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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

偶像からの解放 申命記4:15~20

2024年02月17日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年2月11日 礼拝
 偶像からの解放  申命記4:15~20 
             清水和恵

 毎年、わたしは新しいカレンダーや手帳を手にするとき、
2月11日が「何の日」であるか確認し、もし「建国記念の日」と記されていたら、
必ずバッテンをつけます。
ほかにこの日は「国民の休日」と呼ばれたり、キリスト教会では
「信教の自由を守る日」として、全国各地で超教派の
「信教の自由を守る2・11集会」が開催されています。

 戦前まで2月11日は紀元節と呼ばれ、神話上の人物である神武天皇の
即位日に由来して定められた祝日でした。戦前戦中、天皇は「現人神(あらひとかみ)」
として支配君臨し、人々は崇拝していました。
 いっぽうでそれはおかしい!と抵抗する者は徹底的に弾圧され、
信教の自由を初めありとあらゆる自由が奪われました。
つまり信者,非信者問わず、偽りの神を信じない自由を奪われた、ということです。
また紀元節はアジア太平洋戦争を遂行する装置でもありました。
植民地支配下の朝鮮では、神社参拝を強制し、それに抵抗した者を激しく弾圧しました。
日本国憲法は歴史の反省に基づき、憲法9条に明示された平和主義のもとに
政教分離と信教の自由を掲げています。

 ところが紀元節復活を求める力が強まり、1966年「建国記念の日」
が制定されてしまったのです。わたしたちは2月11日を、無自覚に過ごしては
ならないと思います。
 わたしたちの「信じる自由、信じない自由」が脅かされてはなりません。
申命記には偶像を作ったり、崇拝してはいけないリストが記されています。
しかし当時のオリエント世界は多神教でしたから、像を刻み拝むのは当たり前。
オリエント世界の中で、偶像崇拝をを禁じる一神教は異彩を放つと言いますか
かなり異質に見えたはずです。
聖書によれば、人はけして神になれないし、神のようにふるまうことをを厳しく批判
しています。人はあくまでも神の被造物であるのです。
カルバンは偶像崇拝を批判し「人間は永遠に偶像を作り出す工場のようなもの」
と言いました。人やお金、権力、軍事力など、ありとあらゆるものを偶像(偽りの神)
としてしまうことに対して聖書は警鐘を鳴らしているのです。
 偶像にひれ伏すことは、人を不自由にし差別や人権侵害を生み、戦争もひきおこす
危険性を孕んでいるのです。何を見て聞いて判断し、信じていくのか、また信じないのか、
冷静に見極めることができますように。
そして二度と偶像にひれ伏すことがありませんように。

※おまけの話
 教会に昔、Bさんというチリから来た方が集われていました。歌の得意なBさんは
 チリの民衆歌や民謡や流行歌をよく聴かせてくれたものでした。
 そのBさんが「日本には神さまが多いのね。野球の神さま、料理の神さま、、、
 というように、なんでもかんでも神さまになってしまうのね。」とびっくりして
 いました。信仰深く、聖書に忠実に聴こうとする かのじょからすると、考えられない
 ことだったようです。

 月一度、礼拝奉仕に行く、神愛園手稲(特養)では毎日の礼拝のあとに職員さんが
 「今日は○○の日」と紹介して記念日の由来やエピソードを話してくださいます。
 日本には、記念日協会というのがあって、民間から寄せられる記念日の認定をする
 そうで、これまで2600もの記念日が認定されたそうです。
 インターネットで調べてみましたら、2月11日には幾つか記念日があるのですが
 その冒頭は「建国記念の日」でした。
 やっぱり、バッテンですね。
 

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喜ぼう!ヨハネ福音書2:1~12

2024年02月10日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年2月4日 礼拝
喜ぼう!  ヨハネ2:1~10 
      清水和恵

 カナの村で婚礼が行われ、ぶどう酒がなくなったため、
イエスが水をぶどう酒に変えたというお話。
ぶどう酒はユダヤ人の祝宴にとって不可欠でした。
貧しい人にとってはめったにないぶどう酒を味わえる楽しい宴です。
そのぶどう酒がなくなるのは、結婚式をぶっ壊すことに等しいものです。
婚礼は喜びと祝福のとき、イエスは最悪の事態を避けました。

 清めの水がめの水が、ぶどう酒に変わったことの意味を思い巡らしたいと思います。
ユダヤ人たちは外から帰ったときは、水がめの水で汚れを落としたそうです。
汚れることは神から遠ざかることであって、そのために人々は汚れに敏感になり、
自分の汚れを恐れ、他人の汚れをとがめ裁くのは常でした。
けれどもイエスは清めの水を喜びと祝福の象徴であるぶどう酒に、
すっかり変えてしまったのです。

 イエスは、恐れから解放されて喜んで生きる信仰のかたちを示したのです。
清めの水はもう不要です。汚れや見栄えや体裁はどうでもよくて、
大事なことは神の招きに喜んで応えていくこと。
それは祝宴という共食の豊かさ楽しさに通じるでしょう。
神の備える祝福と喜びをたっぷり味わって、おおらかにのびのび生きてほしいこと。
神の祝福と喜びを多くの人と分ちあってほしいことなど、
イエスは伝えたかったのではないでしょうか。 

*おまけの話
イエスの弟子になったナタナエルは、カナの出身。
イエスたちを道案内したのでしょう。
婚礼の花婿、花嫁はひょっとしたら、かれの友達、知人だったかもしれません。

「死海のほとり」(遠藤周作)にカナの村について書かれています。
サマリアから北上して、たどり着いたカナは、サアリアに比べて明るい印象を
遠藤はもったようです。
オリーブやオレンジが豊かに実る様子を記しています。

ぶどう酒に変わったという水がめの水はおおよそ600リットルのようです。
1リットルのペットボトル600本、圧倒されるなかなかの数です。
そして重いです。
それを運んだ召使いとは、いったい何人いてどのくらいの時間と労力を
かけたのだろう?と思います。

というのは、3日、わたしは町内会の女性部のメンバーとして
「雪に親しむ集い」に裏方で参加して、豚汁とココアをふるまいました。
帰りに、会場のわらび公園から100~200メートルほど離れたわらび会館まで
1リットルのペットボトルを3本持って雪道を歩いたのですが、けっこう
重たかったので、それが600本となると、めまいがするほどです。
600本に相当する水を運んだ召使だけが、知っているぶどう酒のひみつ。
お客をがっかりさせないために、裏方はがんばったのです。
お客の喜んでいる顔を見て、かれらもきっと喜んだのでしょう。
ぶどう酒の奇跡の立役者はイエスではありません。人知れず黙々と
水を運び続けた召使いたちと思います。


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イエスのまなざし ヨハネ福音書1:35~51

2024年02月03日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年1月28日 主日礼拝
「イエスのまなざし」
 ヨハネ1:35~51  清水和恵

 フィリポがナタナエルにナザレのイエスに出会ったことを告げると、
ナタナエルの反応はとても悪いものでした。
「ナザレから何か良いものがでるだろうか」
ナタナエルはガリラヤのカナ出身で(ヨハネ21:2)イエスと同郷であるにもかかわらず、
ナザレを見下しています。中央のエルサレムから差別されていたガリラヤの中でも、
ナザレはさらに同郷の者から差別されていたのかもしれません。

 そんなナタナエルにフィリポは「まあ、来てみてごらん」とイエスのもとに連れていきます。
これは実際に自分の目で確かめてみたら?ということでしょう。
なるほど伝道は実際に来てもらってイエスに出会って、自分で確認して納得してもらうことだと思います。
けして相手を力づくで説き伏せたり強引に勧誘したり、信じなかったらバチが当たるとか
不幸になると脅したり洗脳することではありません。

 たとえば水を求めている人がいます。もし私たちが水場を知っているなら、
その人を案内できるでしょう。あとはその人が自ら水を飲むわけですが、
飲むことに助けが必要ならサポートしますが、私たちにできるのはそこまでです。
水を飲む、飲まないはその人自身の自由な選択であることを尊重したいと思います。

 さて、今日の聖書でキーワードは「見る」という言葉ですが、たくさん使われています。
イエスもまた人をよく見ていたのだと思います。あのナタナエルをしっかりと見つめて
「まことのイスラエル人で偽りがない」と語ります。
するとナザレを見下していたナタナエルに変化が生じます。
イエスを神の子、イスラエルの王とまで言うのです。その変化はどうしてでしょうか。

 それはイエスに見つめられている(理解されている)ことを感じたからではないでしょうか。
イエスのまなざしに彼は何かを感じ応えようとしたのではないでしょうか 
私たちは日々、どうしたらいいのか?と思い悩むとき、イエスを見つめたいと思います。
クリスチャンはイエスを行動や判断基準の物差しにします。
イエスは何をしたかったのか、イエスならどうしたか?と
イエスを見つめる中で、ヒントや答えを示されます。

 ナタナエルもまたピンときて、彼なりの答えを出しました。
イエスはナタナエルを見たように、私たちをずっと見ています。
私たちはイエスのまなざしを感じること、イエスを見つめることがとても大事です。
私たちが見離しても、けして見離さず、無視しないイエスが私たちと共におられる
事を覚えたいのです。

*おまけの話
このメッセージを作っている間に、ちょうど大相撲がやっていました。
1月28日の千秋楽は、応援している照ノ富士が優勝して、よかった!と
思ってほくほくしてました。
千秋楽までの15日間を、見ていましたら解説者が言うキーワードがあると感じました。
それは「見ている」ということです。勝っている関取に対してのコメントは
「○○関は良く、相手を見てましたよね」
このフレーズはよく聞きました。
つまり相手を(相手の動きを)落ち着いて見ているお相撲さんが結局
勝っているということなんです。
確かに、相手の動きを見て把握したら、次に何をしなくてはいけないか
おのずからわかってきますよね。

そういえば、卓球でも同じかもしれませんね。
日曜日まで全日本選手権が開催されていました。
卓球も「相手のボールをよく見る。読む。」ことが肝心とも聞きます。
対面のスポーツはすべてそうかもしれません。
見るということが、次の展開につながるということでしょうか。

相手をよく見るとは、理解する、わかるということでもあると思います。

そういえば英語の I see (わかる、理解する)は、わたしは見るという
意味でもありますね。






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神はテントを張った ヨハネ福音書1:14~18

2024年01月27日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年1月21日礼拝

「神はテントを張った」  ヨハネ1:14~18  
 
           清水和恵
 今年は早々、能登半島地震、羽田での飛行機事故が起き
「あけましておめでとう」とは言いづらいスタートでした。
そんなとき、神がいるなら何故災難がふりかかるのか、
神はどこにいて何をしているのか?
という問いを抱いてもおかしくはありません。

 その答えとして、クリスマスの出来事が語るのは
「神はあなたと一緒にいる」ということです。
人々がこんなところに生まれるはずがない、と思っていた場所に
キリストは生まれました。
 イエス・キリストの別の名は「インマヌエル~神は我々と共にいます」
とマタイは語ります。ではそれをヨハネはどう語るでしょう。
14節に「言は肉となって私たちの間に宿られた」とあります。
言いかえると「イエス・キリストは生身の人間になって私たちと共に生活した」です。
この「宿られた」はもともとテントを張ったという意味です。

 この表現に遊牧民にルーツを持つ古代イスラエルの人々はピンときました。
かれらの先祖はテント生活をする旅人です。族長アブラハム、イサク、ヤコブと
その一族はテントを担ぎながら、小家畜飼育者として旅を続けました。
 また、出エジプトの後、約束の地に向かい40年にわたる荒野の旅を
続ける人々を神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって守り導かれました。
旅の間、必要なものはすべて、食べ物のマナや水などが与えられました。

 古代イスラエルの人々は旅を支えたのは神であるという信仰をもっていました。
それは神が固定したところに鎮座ましますのではなく、常に人々と共に行動し、
自由自在に移動する存在という信仰です。

 神は旅人となりました。しかも誰かにテントを張らせるのではなく、
自ら動きテントを張る能動的な神です。
 人生は旅と言われます。私たちの旅は一人で行く旅でありません。
神が私たちの旅の仲間になり、一緒に行動してくださるのです。
そして人間の喜怒哀楽に共感されます。

 この新しい年、想像の出来ない困難があるかもしれませんが、
共におられる神に信頼し歩みを守り導いてくださることを覚え、
過ごしてまいりましょう。


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証言者 ヨハネ福音書1:6~13

2024年01月12日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年1月7日 礼拝
 ヨハネ福音書1:6:~13
  清水和恵

 ヨハネ福音書によれば、バプテスマのヨハネはイエス・キリストの証言者
として描かれています。イエス・キリストはまことの光であり、世に来てすべての人
を照らします。(9節)
 それを証するため、すべての人がイエスを信じるようになるためにヨハネは
遣わされたのです。
「すべての人を照らす光」をイメージできるのは太陽です。
太陽が分け隔てなく、誰に対しても照らすように神の恵みはすべての人に注がれるのです。
神を信じようと信じまいと、神はすべての人を愛されます。
ところが太陽の光がわたしたちを照らさない時があります。雨や曇りや雪の日です。
しかし太陽は消失したわけではありません。
たとえば飛行機に乗り、高度が上がると雲の上には太陽が輝いているのがわかります。

私たちも自分の置かれた境遇を嘆き、神の愛から遠いと思うことが
しばしばあるかもしれません。けれども視点を変えてみると、
雲の上には太陽が輝いているのと同様に、私たちは一人ひとりの
命と尊厳を尊いものとする絶対的な神の愛に包まれていることに気づきます。
それを知らせるためにイエスはこの世界に来ました。

 10節以降は、キリストの出現を受け入れない人と、
受け入れる人について書かれています。
聖書学者の本田哲郎神父は受け入れない人について
「その方は自分の家に来たのに、家の者たちは迎え入れなかった」と
訳していますがわかりやすいですね。
 けれども、受け入れる人には神の子となる資格(権利)を与えた、
とあります。それは血筋でも行いでもなく、人の欲によってでもなく
神によって生まれるとありますが、その意味でクリスマスとは、
キリストの誕生と神の子の誕生をダブルでお祝いする喜ばしいときなのです。
神の子とは、神を受け入れ信頼し、神の愛に応答する者のことです。
イエスを受け入れる者は、イエスを遣わした神を受け入れることです。

 13節に「人の欲によってではなく」とありますが、ここの人の欲とは男の
意志と訳せます。当時は男たちがすべてを決める時代でした。
これは大変な人権侵害ではないでしょうか。
(日本でも明治憲法下では個人の尊重は認められず、特に女性は、
 家父長制のもとに抑圧されており、権利が制約されていました。)

 ヨハネのこの箇所、これは男女平等、ジェンダー公正を訴える画期的な
宣言と思います。男性中心主義的な価値観からの解放は、ジェンダーの枠を超え
一人ひとりが尊重され多様性を生きることに繋がるはずです。

 はたしてヨハネ福音書の著者はどんな人(たち)だったのでしょうか。
興味がわきます。血統主義や男性中心(優位)主義に否!を唱えたかった
人たちがいて、神の意志、思いを思いめぐらす柔らかい視点をもってほしい、
と伝えたかったのかもしれません。
また、著者たちの集団に女性がいたり、なんらかの形で助言していたのかもしれません。
(著者が女性だったかもしれない可能性については、聖書学者の山口里子さんやエリザべス・
フィオレンツァが示唆しています)

 ところで、日本のジェンダーギャップ指数は年々、降下しており2023年は146か国中125位。
昨年9月に岸田政権は内閣改造をしましたが、政務官、副大臣は併せて54名中、
一人も女性はいません。この現象を一つとっても日本の政治はおおかた男が決めていると
言っても過言ではありません。
 イエスが見たらどう思うでしょうね。
「人の欲=男の意志」によって決めるな、ということとを相反してます。
神はなにをわたしたちに求めているのか、思い巡らしたいですね。
 
【おまけの話】
 雲の上には太陽が輝いている。
 これと似たような4字熟語に「雲外蒼天」や「開運見日」があります。
 意味は「どんな試練でも努力して乗り越えれば青空が望める」だそうです。
 しかし、わたしの言いたかったこととちょっとニュアンスが違うのは、 
 努力しなくても、雲の上には太陽が輝いているし、こちらが頑張らなくても
 イエスという方が、太陽のような存在である神を示してくださる。
 イエスのほうから、私たちのほうへ近づき、それを教えてくれる
 ということなのです。

 
 

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