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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

ひと粒の麦 ヨハネ福音書12:20~26

2024年03月23日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年3月17日
「ひと粒の麦」  ヨハネ福音書12:20~26
              清水 和恵

「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

この言葉は、ギリシア人がイエスに会いたいと願い出たことを発端に、
弟子やギリシア人に対して語られました。
このギリシア人たちは、ユダヤ教徒に改宗した人たちです。

「人の子が栄光を受ける時がきた」とはヨハネ福音書独特の表現ですが
「イエスの死が来た」と同義語です。
古代の人は種から芽が出ることを、種としてのいのちが死に、芽、茎、穂として
形を変えて新しいいのちが始まると考えました。
イエスの十字架と復活は、このように麦の穂を実らせることだと、イメージされたのでしょう。
ヨハネ福音書においては、イエスの十字架は敗北ではなく、新しい時の始まりを表します。
死は死で終わらず、死の向こうに復活という勝利、輝かしい栄光があるという理解です。 

しかし私たちはイエスの犠牲の死を美化してはならないと思います。
同時に犠牲の死を誰にも強要してはなりません。
イエスは処刑死しましたが、死んでもなお私たちのうちに生き続けています。

種は殻に包まれています。
その殻を破り、形を変えて生きるいのちの世界があることを、イエスは示したのです。




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ひとつとなる ヨハネ福音書17:20~26

2024年03月17日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年3月10日 礼拝
「ひとつとなる」  ヨハネ福音書17:20~26
     清水 和恵

今日は礼拝後に教会懇談会(テーマ「教会をつくる」)がありますので
それに連動する話をしたいと思います。

 17章全体は「イエス・キリストの祈り」になっています。
キーワードは一つになる。17章を読んで思い出したのが、童謡詩人、
金子みすゞ(1903~1930)の「はちと神様」「わたしと小鳥と鈴と」。
金子みすゞは仏教徒でした。かのじょの言う神様は、キリスト教の
神様とは違うかもしれないけれど、とても共感できるのはなぜでしょう。
ひょっとしてヨハネ17章、いえ聖書を読み込んでいたのではないかとさえ、
思うのです。
 そして今日、3月10日は26歳の若さで生涯を終えた、金子みすゞの命日です。
みすゞは「私と小鳥と鈴と」という詩で、どんなものでもそれぞれ違いが
あるけれど、それがいいし、それでいいと語ります。
 わたしたちは違っていて当たり前、同じにはなれません。
しかし一つになることはできます。
一つになるとは互いの違いや個性を認め、受け入れ、
共にいられる関係を作ろうとすることです。
 いろんな意見や考えがある中で、聴き合っていく優しさ、
柔軟さが必要です。

 なかなか一つになれない私たちのために、とりなしの祈りをして
くださるイエス・キリストにあって、一つとなるために歩んでいきましょう。

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真理による自由 ヨハネ福音書8:31~38

2024年03月09日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年3月3日 礼拝
「真理による自由」
 ヨハネ福音書8:31~38
      清水 和恵

「真理はあなたを自由にする」(32節)を、キリスト教主義の学校で
スクールモットーにしているところは少なくありません。
また、国立国会図書館ではこの言葉を「真理は我らを自由にする」と変えて,
掲示されています。もちろん由来は聖書です。

 さて真理をどうとらえるかですが、ヨハネ福音書においては、
真理とはイエス・キリストを表しています。
そして自由という言葉は解放と同義語です。
つまり「イエス・キリストはあなたを自由にする(解放する)」と読めるのです。
クリスチャンはそのことを信じてイエス・キリストに従う者と、言えるでしょう。

 イエス・キリストの教えと生き方は、私たちに問いを投げかけます。
その問いに向き合うとき、私たちの考えや生き方が転換することがあります。
「アブラハムの子」であることを誇りにしているユダヤ人に対して、
血筋や名誉や地位や身分は全く救いに関係ないし、そんなブランドから解き放たれて
もっと自由に生きてみたら?とイエスは問うています。

そして真理を知る手がかりは、イエスの言葉に繋がっていることにあります。

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ふたたび、カナで ヨハネ福音書4:43~54

2024年03月02日 | 礼拝メッセージ要旨
 2024年2月25日礼拝
「ふたたび、カナで」 
 ヨハネ福音書4:43~54
     清水 和恵

 新約聖書でヨハネ福音書にだけ、カナは登場します。
弟子のナタナエルはカナ出身なので、彼とヨハネ福音書著者や著者の属する
キリスト教共同体となにがしかの繋がりがあったのかもしれません。
あるいは、ヨハネあるいはヨハネの属する共同体にとって
カナは重要な町であったと考えられます。
そのカナでイエスは、ふたたび奇跡を起こします。
 水をぶどう酒に変えた奇跡を、イエスの周辺にいた人たち、
弟子たちはまだ覚えていたでしょう。

 王(ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパス)の役人が、30キロ離れた
カファルナウムからやってきて瀕死の息子を助けてほしいとイエスに
懇願しました。
 ところが、イエスは彼に「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と語り、
彼はイエスの言葉を信じて帰ったところ、その途中で息子が助かったという話。
 ヨハネは見えるしるしに頼るのではなく、イエス・キリストの言葉を聞いて
信じる信仰について語ります。
 これはイエスの復活を疑ったトマスへのイエスの言葉
「見ないで信じる人は幸いだ」(20:29)に通じているとおもいますが、
これぞヨハネ福音書の伝える重要な一つのテーマだと言えます。
 ヘブライ書には「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」
とあります。(11:1)
 息子の父はまさに望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認して、
つまり「息子が生きる」ことを信じて帰ったのです。
イエスから希望の言葉をいただいて、それを信頼しゆだねたのでした。
 信仰の醍醐味を感じさせてくれる話ですね。

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3日で建て直す ヨハネ福音書2:13~22

2024年02月26日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年2月18日 礼拝
 3日で建てなおす 
 ヨハネ福音書2:13~22
       清水和恵

 過越祭にエルサレム神殿を訪れたイエスは、
その境内で商売がなされていることに憤りました。
それは日本のお祭りで神社の境内で食べ物等を売っているのとは
全く意味が違います。エルサレム神殿では「礼拝ビジネス」が横行していました。
牛、羊,鳩が礼拝の犠牲として売られ、また献金用の両替がなされていました。
このビジネスで暴利を貪る人々がいて、その代表格が神殿を運営する富裕層の
祭司たちです。
 イエスが憤ったのは神殿において,神が商売に利用されまことの礼拝が
行われていなかったからです。 
人々にとって、神殿は信仰のよりどころでした。
けれども、その神殿が人々を搾取する「礼拝ビジネス」の横行する場と
なっている以上、イエスは「壊せ」と言い放つのです。
 
 教会の活動の中心は礼拝です。
キリスト教会は礼拝を2000年間、死守してきました。
教会が歴史を閉じる時は礼拝をしなくなる時です。
イエスが語った新しい神殿とは、イエスの名のもとに集まって祈り、
まことの礼拝する群れを表しています。

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