goo blog サービス終了のお知らせ 

新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

生きのびよ!出エジプト記1:22~2:10

2023年08月12日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年8月6日(平和聖日礼拝)
生きのびよ!  
 出エジプト記1:22~2:10
       清水 和恵

敗戦後78年を迎えました。
この間、日本が一度も戦争をしなかったのは、日本国憲法があったからだろうと思います。
しかし、沖縄・琉球弧ではどんどん基地増設、軍事化が進んでおり、
戦争に向かう状況であることに注視しなければならないと思います。
沖縄・琉球弧では実質、憲法9条がない事態に置かれているのです。

わたしたちが平和のために何を守り、尊ぶのか。それはすべての人の命です。
さらには、動植物など含む生きとし生けるものすべてです。

出エジプト記には、奴隷の民ヘブライ人の赤ん坊(後のモーセ)を
助けるために命をかけて守った女性たちのストーリーが描かれています。
彼女たちは敵味方、支配者・被支配者の立場を超え,
知恵を働かし勇気を振り絞って、王命によって殺されるはずだったモーセを救出しました。

それは命への慈しみと、命を奪う支配・権力者への抵抗でした。
かつて日本が戦争をしていた頃、お国のために死ぬことは美徳とされました。
そのような恐ろしい価値観が正当化され、戦争遂行の起爆剤となったのです。

再び戦争への道を歩まないために、私たちは知恵と力を合わせ、
命を守り尊ばなければなりません。
命の源である神にこそ聴き従っていきましょう

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神は立ち上がる イザヤ書30:18∼22

2023年07月29日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年7月23日
 「神は立ち上がる」
 イザヤ書30:18∼22
      清水和恵

 紀元前6世紀、バビロン捕囚末期に書かれたと言われるこの箇所では、神は自分たちを
見捨てたのではないかと、嘆き悲しむイスラエルの民に預言者イザヤは力強く語りかけます。

「主は憐みを与えようとして立ち上がられる」(18節)
ヘブライ語の憐みは子宮という言葉に由来しています。
子宮の中で新しい命は生まれ育まれ養われていきます。
イザヤは神の憐みを女性の子宮のイメージでとらえたのです。  

フィリス・トリブルという米国の旧約聖書学者は、神の憐みについて
「子宮は保護し養うが、所有したり管理したりすることはない。
完成と幸福がもたらされるために、その宝を産み出すのである。実にそれは憐みのとる方法である。」 
トリブルによれば神は命を産み育み創造するのです。それが子宮という器官をとおして具体的に
示されるということです。

 出産は新しい命の喜びと祝福をもたらしますが、痛みも伴います。
神様は恵みを与え救おうとするときに、産婦のように相当の痛み、苦しみを味わっているのですね。

 さらに神は羊飼いが羊を守り導くように、人々の行くべき道を示します。
神の恵みと憐みを受けた者は、背後から語りかけられる神の言葉を聴き、安心してその道を歩みます。

※おまけ
 このような聖書の箇所を読むと、さすがに神を「父なる神」とは
 呼べなくなってしまうなあ、と思ってしまいます。
 いえ、「父なる神」と呼んでもいいのですが、
 多様な多彩なバラエティに富んだ、神さまのイメージが
 聖書には記されていますので、「父なる神」だけが神の呼称では
 ないということを、知っておきたいと思います。

 だけど、日本の教会では、なぜでしょう?
 「父なる神」が統一呼称のように、使われているように思えます。

 もっとわたしは多面的でバラエティに富んでいるのだが・・・
 神様にそういわれてしまうかも。
 イメージを豊かにふくらませたいですね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰って来たひとり ルカ福音書17:11∼19

2023年07月15日 | 礼拝メッセージ要旨
 2023年7月9日 主日礼拝

「帰って来たひとり」  ルカ17:11∼19
              清水和恵

 イエスが入ったある村とは、新共同訳聖書では「重い皮膚病」を患う人を隔離する村でした。
「重い皮膚病」と訳される原文のギリシア語はレプラ。
現在でこそ、ハンセン病(らい病)を示す言葉ですが、新約聖書が記された当時、皮膚病一般を示す言葉で、
ハンセン病を100%特定する言葉ではないという理解のもとに、1996年12月以降より、
新共同訳聖書には「らい病」の表記はなくなり、「重い皮膚病」と記されるようになりました。

 しかし「重い皮膚病」では、凄まじい差別と排除の現実が見えなくされてしまうのではないかと
思います。2018年に発行された、最も新しい翻訳の聖書協会共同訳に至っては、
「規定の病」ですから、なおさらわかりづらいと思います。

 レプラが、ハンセン病と100%同一ではないにしても、聖書に記されているレプラ患者と、
日本におけるハンセン病患者が被った差別と排除の状況は酷似しています。
ちなみに新改訳、岩波訳、田川建三訳、本田哲郎訳は「らい病」となっています。
わたしはどんな言葉を用いるにせよ、丁寧な註をいれて説明すべきと考えています。

 さて10人のうち一人のサマリア人だけが癒されたことを知り、
大声で賛美しながらイエスのところに戻ってきました。
そしてひれ伏して(礼拝して)感謝いたしました。
他の9人は感謝しなかったわけではないでしょう。
けれども祭司のところへ行き、病が治ったことを証明してもらい、
社会生活に復帰することをまず望んだのでしょう。

 イエスは帰って来た一人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」
と言われます。本田哲郎神父はここを「勇気を出して行きなさい。
あなたが信頼を持って歩みを起こしたことが、あなたを救った」と記しています。
イエスからいただいた恵みに感謝し、礼拝し、救いの宣言を受けた事実がまた、
前へと進ませてくれるのです。

 私たちは帰るところを示されながら、今週も神によって送り出されていきます。
私たちが出会う人と、恵みを喜び平和を作り出すことができますように。
そして常に神を賛美する気持ちを大事にして、歩んでまいりましょう。 

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」 
このイエスの言葉は、祝福と派遣の言葉に他なりません。

※おまけ
 いつかの北海教区年頭修養会で、講師の中道基生先生(関西学院大
 神学部教授)が 礼拝の派遣の言葉をみんなで考えるという、
 ワークショップをされました。
 わたしたちになじみなのは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが
 あなたがた一同と共にあるように」だと思います。
 これは2コリントの信徒への手紙13:13ですね。
 
 祝福と派遣は、たぶんこの言葉が日本の教会では多いと思いますが、
 ぜったいにこれを使わなければばらないというのではありません。
 オリジナルがあっていいと思いますし、上記、中道先生のワークショップでは
 つぎつぎと豊かなオリジナルのユニークな祝福と派遣のことばが、
 紡ぎ出されたのでした。
 それも、ぜひ使ってみたいものばかり。
 礼拝を信徒と牧師が共同でつくるいとなみの豊かさを体験しました。
 
 ところで、
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」 
  これはやはり、イエスによる祝福と派遣の言葉だと思います。

  いっぺん、礼拝で使ってみようかしら。
  でもいっぽうでなんだか、えらそうな感じもするので
  やっぱりやめときます。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

限界突破 使徒言行録11:1∼18

2023年07月08日 | 礼拝メッセージ要旨
 2023年7月2日主日礼拝
限界突破  
使徒言行録11:1∼18
         清水和恵

この聖書の箇所は、10章の出来事の続きが記されています。
10章を読んだうえで、この箇所に目を通していただきたくと、話の流れが
よくわかります。

ここで語られているのは、神の救いがユダヤ人だけでなく異邦人(非ユダヤ人)
に与えられたという出来事です。それはごくごく普通のユダヤ人の感覚からすると、
固く守ってきたことや価値観が根底からひっくり返るような大事件だったのです。
教会にとっても、誰に福音を伝えていくのか、誰と神の恵みを分かち合うのかを
問われるチャレンジでもありました。

「限界突破」という言葉があります。
これ以上は行けないとされる上限、範囲、境界を超える行為をさすそうです。
ところが神さまは、ペトロたちの想像をはるかに超えて、かれらの
価値観や信仰の限界を突破されたのです。
ユダヤ人は異邦人とは交際しませんでした。(10:28)
ましてや同じ仲間になることは想定外であり、受け入れるのは困難でした。

しかしペトロは幻を見て「神が清めたものをあなたは清くないと言ってはならない」と、
神から示され、神は分け隔てなく誰をも救われることを悟りました。
すべての人は、神が広げた布の中に包まれています。
それはあらゆる属性によらず、誰もが招かれている恵みの布です。

わたしたちのスケールを神様のスケールに合わせたいと思います。
神様の恵みや救いは世界中の人に及びます。

それゆえに私たちも自分のスケールによって生じる差別や分け隔てを
超えていきたいと思います。
神様によって解放されるわたしたちの目には、新しい世界が見え始める
でしょう。
神様の大いなる救いと恵みの業をわたしたち、人間が小さく狭めてはならないのです。

だって、もったいないですからね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂しい道で 使徒言行録8:26∼40

2023年07月01日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年6月25日礼拝

寂しい道で  使徒言行録8:26∼40 
            清水和恵

 エルサレム教会の12使徒を補佐する一人だったフィリポは、
天使にエルサレムからガザに下る道へ行くようにと導かれ、エチオピアの宦官に出会います。
宦官はエチオピア女王の全財産を管理する宰相でした。
地位も名誉も財産も教養もある人物でした。
 けれどもはたして、彼は幸せで満ち足りていたでしょうか。
もし彼が置かれた状況に満足していたなら、エルサレム神殿を詣でたり、イザヤ書を読んでいたでしょうか。
彼は人知れず渇きを覚え、神の救いを求めていたのではないだろうか。
そんなことを思い巡らします。

 律法によると、宦官はユダヤ教に改宗できず、主の民の交わりに加われませんでした。
また異邦人でもあるので、神の救いにあずかれなかったのです。
フィリポは彼と会ったのは「寂しい道」だったと記されていますが、「荒野」と訳せます。
荒野は、荒廃と窮乏を表す比喩としても使われています。
ある意味、宦官の心は荒野のような状態だったと思われます。

 ところが、フィリポとの出会いによって、一変します。
フィリポはイザヤ書の53章からイエス・キリストの福音(喜びの知らせ)を
解き明かしていきます。さらに56:3~7節も、フィリポは読んだ可能性があります。

 そこには偏狭な選民主義とは異なる内容の、異邦人と宦官の救いが記されています。
またそこにこそ聖書のメッセージの多面性が表われているのですが、
神はある特定の人だけを救うのではなく、どんな人も救われることを伝えています。
それはまさに、イエスの伝えたかったことの一つでした。
フィリポの話に耳を傾けた宦官は自分もまた、
排除されることなく神の愛のうちに生かされる恵みを知り、
フィリポが去ったあとも「喜びにあふれて旅を続けた。」とあります。

 宦官は、使徒言行録によると異邦人で最初のクリスチャンとなります。
彼はエチオピアに帰ってからも、フィリポから聞いたよい知らせを宣べ伝え、
のちのエチオピア正教会の礎を作る一人となったのかもしれませんね。

 荒野を行くときもイエスの福音に出会うとき、乾いた心にいのちの水は溢れ、
寂しい道は喜びの道に変わるのです。
 教会はその道を伝える使命を負っています。

※聖書に登場したガザ。
 そこはまさにパレスチナ自治区のガザです。
 種子島ほどの面積に、200万人(おおよそ札幌と同じくらいの人口)
 が住む世界でもっとも人口密度の高く、7割が難民だと言われています。

 ガザの近代史は、イスラエル軍による武力行使と破壊の歴史です。
 人々は日々、攻撃と人権侵害のなか、恐怖と不安のうちに過ごしています。
 その戦慄の様子を、パレスチナを訪れ、イスラエルの攻撃の恐怖を
 清末愛砂さん(室蘭工大教授)が、語ってくださったのを
 伺ったことがあります。
 日常が戦争であることを、なかなか想像できませんけれども、戦争状態を許している
 人間の愚かさを思わざるを得ません。ウクライナ然り、ミャンマー然り。
 せめて忘れないように、日々起こっていることに目を背けないように
 と思います。

 フィリポとエチオピアの宦官も、2000年後にガザがこうなってしまっていることを
 想像できなかったでしょう。
 エルサレムからガザへ下る道は、分断の道となっています。
 平和と和解の道が開通しますように。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする