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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

わたしを思い出してください。ルカ福音書23:32~43

2023年10月28日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年10月22日 礼拝 
「わたしのことをを思い出してください」
  ルカ23章32節~43節 
 
           大倉一郎(札幌北光教会協力牧師、札幌元町教会代務牧師)

 三つの十字架の話の背後に見るのは理不尽に殺された貧しい人々の最後の瞬間だ。
貧困に追われた人々の背後に、社会の不公正や構造的な暴力があることは歴史を通じて分かる。
貧困は人々の尊厳を奪い、生活を脅かし、生命を危険に陥れ、家族を引き裂き、
夢を奪い、人生を奪う。
イエスの時代のユダヤ民衆がおかれた理不尽な境遇と、今日の世界がどれほど変わったといえるか。

 かつて統治と称する偽りを行う権力によって、貧しい人が「犯罪人」の汚名を着せられ
イエスと共に殺された。理不尽に殺された人々の三つの十字架の出来事を凝視しよう。
その一人は耐え切れずイエスに絶望の言葉を投げつけた。その叫びにも真の正義を求める響きが宿る。
もう一人は絶望の極みでイエスに「私を思い出してください」と懇願した。
彼は何を訴えたのか。
この人に答えたイエスの「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉は、
安易な解説の及ばない深遠が潜む。それを本当に分かる力は単なる神学や聖書学の学識ではない。
生死を賭して真実を求めた人だけが知り得る「それでも歴史を生きる勇気」ではないか。

 私も貧困者の苦難を忘却する一人だ。社会的善意の不足とか共感の鈍さというのではない。
私のイエスとの丸ごとの関係に関わる。そのことを内省して自足するのでなく、
主イエスにあって、貧困者にとどく、貧困の社会を変えて行く行動を、わずかでもとることだと思う。
私の生活は、仕事や守るべき家族のことで精一杯というのも正直な一面だ。
それでも一つでも担えることがあるはず。
三つの十字架と共に十字架の上で交わされたイエスの言葉の深遠を想いながら、
祈り、彼の後を辿る、その新たな一週間を始めたい。

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賛美する喜び 詩編102:19

2023年10月21日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年10月15日 礼拝
賛美する喜び  詩編102:19
      吉村 美穂/クリスチャンシンガー

 京都芸大卒業後、オーストリアのグラーツ音大に学びました。
音楽の都ウィーンに7年半、滞在し得難い経験をしました。
ウイーンは第二の故郷ともいえる街です。
  世界中から音楽家や、音楽家の卵が集まる街でもありました。
自分より才能のある人が星の数ほどいて、切磋琢磨する世界でした。
他人と比較して「わたしは何て上手に歌えないのだろう?」と落ち込むことが
多々ありました。そのうちになんのために歌うのか、わからなくなってきました。

 携帯もスカイプもない時代、母に国際電話をお金をかけて長い時間、
愚痴を聞いてもらったこともたくさんありました。
あるとき、母からの手紙が届きそこには「あなたのそばに神さまがいるから、大丈夫」
と書かれていました。

 ウィーンでは、人の評価を求めて歌っていたように思います。
人の評価に惑わされて自信も喜びもなく歌っていました。
しかし、今は神様の評価を求めてクリスチャンシンガーとして歌っています。
何もできなくても「あなたの存在そのものが尊い」(イザヤ43:4)ことが神様の評価です。
私にしか出会えない人、私にしか歌えない歌を神様は与えてくださいました。

 コロナの時、仕事がない不安な日々が続き、音楽以外のバイトをして働きました。
けれども神様は、そこにおいても大切な出会いを与えてくださいました。
わたしたちには先が見えない時がありますが、神様が祝福と解決の道を必ず示してくださいます。

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忘己利他(もうこりた)ルカ12:13~21

2023年10月17日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年10月15日 主日礼拝

忘己利他(もうこりた)
 ルカ福音書12:13~21
       清水 和恵

忘己利他(もうこりた)。
この言葉は比叡山の延暦寺を開いた最澄の教えと言われています。
「己れを忘れて他を利するは,慈悲のきわみなり」
自分を忘れて、他者の幸せのために力を尽くすのは愛の究極の姿である
という意味です。これは仏教だけでなく、キリスト教やユダヤ教、
イスラム教にも似た教えがあります。

聖書の申命記には、収穫感謝の際、レビ人、寄留者、寡婦、孤児を守りなさい、
と言う勧めがあります。レビ人は土地を持たない祭司をする部族、寄留者は外国人、
現代で言うなら難民も含まれるでしょう。
寡婦は夫に先立たたれ、孤児は保護者がいない子どもたち。
社会的に弱者とされている人々の命、生活、尊厳を守りなさいと、
聖書は語ります。2500年も前、社会福祉という概念がなかった時代に、
このような人権思想があったことに驚きます。
イエスのたとえ話に登場する金持ちは、豊作の恵みを独占しようと考え,
感謝と分かち合いは思いも浮かびませんでした。
自分さえよければ他人のことはどうでもよかったのです。

イエスは問います。
本当にそれでよいか。
そのような生き方でいいのか。

私たちはこの手にあるものが神様の恵みであることを覚えたいと思います。
そしてその恵みは、多くの人の手によって生み出され支えられています。
だからこそ、神に感謝し他者のためにわずかでも力を出して、
恵みや実の分かち合いをしていけたらと思うのです。
それが神様の前に豊かに生きることだと、イエスは語るのです。

※おまけの話
 「もうこりた」
 教会員のある方が、礼拝終わってから「もうこりた」と
 牧師が言うから、またダジャレかと思ってました。
 と、おっしゃられました。
 おおまじめで、話しているつもりですが、
 ダジャレが言えるほど余裕と技量が欲しいくらいです。
 でもへたなダジャレを聴かせられる皆さんは
 やっぱり「もう懲りた」と、つぶやかれるのではと
 思うので、やめておきたいと思います。
 ほどほどに。


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最後に言う エフェソの信徒への手紙6:10~20

2023年10月07日 | 礼拝メッセージ要旨
 2023年10月1日 礼拝
 最後に言う  
 エフェソ書6:10~20

             清水 和恵
著者は「最後に言う」と書き出しています。
どうしても言いたいこと、大切なことを書き残そうとしたのです。
ここでは、4章からの勧めの結論と同時に、この手紙全体のまとめが記されています。
著者がペンを置く前に言っておきたかったこと、それは神に信頼し悪と闘うということです。

どうやら、教会を揺るがすような大きな力が働いて、それに抗うために神の武具
(真理、正義、平和の福音、信仰、救い、みことば)を身につけなさいと、勧めたのです。
ここでの武具は人を殺傷するものではありません。人間そして教会を守るものです。
悪あるいは悪魔とは端的に言うなら、人のいのちと尊厳と暮らしを脅かす力です。
それに対して立ち向かうことがいかに難かしいかを著者はわかっているからなのか、
神により頼み、偉大な力によって強くなることを勧めるのです。

悪は私たちの内にも外にもあります。正義の名のもとに悪が行われることは少なくありません。
イエスも「誘惑に陥らせず、悪より救い出してください」との祈りを教えられました。
イエスは悪の恐ろしさを知っていました。けれども悪に勝利する神を信頼して祈られました。
邪悪な時代に生きるからこそ、神の助けとしての武具を身に着け祈っていきましょう。

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川岸の教会 使徒言行録16:11~15

2023年09月24日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年9月17日の礼拝 
「川岸の教会」
   使徒言行録16:11~15
       清水 和恵

 リディアはフィリピの川岸で暮らし、幾人かの女性たちと紫布の染色の仕事をしていました。
ところでリディアというと、優れたビジネスウーマンで裕福な女性というイメージがあるようです。
実際、聖書学者や牧師がそのように記した文書も幾つか読んだことがあります。
ところが近年の聖書学の研究によって、新たなリディア像が現れてきました。
リディアは元奴隷であったことがほぼ確実のようです。(山口里子「マルタとマリア」)
なぜなら自分自身の名前ではなく、出身地によってリディアと名付けられているからです。

 当時の染色の仕事はきつい、汚い、臭い3K労働であったと言われています。
リディアたちは被差別民であった可能性もあります。そのリディアは自宅を開放し、
女性たちと共にフィリピ教会を作っていきました。
 キリスト教は奴隷、女性、こどもの宗教と揶揄されていました。
権力構造の最も外側に置かれた人々が、イエスの福音に希望と喜びを見出して、
民族、身分、性の違いを超えた教会を作ろうとしたようです。
その根底にあるのはどんな人をも分け隔てしない神への信仰(信頼)です。

 彼女たちの教会はもてなしと歓迎を大事にしました。
リディアはパウロを家に招待した(15節)とあります。
今日の教会が学ぶべきは、もてなしと歓迎です。愛の交わりとも言えるでしょう。
これは旅人をもてなすイスラエルの伝統や共食を大事にしたイエスの実践を、
非ユダヤ人のリディアが行っていることは興味深いです。

 よく「教会は敷居が高い」とか「教会って、信者さんしか行けないと思っていました」
と言われます。なにか閉鎖的な雰囲気があるのでしょうか。
けれども、教会が温かく人を迎え入れ愛の交わりをするなら、高いと思われている
「教会の敷居」は少しでも低くなるのでしょう。

 そしてパウロが最も親しみを感じ、信頼を寄せていたのがフィリピ教会でした。
彼は、フィリピの教会の人々を「わが喜び」とまで呼びました。(フィリピ4:1)
パウロはフィリピ教会の祈りと温かな交わりによって、その宣教も、
獄中にあるときも大いに支えられたのです。

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