神さまの大いなる働きに参加させてください。
つながる喜びを共有させてください」
なるほど、献金するとは神様の働きに参加することだと教えられました。
そしてまた、つながる(連帯する)喜びを味わうことが
できるのです。
わたしたちも、ささげることによって、想像を遥かにこえた
神様の大いなる素晴らしい業を見せていただきたいと思います。
知人、友人だから応援しよう!というのなら納得するのですが、
さすがに知らない方の応援は、感謝やうれしさを超えて、奇跡のつながり
としか思えません。私たちを信頼して、祈りのうちに覚えて支えてくださった
のです。他の宗教はよくわかりませんが、他者のために祈り支えるのは
キリスト教の特徴なのかもしれません。
わたしたちの知らないところで、わたしたちのために祈る人がいることを
覚えます。
他者に関心も心もよせず、自分の満足のためだけに生きる人は結局
自らを貧しくさせてしまうように思います。
たとえば花咲か爺さんの昔話は、わたしたちに、自分のことだけでなく
他者のことを考え思いやる心は何を産み出すのか伝えているように
思います。
パウロは「贈り物」としてのイエス・キリストに感謝し、
ささげることを惜しまなかったイエス・キリストにお応えし、
ささげる者としてキリスト者、教会が歩んでいくことを
呼びかけています。
新発寒教会は会堂建築をとおして、たくさんの恵みをいただきました。
尊い捧げものをしてくださったお一人おひとりに心から感謝いたします。
わたしたちも、捧げ連帯することをとおして与えられる恵みを
喜びたいと思います。