写真は、本日入荷した「日本一」です、長崎県西彼杵産です。数十万円のこの苗が七・八年後に咲いた時には流行遅れになるのではと心配しながら、花の咲くまで元気で生きたいと頑張っています。
板山機械化茶園造成で、国有林の払下げを受けた伐採地を案内していた私に、当時の金子薫町長が「世知原で寒蘭会を設立したらどうかね」と云われた。世知原町の特産品として栽培できないかと云うのである。その頃は板山や黒石、観音木、平川原等には「花が咲いている寒蘭」が自生し、その周辺には甘い蘭の香りが漂っていた。蘭会の設立を希望された金子町長の意向を受けて、当時農業相談室長をしていた私が会則案を作って発起会を招集した、昭和46年頃だったと思う、松月旅館での発起会で、初代会長は満州国から引き上げた七種武平氏でした。同時期に設立した長崎県北寒蘭会の初代事務局長も七種武平氏でした。こうした関係で当初世知原寒蘭会員全員が県北寒蘭会に加入したのです。(上記の文章は、私が世知原町文化協会誌に投稿した原稿を参考にしたものです)
寒蘭会も世代交代をしている・投資と趣味を自覚して会員が協調しなければと思います。
寒蘭会の運営ではどこも同じ悩みを抱えている。地元で山採りした寒蘭だけを展示しても、人は寄り付かない、そこで流行の高額な寒蘭を展示することになる。すると品種の流行遅れや、出品技術が遅れて入賞できない会員は入賞の常連者を批判する。私は、販売や投資を目的としている会員と、趣味の範囲で栽培している会員は、その目的を自覚しなければ、寒蘭会の運営は出来ないと思っている。ふと、世知原寒蘭会と県北寒蘭会の会則がまったく同じである事を思い出したので書いてみた。板山機械化茶園造成で、国有林の払下げを受けた伐採地を案内していた私に、当時の金子薫町長が「世知原で寒蘭会を設立したらどうかね」と云われた。世知原町の特産品として栽培できないかと云うのである。その頃は板山や黒石、観音木、平川原等には「花が咲いている寒蘭」が自生し、その周辺には甘い蘭の香りが漂っていた。蘭会の設立を希望された金子町長の意向を受けて、当時農業相談室長をしていた私が会則案を作って発起会を招集した、昭和46年頃だったと思う、松月旅館での発起会で、初代会長は満州国から引き上げた七種武平氏でした。同時期に設立した長崎県北寒蘭会の初代事務局長も七種武平氏でした。こうした関係で当初世知原寒蘭会員全員が県北寒蘭会に加入したのです。(上記の文章は、私が世知原町文化協会誌に投稿した原稿を参考にしたものです)