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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

湖畔の食事 ヨハネ福音書21:1~14 2024・4・21

2024年04月27日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年4月21日
 「湖畔の食事」
   ヨハネ福音書21:1~14 清水 和恵

 聖書学の見地によると、ヨハネ福音書は元々20章で終わっていました。
ではなぜ21章が付け加えられたのでしょうか。
ヨハネ福音書を最終的に編集した人の意図を思い巡らしたいと思います。
21章を読むと、舞台はガリラヤ湖畔。
昔、弟子たちが生業としていた漁をホームグランドの湖でやって
みたけれども不漁で、そこへ復活のイエスが現れ指示通りにすると大漁になり、
イエスが用意した朝の食事をするという話。この話には幾つかの謎があります。

 まず、なんで彼らはエルサレムを離れ故郷に戻り漁をしていたのか。
ガリラヤ湖がティベリアス湖と書かれているのはなぜか。
かれらはエルサレムでの活動がうまくいかず、故郷に戻るしか術がなかったと思われます。
しかも、元生業としていた漁をしても、徒労に終わる中で疲労困憊し先の展望が見えない
状態にあったようです。つまり21:1~14は弟子たちの失敗と挫折の話です。

 ではなぜガリラヤ湖と書かず、ティべリアス湖になっているのか?
ガリラヤ湖西岸にティべリアスという町があります。
この町はイエスと同時代に生きたローマ皇帝ティべリアス(在位14~37年)
の名前によって名付けられました。支配者の名にちなんで地名が変えられることは、
支配する者の権力を示す意味があります。

 ヨハネ福音書が編集されたのはおおよそ90~100年頃と言われており、
その頃のキリスト教会はローマ帝国の弾圧に苦しんでいたという歴史的状況があります。
当時ドミティアヌス帝(在位81~96年)は、自らを「主」と崇めさせキリスト教徒を、
強固に組織的に弾圧していました。そこでヨハネ福音書21章を書いた著者は、
ティべリアス湖という表現にこだわったと思うのです。
 
 ヨハネ福音書が書かれまとめられた90年代の教会が置かれた歴史的背景をふまえ、
福音書でわざわざティべリアス湖と記したのは、当時のガリラヤの民衆そして
キリスト教会がローマ帝国の支配下にあって弾圧され、どれだけ思い悩み辛酸をなめ
苦労しているのかを象徴的に表現したと言えるでしょう。
ガリラヤ湖ではなく、あえてローマ支配の象徴として使われたティベリアス湖を舞台と
記すことでローマの属国である人々が翻弄され苦しんでいることを、
著者は強調したかったと思われます。
あえてティベリアス湖を表記するのは、権力に抵抗する手段としての皮肉にもとれます。

 さてローマ帝国の支配下という背景を踏まえて、夜通し働いて頑張ってみた、
しかしなんの成果もなく疲労困憊して途方に暮れてしまった彼らにイエスは現れます。
ねぎらいの気持ちもこめて炭火を起こし朝の食事を用意しました。
ここで注目したいイエスの言動は、「もう一度やってみたら?」といううながしと、
弟子たちが自ら獲った魚を食事に用いたということです。
 イエスの精一杯のあたたかなねぎらいが伝わってきます。
こんなイエスの言葉が聴こえてきます。
「あなたがたの働きは疲労困憊するほど大変だけれど、全く無駄じゃない
。今こうしてみんなの疲れをいやし、心とお腹をみたし、元気にしてくれるものを
あなたたちは現に差し出しているではないか。あなたたちは充分にやっていける。
途方にくれ絶望してにっちもさっちもいかなくなっても、大丈夫。
そんなあなたたちのところに、わたしはいつも共にいる。」
 
 イエスがつくった朝の食事。弟子たちにとって、特別な食事であって
格別な味がしたでしょう。
それは弟子たちの次の行動するステップにつながるとても大事な食事となりました。

【おまけの話】
 大漁だったというのは153匹の大きな魚が獲れたという話。
 これはあくまでも、「たくさん」という象徴的な数字です。
 面白い話があります。ボーリングのピンを1列目に1本、2列目に2本・・・・
 という風に三角形を並べると17列目でちょうど153本、
 キレイな3角形になるそうです。
 ボーリングのない時代に生きた著者からすれば、
 なんともびックりする話でしょう。

 ところでガリラヤ湖で何も獲れず、この先いったいどうしたらいいのやら、
 すっかり疲労困憊している弟子たち。
 イエスから託された伝道もできず、元生業の仕事もうまくいかず・・・
 思い悩む
 彼らの中には、神は何をしてるんだ?
 本当に神はいるのか?と疑った弟子もいたのではないでしょうか

 遠藤周作はこんなことを言っています。
 「信仰とは99%の疑いと1パーセントの希望である」
 これを「私のイエス」という本の中で言っています。(p19)

 新発寒教会は、読書会をしていますが
 来る5月28日(火)13:00からこの「私のイエス」をテキストに
 行います。
  「信仰とは99%の疑いと1パーセントの希望である」
 なかなか意味深いと思いますが
 遠藤はいったい、なにを言いたかったのか
 ご一緒に考えてみませんか。






 


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おまけの話?ヨハネ福音書20:30~31

2024年04月21日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年4月14日
「おまけの話?」
  ヨハネ福音書20:30~31
      清水 和恵

 今日の聖書は、なんだか「おまけ」のような文章が記されています。
とってつけたような印象をもちます。
確かにこの箇所は、福音書本体ではなく、たとえば岩波版聖書では
「結び」となっていて「あとがき」のようにも読めます。

 じつはヨハネ福音書は、20章で終わっていたというのが聖書学の定説で、
21章以降は後に書き加えられた文書です。
なぜ、最終的にヨハネ福音書を編集した人が、この21章を付け加えたのか?
それは来週お話しますから、ぜひ礼拝に参加してくださいね。

さて、わすか2節の文章のなかにヨハネ福音書の執筆動機が記されております。
二つあります。
 ①イエスがキリストだと人々が信じること 
 ②信じてイエスの名によって命を受けること。

 本の編集に携わる人によると、まえがき、あとがきは、
こう書かねばならないといった決まりがあるわけではなく、
どちらか片方だけという著者もいるし、内容は自由でいいのだけれども、
大まかにいうと前書きにはその本の紹介や何をテーマにして何を語りたいのか、
本の目的、趣旨、動機が要約されて記されていることが多いようです。
(もちろんそれらを「あとがき」に入れてもよいのですが)
 ヨハネ福音書のこの箇所は、最後にあるので「あとがき」のようにも考えられますが、
内容としては「まえがき」として読んでもいいですね。

 ところで信じるとは、信頼するという意味もあります。
神を信頼することで得られるいのちがあること。
それは言い換えると救われるということです。
命を受けるとは滅びない、滅ぼされないで神によって守られるという意味です。

 聖書から聴こえてくるのは、神は一貫していのちを肯定していることです。
わたしたちは神の祝福のうちに創造されました。
そのいのちとは「生まれてきてよかった。生きててよいのだ」と思えるいのちです。
神はいのちを祝福し尊ばれるゆえに、誰のいのちも脅かされたり、
奪われることをけして認めず許しません。
 また互いに愛し合い、いのちを大切にして生きていくように招かれています。

 神と共にあるいのちを喜び、信じて生きる豊かさを味わっていきましょう。

【おまけの話】
 故岸本和世牧師は、引退されてからわたしたちの教会のメンバーとして
教会生活を送られました。来てくださったときは、少々緊張もしましたが
そのうちにとても楽しく過ごすことができてよい思い出がたくさんあります。
「和世さん」と呼ぶのは、生前の和世さんの希望であり、もう牧師
ではないのだから「先生」と呼ばないでと言われていたからでした。
そのとき名前で呼び合うのは、素敵だなあ、と思いました。

ある時、和世さんが「あなたに見せたいものがある」と言い出して
1枚の絵ハガキを見せてくれました。
わたしが何かの用事で京都に行ったときに、和世さんに出したものでした。
「ここに岸本和世さま。って宛名があるでしょう。
 差出人の名前をみてごらん。
 清水和世って書いてある。
 はははは。」

いわゆる「牧師、先生、先輩」ぶらず、お茶目で気さくで
大の音楽好きでそして知性溢れる和世さんでした。
その時の教会メンバーの中に「和」という漢字の入った名前の方は4人。
「4人のかずちゃんの会」をわたしは密かに、もくろんでいたのでした。

そして和世さんは教区一の蔵書数を誇る読書家でいらっしゃいました。
わたしも古本屋K で、和世さんのものと思われる本を見つけたことが
あります。その時の何とも言えない感動は「古い友達にひょっこり
再会」したような感じに似ているかもしれません。

和世さん曰く
「本は前書きとあとがきと目次を見たら、大体
 どんな本かわかる。慣れてくると本のタイトルと著者だけで
 いい本かどうかもわかる・・・」

わたしはまだまだ、その域には至ってないので
すごいなあ!と、思って感心して聞いてましたが、つまり前書き、
あとがきはけして「おまけ」でも「付録」でも「つけたし」でもなく、
その本を構成する重要なパーツなのだということを教えていただき
ました。

そのうえで、あらためてヨハネ福音書の前書きあるいは前書きのような
箇所はどこかな?と
考えると、やはり冒頭の「初めに言があった。」
から始まるヨハネ1:1~14ではないか、と思います。

【おまけのおまけの話】
いつでしたか、ブログを読んでくださった方が、
「おまけの話、おもしろいですね。」
と言ってくださって、
自分としては特に「おもしろくも」ないので
大変恐縮したのですが、
本末転倒にならないように、と思います。

その昔、「付録」や「おまけ」ほしさに雑誌や菓子を買った
思い出があります。
「おまけ」の歴史は、日本で言えば、1922年にさかのぼるそうです。
100年の歴史があるんですね。

まあ、「おまけ」を充実させて、そのついででもいいので
聖書の話にも耳を傾けていただいたら、それもありで
いいかもしれません。



 


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あなたがたに平和 ヨハネ福音書20:24~29

2024年04月13日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年4月7日礼拝

「あなたがたに平和」
  ヨハネ福音書20:24~29  
        清水 和恵

 イエスの復活を信じないと疑うトマスが、ほかの弟子たちと共にいました。
そこへ復活のイエスが現れます。ほかの弟子たちは既に1週間前に、イエスに出会っています。
今日の聖書は、疑いのトマスがクローズアップされていますが、ほかの弟子たちはどんな
心情だったのか、と想像してみるのです。
 イエスとの再会に喜び救い主と信じた者、イエスに赦され安心した者、
イエスに今度こそは従おうと心に決めた者がいたでしょう。
 けれども、ひょっとしたらトマスのように、まだイエスの復活がわからない、
納得できないと思う弟子もいたのではないか、と想像するのです。みんながみんな、100% 
信じることができたのでしょうか。彼らの中には大なり小なり、トマスのように疑う者も
いたのではないか、と私は思ってしまうのです。

 教会とはそういうところもそうかもしれません。
もちろん、すっきりと信じる人もいるでしょう。しかし信じているけれど、ときどき迷う人、
弟子たちのように恐れを感じて、心のドアを閉め切っている人、信仰を得たいと思っても今は
その時ではないと思う人、聖書に興味はあるけれど、神がわからないという人、、。
つまりいろんな思いの人が礼拝しているのではないでしょうか。
しかしそれでいいのだと思います。
いろいろな思いを抱く人の中にイエスは来て、「平和があるように」と、祈ってくださるのです。

 何度も心が揺れ動き、疑い躓き恐れてしまう私たちはそのたびに、
イエスの平和の言葉を聞く必要があるのだと思います。
ここでいう平和とは、平安という意味でもあります。
 弟子たちは、イエスを裏切り逃げた人たちです。彼らの心は平安ではありません。
しかしその彼らを前に、イエスは責めも呪いも復讐のことばを投げかけることなく、
平和を祈りました。弟子たちはその時、イエスに赦されたと思いました。


 讃美歌21-575「球根の中には」は、人気のある讃美歌です。
3節「恐れは信仰に 死は復活に~~♪♪」とありますが、じつは恐れという言葉は
原詩にはありません。直訳すると「疑いの中に信仰がある」です。
 つまり、疑いは否定されてないのです。むしろ疑いは、信じるにいたるステップで、
疑いの中に信じる可能性があると歌っているように思うのです。

 信じるとは、疑わないことだとしたらとても危険です。
カルトの危険性は、疑いを罪とするところにあります。疑う人は「サタン」が入り不信仰な者として、
断罪されるそうです。
 けれどもイエスは、疑い恐れる者の真ん中に来られ、けして裁きも否定も断罪もすることもなく、
平和を祈るのです。
 トマスの物語は、イエスの祈る平和のゆえに、その平和に守られて信じる者へと変えられた者の話です。
イエスは信じる人だけでなく、信じられない人のところにも、すべての人のところに来ます。
「疑ってよい。けれどあなたはそこにはとどまらない。怖がらなくてもいい。
何故ならあなたは一人ではないし、見えないけれどいつもわたしは、あなたと共にいて平和を与える」
と語るイエスに気づき、思いめぐらすこと。
それが復活のイエスとの出会いです。
わたしたちは、信じることで恐れから解放される平和(平安)な世界があることを、
イエスによって示されています。


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未来へ! ヨハネ福音書20:11~18

2024年04月07日 | 礼拝メッセージ要旨
 2024年3月31日 イースター礼拝

「未来へ「  ヨハネ福音書13:20~26  
        清水 和恵

近所の新発寒小学校の卒業式に参列しました。
卒業テーマは Keep going forward ~ひとりもとりのこさない 未来へ~でした。
最近の小学校は英語教育が導入されているので、横文字もありなんでしょうね。
そもそもは「前へ向かって進み続ける」という意味でしょう。

晴れ晴れとした顔のこどもたちは、小学校での思い出を胸にきっと自分で描いた
未来を拓いていくでしょう。
卒業生は教会には小ニの頃から、遊びに来ていた子どもたちでした。
これからが本当に楽しみです。どんな感じで大きくなっていくのでしょう。
これから、しばしば再会の時があるだろうと思いますので、
その時々を楽しみにしたいです。
卒業式は、お別れの時ではあるのですが、同時に新たな出発の時でも
あるのだと思いました。

マグダラのマリアは、墓の外で泣いていました。
そこに復活のイエスが現れるのですが、気づきません。
ところがイエスが「マリア」と名を呼ぶと、彼女は気がつき、
ふりむいて「ラボ二」(先生)と答えます。
うれしい再会の場面であるのですが、なんとイエスは
「すがりつくのはよしなさい」と、冷めた対応をとります。
なぜならまだ神のもとに上っていないことが理由のようで、
他の弟子たちに自分は神のもとに上ることを告げるように言います。

この箇所をどう読みとけばいいのか、難しいのですが、中世の絵画、彫刻では
よくモチーフに採り上げられている有名な場面で、
Noli me tangere(ノーリ・メ・タンゲレ)と 呼ばれています。
2人は神の国を伝える同志であり、信頼しあう関係でしたが、
イエスはマリアに新しい姿で再会されたのでした。
言うなれば、この場面はマリアにとっての「卒業式」だったのではないかと思うのです。

すなわち、別れにして新しい出発です。
マリアにとって新たなステージがやってくることをイエスは告げました。
自分はもう神のもとに行ってあなたと離れてしまうが、あなたは自分の足で
歩いていくことができます。イエスと過ごした日々や過去に縛られることなく、
マリアの知っているイエスに執着することなく、新たな思いで未来へ出発しなさい、
とイエスが背中を押しているのです。
それゆえの「すがりつくのはよしなさい」という言葉だったのではないでしょうか。


 ジャック・デリダ(1930-2004)という、フランスの哲学者の言葉に出会いました。
「アーカイブはあたかも、過去や伝承を忠実によみがえらせる場と見える。しかしそこは、
過去というよりも未来の到来を示す場所なのである。」 


 アーカイブとは、語源は古代ギリシア語の「アルケイオン」(公文書、記録を保管する場所)
資料、文献をひとまとめに保存、記録すること、情報を整理することという意味です。
イメージとしては図書館でしょうか。
 確かに保管された書籍や資料は、誰かが記した過去のもので、図書館や博物館
などは人類の知の宝庫ともいえる空間だと思います。
人はそこでさまざまに思い巡らし、気づきと発見をするのです。様々な問いがやってきます。
自分や隣人そして世界へ、過去から現在、そして未来へとわたしたちのまなざしと関心は、
縦横無尽にひろがっていきます。さらに、進むべき次のステップを示されることがあります。

 マリアはイエスのアーカイブをたくさん持っていたでしょう。
いや、イエス自身が、アーカイブそのものとしてマリアの傍らに立っているのです。
ジャック・デリダの言葉を借りるなら、マリアに未来が到来しているのだから、
これからを生きていくためにイエスはマリアをバックアップしているのです。

 わたしたちも、今も忘れ得ぬ大切な人との出会いがあり、たくさんのことを
教えられたでしょう。 感謝は忘れてはならないし、思い出は大事です。
けれども、いつまでもそこに、とどまっていていいのでしょうか。
思い出は大事な宝として胸に抱き、学んだことをどう生かしていくのか、
今そしてこれからをどう生きていくのか、自分で考え判断し行動するように、
促されていると思うのです。

 ときに私たちは悲しみ泣き崩れもしますが、そこから何度でも神様は
起き上がらせてくださいます。 
 マリアはイエスから託されたことを、行動に起こしました。
そこにはもう悲しみと絶望に打ちひしがれるマリアはおりません。
よみがえりのイエスに出会い励まされ、自分の足で歩きだすその姿に、
マリアの「復活体験」を見るのです。

 イースターおめでとうございます!!


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イエスはなぜ弟子の足を洗ったのか ヨハネ福音書13:1~15

2024年03月30日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年3月24日 礼拝
「イエスはなぜ弟子の足を洗ったのか」
ヨハネ福音書13:20~26   清水 和恵

 ヨハネ福音書は洗足の記事を、最後の晩餐と同じくらい重要な出来事
として描いています。イエスの時代、足を洗うのは奴隷の仕事でした。
当時の履物は素足にサンダルです。当然、足は汚れやすいのですが、
イエスが洗うことで、弟子たちと関わりを持とうとされました。
弟子たちの美しくきれいなところではなく、汚れたところに目を留め、
いたわるようにして洗たのです。

 人の足を洗うときは、相手より低い位置にいます。
その時の目線は、下からです。横文字で恐縮なのですが、
見上げることをlookup(ルックアップ) 見下げることをlookdown
(ルックダウン)といいます。
 この見上げる、ルックアップには、尊敬するという意味があります。
つまり互いに足を洗う行為とは、互いに尊敬する、尊重する関係を作りなさいと、
イエスは象徴的に語っているのではないでしょうか。

 足を洗うときに嫌がおうでも、自分の汚れた部分を見せないといけない
でしょうし、また他人の汚れた部分も見てしまうわけですが、
そんなときに見下すのではなく、見上げて互いに尊重、尊敬する、
いたわり大切にすることをイエスがすすめている場面だと思います。

 ここで大切なのは「互いに」ということ。一方的ではないということです。
そこにあなたがたは平等な関係であれと、いうイエスの願いがあります。

 また、洗足にはねぎらいと感謝と励ましも込められていたのではない
でしょうか。イエスの愛にみちたケアともいえます。
 イエスと弟子たちは、旅人でした。村や町を歩いて、共食をし、語り合い、
奇跡を起こし、人をいやし、神の国をのべ伝えた旅人集団です。
この洗足の場面というのは、イエスが十字架にかかる前の最後の食事のとき
ですから、緊迫した空気が漂っていたと思います。その場面でイエスは、弟子たちとの
これまでの旅を想起しながら、
「あなたがたはこれまでずっと、一緒に旅をしてくれた。これから先、
自分はいなくなるけれども、その足を大切にして自立して歩んでほしい。
互いに足を洗う関係を作ってほしい。
 これまで旅の仲間として一緒に歩いてくれて、本当にありがとう。」
そんな思いが、イエスの胸中にあったのだろうと思います。
そして弟子たちも伝道の旅に出かける時、イエスの洗足を思い出した事でしょう。

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