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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

香油記念日 マルコ福音書14:3~9

2023年12月03日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年11月19日礼拝 (札幌地区礼拝交流)
香油記念日  
マルコ福音書14:3~9  
指方愛子(札幌北光教会牧師)

 説教題は、俵万智さんの歌集、「サラダ記念日」にちなみました。
たった31文字の中に表される二人の関係が、料理を作る方も作ってもらった方も、
暖かく思いやりに満ちている関係と、香油を注ぐ女性と主イエスとの関係に共通点
があると思ったからです。しかし、この暖かな関係は、周りにいた人たちには理解されず、
批判の的となります。それはなぜか。
この香油を注いだ彼女の中に、自分にはない主イエスに対する純粋な愛と献身を
見たからではないでしょうか。 

 結婚準備に必要だったとされる香油と考えるならば、値段が高いという以上に
大切な意味を持っていたであろう、その香油を注いだ彼女の行為に心を寄せて、
主イエスに対する愛を自分もできる形で注ごうとするのではなく、
自分にはできないということを正当化するために彼女に批判を向けた人々。
人々の言ったことは、まさしく正論でした。
この正論が、時に私たち人間の目を曇らせることがあるのです。

 主イエスは、この批判に対して、「そんな批判は間違っている。」とは
おっしゃいませんでした。この人が心を込めて精一杯してくれたもてなしを、
献身を、愛を、他の正論で曇らせず、純粋に共に喜んでほしい、それが
主イエスの思いなのではないでしょうか。

 そして、名もない女性が油を注いだということを、「埋葬の準備」をしてくれた、
と十字架の死による罪の赦しの福音の記念として受け止め、
彼女自身が思ってもみなかった大きな意味をそこに与えて下さったのです。

 キリスト者は、常に難しい選択を迫られているのかもしれません。
様々な正論がある中で、本当の愛とは何か、優先すべきことは何なのか、
を見分けなくてはならないからです。そこに、人間には拭い去れない、
誰もが持っている嫉妬や痛みや、様々なものが私たちの前に立ちはだかってきます。
そこをどうやって見分けていくか、それにはやはり、主イエスの十字架による赦しに
よってしかないのだと思います。
 私たちがどれほど神から愛されているかということを知るときに、
隣人を愛していくこと、喜び合うこと、共感しあうことが可能になってくるのです。


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宝はどこに マタイ福音書13:44~46

2023年11月26日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年11月19日
メッセージ要旨   宝はどこに  
 マタイ13:44~46 
      
清水 和恵

【多重に響く聖書】
 聖書はポリフォニック(多声)と言った人がいます。
聖書には多くの声が響きあっているという意味です。
たとえばヨーロッパの町に行くと、幾つもの教会から鳴る鐘の音が、一斉に
ガランゴロンと多重に響くのを聴きます。それがポリフォニックです。
聖書を読むと、この箇所ではこう言ってるけど、
別の箇所では違うことを言っていることがよくあります。

聖書はすべての人に開かれています。
専門的知識を持った人だけではなく誰もが豊かに楽しんで、
時には大いに悩んで読む本だと思っています。
牧師さんの読み解きを「絶対化」するのは危ないです。
読む人の数だけ、聖書の解釈があります。
それぞれに聖書と向き合って、私ならどう読むか?を分かち合い、
新しい発見の喜びを多重に響かせ合えたらそこに、
聖書を読む醍醐味や豊かさや楽しさがあるのではないでしょうか。
ただし、戦争や暴力や差別や人権侵害を正当化する読みときは論外ですね。

【逆説思考】
「逆説思考」(森下伸也著)と言う本の副題に「自分の頭をどう疑うか」とありまして、
興味深く読みました。その本には、物事を逆説的に考えるとどうなるか、
常識を疑ってみるところから新しい真実が見えてくるのではないか、と記されています。
たとえば、「急がば回れ」といった諺、また「人間は悲しいから泣くのはない。泣くから悲しいのだ」
という例をとりあげ、常識、決めつけ、思い込みを反転させることで見えてくる世界があると言いたい
ようです。なるほど、この「逆説思考」をヒントに聖書の読み解くと、どうなるのでしょうか。

【尊いものを求めて】
 今日の聖書で、天の国のたとえとして2つの話の共通していることは宝と真珠はどちらも、
高価なものでそれを見つけた人は、全財産を売り払ってそれらを手に入れるという内容です。
この話は宝と真珠はイエス・キリストで、人間が全財産を売り払ってまでも、求めたい、
かけがえのない存在であるという読み解きがなされてきました。それは真実です。
今まで自分の中に、蓄えてきた様々な価値観や、大切だと思ってきたものが不要になりその結果、
それまで蓄積した全財産を売り払うことなどけして惜しくはない。
それほどまでに、イエス・キリストとの出会いが自分にとって決定的になっていく。
パウロはまさにそれです。イエス・キリストという宝を見出したので、パウロの生き方が
すっかり変わりました。
 讃美歌「キリストにはかえられません」は、まことの宝であるキリストを見出した人の
喜びが歌われています。

 けれども、発見者と真珠、宝を反転させるとどうなるでしょうか。
高価な真珠と宝は人間、そして発見者はイエス・キリストと読むと、
違った福音のメッセージが立ち上がってきます。私たちは尊いもの、価値あるものと読めます。
実際、聖書には、人間の創造の時に極めて良いものとして造られたと、創世記には書かれてありますし、
申命記には「主はすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」
(7:6)とあります。旧約に繰り返し登場するテーマです。
申命記では他に14:2,26:18にも出てまいります。
 また、イザヤ書43章には「わたしの目にはあなたは値高く,尊い、私はあなたを愛している」
と記されています。つまり、神にとって人間は宝、良きもの、価値高いもの、
最高傑作として造られた存在として描かれているのです。

【あなたたちこそ神の宝】
 それがマタイ福音書によると、宝は畑の中に埋められていて誰も気づかず、
深く掘らなければ発見できないけれども、宝は確かに存在している。
そして宝を発見したイエス・キリストは大喜びする、価値ある私たちを見出し、
すべてを投げ出すほど喜ばれる。また真珠商人のように、高価な真珠たった一つのために、
全財産を売り払い、自分のものとされる。
 それほどまでに、イエスは私たちをかけがえなく、大切なものとして愛してくださる。
たとえ、私たちが自らの値の高さ、尊さに気づかなくても、地中深くそれらは埋められて
いるように見えても、イエスは私たちを見出し、その値や尊さを認めてくださると読めるのです。
 ところが、私たちは自分の美しさ、尊さ、素晴らしさに気づかない時がありますし、
他の人から低く見られたり、見向きもされない時があるかもしれません。
けれども、神は誰が何と言おうと、私たちを良きものとして造られ、大事に思ってくださるよ、
とイエスは語っているのです。私たちの価値は神様が決めるのです。
 神が私たちを尊び肯定するゆえに、私たちは自分自身や誰の命をも否定し軽んじてはならないのです。

 このたとえ話を聞いた人たちは、時の権力支配者によって、
命と尊厳が軽んじられたガリラヤの貧しい農民でありました。
明日の希望も持てないような人々でしたが、イエスは「あなたたちこそ、神の宝なのだ」
と宣言されました。そこに人々は生きる力と希望を抱いたのです。
 
 イエスは私たちに近づいて、一人一人が神に愛され祝されている宝であることに
気づかせてくれます。神の愛と祝福のゆえに私たちは、互いの命と尊厳を大切にして
共に歩んでいきたいと願います。

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隣人になった人 ルカ福音書10:25~37

2023年11月19日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年11月12日礼拝 

「隣人になった人」 
 ルカ福音書10:25~37 清水和恵

「善いサマリア人のたとえ」はエリコ街道と呼ばれる,
エルサレムからエリコにくだる道の途中が舞台です。
エルサレムからエリコまでの標高差は、1000メートル。
ちょうど手稲山山頂がエルサレムだとすると、エリコは手稲区の麓です。
けっこうな高低差。
この話は手稲山を毎日仰ぐ手稲区民には、リアリティがありますね。

そのエリコ街道で、追いはぎに襲われ瀕死状態になったユダヤ人のそばを、
祭司やレビ人(神殿の御用にあたる神に仕える人)は無視して通り過ぎ、
その後に来たサマリア人は十二分な介抱と世話をして助けるというお話ですが
「困った人には親切にいたしましょう」という単なる勧めを超えています。

当時、歴史的な背景があってユダヤ人とサマリア人は断絶状態でした。
しかもユダヤ人によって軽蔑され差別されていたサマリア人の彼が、
祭司やレビ人と同じように
通り過ぎてもおかしくはないのですけど
瀕死のユダヤ人のそばを離れず助ける行動に出ます。
この話の聞き手のユダヤ人にとっては、衝撃的な話に違いありません。

それにしてもサマリア人は、用意がいいと思います。
傷ついた旅人に、油とぶどう酒を注ぎ(消毒と痛みを和らげ)
包帯をし、自分のロバに載せ、宿屋に連れていって介抱した。(34節)
とあります。油、ぶどう酒,包帯は旅の必需品だったのかもしれませんが
ひょっとしたら、サマリア人は自分を守るための道具として持参して
いたのではないか、自分もまた旅人と似たような傷ついた体験を過去に味わった
のではないか。とさえ、思い巡らしてしまいます。

さて、たとえ話を終えたイエスは「私の隣人とは誰か?」と問うた律法学者に語ります。
「誰が襲われた人の隣人になったと思うか」。
イエスによれば隣人とは「なる」ものだというのです。

祭司・レビ人とサマリア人の行動の明暗を分けたのは何でしょうか。
公民権運動の指導者キング牧師は説教でこう述べています。
「祭司とレビ人は今この旅人を助けていたら、自分はどうなるかを考えた。
しかしサマリア人は自分がこの人を助けなかったら、この人はどうなるかと考えたのだ。」
(『良き隣人であること』) 

サマリア人は瀕死の旅人を見て「憐れに思い」(原意は断腸の思いになって)介抱しました。
旅人の痛み、苦しみを「我がこと」のように感じたのです。
祭司やレビ人になくて、サマリア人にあったのは「共感力」であり
「他者への想像力」ではないでしょうか。
これらは、差別や対立を乗り越える力だと思います。

イエスは私たちにも呼びかけています。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」 

※おまけの話
「行って、あなたも同じようにしなさい!」
 イエスのシメの言葉は、インパクトがあります。
 「行って」
 あなたの今いるところから、出て行って、行動に移して
 と背中をおされます。
 
 思い出す詩があります。
 宮澤賢治の有名な「雨にも負けず」。
 そこに「行って」という言葉が
 使われているのです。厳密には、詩と言うより、手帳に
 走り書きに書かれたメモのようであり、賢治は人に見せ
 発表するために書いたのではなさそうです。
 没後に遺品のトランクから、手帳が発見されるまで
 誰の目にも触れることもなかったと思われます。
 
 東に病気の子どもあれば
 行って 看病してやり
 西に疲れた母あれば
 行って その稲の束を負い
 南に死にそうな人あれば
 行って こわがらなくてもいい
 と言い
 北に喧嘩や訴訟があれば
 つまらないから やめろと言い
      ・・・・・・。
 
 賢治は、おそらく「善いサマリア人のたとえ話」
 を読んで 深いインスピレーションを与えられたと
 思います。「行って あなたも同じようにしなさい」
 とのイエスの言葉が、賢治の心に迫ったのでは
 ないでしょうか。

 「雨にも負けず」のモデルは、内村鑑三の弟子である
 齋藤宗次郎だと言われています。
 彼はクリスチャンであり、非暴力に生きた人でした。
 クリスチャンであるために迫害を受けますが、かえって
 迫害する人のために祈り、困った人がいるとすぐに飛んで行って
 助けたと言われています。

 賢治は齋藤と交流がありました。
 こんなエピソードがあるのです。
 病気の妹のトシを斎藤が見舞うとき、キリスト教の話
 とくに復活についてよく話したそうです。
 齋藤が行くとトシの顔色がよくなり、賢治は自分に
 できないことを、齋藤が来て福音を説いてくれることを
 大変感謝しました。「永訣の朝」を作ったとき、
 賢治が読んで聞かせたのが齋藤宗次郎だったそうです。

 また、賢治は花巻や盛岡の教会にも通って牧師や信徒とも
 交流がありました。
 小学校5年の担任は照井真臣乳(てるいまみじ)、クリスチャンでした。
 賢治少年にどんな話をしたのでしょうか。
 聖書の話を聞かせたでしょうか。
 賢治が後に出会う齋藤宗次郎に、賢治の作文を見せたと言われて
 います。

 彼自身は熱心な仏教徒でしたが
 キリスト教にも関心があり、聖書をよく読んでいたと思われます。
 「銀河鉄道の夜」や「よだかの星」などの作品は、
 その影響があると思います。

 1933年9月21日に賢治はなくなります。
 今年は没後、90年。
 彼はいなくなったけれど、作品をとおして
 サマリア人のように「行こうとした」
 彼の思いが今も伝わってくるのです。

「きっと、みんなのほんたうのさいはひを さがしに行く」
(『銀河鉄道の夜』 最終形第四次稿)
 

 

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あなたの中の光 ルカ福音書11:33~36

2023年11月11日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年11月5日 礼拝

「あなたの中の光 」
  ルカ福音書11:33~36 清水和恵

イエスはなぜこのようなたとえを語ったのでしょうか。
それはあなたの内にすでに灯っている光を互いに大切に輝かせなさい、
と言ってるのではないでしょうか。

 創世記のはじめに天地創造の物語が記されていて、
神さまが一番に最初に創造されたのは光でした。
神さまの第一声は「光あれ」(創世記1:3)です。
そしてその光を見て、神さまは良しとされました。
その光をわたしたちは受けています。
生まれたときからわたしたちは光の子として、
光を内に抱く者として、生かされています。
その光は神さまが人間を創造したときに、
すべての人に祝福のうちに与えてくださったものです。
そしてその光は誰にも消せないものなのです。

 イエスはその光を、穴蔵の中や升の下におくような、
もったいないことをしてはいないだろうか。と問いかけます。

イエスの時代、人々はちょうど日本の急須のような形のランプに
オリーブ油を注いで火をともして、燭台の上において部屋の中を
照らしました。
それと同じようにわたしたちのうちにある光は他者を照らすために
与えられています。
その光は暴力や差別を乗り越えるため、互いに尊び愛しあうためにあります。
私たちの光を大切に輝かせて歩みましょう。

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見張り塔から エゼキエル書3:16~21

2023年11月05日 | 礼拝メッセージ要旨
2023年10月29日礼拝
見張り塔から  
  エゼキエル書3:16~21 
        清水和恵

 教会の使命は、礼拝、伝道、平和実現のための働きなどいくつかあるでしょう。
どれも大事ですが、使命というのは、神から与えられた重大な働き,
使者としての務めという意味があります。ひらたく言うと神様から
「〇〇について、頼んだよ」と言われて神様の使いとして働くことです。

 教団は1967年のイ―スターに当時の教団総会議長、鈴木正久牧師の名で
「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦争責任告白)を
発表しました。これは、宗教界における戦争責任表明の先駆けとなった文書ですが、
その中にこんな一文があります。
「まことに私どもの祖国が罪を犯したとき、私どもの教会もまた罪におちいりました。
私どもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました」 
つまり、教会の使命は『見張り』であったのに、蔑ろにしたために戦争を支持し
協力する罪をおかした、と言い表しているのです。
教会は神様のご委託に誠実に応えることができませんでした。
神様から頼まれたおつかいができなかったのですね。

 エゼキエルは祭司の息子で、自らもエルサレム神殿の祭司でしたが、
BCE597年第1次バビロン捕囚時、王や上層階級の人々と共にバビロンに連行されます。
ケバル川のほとりの捕囚民居住地に住み、5年後に預言者として立てられます。
その時に神様はエゼキエルに見張りの使命を言い渡しました。

 見張りは城壁の高い所に立ち遠くを見て、外側の危機や危険を察知し
内側の住民に角笛を吹いて知らせる任務があります。それを怠ると人々の命が守られません。 

 前任の野村喬牧師は「教会は預言者的な働きをしなければならない」と語りました。
預言者的な働きとはまさに見張りの役目を担うことです。
時代と社会のありようを、そして未来をしっかりと見ていくまなざしを持ち、
神の言葉に聴いて発信する働きが求められています。
内向きの発想から解放され、ひらかれていく教会、見張りの使命に生きる一人ひとりで
ありたいと願います。

 野村先生は「宣教と教会形成の方向」(1996)という文書の結びにこのように書かれています。
「1960年代以降、解放の神学、黒人神学、民衆神学、女性神学によって
聖書が新しく読み直されてきた。これからも時代の問題を背負い、
新しい社会を思い描きながら、聖書の読み直しを進めていかなければならない。
そこにイエストの新しい意味が見いだされる。
世界はこれを待ち望んでいるといえよう。」

 

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