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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

ドアを開けて ヨハネ福音書20:19~23

2024年06月01日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年5月26日礼拝
「ドアを開けて」ヨハネ福音書20:19~23
       清水和恵

 今日の聖書箇所は「ヨハネ福音書のペンテコステ」とも呼ばれています。
幾つものカギをかけて内に閉じこもっていた弟子たちに
イエスは息を吹きかけて「平和(平安)をあなたがたに!」と言われました。
平安がなく、カギをかけている弟子たち、それはそのまま、
かれらの心情を象徴的に表しているようですね。

 ところで、皆さんの家の玄関は内開きでしょうか?外開きでしょうか?
日本は外開きが多く、ヨーロッパは内開きが多いようです。
日本は靴を脱ぐので、内開きですと靴が邪魔になるので外開きが多いようですね。
ヨーロッパでは争いがあったり、泥棒が来た時、内開きなら物を置いたり、
内側から押すことで簡単に開けられず、つまり家を守るのに有利です。
 がっしりとした格子をつけた窓も、家を守る工夫のようです。
これはさまざまな民族が住み、物や文化が行きかい、いつもどこかで小競り合いや
紛争、戦争が続いていたヨーロッパの歴史的な事情があるようです。
(『たくさんのふしぎ/まど・窓・まど』深井聡男、深井せつ子/福音館書店)

 玄関は人の出入りするところですが、新発寒教会は外開きでほっとしました。
人を歓迎するためにドアがあると考えたいからです。教会の内側をしっかりと守る
というというよりは、いろんな人に気軽に来ていただきたく、
敷居を低くしたいと思うからです。
(危害を加える侵入者は困りますが、
でもレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンのような例もありますね)

 その昔、札幌市内に「オープン・ザ・ドア教会」という名前の教会があり、
建物は何かのお店を改修した仕様でした。なるほど、それでその名前のごとく
入りやすいのだと思いました。
 お店は一般的に、お客さんに気軽に入っていただくために設計され造られます。
逆にヨーロッパでは、昔は教会、今はレストランというお店がけっこうあります。
どちらもユニークな再利用ですね。

 弟子たちは、自分たちもイエスのように捕縛され殺されるのが怖かったのでしょう。
また、ヨハネ福音書が記された当時の状況も、この聖書箇所に
反映されていると思います。つまりキリスト教(徒)への迫害です。

 しかしイエスは閉じこもる者に息を吹きかけ、新たな命と力を与えます。
そしてドアを開けるように促すのです。
ドアを開けると、光や風も入ってきます。
空気の入れ替えもできて、外の世界が見えるでしょう。
新しい出会いもあります。
イエスの息(聖霊)と「平和(平安)あなたがたに!」と
イエスの宣言を受けた教会は、もうビクビク恐れることはありません。
聖霊が助け手として、守るのです。

安心してドアを開けましょう。
ひらかれた教会となりましょう。
人を温かく迎え、わたしたちも内にこもらず、
福音を携え、外へ出かけていきましょう。
神の愛を広く分かち合うために。


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風よ、吹き来たれ!エゼキエル書37:1~10

2024年05月26日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年5月25日の礼拝 
「風よ、吹き来たれ」  エゼキエル書37:1~10
               清水 和恵
 今日はペンテコステの礼拝、併せて教会創立58周年の
記念礼拝としてささげています。教団に登録されている
設立年月日は1966年4月3日です。58周年を迎えた新発寒教会の
これまでの歩みをふりかえり、これからの課題は何か、
どんな教会を作りたいかみんなで考えたいと思います。

 前任牧師の野村喬先生の言葉を思い起こします。
①教会は今だけを見るのではなく、遥か先を見るまなざしを持つ 
②教会は預言者的なまなざしを持つ 

預言者とは、神の言葉を預かって語る者という意味ですが
聖書において、とても大事な役割をする存在です。
今日はその一人、エゼキエルの言葉に耳を傾けたいと思います。
エゼキエルはBCE597年にバビロン捕囚に送られ、ケバル川のほとり
捕囚民居住地に居住していましたが、5年目に預言者として
活動し始めます。捕囚民の中で、捕囚民と共に、彼の預言活動は
20年にも及びました。

 あるとき、神の手によって白骨の散乱する谷に連れていかれます。
おそらくそこは、災害か戦場跡か大量虐殺の現場だったと想像します。
夥しい人の白骨が葬られることもなく散らばっていたのです。
無残としか言いようがありません。

 ユダヤの人々は、戦争に敗れ、捕囚民としてバビロンに連れて
いかれたとき、望郷の念を抱きながらもそのまま異国で死んで
行かねばなりませんでした。
「なぜ自分たちがこうなったのか、神はどこにいるのか」と、
絶望を抱く同胞にエゼキエルは励まし、再生の希望を語りました。
キーワードは「生き返る」です。

 エゼキエルはユダヤ人の置かれた状況を「枯れた骨」に
重ね合わせた幻をみたのでしょう。いのちがなく、望みもない状態です。
ではこの枯れた骨を再び生かすことができるでしょうか。
神は応えます。
「骨に向かって預言せよ。主の言葉を聞け。・・・
見よ、わたしはおまえたちの中に霊を吹き込む。
するとお前たちは生き返る」

 霊とは(神の)息、風とも訳せる言葉です。
それが四方八方から吹き付けてくるとき、人は再生する望みを
エゼキエルは語りました。それはそよ風ではなく、立てなくなるほどの
強烈な風のようなイメージを抱きます。
しかしそこから再生が始まっていくのです。
神が立ち上がらせてくださるからです。
何をもって?
それは神の霊と神の言葉です。

神に支えられ導かれながら、わたしたちは58年目を歩んでいきます。

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生きた水の流れ ヨハネ福音書7:37~39

2024年05月17日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年5月12日の礼拝

 「生きた水の流れ」  ヨハネ福音書7:37~39
               清水 和恵

 子どもたちの名前は、宮澤賢治の詩と、
「いのちの水」が描写さされている聖書からヒントを得て名付けました
「水」をあらわす「さんずい」の名前です。
(ヨハネ7:37~38、エゼキエル47:6~12、イザヤ12:3、
創世記2:6~15、アモス5:24、詩編104:10~13ほか) 
 聖書の舞台は乾燥した灼熱の大地であり、水は命を支える大変貴重なものです。
水の豊潤な国で生活しているわたしたちには、
それは少しイメージしにくいかもしれません。
水はいのちを多面的、包括的(精神的、物質的)に支えます。

 週報を作っていて 清水和恵を死水和恵と打ち間違えてしまいました。
生きた水の流れと題してお話するのに、なんてことでしょう。
と思いながら「死んだ水」とは、何だろうと思いめぐらすと
真っ先に浮かんだのが原発汚染水です。
 わたしたちの教会では月一度、平和スタンディングをして
「原発汚染水放出反対!」のプラカードを掲げてささやかながら
アピールしています。
 岸田政権は「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」と
約束していましたが、それを反故にして、昨年8月に海洋放出に踏み切りました。
海洋放出をめぐっては風評被害の懸念や国内外から反対する声があがっています。

 実際に福島第1原発で汚染水が建屋の外に漏れだす事故や、
汚染廃液を浴びた作業員が入院するといった事故が起きました。
汚染水はアルプス(多核種除去設備)で処理しても、放射性物質の
トリチウムは除去できないとされています。

 海はつながっています。
国内だけでなく周辺の国から反対の声があがるのは必至でしょう。
わたしたちは放射能物質まみれの水を流し、いのちが豊かにやどる海を
汚しているのです。鋭く問われているのは、自分さえ、今さえよければいいと
いう自己中心的な、自分勝手な考えがあらゆるいのちを脅かしていると
いうことではないでしょうか。
 それは未来を生きるすべてのいのちをも含みます。
いのちの水を考える時、原発汚染水の問題は象徴的で具体的ですね。

 ほかにも公害病である水俣病やイタイイタイ病は、
いのちの川や海を汚した結果、人々の暮らしや健康を壊してしまった
典型的な例です。
 一方で、たとえば196万都市札幌を流れる豊平川の、70年代に端を発する
カムバックサーモン運動は、市民の手で川をきれいにして、
自然環境保護を成し遂げた例です。
 私たちにはいのちを生かし育む知恵と力が与えられているのです。

 イエスが生きた水の話をしたときにイメージしたのは、
エゼキエルの言葉でしょう。
「その川の流れるところでは、すべてのものが生き返る」(46:9)
 わたしたちは、いのちの源である神からいのちの水を飲むとき、
人は力を受けてその人の内(腹)から、生きた水が流れ出る(聖霊が働く)
とヨハネ福音書は語ります。

 生きた水が流れるとき、再生が起こります。
安心して生きていくために私たちには水が必要です。
生きた水は、人間だけでなく被造物のすべてのいのちを支えを生かすのです。
さて、どんな水を流していくのか、それは私たちに委ねられております。


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 愛するか   ヨハネ福音書21:15~19  

2024年05月04日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年4月28日
「愛するか」
  ヨハネ福音書21:15~19
     清水 和恵

 イエスとペトロのやりとりで、「愛する」という
ことばが用いられているのですが、イエスとペトロの言葉の
ニュアンスが微妙に違います。
原語のギリシア語ではイエスは「アガペーしているか」と問いかけ、
ペトロは「はい、フィリアしています」と答えています。
 アガペーとフィリアの違いは、フィリアは友愛や家族愛に
象徴されると言われています。
ちなみにフィラデルフィアという町の名はこのフィリアから来ています。

 アガペーは神の愛を表すと言われ、新約聖書では120回、
使われとても重要な言葉です。
またアガペーは隣人、家族だけでなく敵対する者をも愛する愛です。

 仏教学者であり僧侶の釈撤宗さんによると仏教の慈悲とアガペーは
同じだと言っていますので(「仏教ではこう答えます」p36) 
仏教徒や仏教に関心のある方にアガペーを説明するときは
イメージされやすいかもしれません。

 三度にわたる「愛するか」「愛しています」のやり取りの最後、
イエスは「フィリアしているか」と問いを変えていることに注目
したいと思います。
 これは「フィリアしている」としか答えられないペトロに、
それでいいから「一緒に歩こう」というイエスの招きであるのです。

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湖畔の食事 ヨハネ福音書21:1~14 2024・4・21

2024年04月27日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年4月21日
 「湖畔の食事」
   ヨハネ福音書21:1~14 清水 和恵

 聖書学の見地によると、ヨハネ福音書は元々20章で終わっていました。
ではなぜ21章が付け加えられたのでしょうか。
ヨハネ福音書を最終的に編集した人の意図を思い巡らしたいと思います。
21章を読むと、舞台はガリラヤ湖畔。
昔、弟子たちが生業としていた漁をホームグランドの湖でやって
みたけれども不漁で、そこへ復活のイエスが現れ指示通りにすると大漁になり、
イエスが用意した朝の食事をするという話。この話には幾つかの謎があります。

 まず、なんで彼らはエルサレムを離れ故郷に戻り漁をしていたのか。
ガリラヤ湖がティベリアス湖と書かれているのはなぜか。
かれらはエルサレムでの活動がうまくいかず、故郷に戻るしか術がなかったと思われます。
しかも、元生業としていた漁をしても、徒労に終わる中で疲労困憊し先の展望が見えない
状態にあったようです。つまり21:1~14は弟子たちの失敗と挫折の話です。

 ではなぜガリラヤ湖と書かず、ティべリアス湖になっているのか?
ガリラヤ湖西岸にティべリアスという町があります。
この町はイエスと同時代に生きたローマ皇帝ティべリアス(在位14~37年)
の名前によって名付けられました。支配者の名にちなんで地名が変えられることは、
支配する者の権力を示す意味があります。

 ヨハネ福音書が編集されたのはおおよそ90~100年頃と言われており、
その頃のキリスト教会はローマ帝国の弾圧に苦しんでいたという歴史的状況があります。
当時ドミティアヌス帝(在位81~96年)は、自らを「主」と崇めさせキリスト教徒を、
強固に組織的に弾圧していました。そこでヨハネ福音書21章を書いた著者は、
ティべリアス湖という表現にこだわったと思うのです。
 
 ヨハネ福音書が書かれまとめられた90年代の教会が置かれた歴史的背景をふまえ、
福音書でわざわざティべリアス湖と記したのは、当時のガリラヤの民衆そして
キリスト教会がローマ帝国の支配下にあって弾圧され、どれだけ思い悩み辛酸をなめ
苦労しているのかを象徴的に表現したと言えるでしょう。
ガリラヤ湖ではなく、あえてローマ支配の象徴として使われたティベリアス湖を舞台と
記すことでローマの属国である人々が翻弄され苦しんでいることを、
著者は強調したかったと思われます。
あえてティベリアス湖を表記するのは、権力に抵抗する手段としての皮肉にもとれます。

 さてローマ帝国の支配下という背景を踏まえて、夜通し働いて頑張ってみた、
しかしなんの成果もなく疲労困憊して途方に暮れてしまった彼らにイエスは現れます。
ねぎらいの気持ちもこめて炭火を起こし朝の食事を用意しました。
ここで注目したいイエスの言動は、「もう一度やってみたら?」といううながしと、
弟子たちが自ら獲った魚を食事に用いたということです。
 イエスの精一杯のあたたかなねぎらいが伝わってきます。
こんなイエスの言葉が聴こえてきます。
「あなたがたの働きは疲労困憊するほど大変だけれど、全く無駄じゃない
。今こうしてみんなの疲れをいやし、心とお腹をみたし、元気にしてくれるものを
あなたたちは現に差し出しているではないか。あなたたちは充分にやっていける。
途方にくれ絶望してにっちもさっちもいかなくなっても、大丈夫。
そんなあなたたちのところに、わたしはいつも共にいる。」
 
 イエスがつくった朝の食事。弟子たちにとって、特別な食事であって
格別な味がしたでしょう。
それは弟子たちの次の行動するステップにつながるとても大事な食事となりました。

【おまけの話】
 大漁だったというのは153匹の大きな魚が獲れたという話。
 これはあくまでも、「たくさん」という象徴的な数字です。
 面白い話があります。ボーリングのピンを1列目に1本、2列目に2本・・・・
 という風に三角形を並べると17列目でちょうど153本、
 キレイな3角形になるそうです。
 ボーリングのない時代に生きた著者からすれば、
 なんともびックりする話でしょう。

 ところでガリラヤ湖で何も獲れず、この先いったいどうしたらいいのやら、
 すっかり疲労困憊している弟子たち。
 イエスから託された伝道もできず、元生業の仕事もうまくいかず・・・
 思い悩む
 彼らの中には、神は何をしてるんだ?
 本当に神はいるのか?と疑った弟子もいたのではないでしょうか

 遠藤周作はこんなことを言っています。
 「信仰とは99%の疑いと1パーセントの希望である」
 これを「私のイエス」という本の中で言っています。(p19)

 新発寒教会は、読書会をしていますが
 来る5月28日(火)13:00からこの「私のイエス」をテキストに
 行います。
  「信仰とは99%の疑いと1パーセントの希望である」
 なかなか意味深いと思いますが
 遠藤はいったい、なにを言いたかったのか
 ご一緒に考えてみませんか。






 


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