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新発寒教会ブログ

札幌市の新発寒教会ブログです。

日本基督教団新発寒教会 ご案内

日本基督教団新発寒教会のご案内です。

牧師 清水和恵

定期集会は以下の通りです。

主日礼拝 毎週日曜日午前10時半
聖書を読み祈る会 毎週水曜日午前10時半

新発寒教会の地図

天井から マルコ2:1~12

2024年07月27日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年7月21日の礼拝メッセージ

 「天井から」 マルコ2:1~12  清水 和恵

 中風の男と4人はイエスのいる家に向かいます。
その家では集会がもたれ、イエスは話をしています。
彼らが玄関についたとき、すでに大勢の人がいて中に入ることはできません。
それは彼らにとって、大きな障壁のようでした。しかし諦めません。
彼らの次なる行動は、屋上に上りイエスのいるあたりの屋根を剥がしたのです。
(当時の家の屋根は材木の梁と木の枝を編んでその上から粘土で覆う
簡単な造りでした。)
天井に大きな穴ができました。

 そこから、4人は中風の男を床ごとイエスのもとに吊り下ました。
想像すると家の中は大変です。何やらバキバキと剥がす音がして、
突然上から土や木の枝、ごみや小さなくずがいきなり降ってきたのですから。
彼らの行動は無茶、非常識、大迷惑です。けれどもイエスはけして非難することもなく、
彼らの信仰を見て中風の人に「罪の赦し」を宣言し、癒しました。

 もし5人が玄関で、諦めてしまったら、何も起こらなかったでしょう。
いえ、行くだけ無駄だったと肩を落とし、再びイエスのもとに行こうとも
思わなかったでしょう。

「押してもダメなら引いてみな」という言葉がありますが、
5人はまさにそれをしました。諦めないで可能性を求めて方法を変えてみる
臨機応変さと行動力が彼らにあったのです。

 一方、家の中の人たちは、天井に穴が開いて人が入ってきたことによって、
視点と発想の転換を迫られたのです。思ってもみないところから入ってくる人の
存在は、驚きと豊かな気づきをわたしたちに与えてくれます。
「こうでなくちゃいけない、こうあらねばならない」と、「常識」
に囚われている間は何も起こらないのかもしれません。

 ときに「とんでもない非常識」と思えるような行動が、
何かを変えていくことがあります。
 イエスに出会う入口は一つだけではありません。
5人のひたむきさが、別の入り口を見出すことになったのです。
しかも人々は事の一部始終をみて、しまいには神を賛美しはじめます。
5人の行動とイエスのふるまいが人々の胸に響き、人々を変えました。
そして奇跡が起きたのです。

※おまけの話
 このお話は、どの場面を切り取っても絵になるというか、印象的で
 映画(動画)を作れそうです。
 そんな話を、礼拝後のお茶の会でしていたら、教会員のTさんが
 「この聖書のシーンを描く映画をみたことがある」と言うではあり
 ませんか。
 やっぱり!と思いました。
 圧巻は天井の穴から、中風の男を床ごと吊り下げる場面でしょう。
 4人は天井の穴から家の中を見下ろして、「あとはイエスさん。
 あんたにまかせたよ!」とこれから起こることを見守り
 ワクワクしていたのではないでしょうか。
 「おい、何やってんだ!迷惑じゃないか」
 きっと人々の罵声が飛び交っていたでしょう。
 癒された男が床をかついで歩き始めます。人々の中を通り、光あふれる家の外へ
 向かいます。
 そのシーンは、感動的です。

 もしわたしが脚本家だったら、この話の前後を書いてみたいです。
 中風の男と4人の関係はなんだったのでしょう。4人は何をしていて
 どこで中風の男と出会ったのでしょうか。
 彼らのその後、イエスに従い倣う者となったかもしれませんね。
 
 
 


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神への愛、人々への愛 マルコ福音書12:28∼34

2024年06月29日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年6月30日(日)札幌地区有志オンライン合同礼拝

「神への愛、人々への愛」
    マルコ福音書12:28∼34 久保 吉隆(西札幌伝道所)

 今回のマルコによる福音書の部分は、ルカによる福音書では
「善きサマリア人」へと続く、皆さんが良く知っている聖書箇所かもしれません。
これまで、祭司長、長老、ヘロデ党、ファリサイ派やサドカイ派の律法学者たちが、
イエス様を陥れるための質問を続けました。
 そして、この前節では復活を信じないサドカイ派の前で、イエス様は
「神は生きている者の神である」と明言されました。

すると、ここまでのエルサレムの神殿で繰り返された問答を見ていたのでしょうか。
一人の律法学者が、また主イエスの前に進み出ました。
このマルコ福音書の箇所では今までの質問者にあった、
イエス様を陥れようとする試みは、この律法学者には、示されていません。
それよりも主イエスが立派にお答えになったのをずっと見ていて、
感心して進み出たように思えます。
そして、この律法学者は最後に「あなたは神の国から遠くない」と主イエスに言われます。

 ここまで続いた数々の論争が終わりとなった、この会話を見てみましょう。
当時のユダヤの掟には、「しなければならない戒め」が248。「してはならない戒め」が365。
合計で613の戒めがあったといいます。
 この律法学者が聞いたのは、あらゆる掟の中で何が一番の掟か、ということです。
この質問からイエス様を陥れる試みは感じられませんが、随分乱暴な質問であるとも言えます。
この質問を言い換えると自分が最も集中するべき神の言葉は何かということです。

そこで、二つ大事なことがあると主イエスは言います。
言うまでもなく、それは、愛であり。それは一つではなく二つの愛への集中であると。
一つ目は〈心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。〉と申命記からお答えになりました。
二つ目は〈隣人を自分のように愛しなさい。〉とレビ記の中からお答えになりました。

 要約すれば「神を愛すること」と「人々を愛すること」です。
私たちが神の国から遠くないことを祈りながら私たちは主イエスの、
この愛への命令に集中しましょう。
この命令に従ったとき神はそれ以上に私たちを愛してくれるのです。
          (


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互いに励ましの声をかける イザヤ書41:4~10

2024年06月22日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年6月16日の礼拝 

「互いに励ましの声をかける」  
 イザヤ書41:4~10
             志田容子

 5年ぶりのバザーは神様が繋いでくれたかのような協働作業によって、
カレーライスと飲み物を提供、音楽を聴き、商品の販売をしました。
「ひとりが据え付けて良しと言うと ひとりは釘を打って動かないようにする。」
違う作業の連携。
 平和とは仲良く働く事であるという第2イザヤのメッセージがいっとき、
実現したように思いました。

 今の街づくりにおいて協働作業と多様性が不可欠であると強調している
ジェイン・ジェイコブズをご紹介します。彼女は都市の活性化には街路の
狭さや建物の多様性が、人々の出会いやすさゆえに重要であり文化を形成すると書いています。

 では、私たちの暮らす場所はどのような地域なのでしょう。
大阪市では工業地域と住宅地域が格子状に互い違いに存在し、地域内ネットワークを
有効に活用できています。札幌市では住宅地域と工業地域がくっきり分かれています。
このことが札幌市における共同性構築を阻害している一因のようにも思います。
 北海道では新産業への志向性が高まっていますが、ジェイコブズは、
地域経済の活性化には「輸入置換」が大切であると述べており、
他地域へ物を供給するだけの経済から、自分たちで自分たちの需要を満たす
産業クラスターの重要性を強調しています。

 ジェイコブズは、文化を育むのは、多様な音楽、中でも歌であると書いています。
共同性を育む様々な歌としての讃美歌21,バザーや掃除などの協働を通して、
わたしたちは、聖書からのメッセージを学びつつ、イエスに連なる精神のクラスター
(ぶどうの房)になれるのかもしれません。

 主日に神様に押し出され、歩いて暮らせる範囲でのそれぞれの生活の中で、
イエス様が示した共同体の理想を、少しずつでも実現してゆく事が問われて
いるように思っています


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カラスと雑草 ルカ福音書12:22~31

2024年06月13日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年6月9日礼拝
「カラスと雑草 」 ルカ福音書12:22~31
 清水 和恵

 イエスは「カラスと野の花をじっくり見て熟慮しなさい」と語ります。
カラスは賢い鳥ですが、レビ記によると汚れた鳥とされています。
イエスの言う野の花は、鑑賞して楽しむ花というより燃料として使われる雑草です。
カラスも雑草も当時のユダヤ人の価値観でいえば、マイナスイメージの最たる存在です。
もっとも、聖書学者の荒井献さんによれば、この野の花というのは、アザミであると
提唱しています。(『聖書のなかの差別と共生』岩波書店 p105~120)
アザミはかわいらしい花ですけど、棘が難点ですね。

 イエスはカラスや雑草のように、注目されず敬遠されるようなものに目を向けさせます。
それらは「種もまかず、刈入れせず、倉に納めない。働きもせず紡ぎもしない」 
つまり、労働しない(できない)し、何も持っていない。
にもかかわらず神は、いのちを養い守り育てている。
ましてや、思い悩みながら、日々額に汗して苦労して働くあなたたちを、
神様が養わないはずがない、とイエスは語るのです。

 さらに、あの栄華をきわめたソロモンでさえ、野の雑草ほどにも
着飾っていなかったと言われます。ソロモンは紀元前950年頃の人で、賢者と言われました。
イスラエルの3代目の王となりその治世は、王国の絶頂期。
経済的にも文化的にも繁栄した時代でした。
 今、大河ドラマで「光る君」が放映されていますが、そこに登場する藤原氏の
ような感じでしょう。藤原道長は「この世をば わが世と思う望月の欠けたることの
無しと思えば」と、詠っています。藤原氏の絶大な権力を象徴していますよね。

 しかしイエスは、人が敬遠する野の花を、ソロモンの栄華より
素晴らしく尊いと宣言したのです。
それを聞いた人たちは、さぞひっくり返るほど、びっくりしたでしょう。 

 さまざまなことで思い悩む(原意は心が虜になる)とき、
イエスは視点を変えようと言っているように思います。
ふと野の花や空の烏に目を向けて熟慮してみよう。
人はだれもいのちをつくり出したり、意のままにコントロールできません。
何がいのちあるものを生かしているのか思い巡らしてみると、
いのちの源である神の思いが見えてくるに違いありません。

 そして「思い悩みから解放されて生きよ!」と呼びかけています。
イエスには絶対的な神への信頼がありました。
神は私たちと共におられるのだから、安心していい。
明日を思い煩うことからの解放と、いのちを守り養う神にゆだねて
生きる道を示したのです。

※おまけの話
カラスって、とても賢いのですって。
人の顔を覚えたり、自分のくちばしを使って蛇口をひねり
自由に水を飲むこともできます。なんでも日本のカラスは
世界でも賢こさはトップクラスだそうです。
札幌はカラスが多いように感じます。(手稲区だけかな・・?)

子どもの頃、カラスと呼ばれたことがありました。
そのときは、正直、あまり気にいってはいなかったのですが、
今だったらユニークでいいかな。
と思えるように、なってきました。
ミドルネームのように、清水カラス和恵と名乗ろうかな。
そういえば、マリア・カラスという20世紀最高のソプラノ歌手が
いましたね。

※おまけの話 2
「思い悩まなくていい」という礼拝メッセージだったのですが、
その時のわたしの最大の思い悩みは、礼拝後のお天気でした。
バザーをやります。予報は雨!
 寒くはないけれど、シートが吹き飛ぶほどの強い風が吹いていました。
なので、こどもコーナーのテントも断念。

 ところがなのです。
開催中、雨はぱらっと最後のほうで、来ただけでした。
なのでほぼ、いいお天気。暑くもなく寒くもなくです。
かくして、わたしの最大の思い悩みは、単なる思い過ごし
に終わり
「思い悩まなくていい」
 イエス様のいうとおりでした。
 感謝、感謝。

 

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二つの家 ルカ福音書6:46~49

2024年06月09日 | 礼拝メッセージ要旨
2024年6月2日
「ふたつの家」ルカ6:46~49
    清水和恵

 イエスは二種類の家と土台について語っています。
この話で思い出すことがあります。3・11の大地震と大津波で東北地方は甚大な
被害を受けました。わたしはボランティアで岩手県大槌町に行ったことが
あります。地震前の風光明媚な町が廃墟と化したことに、百聞は一見にしかず、
愕然としました。
 地元の写真家、藤枝宏さんの写真集「大槌夢幻」には、町の変貌ぶりが
描かれています。ひとつ、気づいたことがありました。
建物の柱、壁、屋根は流されても、土台は残っているところが少なくない
ということです。土台は流されにくいのです。土台とはそういうものだ、と思いました。

  新発寒教会は、7年前に新会堂を建てました。
この地域はスポンジのような地盤なので、旧会堂は土台を強固にしたそうです。
現会堂の設計者の松橋常世さんは、「旧会堂の土台を活かしてリフォームする場合、
しかも頑強なコンクリートブロックの壁は壊せない以上、誰がどのように設計しても
似たような建物になるでしょう」と言われました。
 リフォームの設計図を何枚か提示してくださったのですが、確かにそのとおりで
リフォームの限界を感じました。土台がある程度、建物全体を決めてしまうのですね。
 会堂は宣教の器にして拠点です。
ですから、宣教のためには旧会堂の土台に制約されることなく、全く自由な発想で、
設計していただきたいと思いました。
かくして現会堂が完成いたしました。

 イエスは砂の上ではなく、岩の上に土台を据え建てることの意味を語ります。
建物がわたしたちの人生をたとえているのであれば、土台は人生を支えるものです。
 ここで言われている川とは、雨期に一時的に出現するワディのことで、
走っているバスをも流す威力があるそうです。それが乾季になると、川は消えそこに
砂が溜り砂地になります。イエスは、砂地の下を深く掘り下げれば、岩が出てくるので、
そこまで掘って、土台を据えることの盤石さを言っているのです。
 ただし、深く掘るには労力が必要で、苦労もあります。
しかし、長い目で見たらしっかりとした基盤を得て、風雨、嵐にも耐え安心して生きていけるということでしょう。
風雨、嵐は、試練や困難を表していると考えるなら、信仰をもったら、
それに遭わないということではありません。
信仰をもっていようといまいと、誰にでも試練や困難はやってきます。
不意に来ることもあります。

 問題は試練がきたとき、何がわたしたちを守るか?ということです。
イエスはそれを岩と呼びます。その揺るぎない岩は、わたしたちを支え守り、
掘り起こせば必ずあります。
 掘り起こす行為、それは祈りや求道、人生における真理の探究にも似ているのかもしれません。
岩、ズバリ言うなら、神の愛です。最強です。
パウロも語るのです。
「どんなものも神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
(ローマの信徒への手紙8:31~29参照)




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